この本のタイトルデザインはちょっとやり過ぎだと思う。

外国の文字で書かれた文章を見たときに、読めるかどうか、意味がわかるかどうかは別として、
それが何語なのかだけなら、おおよその見当がつくことが多いと思う。漢字だけなら中国語、ハングルなら朝鮮語だろう。
ラテンアルファベットは欧米の殆んどの言語で使用されるが、例えば "Ç" があればフランス語かな、とか、"Ü" があればドイツ語かな、とか。
キリル文字なら普通はロシア語だろうと思うけれど、実際にはキリル文字を使う言語は多く、慣れないと見た目だけではわかりづらい。
アラビア文字もわかり易いが、アラビア語かペルシャ語か、あるいはそれ以外の言語なのかは、各言語の特徴を知らないと難しい。
インドの言語であるヒンディー語等の表記に使われるデバナガリ文字は、単語の上部に横線が一本目立つのが特徴だ。
カレー屋の店先などで見る、上部に一本線が引かれた文字を見れば、何語かわからなくても、インドあたりの言葉だな、ぐらいの想像はつくはずだ。
逆に、文字の上に一本線を引くと、何となくインドあたりの文字のように見えるし、そんなデザインの店の看板や商品ロゴも多い。
例えばインド直輸入の紅茶 "シャンティ" のティーバッグはこんなデザインだ。
shanti
「shanti」 の文字がなんとなくインドっぽくなっているが、ラテンアルファベットだという事はすぐわかる。
各文字上部の横線が一本に繋がっていればもっと雰囲気がでるのに、とちょっと残念に思う。

こんな本がある。表紙の一部分、タイトルの書かれてある箇所を示した。(数字は以下の説明のために書き添えたもの)
bengal cover
何の予備知識もない状態でこれを見せられたとして、これが何語かわかって、読める人が果して何人いるだろう。
上から下に読むのは良いとして、右の行から読むのか、左の行から読むのかすら判然としないと思う。
稲穂のような植物と、その上を飛ぶ鳥の絵があるから、上下はこれで正しいとわかるけれど、文字だけ切り取ったら、それすら怪しいし、
各文字の書き順は、となると推測することすら難しそうだ。

では全くでたらめな文字なのか、と言えば、そうでもない。各文字を見比べてみると、[6] と [9] は同じだし、
[12] の文字は [6] の文字の左に 「て」 のような部首?をつけたものだ。その「て」 のような記号は [5] と [8] にもついている。
何らかの規則性を持って作られた文字であることは確かだろう。
(この特徴から、これはアブギダ系文字、しかも記号が左に付くのならブラーフミー系では、と推測する人は相当の言語通だ。)

実はこれはベンガル文字で書かれたベンガル語だ。ベンガル語はインドのベンガル地方やバングラデシュを中心に話されている言語で、
ベンガル文字はブラーフミー系(いわゆるインド、東南アジアあたりで使用されている文字群)である。
しかし、ベンガル文字を知っている人からは、ベンガル文字はこんな文字じゃないですよ、と言われそうだ。
確かに普通のベンガル文字ではない。標準的な書体で書いてみるとこうなる。
bengal sample
ベンガル文字は分かち横書きで左から右に読み、デバナガリ文字と同じく上部の横線が目立つ文字だ。
表紙の文字の横に一文字づつ普通の書体のベンガル文字を添えてみると ...
bengal sample
似ている、と言えなくはないだろうが、かなり違っている、というのが一般的な印象だと思う。
飾りのような余分な線があって判りにくいし、第一どうしてこんな字体でしかも縦書きにしているのだろうか。

この本は、ベンガル語に翻訳された日本の詩集(俳句集)だ。1965年にカルカッタで出版されたもので、かなりの珍書だと思う。
翻訳の基になったのは、Kenneth Rexroth が編集した "One hundred poems from the Japanese" という本と、
河野一郎と福田陸太郎によって翻訳された "An anthology of modern Japanese poetry" という本である。
おそらく、この表紙の文字デザインの意図するところは、ベンガル語を日本語のように見せよう、
あるいは日本語の雰囲気を出そうとしたもので、表紙を見るだけで、日本(あるいは日本文学)に関連した本なのだ、
とわかってもらえるように工夫されたものだろう。ちなみに、このタイトルは "Ekaṭi dhānera śīshera upare" と書かれている。
「稲穂の上に」というような意味だが、収録された詩の中に該当しそうな字句は見当たらない。
ベンガル語が母国語だった詩聖、タゴール (Rabindranath Tagore) の詩の一節に因むものか、と思うがよく判らない。
表紙の文字はこんなデザインだが、本文はすべて標準書体のベンガル文字で書かれているので普通に読める。

このように、タイトルを内容に合わせて別の言語(文字)の様にデザインした書籍にたまに出会う。
例えばこれ。(表紙の一部)
arabic-cyrill
一見アラビア文字っぽく見えるが、ロシア語(キリル文字)だ。"Тюрки или Монголы?" と書かれていて、チンギスハンを扱った本。
わかりにくいが、なんとか読める。ロシア語が堪能な人に見てもらったが、案外簡単にわかったようだ。「文字が一文字づつ離れてますから。」との事。
また、こんなものもある。(本文の冒頭部分)
polish-hebrew
ヘブライ文字っぽく見えるポーランド語。"Kto jest Żydem polskim?" と書かれている。ポーランドのユダヤ人の歴史を扱った本だ。
これは比較的簡単に読めた。
さらに、こんな本。(表紙の一部)
devanagari
デバナガリ文字っぽく見える英語。"Indological studies in India" と書かれている。
ちょっと戸惑うが、判った後で見ると、なかなかうまくアレンジしているなと思うし、冒頭の "shanti" よりも完成度は高い感じがする。
サンスクリット文学が専門の学生に見せたところ、「えーっと、何語ですか?」 と聞き返された。

冒頭のベンガル語訳俳句集の表紙の変な文字は、ベンガル文字を何とか日本の文字に似せようと工夫した結果なのだと思う。
だがしかし、である。この本の表紙をデザインした方には大変申し訳ないのだが、こう言いたい。
「ひらがな、カタカナ、漢字のどれにも似ていませんし、日本語には見えません。そして(ベンガル語と判っても)読めません。」
おそらくベンガル人の方も読みにくいだろうと思う。インドや東南アジア諸語の文字は、現行の文字ならほとんど見分けられるし、
意味は分からなくても翻字(ローマナイズ)はできる自信があるけれど、
この本を手に取った時の、頭の中が?だらけになった衝撃を今でも良く覚えている。

(2022.05.21 記)