出世の縁結

小泉長三という小説家が書いた「出世の縁結」という逸話がある。小泉は1941年没で著作権はクリアされているはずなので全文を転載する。
(「明治大帝 : 附明治美談」. 大日本雄辯會講談社, 1927. p. 785-789. に拠っています。これが初出なのかどうかはわかりません。)
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「おまへさん、気がつかない、長屋にゐる若い田舎者を」
「ああ知ってゐるよ。毎朝のやうに井戸端へ来て、溝をかきまはしてゐる変な男でせう」
「なにをするのか、おまへさん知ってゐる」
「いいえ、知らないわ」
「あれはね、わたしたちが毎朝お米を磨ぐとき、流すのにいくらかお米を零すでせう。その零れ米を溝から拾ってゐるんだよ」
「へえ、なんかのおまじなひ」
「さあ、それはどうだか知らないが、をかしいぢゃありませんか」
「わたし、明日来たら訊いて見ませう」
「およしなさいよ。剣突でも食ふとつまらないから」
「かまひませんよ」
年増の女中と、十六七の若い女中とが、こんな話をした翌朝、若い女中はまだ明けきらぬ暁の井戸端で米を磨いでゐた。
ちゃうど米の磨ぎ終わった時分に、隣の長屋から若い男が起きて来た。薄氷の張る初冬の朝に手織縞の袷一枚、
つんつるてんの裾から空脛をぬっと出して、井戸端で顔を洗っている様子が、女中の去るのを待ってゐるらしいので、
若い女中は米磨桶をかかへて勝手口へ引込むと、男はあわただしく溝へ手をいれて零れ米を拾ってゐる。と、見た女中は再び出て来て、
「おまへさん、その米を拾ってなんかのおまじなひでもするんですか」と訊いた。
若い男は、ちょっとびっくりしたやうであったが、苦笑ひをしながら重い田舎言葉で、
「さうでござるよ。まじなひでござる」
「なんのおまじなひです」
「さ、それは--」と口ごもったが、
「このまじなひは空腹によく利くでな。あはははは」と無邪気に笑った。
「まあ」
目をまるくした女中は、
「お前さん、この零れ米を食べるんですか-- お言葉のやうすではお武士のやうですね」
「武士でも腹がへれば飯が食ひたい」
「お武士の零落なら、ほらあの何とかいひましたね。扇を持って、変な唄をうたって人の門に立ったらよかありませんか」
「わしは乞食ぢゃない。また町並をぶらぶら歩いてゐる閑もない。それでどうせ、おまへ方が捨てた米ぢゃ天物を暴殄するとは勿体ない。
米のためにも、わしのためにも両方功徳ぢゃから、わしの腹へ入れてやるのぢゃ」
「閑がないって、おまへさんは何をしてゐるのです」
「わしは本を読んでいる」
「へえ、本を読んで--」
「わしは田舎から、江戸へ本を読みに来たものだ」
「さうですか、でも零れ米ぐらゐでは腹のたしになりますまい」
「なってもならなくても仕方がない」
超然とした若者の様子が、若い女中には偉い人のやうにも思われ、また気の毒な人のやうにも思われた。
その夜、若い女中はお内儀さんに頼んだ。
「お内儀さん、どうぞわたくしに、毎日お残りになる御飯のうちから、お握飯を二つ三ついただかして下さいませんか」
「それはどうせ糊にしたり、捨ててしまったりするのだから、お前のすきにして構わないが、一体なんにするのだい」
「はい、気の毒な人にあげたいと思ひますから- そしてそのお代はお給金からお差引きを願います」
「おまへそんな心配が要るものかね、勝手にやっていいよ」
主婦が心よく許してくれたので、若い女中は翌朝若い田舎者が井戸端へ来たとき、三個の握飯を与へようとした。
ところが、なかなか頑固な男と見え、
「俺は乞食はしたくない。捨てた物は主のないもの、それは拾っては食ふが、人の情は御免蒙る」とにべもなくはねつけた。
その気性が一層若い女中を感心させた。
「折角お内儀さんからいただいたが、貰い手がないなら捨ててしまふ」
持って来た握飯を井戸流へ置いた。
「捨てたものなら、拾ってやろう」と、若い男は平気でその握飯を持ち去った。
それから毎朝大きな握飯が三つ捨ててあった。若い男はそれを拾って行った。時に香の物や、煮〆などがそこに捨ててあった。
若い男はにこにこして拾って行った。
それが実に一年近くも続いた。と、ある朝になって捨てた握飯に拾い手がなくなった。同時に若い男も隣の長屋から姿を消してしまった。
それから三年を過ぎた明治四年、若い女中の使われてゐる主家へ、羽織袴の立派な男が来て、だしぬけに若い女中を嫁に貰ひたいと申し込んだ。
主人は呆気にとられ、
「一体、貴方様はどちらのどなたと仰有る方で--」
「わたしは元信州松本藩士、只今は文部省に奉職いたして居ります。そのお女中さんの名は知りませぬが、お互に顔だけは存じてゐます」
そこで主人が若い女中を呼び出して見せると、この文部省の官吏は、三年前隣長屋にゐて、毎朝握飯を貰っていたのでなく、拾って行った若い田舎者であった。
若い男は窮乏のうちに刻苦洋学を勉強し、将に餓死に瀕してゐたとき、若い女中の握飯に救はれたことを告白し、
厚く女中の恩義を謝し、更めて妻に申し受けたいと頼んだ。
話はまとまって若い女中は、若い男の妻となった。
若い男は文部省出仕から外国語学校長となり、文部大書記官となり、明治十九年には文部次官に累進し、同二十九年に錦鶏間祇候となり、
帝国教育会長となり、功に依って男爵を授けられ、従二位勲一等の栄位に昇り、大正四年薨去せられた辻新次氏であった。
その令夫人は、実に握飯を捨てた若い女中であった。
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糟糠の妻もびっくりの、これでもかといわんばかりの「美談」だがどうも変なところが多い。
米を研ぐ時にそんなに拾えるほど零れるのか。(もしそうなら、この女中は米を研ぐのが下手なのではないか?)
残飯でお握りが毎日三つもできるのか。(一日の米の消費量の見積もりが下手なのではないか?)
「貰い手がないなら捨ててしまふ」、「捨てたものなら、拾ってやろう」のあたりは子供の喧嘩みたいだ。
小泉長三は烈士伝や貞女伝などを得意とした時代小説家で、もちろんフィクションも多いのだがこれは実名で出てくるので全く嘘ではないだろう。
とりあえず事実関係を調べてみる。
辻新次は日本の近代教育制度確立に尽くした人物で昭和新修華族家系大成によると辻新次の夫人は、さと。
岩波信義の三女で長男太郎は明治2年6月に生まれている。
大正過去帳には妻さとは旧幕臣岩波小左衛門の三女とあるがこれは岩波信義と同一人物だ。やはり長男太郎は明治2年生まれとある。
これからすると、明治四年に求婚したというのはつじつまが合わない。
因みに辻新次の次女信は後に第一銀行副支配人の野口弥三と結婚しており、その長男が洋画家の野口弥太郎である。
念のために辻の伝記「男爵辻新次翁」(安倍季雄編輯, 1940)の年譜をみると

