戦前版諸橋大漢和辞典の背表紙は意外な材料で作られている
漢字について何か調べる時、机上の漢和辞典(私は角川の新字源を使っている)で分らない場合は大修館の大漢和辞典を検することにしている。
(一般に編者諸橋轍次博士の名を冠して「諸橋大漢和」と称される事が多いので、以下それに倣う。)
そしてそれでほぼ全ての場合は解決してしまい、万が一に解決しなくてもそこで止めてしまう。
もちろん諸橋大漢和に収録されていない漢字(国字が多い)があるのは知っているし、それらの字を収めた辞書が手近に利用できる事もわかっている。
それにもかかわらず、諸橋大漢和を調べて分らなければそれでおしまい、としてしまうのだ。
徹底的でないと言われればその通りだが、専門家以外の者が漢字を調べる場合、諸橋大漢和は一般的には最終兵器的な役割を果たしていると思う。
諸橋大漢和についてはその出版社である大修館の
『大漢和辞典』記念室
に詳しい解説があるのでそちらに譲るとして、およその歴史を記すと
編集と出版の両面に亘る多くの困難の末、昭和18年に第一巻が出版される。
第二巻以降も原版はできていたが戦災により一切を消失してしまい、出版は杜絶した。(この第一巻をここでは戦前版と呼ぶ事にする。)
戦後、たった3部だけ残った全巻の校正刷りを基に編集し直し昭和30年から35年にかけて全13巻が刊行される。
その後、昭和41年に縮写版の刊行が、昭和59年には修訂版の刊行が開始される。
平成2年、語彙索引を加えた修訂第2版の刊行が始まり、平成12年には大漢和辞典補巻が刊行され一応の完成となっている。
(このほかに中国などで印刷された海賊版がある。現在は全巻がスキャナで読み込まれて pdf 化されている物もあるらしい。)
コンピュータ製版ではないために全面的な改訂は難しいとされるが、
それでも検字番号などの一貫性をできるだけ保ちつつ細部を補訂するという難しい作業が各版で行われてきた。
第一巻のみ出版された戦前版は部首が「一」から「入」までの部分だけなので、歴史的資料的価値はともかく漢和辞典としての実用性は低い。
図書館などでも現在は書庫の片隅に置かれている事が多く、一般に利用される事はほとんど無いと思う。
私が学生の頃は縮写版が普通だったと思うが、現在図書館などで参考図書として利用されているのは修訂第2版が多いだろう。
戦前版諸橋大漢和は物資不足の中、諸橋博士と大修館社長鈴木一平氏が軍などに足を運んで承認を懇請の末、ようやく10,000部の出版にこぎつけたと言う。
用紙も上等な物を工面するのに苦労したらしい。特別に漉かれたその紙は確かに戦時中の同時期に出版された本の紙と比べると格段に良質だ。
もちろん現在の紙に比べると遜色があるけれどもこれは仕方ない事だろう。印刷も戦後版より鮮明さに欠け、見劣りがする。
戦後、改めて第一巻から全巻が出版された事で結果的に一層優れた辞典になったのは間違いない。
諸橋博士自身も「私も今になってのことですが、[原版が焼失したのは] 本当によかったと思います。
もしあのときのままでやったんでは紙もわるい、印刷などもとても。」と「学問の思い出」の中で語っている(東方学 第27輯, 1964)。
そして背表紙に使いたかった皮革は統制が厳しく、書籍の使用には絶対に認められなかったため、
「造本の堅牢を思い、あらゆる代替品を考え、数十回試作を試み、検討に検討を加えた結果、玉繭を原料とした背革の代替品を考案しこれを使用した」
と戦後に書かれた鈴木氏の出版後記(索引巻末尾に所収)にはある。
玉繭と言うのは一つの繭の中に二頭のカイコの蛹が一緒に入っている繭の事だ。
普通の繭は基本的には最初から最後まで一匹のカイコが紡いだ一本の絹繊維でできているので
繊維を取り出すのがたやすいが、玉繭は二本の繊維が絡んで節ができるため糸が取りにくく、一般には利用価値が低い屑繭とされる。
(この玉繭から丹念に糸を取って作る織物、たとえば牛首紬などもある。)
そんな玉繭から苦心の末に作り出された革の代替品とはどんな物だろう。戦前版諸橋大漢和の実物を見てみた。
戦前版諸橋大漢和の第一巻は凡例 8 p., 部首検字 10 p., 総画数検字 4 p., 本文 1125 p. からなり、親字 1444 文字を収録する。
高さは約 26.5 cm. (用紙は B5 判)、厚さは 6.5 cm. と机上に置くにはかなり大型な辞書である。
さて問題の革の代替品だが、背と表紙の両角の部分に使われている。現在はつやの無いやや褪せた感じの黒色だ。
背表紙の「辭」の部分を拡大したもの。右側から光を当てて撮影した。
その背表紙の材質が紙の類ではない事はすぐに分るが、一見しただけではその材質が分らない。
手触りはかなり固く、爪を立てて押しても殆んど凹まないし跡も残らない。
表面は細かいさめはだ状に加工されていて、ルーペで見ても布目が無いから織られた物でない事も分る。やや羊皮紙に近い感じで大変丈夫だ。
玉繭が材料ということを知らなければ、ちょっと正体の見当がつかない頭をひねる様な材質だ。
