平尾鍗藏 (1860-1923) は、明治の歌人で実践女学校を創設した下田歌子 (1854-1936) の実弟。
明治9年に宮内庁侍従試補として宮中に入ったが、明治16年に辞任した後は事業に失敗し、職が定まらない時期があったようだ。
平尾鍗藏の検印紙を2種類確認できた。
一つめは姉の著作、下田歌子著「国文 小學讀本」。和装、八巻9冊。
一巻上の見返しの表記は "従四位男爵高崎正風 従五位末松謙澄校閲 正六位下田歌子著 | 國文 小學讀本 | 東京書肆 十一堂發兌"。
枠外上部に "文部省檢定濟" とある。
一巻上の奥付は以下の通り。各巻奥付の表示はほぼ同じである。
明治十九年三月十六日 版權免許
同 八月十一日 訂正再版届 定價金六錢五厘
著者 東京府士族 下田歌子 東京四谷區尾張町九番地
出版人 東京府士族 平尾鍗藏 東京四谷區尾張町九番地 [印]
發兌書肆 東京府平民 十一堂 長谷部仲彦 東京京橋區銀坐一丁目十三番地 [印]
大賣捌所 中央堂 宮川保全 東京神田區猿樂町三丁目
賣捌所 瑞穗屋 東京日本橋區本町三丁目
検印紙
は全冊の奥付上部に貼られている。30 × 30 mm.、版面 26 × 26 mm.、目打あり、平版だろう。
藍色単色、丸枠の内周に "ÉDITEUR☆TÔKEI☆JAPON"、上部に "平尾鍗藏"、下部に"版權之章"、中央に"T. Hirao" とある。
割印は "平尾鍗藏版權之章" の楕円印。なお、奥付の鍗藏の名の下に押されている印は和歌を二重丸の形で彫ったものである。
山田忠雄は「近代国語辞書の歩み 上」(1981) で一部疑問符を付けて "古ゆ人のいひくる老人のみかけとふ水ぞ 名におふたきのせ" と読んでいる。
これは、萬葉集にある大伴東人の歌 "古ゆ人のいひくる老人のをつといふ水ぞ名におふたきのせ" のはずだが、判読しづらい。
長友 (2019) に拠れば、歌子が教科書を編纂したのは、弟の生計を確立させる意図があったという。
もう一点、物集高見著「てにをは教科書」。和装、1冊。
見返しの表記は "帝國文科大學教授物集高見先生著 | てにをは教科書 全 | 東京書肆 十一堂發兌"。
奥付は以下の通り。
明治十九年八月三十一日 版權免許
同 十月 開版 定價金拾五銭
著者 大分縣士族 物集高見 東京本郷區弓町二丁目廿八番地
出板人 東京府士族 平尾鍗藏 東京四谷區尾張町九番地 [印]
發兌 十一堂 長谷部仲彦 東京京橋區銀坐壹丁目十三番地 [印]
検印紙
は奥付上部に貼られている。34 × 28 mm.、版面 31 × 26 mm.、ルレットあり、平版だろう。
茶色単色、丸枠内に肖像、四隅に "平尾印證" とあり、下辺に小さく "東京彫刻會社石印" とある。割印は "平尾鍗藏版權之章" の楕円印。
鍗藏の肖像写真を確認できないが、おそらく本人に間違いない。
銅版、石版彫刻家の梅村翠山 (1839-1906) は、石版印刷の会社、彫刻会社を1874年に興しているが、
1879年に国文社に吸収されたというから、時期が合わず、別会社だろう。
一方、「明治十六年甲部巡察使復命適要 東京府ノ部」 の "工業會社一覽表 屆出之部" には、
"社名:東京彫刻會社. 位置:同[京橋]區日吉町十二番地. 業目:石版銅版. 社長:五味喜兵衛" の記載がある。
[参考文献]
長友裕子 (2019): 明治後期に興った女子の専門学校(13)教科書編さんの意図. (月刊ニュースレター 現代の大学問題を視野に入れた教育史研究を求めて ; 58, p. 19-22).
[2025.09.05 記]
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