宮部博士の「味噌も此処にあります」

泉鏡花の弟、泉豊春(1880-1933)は泉斜汀という筆名の小説家だった。
独特な世界の鏡花の作品はファンが多く文庫本などで現在でも手軽に入手できるものもあるが、斜汀は作品も少ないうえにたいして面白くない。
彼の著作を現在入手することはほとんど不可能であり、忘れ去られた作家といっていいだろう。
だが、その斜汀が本名の泉豊春の名で著した「帝大教授学生気質」(1910年刊)は意外と面白い。
書名の通り当時の帝大教授らの逸話集で、現在の大学教授とは桁違いに権威があった教授たちのちょっと笑えるエピソードなどが集められている。
そしてその中に宮部金吾博士のエピソードがある。
北海道帝国大学教授の宮部金吾(1860-1951)は植物病理学、藻類も含む植物学、菌学など広い範囲に亘る業績を残し、
計画立案から関わった北海道大学植物園では初代園長も務めた。
内村鑑三や新渡戸稲造とは札幌農学校二期の同期生でありクリスチャンでもあった宮部博士のエピソードとは...
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宮部博士の「味噌も此処にあります」
札幌農科大学の教授、宮部博士は外国でも有名な植物学者である。
或時横浜から上って来た一外国人が、桟橋へ上るや否や、突然「宮部さんは今何うして居ます?」と出迎の日本人に聞いたら、
聞かれた日本人の方は宮部さんの名も知らなくて弱ったとそう伝えられて居る。道理で宮部さんの標本室へ行って見ると、その標本さえ世界的である。
宮部さんは美しい忍摺のような、白紙に捺した海草の標本を標本室の卓子の上に拡げて
「是はコロンブスが始めて亜米利加を発見した時に分銅を入れて海の深さを量るときにその分銅に引懸って上って来たという有名な喜望峰の海草です。
外国の友人がこの喜望峰の前を船で通った時に、態々甲板の上から糸をブラ下げて掬取って送ってくれたものなのです。」
宮部さんの札幌農科大学の標本室には、こうした標本が山ほどある。
一々何処の何海の海草、何年何月何日誰の採集と云うように事明細に表が書いてある。そうしてそれが皆秩序整然として標本棚の上に置かれてあるのだ。
宮部さんの標本室の標本には、勿論海草ばかりではない。山草、野草、何でもある。
世界各国到る処の草がある、花がある、中には外国の標本室に行ってさえもないくらいの珍品さえも備えてある。
それ台湾が取れたという、樺太が手に入ったという、直ぐに宮部さんの植物採集の戦争はそれから始まるのだ。
宮部さんは平和克復後、直ぐに船に乗って行って、あらゆる山野を跋渉して来るのだ。
そうして、他人目には何の価値もないような馬草にも劣ったような一向つまらない醜い草や木の葉を芥船の芥のように船に積上げて帰って来るのだ。
宮部さんの標本室の二階には螺旋形をした鉄の手欄の梯子段を上って行くと、こうした雑草が山ほどある。
恰然厩の二階にでも行ったように堆く積上げてある。
宮部さんは埃塗れになりながらそれを一々捺花のような標本に作っては助手と共に名を付けるのだ。
こうして仕上った標本は、皆秩序整然と風通しの好い棚の上に並べられるのだ。
尤も其の標本室というのも、室内こそ螺旋形の鉄の欄干のついた梯子段なんぞ懸たハイカラなものでこそあれ、
室外に出て見ると何、厳重な観音開きの戸、前の倉庫で、入口の両傍に大きな四斗樽のような桶が二個置いてあるが、それを何かと思って聞くと
先生嬉しそうに莞爾笑いながら「味噌も此処にあります、いつ何時火事があっても目塗の出来るようにこうして味噌まで備えてあるのです。」
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「帝大教授学生気質」には明らかに伝聞に基づいたと思われる逸話も含まれるが、斜汀は明治40年に北海道を旅行していて
その後北海道を舞台とした大学生が主人公の小説も書いているので、実際に斜汀が北海道大学を訪れ宮部博士に会って取材した可能性は高い。
この標本室は博士の伝記「宮部金吾」(岩波書店, 1953年発行)の 227頁に内部の写真が掲載されていて、当時の様子を窺うことができる。
(標本室は当時の図面などでは植物腊葉室という名称になっているので、以後腊葉室と表すことにする。)
写真には標本箪笥に囲まれた木製のテーブルやエピソードに出てくる螺旋階段も写っていて、二階の手摺には額が二つ架けられているのが見える。
奥の方の肖像画は判別し難いが手前に写っている肖像画は日本の植物を初めて本格的に研究したスウェーデンの植物学者ツュンベリーだ。
札幌農学校が新校舎に移転した時に開館した、このレンガ建ての腊葉室は当時東洋一と称され宮部博士が終生愛着を持っており、
後には退官記念に作られた博士の胸像も置かれていたという。
当時の設計図などを見るとレンガ造り平屋建、明治35年竣工で動植物教室の教授室前(つまり宮部博士の部屋)から短い渡り廊下で連絡していたが
宮部博士没後の昭和34年、農学部校舎新築のため取り壊されている。
平屋建と言うことだが内部は二段に仕切られ回廊のような二階造りになっていて標本箪笥が高い天井近くまで届いている。

