久松るす

hisamatsu

波を繰り返しながらの新型コロナウイルスの流行も3年目になり、現在(2022年11月)第8波が始まりつつあるようだ。
流行が始まった頃は、未知のウイルス、しかも重症化し死亡率も高いという事で、近所で陽性者が一人出ただけで半ばパニック状態になったり、
過剰に恐れられたりもしたが、毎日何万人もの陽性者が報告されている昨今、世間はむしろ落ち着いている。
最近はワクチン接種も進み、薬の開発も進んできていて、ウィズコロナの生活が定着しつつある。

流行の初期頃、アマビエという妖怪のイラストが広まった。その急速な拡がり方はコロナ以上と言ってもいい。
きっかけが何だったのか良く知らないが、ツイッターの投稿がそもそもの始まりだったらしい。
京都大学附属図書館が所蔵している江戸時代の瓦版の画像が、いろいろなメディアに取り上げられたし、
お守りの様なグッズやキャラクター製品も数多く作られて出回った。
近所のパン屋ではその姿をかたどったアマビエパンも売られていた。
アマビエの絵を飾ったりする事で新型コロナが防げるはずもないが、
決定的な感染対策が良く見えなかった当時、こんなもので気を紛らさざるを得なかったのだと思う。
最近はあまり見なくなったし、アマビエパンもいつの間にか姿を消したようだ。

さて先日、近所を散歩していた時、とある家の玄関先の貼紙をみて目を疑った。
その貼紙には「久松るす」とだけ書かれていた。
いつ、どこでこの言葉を知ったのかはっきり覚えていないが、中学生の頃だったろう。
当時、歌舞伎や浄瑠璃の解説本を好んで読んでいたので、その中で知ったのかもしれないし、
あるいは後述の岡本綺堂の随筆か何かで読んだのかもしれない。

近代医学が導入される以前の日本では、麻疹やコレラ等の疫病が流行すると人々は対抗するすべがなかった。
いまではあまり恐れられてはいないインフルエンザも、当時は死者を多く出す恐ろしい病気だった。
明治以降もインフルエンザは何度となく流行し、死者も多かった。
1918年から19年にかけて流行したインフルエンザはスペインかぜと呼ばれたし、
1969年に流行した香港かぜには私も家族全員で罹った覚えがある。
そして明治時代、1889年から猛威を振るった時にはお染かぜと名づけられた。

これはお染久松の物語に由来するのだが、お染久松、と言っても判らない人が多いと思う。
鶴屋南北の「お染久松色読販」等の歌舞伎や浄瑠璃の登場人物で、
その話のすじは簡単に言ってしまえば、お染(豪商の娘)と久松(その丁稚)が道ならぬ恋におちて心中する、というものだ。
実際に起こった心中事件を元ネタにしているらしい。
どうしてインフルエンザにお染の名前が付けられたのか、と言えば、お染が久松に惚れたように感染力が強い、ということの様だ。
そうなると、お染かぜに罹るのは久松だから、久松るす、と書いておけばお染さんはやってこないに違いない。
うちには久松はいませんよ、という貼紙を貼っておけば、お染かぜをやり過ごせるだろう、というおまじないだ。

当時これが流行った様子は、岡本綺堂の随筆 「お染風」 にも描かれている。 (青空文庫から転載)
この春はインフルエンザが流行した。
日本で初めてこの病が流行り出したのは明治二十三年の冬で、二十四年の春に至ってますます猖獗になった。
我々はその時初めてインフルエンザという病名を知って、それは仏蘭西の船から横浜に輸入されたものだという噂を聞いた。
しかしその当時はインフルエンザと呼ばずに普通はお染風といっていた。
何故お染という可愛らしい名を冠らせたかと詮議すると、江戸時代にもやはりこれに能く似た感冒が非常に流行して、その時に誰かがお染という名を付けてしまった。
今度の流行性感冒もそれから縁を引いてお染と呼ぶようになったのだろうとある老人が説明してくれた。
そこで、お染という名を与えた昔の人の料見は、恐らく恋風というような意味で、お染が久松に惚れたように、直に感染するという謎であるらしく思われた。
それならばお染には限らない。お夏でもお俊でも小春でも梅川でもいい訳であるが、お染という名が一番可愛らしく婀娜気なく聞える。
猛烈な流行性を有って往々に人を斃すようなこの怖るべき病に対して、特にお染という最も可愛らしい名を与えたのは頗る面白い対照である、流石に江戸児らしい所がある。
しかし例の大虎列剌が流行した時には、江戸児もこれには辟易したと見えて、小春とも梅川とも名付親になる者がなかったらしい。
ころりと死ぬからコロリだなどと智慧のない名を付けてしまった。
既にその病がお染と名乗る以上は、これに凴着かれる患者は久松でなければならない。
そこでお染の闖入を防ぐには「久松留守」という貼札をするがいいということになった。新聞にもそんなことを書いた。
勿論、新聞ではそれを奨励した訳ではなく、単に一種の記事として昨今こんなことが流行すると報道したのであるが、
それがいよいよ一般の迷信を煽って、明治二十三、四年頃の東京には「久松留守」と書いた紙札を軒に貼付けることが流行した。
中には露骨に「お染御免」と書いたのもあった。
二十四年の二月、私が叔父と一所に向島の梅屋敷へ行った、風のない暖い日であった。
三囲の堤下を歩いていると、一軒の農家の前に十七、八の若い娘が白い手拭をかぶって、今書いたばかりの「久松るす」という女文字の紙札を軒に貼っているのを見た。
軒の傍は白い梅が咲いていた。その風情は今も眼に残っている。
その後にもインフルエンザは幾度も流行を繰返したが、お染風の名は第一回限りで絶えてしまった。
ハイカラの久松に凴着くにはやはり片仮名のインフルエンザの方が似合うらしいと、私の父は笑っていた。
そうして、その父も明治三十五年にやはりインフルエンザで死んだ。
貼紙「久松るす」の流行は一過性で終わったようで、これ以降に流行った、というような記事は見つけられなかった。
こんな、すっかり忘れ去られたはずの風習を現代の京都の住宅街で目にするとは想像もしなかったし、
「久松るす」の意味を知り、自分で書いて貼る人が近所にいる、という事に驚いた。
もちろん、実際に効き目があるなどとは思っていないはずだし、そもそも新型コロナはお染かぜではないので、久松の出る幕もないが。

京都では玄関の軒先に、災厄や疫病神から家を守ってくれるという、祇園祭で配られる粽を飾っている家は多い。
他にも吉田神社の疫神齋の神符、角大師の御札、五山の送り火の消し炭等も良く見る。
こういう風習は故郷の愛媛では節分のイワシの頭以外はあまり見なかったように思う。
もっとも、母は家にムカデが入ってこないように、とのおまじないだと言って「あまちゃ」と書いた紙をさかさまに柱に貼っていた。
アワビの貝殻を玄関先に吊るしている家もあった。多分何か意味があったのだろうと思う。

私が出会った「久松るす」の貼紙をどんな人が書いたのかは知らない。その書体からは年配の女性かな、などと想像する。
綺堂が見た、十七、八の若い娘ではないだろうが、閉塞感が漂うコロナ禍の中で、何となく風流なものに出会った気がした。"京都人の底力" だろうか。

(2022.11.11 記)