初期検印紙調査メモ. 柴田清亮譯「幾何學」(中外堂, 明治11年10月出版)

柴田清亮は、明治初期の数学教師。
明治11年8月付けの静婉学校(私立の女学校)開業願(「東京教育史資料大系」 第3巻所収)に、
柴田の教員履歴が掲載されているので引用する。なお、静婉学校起立人の柴田清熙は清亮の父。
東京府平民 柴田清亮 二十八年
明治二年九月大學少得業生拝命 同三年五月大學中得業生拝命 同四年七月大學大得業生拝命
同年同月文部權中助教拝命 同年同月文部省十一等出仕拝命 同五年四月大阪開成學校在勤拝命
同年十月教則改正ニ付出仕ヲ免セラル 同六年八月文部省十一等出仕拝命 同日宮城師範學校在勤拝命
同八年一月文部省十一等出仕ヲ免セラル 同年三月宮城師範學校教員嘱任 同十一年二月宮城師範學校被廢ニ付觧任
宮城師範学校以後の詳しい経歴を確認できないが、
明治19年に出版された「平面幾何學」奥付にある住所は "神奈川縣横濵區長者町九町目百五番地寄留"。
また、「日本紳士録 第10版」 (1905) には "柴田清亮 横濱蠶絲銀行監査役、倉庫業" とある。

調査したのは柴田清亮譯「幾何学」。洋装、前後篇2冊。確認できたのは前篇のみ。
前篇標題紙は "米國羅閔遜氏原著 東京柴田清亮譯 | 幾何学 前篇 | 明治十一年十月出版"。
原著者は Horatio N. Robinson。原著については未確認。前篇奥付は以下の通り。
明治十一年七月三十日 板權免許
同 年十月 前篇出板
明治十二年一月 後篇出板
譯者兼出板人 東京府平民 柴田清亮 東京第四大區二小區西小川町壹丁目十二番地
賣弘發兌所 中外堂 木村源兵衛 東京室町三丁目拾番地
印刷 葆光社 東京湯島壹丁目拾三番地
奥付ページ裏には "東京書肆" 一覧があるが省略する。
検印紙 は前篇標題紙右上に貼られている。32.5 × 41.5 mm.、版面 29 × 37 mm.、目打なし、凹版か。
セピア色単色、上部のリボンに "東亰柴田氏藏板之章"、左右2本のコンパス(ディバイダ)で作られた菱形の中に、
地球儀、本、地図、羽ペン、方位磁石が描かれ、開かれた本には "ENGRA- | VED | BY N-NA- | KAGAW | A" と書かれている。
左のコンパスの支点には扇が描かれ、右のコンパスの支点には "柴" と書かれている。
下部に "SHIBATA TOKEYO" の文字と菊水紋が描かれ、最下部中央に小さく "東光舎製" とある。
割印は大きな角印、"西澮書屋" だろうか。

検印紙に刻版者名が明記されているのが大きな特徴である。"N-NA-KAGAW A" は "N. ナカガワ" と読める。
明治11年に出版された金丸鐵編輯「實地演習 見聞録」は、標題紙に "東光舎藏"、
その奥付にある出版人は "第一大區四小區神田美土代町二丁目壹番地 中川昇" とあるので、この人物だろう。
中川昇は名の知れた銅版師だったようが、ほぼ同時代の銅版師に中川耕山がいて、文献によって同人説と別人説がある。

耕山は「大日本人名辞書」 (7版, 1912) によれば、越後柏崎の人、名は長次郎、耕刀軒良孝と号し、後に耕山に改めた。
明治32年8月18日没、50才。

菅野陽「『米欧回覧実記』と『輿地誌略』の挿絵銅版画」(「日本洋学史の研究9」, 1989 所収)では、
「米欧回覧実記」挿絵の原銅板修復の過程で見出した "N. NAKAGAWA"、"中川耕山刀"、"知新堂刀" の署名を同一人物のものとし、
"[中川耕山は] 越後柏崎の生まれで (ただし生没年未詳)、名を良孝または昇、通称を長次郎、号を耕山といった。
アメリカから帰国後は翠山の彫刻会社にいたが、京橋尾張町新地に石版銅版彫刻印刷所知新堂本店を経営した。" としている。

小野忠重「日本の造本と装幀3」(月刊印刷時報 ; 245. 1964)では「米欧回覧実記」の挿絵について
"わずかなものに知新館、中川耕山 N.Nakagawa の名が読める。つまり ... 耕山中川長次郎(良孝)である。" としていて、
N. Nakagawa を、耕山のサインとしている。さらに、小野は「日本の造本と装幀11」(月刊印刷時報 ; 254. 1965)では、
"東京神田の東光舎中川昇は、明治10年代のはじめに撒塩式アクアチントで降霜法とか中川彫とか評判された。...
ついでにいえば、中川昇と ... 中川耕山(長次郎または良孝)を同一人とする説(西村貞・日本銅版画誌また川田久長・活版印刷史)
があるが、これはまちがいで、別人である。 ... 唯一の証拠は、明治18年刊青山可[ママ]也編「石版技手人名鏡」に2人とも出ていることだ。
そして耕山は、知新堂を号として京橋西紺屋町に住み、昇は吾妻健三郎に学び東光舎を看板として神田美土代町に開業していたのである。"
と書いている。小野は2人を別人と知ったうえで、N.Nakagawa とサインした人物は中川耕山であると考えたようだ。
小野が引用した「石版技手人名鏡」は、小野忠重編「明治の石版画」 (1978) に図示されていて、確かに両者の名前が確認できる。
なお、編者青山可也は青山立也が正しい。

菅野と小野が、名前のイニシャルが "N" のサインを中川耕山のものとしたのは、長二郎を "ナガジロウ"、あるいは良孝を "ナガタカ" と読んだためだろう。
素直に読めば "チョウジロウ"、"ヨシタカ" だと思うが、読みを明記した文献を探しだせなかった。
実際は別人で、「米欧回覧実記」の挿絵には中川耕山と中川昇の2人が関わっていた(岩切信一郎著「明治版画史」、2009)とされ、
同時代に同分野で同姓の人物が活躍したことが混乱を招いたようである。
なお、「懐中東京案内二編」 (1877) にも "銅版 書画圖 西紺屋町 中川耕山"、"銅版 画 錦町一丁目 中川昇" と2人が別に掲載されている。
中川昇の詳細な経歴を調べられなかった。

[2026.01.20 記]
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