萩原朔太郎 (1886-1942) は詩人、評論家。
朔太郎の娘で小説家の萩原葉子 (1920-2005) の「父・萩原朔太郎」(初出「新潮」、昭和34年3月号)に、
萩原家が馬込に住んでいた頃の思い出として、検印にまつわるエピソードがある。
[以下枠内引用]
それから、私が二階に行った時、父が書斎の机や畳の上に検印紙を並べて、一枚ずつ、
不器用な手つきでていねいに印を押していることがよくあった。
私はいつも、何だろうと思って不思議だったが、ある時、
「それなあに?」と、聞いた。
「これは、本ができると押すものだよ」
「どうして押すの?」
「・・・・・・・・・・・・」
「何ていう、本?」
「葉子にはまだわからない詩の原理の本だよ」
父はそう言いながら、とても真剣に、そして楽しそうに押しているのだった。
私は、第一書房のお人形のついた検印紙がほしくてたまらず、
「これ、一枚ほしいの ・・・・・・」と、父にせがんだ。すると父は、
「これがか? これは子供のおもちゃじゃないんだよ」と、さも困ったように笑って言うのだった。
朔太郎は、馬込に住んでいた昭和3年に第一書房から「詩の原理」を出版しているので、その際の検印作業だろう。
第一書房は、長谷川巳之吉 (1893-1973) が設立した出版社で、造本の美しい豪華本を多く刊行したことで知られる。
そして、大正から昭和初期に使用された第一書房の検印紙には幼い葉子が "お人形" と呼んだ通り、人物像がデザインされている。
例としてシエラアド・ヴァインズ著「詩人野口米次郎」(1925) に貼られた検印紙を挙げる。
検印紙
はほぼ正方形、36 × 36 mm.、版面 30 × 25 mm.、黒色単色、目打ちあり、枠外下部に "Daiichi shobo" とある。
なお、この検印紙に押された印は、著者シエラアド・ヴァインズ (Sherard Vines) のイニシャル "SV" である。
ヴァインズは1920年代、慶応大学で英語教師をしていた人物だが、彼がこの印を日常的に使用していたかは良くわからない。
これとほぼ同じデザインで、ひとまわり小型の検印紙がある。こちらの方が使用時期は少し遅れるようだ。
例として片上伸著「露西亞文學研究」(1928) に貼られたものを挙げる。
検印紙
は縦長方形、32 × 30 mm.、版面 27 × 22 mm.、茶色単色、目打ちあり、枠内上部に "Daiichi shobo" とある。
人物は同一だが配置が少し右寄りになり、背景は消されている。無地の押印スペースを明確にする配慮だと思う。
この人物は、挙げた右手の人差指と中指を伸ばし、左手には十字架の付いた丸いもの(宝珠)を抱えている。
中世の宗教画に見られるキリスト像 "Salvator Mundi"(ラテン語で世界の救世主の意味)だ。
おそらく15、6世紀ごろの図書の木版画から採ったものではないかと思うものの、特定できないままだったが、
Werner Rolevinck 著 「Fasciculus temporum」 (Peter Drach, 1477) であることがわかった。(Google の画像検索機能、凄いな。)
トゥール大学の Les Bibliothèque Virtuelles Humanistes で公開されている同書の
挿絵
と細部までほぼ一致する。
検印紙の二重枠の内側、下辺左部には切れ目があるが、オリジナルの挿絵も同じ箇所が切れているのが判る。
そして、"Daiichi shobo" の書体も、同書から採ったもの(あるいは模したもの)と思われる。
いくつか文献を調べたが、長谷川がこの絵をどこで知ったのか、そしてなぜ検印紙に使用したのかを知ることはできなかった。
朔太郎の「詩の原理」には、小型の検印紙が貼られていて、"萩原" の楕円印が押されている。
「Fasciculus temporum」 のアドレスは下記の通り。[最終閲覧確認日: 2025.09.20]
[BVH in Tours リンク先 https://www.bvh.univ-tours.fr/Consult/consult.asp?numtable=B410186201_I16&numfiche=688&mode=1&ecran=0&index=73]
[2025.09.25 記]
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