西田幾多郎に本を贈った香川鉄蔵という人

西田幾多郎 (1870-1945) といえば、近代日本を代表する哲学者だ。
京都大学教授を務め、西田哲学と呼ばれる彼の思想は京都学派の大きな柱である。
と書いてはみたものの、私は西田の著作は何も読んだことが無いし、どんな思想を持っていたのかも知らないのだが。
彼の蔵書は、その多くが京都大学文学部に西田文庫として納められている。
西田の蔵書印が捺され、署名されているものもあるし、西田への献辞が書かれている贈呈本も多いが
西田自身による本文への書き込みはほとんど無いようである。だがその中の一冊に興味深い書き入れがある。
ブレンターノの心理学の本(注1)の表紙見返しに、西田が毛筆で以下の様に記している。(改行はそのまま、ただし原文は縦書き)
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此書ハ今ハ新シイ版ガ出来
何人ノ手ニモ入リ易イガ 私ガ
始メテ此書ニ興味ヲ有ッタ
頃ハ全ク手ニ入リ難イモノデ
アッタ 然ルニ「カガハ」ト云フ人ガ
突然此書ヲ送ッテクレタ
住所モ書イテナク今日マデ如何ナル
人カ分ラナイ      西田幾多郎記
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西田がこの本を入手できない事を何かで書いたか、どこかで話したのだろうか。
それを「カガハ」氏が知り、自分の蔵書を進呈したと思われる。「カガハ」氏がいつこの本を送ったのかはわからないが
新版が出版されたのは1924年なので、西田がこれを記したのはそれ以後であり(西田は新版も入手している)
文面からするとそれよりかなり以前に送られてきた様だ。
西田は大正3年の田辺元氏あての手紙でこの書について言及しており絶版である事を記しているがこの時点では既に読んでいる。
ただし送られてきたこの本を読んだとは限らない。この「カガハ」なる人物、いったい如何なる人物なのか。
本の標題紙には上部に「T. Kagawa Jan. 15. 1912」、中央右よりに縦書きで「呈 西田幾多郎先生」とペン書きされている。
また、表紙見返しにも鉛筆書きで "T. Kagawa Jan. 15, 1912" と書いているのがうっすらと確認できる。
さらに裏表紙見返しには細かい文字でこの本を入手した日の事柄が日記風に書きこまれている。
以下に転記してみる。(改行はそのまま、一部現代かなに直してある。)
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朝ハ二時間ばかり Fechner, Zend Avesta (注2)を読む
erster Band, S. 250 からだ。ほんとに悦んで読んだ。
正午少し前に越後の伊奈重誠兄(注3)より手紙来る。彼地
でハ雪が「唯今(一四日朝)三尺五寸位でニ三日前から
降ってまだやみません」とある。兄の手紙にはいつも乍ら面白く
嬉しく読める。
午後一時頃から草刈元兄来訪、いろいろ話しが出たが同兄の
商業上ノ話は感心して聞いた。空な話でないからだ。 談話
最中丸善から此書が届いた。 唯一冊か来ないので一寸お
かしく感じたがよく調べると首肯せられた。四時半頃草刈
兄は帰宅した。自分は少し前頭が痛かった。
朝国技館ノ大相撲の太鼓が聞えて胸が躍った。
今日は三人のよき人を迎えた。 伊奈兄ハ手紙で、草刈兄ハ
頼しく、Brentano 先生ハ著書で。儂も Thoreau
のやうに「三ツの椅子をもって居る」。(注4)
      夕五時少し前
      電灯下にて識す
      Jan 15. 1912
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明治時代にソローからブレンターノまでを読みこなしていたとなると相当の知識人だ。
この時代の人で「カガハ」というとまず、賀川豊彦が思いつく。しかし賀川豊彦は当時神戸にいたはずなので該当しない。
いつか調べてみようと思ってそのままになっていたが最近になって別の本に面白い書付を見つけた。
それは香川節氏の旧蔵本で、父の鉄蔵氏が裏表紙見返しに入手方法などについて細かく記している。
西田文庫のものと似ているし、香川鉄蔵はまさに T. Kagawa である。香川鉄蔵氏について調べてみた。

香川鉄蔵は「ニルスのふしぎな旅」を初めて邦訳した人物として知られているらしい。(私は知らなかった。)
香川節氏の「父香川鉄蔵のこと」(植民地文化研究 2号, p. 143-147)に拠ると、
香川鉄蔵は1888年2月15日東京生まれ、東京帝国大学文学部哲学科で心理学を学んだが卒業間近の1911年12月に退学している。
その後、大蔵省、新京法政大学(満州)、国立国会図書館などに勤務したが1968年に亡くなっている。
スウェーデン文学に傾倒し、「ニルスのふしぎな旅」を翻訳(1918年)したが、他に心理学関係の翻訳が若干ある。
あの念写の研究で有名な福来友吉と共訳した本もあるが、著作はむしろ少ないと言って良いだろう。
新京法政大学では教授に就任、「実際には学長代行の職」まで勤めたという鉄蔵も、
「学歴が大学卒でなかったため任官し得ず、日本の官庁では生涯嘱託のまま」であり、「脾肉の嘆なる日々に苦しんだ」という。
大蔵官僚というエリート集団中でいわゆる出世街道からは外れざるを得なかったわけだが、
没後、大蔵省関係者が追悼集を出版しているところをみると人望もあり多くの人から尊敬されていたのだと思う。
「カガハ」氏は香川鉄蔵氏に間違いないだろう。上記書き入れは帝大退学直後のものという事になる。
退学後、仕事に就けず友人を頼って全国を放浪した時期があり京都にも滞在したようだから、西田との接点はそのあたりかもしれない。

