小池道子の没年を最初に間違えた事典は

私が人名事典の類を調べるのは大抵、生没年を確認する時だ。日本人なら名前の読みを確認する時にも使う。
Wikipedia に代表されるネット上の情報も手軽で便利だけれどちょっと信用度が低いような気がしないでもない。
実際には正確な情報が大半で書物に比べても遜色ない、という主張もあるのだが、
あまり有名でない人物や特殊なジャンルの人物を調べる時は事典類に頼らざるを得ないのがまだ実状だろうし
しっかり編集された事典はやはり信用できると思っている。
業績や評価については辞書によっては編集者の主観が入る事もあるだろうが生没年や経歴などの事実関係は
少なくとも明治以後の人物ならそうそう間違っている事はないはずだが...

明治期の女性歌人で小池道子という人がいる。
茨城の出身で有栖川宮家に仕え、後に宮中に入って掌侍となり昭憲皇太后に仕えた人である。
「日本女性人名辞典」(日本図書センター, 1993) には生没年は「天保2年(1831)-大正4年(1915)」85歳で没した、とある。
特に違和感も覚えず、生没年だけを紙切れにメモして次に「和歌文学大事典」(明治書院, 1962)を調べてみると
「弘化2年(1845.12)-昭和4年(1929.8.12)」とあるではないか。
あれ、メモを間違えたっけ?それとも同姓同名の別人がいるのか?
あわてて「日本女性人名辞典」を見直したが私の写し間違いではないし同名異人でもない。
おかしいな、と思って近くにある「大正過去帳」を調べてみる。
「大正過去帳」は「明治過去帳」と並んで当時の死亡記事をまとめたもので
実業家や芸人など他の人名事典にはあまり収録されていない人物も幅広く収録されていて重宝だが
「大正過去帳」に小池道子は出てこない。どうやら大正4年、というのが間違いのようだ。
「和歌文学大事典」には8月12日、と死亡日まで明記されているので当時の新聞を調べるのが確実で早そうだ。
調べてみると昭和4年8月13日付けの読売新聞に小池道子の訃報が掲載されていて享年85とある。
まちがいない。小池道子が亡くなったのは昭和4年だ。「日本女性人名辞典」はなぜ間違えているのだろう。
「日本女性人名辞典」は典拠として「女流著作解題」「近世女流書道名家史伝」「大日本女性人名辞書」を挙げているので
それらを調べてみた。出版年順に内容を見てみると...

「近世女流書道名家史伝」(1935 年)
「県士族小池友徳の姉、中島歌子の門にありて和歌に名あり。宮中に入りて掌侍となり、皇后官に奉仕す。
税所篤子亡き後は専ら其の詠歌の事務を掌る。昭和四年八月、年八十五にて歿す。」
生年はかかれていないが没年は間違っていない。

「女流著作解題」(1939 年)
「茨城県士族小池友徳の姉、中島歌子の門にあって和歌をよくした。早く有栖川宮家に仕えて姫宮にかしづき奉り、
後宮中に入りて掌侍となり、皇后宮(昭憲皇太后)に奉仕した。税所敦子の亡き後は、専ら其の詠歌を掌る。...
大正四年八月、歳八十五で歿した。」
これも生年については触れていないが没年は没後10年しか経ってないのにもう間違えている。
巻頭の凡例には収録対象について「作者としては大正年間に歿した者までに限ることとした。」とあって、
小池を収録している事自体が矛盾しているのだが間違った没年に基づいてしまった結果だろう。
典拠としては「才媛伝」と「近世女流書道名家史伝」を挙げているが「才媛伝」(1932)には生没年ともに書かれていない。

「大日本女性人名辞書」では 1942年出版の増補3版の「補遺2」に掲載されている。
「2491-2575、掌侍、歌人。水戸藩小池友徳の姉。中島歌子の門に学び、歌をよくした。
有栖川宮家に仕え、ついで宮中にいり、皇后宮(昭憲皇太后)に奉仕して掌侍となり税所敦子の亡き後は専らその詠歌を掌った。
明治二十三年春の皇后近畿地方行啓の供奉日記「みちのつと」や、歌集「柳の露」がある。大正四年八月八十五歳で歿した。」
冒頭にある生没年の 2491-2575 は皇暦表示なので西暦では 1831-1915 となり、やはり間違っている。
この辞書も典拠として「近世女流書道名家史伝」を挙げているのだが、そうだとすると没年の間違いは不自然だ。
没年は「女流著作解題」に拠ったと考えるほうが妥当だろう。
生年をどの典拠に拠ったのかはわからないが、没年齢から逆算したのではないかと思う。

そして冒頭にも書いた「日本女性人名辞典」(1993 年)。
「天保2年(1831)-大正4年(1915)。明治・大正期の歌人。水戸藩小池友徳の姉。
有栖川宮家に仕え、のち宮中に入って掌侍となり、昭憲皇太后に仕える。
歌は中島歌子の門下で桂園派に属し、御歌所派の一員として活躍。税所敦子死没後は御歌所を所管した。
歌集「柳の露」(明治29年)があり、明治23年(1900)皇后の近畿行啓供奉日記「みちのつと」の著がある。85歳で死没した。」
生年の天保2年というのはおそらく「大日本女性人名辞書」の皇暦を元号に直したものだろう。

これまで調べた範囲では「女流著作解題」以前の出版物で没年を間違えているものは無い。
「女流著作解題」の間違いは大正と昭和を取り違えた事が原因で、その没年齢を基に「大日本女性人名辞書」では生年が算出されたのだろう。
その間違いがつい最近の辞典にまで尾を引いていることになる。
そしてこれに拠ったと思われる間違いがいくつかのデータベースで確認できる。
たとえば「早稲田大学古典籍総合データベース」や、 「思文閣美術人名辞典」などである。(2009年6月末現在)

正確を期するためにできるだけ多くの資料で確認する、という事は単純で当たり前の事だけれどなかなか難しい。

(2009.07.16 記)