レンガ造りの建物や土蔵はそれ自体は火事に強いのだが扉の隙間等から火が入ると中の物は燃えてしまう。
そこで江戸時代から火事の時には土蔵に家財道具を入れ、用心土という練り土で扉などの隙間を塗り固めて被害を防いでいた。
これを目塗りと言い、大きな商家では蔵の入口近くに練った用心土を常備していて、火事の時には出入りの左官屋が駆けつけたという。
だが実際には火事は滅多にないし、いざと言う時乾いて硬くなっていては使えない。そこで代わりに大きな味噌壷を置いておくこともあったようだ。
江戸時代の「鎮火用心たしなみ種」には味噌でもいいとあるし、明治26年の川越大火では実際に味噌で目塗りをして火災から守った話も伝わっている。
(火事の後、焼けた味噌は焼き味噌として食べられるので一石二鳥だと言うのは落語の笑い話だろう。)
宮部博士は貴重な標本を万一の火災から守るために腊葉室の入口近くにわざわざ味噌を用意していたというのだ。
用心土は氷点下になれば凍るはずだから厳寒の北海道では塩分を含み容易に凍結しない味噌の方が実用的だったのかもしれない。
腊葉室の観音開きの入口側というのは木造の動植物教室に面していて、火の手が入るおそれがあるのはこの面だけである。
いざとなれば博士自身が味噌を塗るつもりだったかどうかは定かではないが、博士がいかに標本を大切に考えていたかがわかるエピソードだ。

さて、味噌樽の話はともかく、この逸話を一読して「あれ?なんか変だぞ」と思った箇所がある。
コロンブスがアメリカ大陸を "発見" したのは間違いない。
(コロンブス以前に既にヨーロッパ人が到達していたという主張もあるし、土着インディオもいたのだから本当の発見とは言えないと思うが)
だがヨーロッパを出帆してアメリカに到達する際にアフリカ大陸南端の喜望峰を通る事は有り得ない。
喜望峰に到達したのはバーソロミュー・ディアスだし、喜望峰廻りのインド航路を開いたのはヴァスコ・ダ・ガマだ。
従って「コロンブス云々の喜望峰の海草」は、コロンブスか喜望峰のどちらかが間違っている事になる。
宮部博士が間違うとは考えにくいので聞いた人の記憶違いであろう。
例えば腊葉室を訪れたあまり植物には詳しくない客に対して何か興味を引きそうな標本を見せながら案内するという場合、
「コロンブス」のネームバリューは説明する方にとっても聞く方にとっても大きいだろう。
この名前を覚え間違えるとは思えないのだが、そうすると「喜望峰」の部分が正しくは何だったのか、あまりピンとくる地名が思いつかない。
逆に「喜望峰」が正しいとすると「バーソロミュー・ディアスが喜望峰に到達した時にみつけた海草」とでもなるだろう。
当時、コロンブスや喜望峰の名前がどの程度一般的だったのかわからないが「喜望峰」という日本語の名前を間違える事は無いのではないか。
むしろ現在でもコロンブスほどは知名度が高く無いと思われるバーソロミュー・ディアスやヴァスコ・ダ・ガマの名前を
コロンブスと取り違える事の方が可能性としてはありそうに思うのだが...

甲板から糸で引っ掛けて採集できるとすれば流れ藻だろうか。
コロンブスが流れ藻を見つけ「陸地が近い」と言って先の見えない航海を不安がる乗組員を鼓舞した話は有名だ。
そうすると宮部博士が示した標本はコロンブスが見つけた海藻だったのか。
コロンブスの航海記は邦訳も出版されているので岩波文庫版(林屋永吉訳)で確認してみると、確かに何度も海藻の記述が現れる。
海の深さを量る分銅に海藻が引懸って上って来たと言う記述は見当たらないが、その海藻は「木の実のようなものをつけて」いると表現されていて
ホンダワラ類の特徴をよく表わしている。いわゆるサルガッソー海のホンダワラである。
ホンダワラ類は世界の海に広く分布するが、アズキ豆ほどの大きさの気胞が付いていて、ちぎれた藻はよく海面を漂っている。
瀬戸内海の海辺で育った私は子供の頃、海岸に打ち上がったホンダワラの気胞をプチプチつぶして遊んだものである。
さて、コロンブスが遭遇したサルガッソー海のホンダワラは Sargassum natans 等である。
北海道大学の海藻類標本が保存されている理学部植物標本庫 (SAP) は現在理学研究科と総合博物館との共同管理となっていて、
それと共に菌類藻類標本庫(SAPA) の中の全ての海藻標本も保管されているようだ。
そのうちの SAP についてはデーターベースが作製、公開されていてネットでも検索できるので調べてみたが残念なことに採集年では検索できない。
3000件近くある Sargassum 属をざっとチェックしたが、1910年以前に外国人が採集した大西洋の Sargassum 属標本を見つける事は出来なかった。

