クロコブタケがクモのフェロモンを出すらしい。

学生時代、菌類に興味を持ち始めた頃、キノコが少なくなる冬の間は図書館に行って文献を探すのに時間を潰していた。
Alexopoulos の Introductory mycology に挙げられている参考文献から芋蔓式に文献を探していったのが最初だったと思う。
それ以外に新着の雑誌をいくつかチェックしていたが、図書館が購入していない雑誌の論文については Citation index 等の索引誌で調べる事が多かった。
Citation index は分厚くて重い上に紙質が薄く、おまけに細字で扱いにくかった。
今ではほとんどネットの検索で済ましている。菌類関係の雑誌のコンテンツをブラウズしたり、データベースを検索したりするのだけれど
画面に表示されるタイトルをスクロールしてチェックするのは結構目が疲れるので興味の無いものはすっとばす。
担子菌類や不完全菌類の学名が出てくるものは一番に読み飛ばすし、それ以外にも生化学や生態関係はあまり興味ないのでタイトルを見ただけで素通りだ。
そんな中、ある文献がふと目に留まった。
"Occurrence of a high concentration of spider pheromones in the ascomycete fungus Hypoxylon truncatum." である。
(Dang Ngoc Quang, Toshihiro Hashimoto, Masao Toyota, and Yoshinori Asakawa. (2003). Journal of natural products ; 66, p. 1613-1614)
Hypoxylon truncatum(= クロコブタケ, 下の写真)がクモ類の性フェロモンを出すらしい。チャワンタケとは何の関係も無いけれど面白そうなのでプリントアウトして読んでみた。

Hypoxylon

化学式はどうも苦手なのだがどうやらクロコブタケが Linyphia 属のクモの性フェロモンとして知られる化学物質を生産する、との事だ。
クロコブタケはどこにでもある普通種でシイタケの害菌としても知られているキノコだ。
ブナ科の倒木に群生しているのを良く見るし、その名の通り黒い瘤状の硬い子嚢菌類のキノコである。もちろんクモとは何の関係も無い。
関係ない生物同士が同一の化学物質に関係するという事は時にあるようで興味を引く。
マタタビに猫が惹かれるのもそうである。他に、マタタビにはヨツボシクサカゲロウの雄も誘引されることが知られている。
この二つの誘引物質は異なるものだが、マタタビが全く関係ない哺乳動物と昆虫を誘引するというのは考えてみれば不思議な事である。
集まったクサカゲロウはマタタビを齧るので、誘引する事のメリットはマタタビには何も無い(ようにみえる)からなおさらである。
マタタビは猫やクサカゲロウを引き寄せるために化合物を生産しているわけではなく、おそらく自身のためのなんらかの生理的役割があるはずである。
その点で花が昆虫をおびき寄せるために香りを出すのとは違い、偶然のいたずらなのだろう。

クサカゲロウの誘引物質については、その解明に取り組んだ京都大学農薬研究施設の教授、石井象二郎博士の「昆虫学への招待」に詳しい。
昆虫少年だった私は中学生の頃にこの本を読んだのだが、大変面白く読んだ事を覚えている。
後に京都大学に進み、結果的には昆虫からは離れてしまったが、農薬研究施設に進んだ友人のところに遊びにいっては怪しまれた。
このクサカゲロウがマタタビに惹かれるという現象は、森村誠一の「暗黒凶像」にも出てくる。

それはともかく、フェロモン物質を出しているのなら誘引されてもいいはずだがクロコブタケにクモが集まっているのを見た記憶は無い。
(クサカゲロウは自然状態でマタタビに誘引されるようである。)
これはちょっと面白いと思い、今年はあちこちでクロコブタケを採っては試してみる事にした。
まずはクモについて調べてみた。Linyphia はサラグモ類であるが上記文献に出てくる Linyphia triangularis は日本には分布していないようだ。
L. triangularis の処女雌は網に性フェロモンを放出し、侵入した雄クモは網を切って捨ててしまうらしい。
L. triangularis は日本にいなくても、同じ物質に引かれるクモは何種類かあり近縁種は分布しているので試してみる価値はありそうだ。
とりあえずサラグモ類が見分けられなければだめなので図鑑やインターネットで調べてみる。
サラグモはその名のとおり皿形ないし椀形の巣を作る数ミリ程度のクモだ。これなら見たことがある。
性フェロモンだから成熟した雄クモを探さなければならないが雌雄の区別は比較的簡単な種とそうでない種があるようだ。
ともかく、考えた実験(と言うほどのものではないが)は、成熟した雄クモを狙ってクロコブタケを近づけ反応を見る、と言うものだ。
クモはいつ見つかるか判らないので、キノコ採集に行く度にクロコブタケを採集しフィルムケースに入れて持ち歩く。
皿状のクモの巣を見つけると、用意したクロコブタケをそっと差し出してみるだけだがクモの種類がわからないので下手な鉄砲も何とやらみたいなものである。
これまであまり注意しなかったが、このサラグモの仲間は案外いたるところにいてクモも網の形も様々だ。
草むらにいる種類や地表の枯葉の間にいる種類とか、チャワンタケ探索の途中に見つけたサラグモ類(と思うクモ)にクロコブタケを近づけてみる。
いろいろなクモに試してみたのだが全く反応しない。あまり近づけると驚いて逃げてしまう。まあ、予想していた結果ではある。
しかしクロコブタケが性フェロモンを生産しているのは事実だし、なにがまずかったのだろう。
やはり(京都付近に分布する)日本のサラグモ類の性フェロモンは異なる物質だという事か。
このあたりの研究については全く知らないがフェロモンは近似種でも異なるし、濃度なども関係するはずなので単純にはいかないはずである。
もう一つは、クロコブタケ Hypoxylon truncatum についてである。私がクロコブタケだと思っている種は間違っているのではないか。
実はクロコブタケを丁寧に観察したことは今までほとんど無かった。普通種で見栄えしないし炭質で切片が作りにくいのも敬遠していた理由の一つである。
しかし、シーズンも終わりになってから Ju and Rogers のモノグラフ等をあらてめて読んでみて、どうやら違ってる様だと思い始めた。
私は、直径数ミリ程度の半球形のものをクロコブタケだと思っていた。だが Ju and Rogers のモノグラフによるとむしろ平らに広がる種のようである。
ただ、「日本のきのこ」には半球形のキノコを図示した上で、子座の形は変化に富むとある。クモもクロコブタケも、来シーズンまでにもう少し調べてみようと思う。
Linyphia triangularis はヨーロッパに分布する種のようだが Hypoxylon truncatum と分布が重なる地域はあるのだろうか。
もしかしたらそこではクロコブタケに求愛する雄クモがいるのかもしれない。

(2005.12.19 記)