ラフカディオ・ハーンが感動した少年のその後

ラフカディオ・ハーンといえば「怪談」が有名で、耳なし芳一の話などは誰でも知っていると思うけれど、
それ以外の著作は少なくとも現代の日本ではそんなに親しまれてはいないようだ。
1890年に来日、松江で英語教師となり1891年から3年間熊本第五高等学校の教師を務めたハーンは
日本に帰化して小泉八雲と名乗り東京帝国大学などで英文学を教えたが1904年に死亡した。
ハーンの著作は海外に日本を紹介するのに大きな役割を果たしたが、そこに描かれた日本は今の日本とはまるで違うまさに Exotic Japan だ。
そんなハーンの著書「心」の扉絵には男の子の写真が使用されている。
(原題は Kokoro : hints and echoes of Japanese inner life. -- Boston : H. Mifflin, 1896. ハーンの著作は英語で書かれている。)
これは佐久間信恭の友人の高木玉太郎という人の子供で、ハーンがこの子の顔の写真を見て純粋な日本の少年だと感動して借用したものである。
(高木に写真を送ってもらった事に対するハーンの礼状が最近八雲記念館に寄贈されている。)
富士額で坊主頭、着物姿の8歳くらいの少年で、美少年というわけではないが端正で賢そうな顔をしている。

ハーンは熊本時代、第五高等学校の英語教授であった佐久間と親交を持ち大変親密だった。(後にはやや疎遠になったともいわれている。)
その佐久間信恭と高木玉太郎とは札幌農学校の同期生(二期)である。
札幌農学校二期卒業生はわずか10名にもかかわらず俊才を輩出したので有名だが、高木の卒業成績は三位だった。
(一位は内村鑑三で二位が宮部金吾。佐久間は心臓病のため一年休学したので卒業は遅れている。)
1862年に東京で生まれた高木玉太郎は札幌農学校在学中から化学や鉱物などの研究をし、ドイツ語、フランス語にも通じていた。
札幌農学校を卒業後、開拓使物産局から東京教育博物館をへて1889年に住友に入社。
住友では樟脳の研究に従事し精製樟脳の製造に成功、樟脳製造場長等も勤めたが
樟脳が専売制になったため1903年に住友は樟脳事業から撤退することになる。
住友側は神戸の工場全部を高木に譲渡するか、賞与金を与えるかの二つを高木の選択に委ねたが高木は後者を選び住友を辞したという。
その後教育関係や製薬関係の事業を興したりしたが1916年に脳溢血で亡くなっている。

高木玉太郎には四人の子供がいた。長男弘、長女千代子、次女美代子、次男孝二の各氏である。
長男弘(ひろむ)氏が1886年生まれで「心」の出版年から考えると写真の少年は弘氏に間違いない。
(因みに長女千代子さんはキノコ学者川村清一の弟で陸水生物学者として著名な川村多実二と結婚している。)
「心」の標題紙を飾った高木弘少年はその後どのような人生を歩んだのか。
高木弘氏は神戸一中、七高から東京帝国大学理学部を経て東北帝国大学大学院に進み磁石鋼などの特殊鋼の研究を行った。
その頃、第一次世界大戦の影響で外国からの磁石の輸入が途絶え、国産磁石の開発が急務であり軍部からの要請もあったようだ。
高木は東北帝国大学の教授本多光太郎の下で磁石鋼の研究に取り組み、1917年に本多と共にKS鋼の開発に成功した。
これは当時最強の磁石だったタングステン鋼の3倍以上の磁力を持ち、日本はまだ技術後進国だと思っていた欧米にも衝撃を与えた。
高木はその後住友鋳鋼所に入社、鋳造技術の改良などに成果をあげた。さらに東北金属(後のトーキン、現在 NEC トーキン)社長等を歴任し、
磁性材料等の技術者としてだけでなく第二次世界大戦前後の困難な時期に経営者としても手腕を振るったが1967年、81歳で亡くなった。

雑誌などに掲載された高木弘氏の写真をいくつか見る事が出来た。
壮年期の写真はまだ見る事ができていないのだが、晩年の温厚そうな氏の風貌に扉絵の少年の面影を捜す事は難しい。
ハーンが高木少年の面差しのどこに純粋な日本の少年の姿を見たのかのはわからないが、何か非凡なものを感じたのだと思う。
本多と高木によるKS鋼の発明以降、 三島徳七によるMK鋼の発明(1931年)、本多光太郎の新KS鋼の発明(1934年)と、
日本は現在に至るまで磁石鋼技術で世界をリードしている。
その功績によって三島と本多は共に文化勲章を受けているし、1985年に特許庁で選定された日本の十大発明家にも選ばれている。
新KS鋼は2004年、切手のデザインにも採用された。
だが高木が「KS磁石鋼の研究ならびにわが国地表物質の磁性の測定」で東北大学より学位を得たのは発明から40年もたった72歳の時である。
高木は学位も叙勲も自らは求めなかったが、当時の東北大教授が高木にぜひ学位を取って欲しいと学位論文の執筆を勧め
東北金属の社員らが資料を集め、もう手がふるえてこれ以上は書けない、というのを励まして書いてもらったという。
「心」の標題紙で世界に顔を知られた少年高木弘は、世界の最先端を行く技術者となり日本の工業の発展に大きな役割を果たしていた。

[参考にした文献など]
高木玉太郎、弘両氏の評伝類はあまり多くない。
高木玉太郎氏については札幌同窓会報告に掲載された追悼文等、弘氏については「金属」掲載の回想録等を参考にした。

(2008.04.01 記)