文久元年(20歳) 志を立てて江戸に上り苦学、一橋外蕃書調所精錬所(後化学局と改称)に入り大砲の鋳造、火薬製造等を学ぶ。
文久三年(22歳) 開成所精錬方世話心得に任ず。
元治元年(23歳) 実地見学のため、無断にて幕府の武田耕雲齋討伐軍に加わりたる咎により藩に呼戻され、父は閉門、自分は譴責を受く。
慶応元年(24歳) 藩の家老野々山四郎左衛門に伴はれて、再び江戸に上る。
慶応二年(25歳) 火薬製造中爆発、火傷のため目的を変更し、仏書を研究して九月開成所教授手伝並に出役となる。幕府より五人扶持、月手当二両二分、別に年銀五枚与給さる。
慶応三年(26歳) 三月、松本藩より三人扶持給与さる。
明治元年(27歳) 開成所教授試補に任す、教場監督事務を兼掌、11月幕臣岩波小左衛門信義の四女里子を娶る、とある。(三女が正しいようである。)

当初は砲術を修めようとして上京した辻は、とりあえず牛込市ヶ谷の辻家に身を寄せる。
ここは祖父の兄、幕臣定火消役与力辻丈之進が当主の親戚筋だった。
やがて牛込北町の蘭医永田宗見の薬局生となり、後に松本藩邸に移っている。
伝記やその他の資料に拠ると、二十歳で江戸に出た辻が筆耕などの内職をしながらかなり苦学したのは確かなようである。
「男爵辻新次翁」や「帝国教育」403号 (1916) の追悼記事「噫辻男爵」には次のような逸話が紹介されている。
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 永田家にいた頃、流行した麻疹に罹った辻は親戚の許に追い返される。
 やがて全快したが何か食べたいと思っても懐中無一文でどうすることもできない。
 そこで自分の古着古足袋などを屑屋に売ってその金で焼芋と盛り蕎麦を食べたが、それが大変おいしかった。
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貧窮生活だったのはともかく、長屋住まいはしていないようだし、当時さと夫人はまだ13歳なので "十六七の若い女中" と言うのもちょっと無理がある。
幕臣の娘が女中奉公をするのかもちょっと疑問だがこの辺に関しては知識が無い。
「もうそろそろ妻帯してもよかろう、という父君や母君の意見で」夫人と結婚したと「男爵辻新次翁」にはあり、逸話のような出会いではなさそうだ。
小泉長三が何を基にしてこの話を書いたのかわからないのだが、どうやらフィクションのようだ。

(2008.01.31 記)