東洋民俗博物館にあるスタール博士の胸像

20年以上前、とある研究所の図書室で働いていた頃、古い洋書に挟まれた一枚の写真を見つけた。
和服姿の男性が「御札博士像」と銘板のある銅像の横に立っている写真である。(下の写真)
裏には「Statue of Dr. Frederick Starr and Tsukumo of director of the O.F. Museum. beside the museum. 1935」 とペン書きされている。

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いくつかの文献を調べて、この銅像の人物がスタールという人類学者であることは分かったが、写真の "ツクモ" なる人物についてはなかなか分からなかった。
今では大抵の事はインターネットで素早く調べる事ができるけれど、当時はこの程度の事でも調べるのには結構時間も労力も必要だった。
いくつかの文献や新聞を調べて分かった事は...
スタール博士(Frederick Starr, 1858-1933)はシカゴ大学教授であった人類学者。
博士は和服姿で全国の神社を調査して御札を収集、御札博士と呼ばれ当時は新聞などでもその行動が報じられる人気者であった。
明治37年以降十数回も来日を繰り返したが、最後の来日の際に病に倒れ日本で亡くなっている。
そして博士の通訳として調査に同行し研究の助手を務めたのが写真の銅像の横に立っている九十九豊勝氏である。

九十九豊勝氏は明治27年生まれ、英語教師をしていたらしい。博士との関係は大正4年、東海道行脚を終えた博士を京都に訪ねた事に始まる。
それから、富士山、山陰、九州沖縄等を博士に従い調査をするうち民俗学に興味を持ち、特に性崇拝に関心を寄せた。
氏は「黄人」と号したが、それは "Yellow man" = エローマンをもじったものなのだ。
写真の裏に書かれている O.F. Museum は東洋民俗博物館 (Oriental Folklore Museum) の事であり、それが奈良のあやめ池にある事なども分かった。

そんな事を調べていた頃から少し経った時、東洋民俗博物館とその館長九十九黄人翁が「風変りな博物館とユニークな老館長」として何度かテレビで紹介された。
テレビで見る九十九氏は100歳近くと言うのに矍鑠としていて、レポーター相手にエロ話をする変なお爺さんだった。
これは一度訪ねておいて損はないだろう、この写真も持って行って誰が撮ったのかお聞きしよう、等と思っていたが、
出不精の私は京都から奈良に行くのにも中々思い立たず、写真もどこかに紛れ込んだために訪れる機会を逸してしまった。
それから何年か後、翁が103歳で亡くなられたのを知り残念に思った。

先日机の抽斗を整理していたら思いがけずこの写真が出てきた。
改めて調べてみると、翁の没後しばらく閉館状態だった博物館は、現在は息子さんが管理をしていて見学できるらしい。
そこで思い切って行ってみた。

近鉄のあやめ池を降りるとすぐにあやめ池がある。以前はあやめ池遊園地があったが、平成16年に閉園され再開発が進んでいる。
池に沿った道を歩くこと数分、ちょっとした坂の上に博物館はある。
入口手前のロータリー横にスタール博士の銅像は今も建っていた。
昔の写真に比べるとまわりの植え込みの様子が違うが、建物との位置関係は変わらない様である。
何枚か写真を撮って博物館の入口に立つと、チベット文字が書かれたその扉には
「御用の方は本館向かって右側奥の家までお越し下さい」という札がかけられている。
おやおや、と思って奥の方に行こうとすると偶然奥様らしき方が出てこられたので、見学したいのですがと申し出ると
すぐに開けますから、と言われた。暫く待っていると鍵が開いてストーブの用意をしてくれ、
ご主人(翁のご子息で現在同館理事長の弓彦氏)が出てこられると、ではまず建物から、と言って説明をいただいた。
スタール博士の像についても説明されたので、私が持っている写真のコピーをお見せし、
この像が今どうなっているのかを知りたくて来たのですと言うと、さらにいろいろと教えてくださった。
建物も銅像も当時のまま、とのことである。(戦時中は金属供出から逃れるために隠したこともあったようだ。)

案内された博物館の中は開館当時とさほど変わらないという事で、まるでタイムスリップをしたかのような異空間だった。
入口横には吉田神社から出たという神代文字でかかれた軸、正面には極楽鳥の剥製などがあり、黄人翁使用の椅子が据えられている。
展示品は民俗資料としてかなり貴重だろうと思われるものから、本当にガラクタの様なものまで多種多様である。
ヤシの葉に書かれたパーリー仏典の隣にはガラス瓶に入ったガンジス河の水があったりする。
壁一面の絵馬は現在神社に奉納されている絵馬とはずいぶん違ってちょっと不気味な感じがする物もある。
古い陳列棚には纏足の靴、アジア各国のちょっと怪しい人形、ミイラのペニス ... といった物がずらりと並んでいる。
昭和天皇が使ったと言う箸の横にはなぜか小さな箱に入ったタマムシが置かれてある。
緊張して見学させていただくという訳でもない、かといってくだらない物でもない、
表現が失礼かもしれないが、ちょうどいい感じの珍品がちょうどいい感じに展示されている、という印象だ。
そして奥の部屋は、翁のもっとも関心があったという性に関する資料の部屋である。ここも説明を伺いながら見学させてもらった。
詳しくは書かないが、ここがまた珍品ぞろいで大変面白かった。
戦前に来日していたロシアの言語学者ネフスキーが訪館の際に残したサインなども見せていただいた。
「アマトリア」(昭和26-30年に刊行された性風俗に関する雑誌)が全巻揃っている、というのにも少し驚いた。
一時間あまり、弓彦氏の丁寧な説明を聞きながら楽しく見学することができた。

将来は収蔵品は然るべき所に寄贈したい、と弓彦氏は言っておられた。
これだけの品を管理するのは大変に違いない(現在、保存状態はあまり良好とは言えない)が、
このコレクションはこの東洋民俗博物館で展示されているからこそ価値があり面白いのでは、と思った。

現在のスタール博士像。ほぼ同じ角度で撮影してみた。
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台座の背面には、「発起者九十九豊勝 鋳作者吉田静一 石匠大石庄太郎 昭和五年五月五日建設」と書かれている。
東洋民俗博物館の開館は昭和3年なので、開館後まもなく作られた事になる。
除幕式で配布された物と思われる「御札博士銅像由来」という小冊子を入手することができた。
当初は自然石の記念碑や、コンクリート製の将棋の駒型の碑の案もあったけれど博物館の建物との調和を考え胸像にした、とある。
家を担保にして費用を工面し、寄付も募っていて、数十名の寄付者名が掲載されている。
その中には木戸孝允の息子でだるまのコレクターとして知られた木戸忠太郎や、
関東学院教授などを歴任し神道研究で有名なホルトム (Daniel Clarence Holtom, 1884-1962) の名前もあるのだが、
AKB48 のともちんと同姓同名の人がいるのにはちょっと驚いた。

さて、弓彦氏の説明でも、像は作成当時のまま、という事であった。
写真を比べてみても、台座を含めて変わっている箇所は無いように見えるのだが、ただ一ヶ所だけ変わっている箇所がある。
それは台座に彫られた博士の名前である。
スタール博士の名前は Frederick だが、昭和10年当時の写真では名前が "PH.D. FREDERIC STARR" であり、最後の K が抜け落ちている。
今は K が追記されているが、そのために姓名の間のスペースが詰まってしまっている。
(左が昭和10年撮影の写真の拡大、右は現在の当該部分の拡大)
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いつ修正されたのだろう。聞き漏らしてしまった。

(2013.02.01 記)