西田の上記書き込みについては、1983年に出版された山下正男編「西田幾多郎全蔵書目録」にも転記されているので
研究者には既に知られているはずだが、香川鉄蔵との関係について書かれている物は調べた限りでは見つけられなかった。
もし何かご存知の方は教えて欲しい。

注1: Psychologie von empirischen Standpunkte von Franz Brentano. Erster Band. -- Leipzig : Verlag von Duncker & Humblot, 1874.
注2: Gustav Theodor Fechner (1801-1887) ドイツの哲学者。
注3: 伊奈重誠(イナ シゲナリ)。「兵器の歴史」や「戦争論」等の翻訳がある。1898年生まれなので、この時14歳となる。
注4: Henry David Thoreau (1817-1862) の "Walden" 中の一章 "Visitors" の一節、
    "I had three chairs in my house; one for solitude, two for friendship, three for society." の事。

(2006.11.12 記)

香川節氏は、現在「ニルスのふしぎな旅」の愛読者を中心とする「ニルスの友の会」でインストラクターをしておられる。
今回、同会の方を通じて住所を教えていただき手紙を出したところ、丁寧なお返事をいただいた。
本を購入すると日記風に出来事を書き付けてしまう、などの鉄蔵氏のエピソードや
旧蔵本のチューンベリーの「東方旅行記」を京都大学に寄贈したのは貴重なこの本を戦禍から守るための「疎開」だった事などを教えていただいた。
香川節氏からの手紙を受け取ったのは奇しくも鉄蔵氏の命日、12月9日であった。

1982年になってようやく偕成社から全訳版4巻が出版された「ニルスのふしぎな旅」を今、読んでいる。
小学生の頃に絵本程度のものしか読んでなくて、いたずらっ子の冒険ファンタジー、ぐらいに思っていたけれど
なかなかどうして面白く、いろいろ考えさせられる物語である。

(2006.12.22 追記)

中丸禎子氏(「ニルスのふしぎな旅」の著者ラーゲルレーヴを研究しておられる由)から、
香川鉄蔵先生追悼集刊行会によって編纂された「香川鉄蔵」(1971年出版)に香川と西田のエピソードが記されていると知らせていただいた。
一高の同期生である天野貞祐が寄せた「香川君の思い出」に次の一節がある。
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次の話は香川君の逸話としてわたしたち一高同級生の間に伝えられているが、残念なことに、その真偽を本人にただしたことはなかった。
西田幾多郎先生が絶版となっていたある心理学書を非常にほしく思い、いろいろ探されたが入手できなかった。
香川君がそのことを伝聞してたまたま所持していたその本を先生へ進呈されたところ、
先生が非常に喜ばれて御礼の手紙を香川君へ寄せられた。
ところが香川君は西田という人は偉いと聞いていたが、本一冊でこんなに喜ぶようでは大した人ではない、と語ったというのである。
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まさしく上記のブレンターノの心理学書の事であることは間違いない。
西田が大正3年8月に田辺元に宛てた手紙には(西田幾多郎全集19巻所収)
「貴兄は Brentano の Psy. vom emp. Standpunkte を御読み被遊候か、此書は小生非常に originality に富み居るものと存じ候。
此書は vergriffen [絶版] に候が得能君は有し居り候」とあるから、まとめると次のようになる。
香川がこの本を入手したのは1912年1月で西田が本を読んだのは1914年8月以前。
西田が本の贈り主がわからない、と書き付けたのは1924年以後のはずだから礼状を出したのなら、それ以降。

西田が得能(得能文、哲学者。1866-1945)から借覧した可能性もあるが、香川からの贈呈本で読んだとしても少し不可解な事がある。
絶版のこの書を西田が探していた頃、香川は丸善から購入している。当時京都ではそれほど洋書の入手が困難だったのだろうか。

西田が香川のことを知ったのはどういうきっかけだったのだろう。
香川は心理学書の翻訳を出版したりもしているので西田がそれを見て気が付いたのかもしれないし
西田の周辺の一高出身者、例えば和辻哲郎や九鬼周造などが西田の蔵書を見て香川の事を教えたのかもしれない。
和辻が京大に赴任するのは1925年、九鬼は1929年なので1924年以後に知ったとなると彼らのどちらかだろうか、などと想像している。

ご教示いただいた中丸氏に感謝いたします。

(2008.11.05 追記)