喜望峰関係から何か手がかりは無いだろうか。
喜望峰の海岸には季節によっては大きなコンブ類が大量に打ちあがっていてそれなりに有名らしい。
そこでヴァスコ・ダ・ガマの航海記をハクルート協会版等で読んでみたが特に海藻には言及していない。
バーソロミュー・ディアスの詳細な航海記録は入手できなかった。また、彼等と海藻を関係付けるような文献も見つける事ができなかった。
宮部博士はハーバード大学に留学していて多くの海外の研究者と交流があったのだが、逸話中の「外国の友人」も特定できない。
(「外国の友人」は外国人ではなく、外国にいる日本人の友人の可能性もある。可能性のありそうな人物を調べたがわからない。)
当時の大西洋航路が Sargassum natans の分布域を通過していたかどうかも確認できずじまいだ。
SAPA については目録類が整備されておらず、実際に標本を調査しない限りこれ以上の追求は無理のようだ。

なんとも中途半端な結果なのだが、宮部博士が示した標本はおそらくコロンブスのホンダワラだったろう、と考えている。
その海藻が「忍摺のような」と表現されているのがそう思う根拠だ。
この標本は今でも北海道大学の標本庫のどこかに保存されているに違いない。もし機会があれば見てみたいものだ。

さて、宮部博士や腊葉室の資料をあれこれ探していてちょっと面白い事に気が付いた。
腊葉室の内部を撮影した写真は上記の写真の他にも何枚かあって、ほぼ同じアングルの写真もある。
「写真集北大百年」に掲載されている写真では腊葉室の中で机に向かう宮部博士も写っているのだが
奇妙な事に螺旋階段がある所にはかなり急角度な梯子段が写っている。
他に北海道大学附属図書館北方資料室にも幾つか腊葉室内部の写真が所蔵されていてHPでも北方資料データベースとして公開されている。
各写真の正確な撮影時期は不明なものが多いがやはり梯子段の写真と螺旋階段の写真がある。
[画像のリンク先はすべて北海道大学附属図書館北方資料データベース]
螺旋階段の写真(レコードID 0B045430000000)。「宮部金吾」掲載のものと同じ写真。奥に螺旋階段が見える。
梯子段の写真(レコードID 0B042330000000)。手前が宮部博士。ほぼ同じアングルだが後ろには梯子段が写っている。

螺旋階段と梯子段とが別にあったのかとも考えたが当時の設計図等を見ると二階への上り口は一箇所だけ、梯子段だったのは間違いない。
梯子段の手摺は二階部分の手摺と同じくかなり凝った装飾が施されているのだが、
螺旋階段は写真で見る限り装飾などのない簡素な造りでバランスが取れない感じがする。
どうやら梯子段から螺旋階段に造りかえられているようだ。
明治38年11月撮影の別の写真(レコードID 0B039680000000) では梯子段が写っているので、螺旋階段への変更はそれ以降、
斜汀が北海道を訪れた明治40年頃までになされた事になるはずだが螺旋階段と梯子段の写真をよく見比べると他にも違いがあるのがわかる。
二階回廊部分の手すりには額が架かっているが、梯子段の写真の宮部博士の頭上あたり、奥から三つ目の額の上には書見台のような台が見える。
それより奥、角の部分までには細い S 字状の装飾が付いた手すりの支柱が10本あるが螺旋階段の方の写真では6本しかない。
回廊を支える円柱より奥の部分の長さが明らかに異なっていて螺旋階段に変えられると共に回廊の奥の部分も拡げられているのがわかる。
梯子段はもしかしたら取り外せる構造だったのかもしれないが螺旋階段は支柱を固定しなければならないはずなのでそれに伴う改造だろう。
取り替えられた理由はわからないが、老朽化による改装とは思えない。
この梯子段は昔の家屋の階段と同様に傾斜が大変急で設計図で見ると60度もあり標本を持っての上り下りは危ないのではと思う。
やや緩やかな螺旋階段に取り替えられたのはあるいはそのためかとも思うのだが
不思議な事に大正15年とされる写真(レコードID 0B045420000000) には左端に再び梯子段が写っている。
梯子段は手すりの部分を見る限り明治時代のものと同じものに見える。螺旋階段は一時的なものだったのだろうか。

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腊葉室の事を調べ始めた頃、 「気分はき・の・こ」の nivalis さんが北大にキノコ標本の調査に行く、と書かれていたので
「時間があったら今の様子を見てきてくれませんか」とメイルを出したところ、植物園に態々出向いて色々調べていただきました。
腊葉室については北海道大学大学文書館の井上高聡氏に資料等、ご教示頂きました。お二人に感謝いたします。

(2009.01.28 記)