いくつかの図書館を廻って、戦前版を10点ほど調べた。それぞれ状態は異なるが、全体的に製本の破損や背の劣化は少ない。
本物の革は手入れが悪いとすぐに表面が割れたり粉状に変質したりするが、そのような劣化も見られず、表面の剥落や繊維の毛羽立ちも殆んど無い。
これだけ重い本だと表紙の地(立てた時に下になる所)の部分は書架と擦れるので磨耗する事が多いが、目だった摩滅は見られない。
白銀色で押された背表紙の文字も剥落は少ない。保存状態にもよるだろうが、虫食いの跡も無い。非常に耐久性に優れた素材と言えるだろう。
私が見た物のうち何冊かは背と表紙のつなぎ目部分が割れていた。本を開くたびに折り曲げられるため、一般的に本の部分では一番早く傷む箇所だが
他の部分に比べて損傷が大きいと言う事は、この材質は繰り返しの折り曲げには比較的弱いのかもしれない。
割れている断面を高倍率のルーペで詳しく観察すると、光沢のある綿毛のような細い繊維が密に毛羽立って出ている。(下の画像)
繊維の方向はばらばらで織っている物では無いことが確認できる。
厚さは 0.25 mm. 程度だろうか。構造の詳細は確認できないが、針の先でつついてみると複数の層構造になっているようだ。
表面には黒色の塗料層があり、その直下は無色だ。中層も殆んど無色。下層は薄い藍色をしている。
中層には黄褐色の細い植物繊維のようなものがまばらに混じっている。(赤い○印で囲んである箇所に見える。)
意図的に入れられたものか偶然混入したものか分らないが、繊維の中に織り込まれているので後から混入したもので無いことは確かだ。
どの層にも全体を合着させている接着剤の劣化したものらしい無色の結晶状のものが粉末となって付着している。
藍色をした下層の繊維は、繊維自体が染められている様に見える。下地として染められたのか、あるいは防腐剤のような薬品の色かも知れない。
ほつれている繊維の長さ 2 mm. 程度のものを数本、持ち帰って顕微鏡で見てみた。
その繊維は2本の繊維が並んで一対になったものだった。各繊維の表面は非常に滑らかで直径は 10 μm. 程、断面は角の丸い三角形である。
表面は無色の物質で覆われていて、それが薄い鞘状になって2本の繊維を合着させている。この鞘状の物質は水酸化カリウム水溶液中で容易に溶ける。
これは絹繊維だろう。
カイコの吐く絹繊維は、2本の繊維が並んでくっついた形をしている。
カイコが口の近くにある左右一対の絹糸腺から出す繊維が、セリシンと言う物質によって鞘状に覆われて合着し、一本の絹繊維になっているのである。
繭をほぐして絹繊維を引き出してまとめ糸にしたものが生糸だが、生糸にはまだセリシンが残っている。
生糸をアルカリで処理して(精錬と言う)セリシンを取り除いたものが絹糸である。
背表紙の繊維は絹繊維と全く同じ構造をしていて確かにカイコの繭から作られたものであることがわかる。
諸橋大漢和の背表紙の繊維はセリシンが比較的多く残っている。意図的に残されたものだろう。
おそらく玉繭を煮てほぐした後に適当な長さに裁断し、パルプ状にした物を紙を作る要領で漉き、
繊維の隙間に何らかの充填材を入れた後に圧力を掛けて薄く緻密な革状に加工した物だと思う。
セリシンの残し具合や繊維の長さの加減、繊維の間を埋める充填材の工夫が難しかったのではないかと想像する。
何をヒントにしてこの製法を考え出したのかは分らないが、この方法について大修館は特許を取らなかったようだ。
しかし、絹から紙を作る特許が最近になって全く別に出願されている。(出願者 倉田辰彦, 出願番号 2000-40300)
その工程は、絹糸あるいは繭を適当に裁断し、アルカリ処理した繊維を叩解したものに糊をまぜて紙と同じ要領で漉くというものであり
私が推測した諸橋大漢和の背表紙の製法と似ている。
この特許製品は既にある程度実用化されているようだが現物をまだ見る機会が無い。
おそらく戦前版諸橋大漢和の背よりも和紙に近い柔軟な物だと思う。
第一巻のみの出版に終わった戦前版諸橋大漢和は、戦後になって新版が出版された為にその辞典生命は案外短かった。
出版から70年近く経っても案外傷んでいないのは、あるいはそのためかもしれない。
玉繭の背表紙は背と表紙の継ぎ目が若干痛みやすかったものの、戦前版諸橋大漢和を今も立派に守っている。
「造本の堅牢」を願った鈴木氏の思いは見事に叶えられたと言えるだろう。
昭和30年から改めて出版された諸橋大漢和の背には念願だった革が使用され、天金も施された。
修訂版の刊行によって、この戦後版も現在はお役御免になっているものが多いと思うけれど総じて背革の劣化が激しいようだ。
表面が赤さび色の粉状になって剥落し、完全に外れている物もあった。
背に関する限りは戦前版より造本が弱いように感じるのは気のせいだろうか。
戦時中、まさに社運を賭けて出版する諸橋大漢和をできるだけ後世に長く残そうと知恵を絞った大修館の技術者の創意に脱帽だ。
(2011.10.06 記)