京大光線

京都大学、略して「京大」の名前を冠した言葉がいくつかある。「京大事件」がもっとも有名だろう。
「京大事件」といわれる事件はいくつかあるが、1933年に京都帝国大学で起きた滝川事件を指す事が多いはずだ。
「京大式カード」もよく知られている。B6判の情報整理用カードで、梅棹忠夫の「知的生産の技術」で有名になり私もパソコンを持つまでは使っていた。
「京大飴」、「京大珈琲」、「京大招き猫」等のいわゆる京大グッズも最近は結構人気があるようだがちょっとキワモノ臭い感じがする。
だが「京大もの」のキワモノ、極めつけは間違いなく「京大光線」である。名前を聞くだけで胡散臭さ100パーセントである。
京大光線、それは世間が千里眼事件で騒いでいた明治末期、京都帝国大学の学生三浦恒助氏が発見したという
透視能力者から発生し、写真乾板を感光させるという目に見えない特殊光線の事である。

千里眼事件は、映画化もされた鈴木光司の小説「リング」のヒントとなった事件というとわかりやすいかも知れない。
他にも様々な文献があるので簡単に紹介するにとどめるがおよその顛末は以下の通りである。
明治末期、千里眼(透視能力者)が相次いで現れた。熊本の御船千鶴子、丸亀の長尾郁子の二人が代表的人物だ。
透視能力とその実験中に発見された念写という現象の真相を追究しようと多くの実験が行われたが、
その中心となったのが東京帝国大学の福来友吉博士と京都帝国大学の今村新吉博士である。
日本各地に次々と現れる千里眼たち、彼らを実験検証するべくまさに東奔西走する学者、肯定否定両派の論争やら
スキャンダラスな人間関係も含めた連日の新聞報道により社会現象となったが千鶴子、郁子の相次ぐ死により騒動は終息する。
騒動が過熱したのは明治43年9月の千鶴子の公開実験から翌年1月の郁子の実験あたりまでである。

京都帝国大学側では医科大学(現在の京都大学医学部)の精神病学教室教授であった今村博士が中心になって実験が行われた。
今村の実験は単独で行われた事もあるが基本的には福来との共同実験という形を取っていた。
しかしそれと別に文科大学(同文学部)哲学科心理学講座の学生だった三浦恒助が長尾郁子に対して実験を行った。

三浦の名前「恒助」の読みは当時の新聞等では「つねすけ」とするものと「こうすけ」とするものがあるが
G.C. Hirsch が編集した Index biologorum (1928) には、Tsunesuke Miura とあり (p. 481) 、
大正13年に日本微生物学会雑誌18巻に発表された三浦の論文(里見三男、平川廣と共著)「狂犬病毒ニ及ボス色素ノ影響ニ就テ」の
欧文目次にも T. Miura とあるので「つねすけ」が正しいと思われる。
また、京都帝國大學卒業者名簿 (1936) には出身は愛知とあるのだが、丸亀が郷里、とする当時の報道(東京朝日新聞; 明治44年1月18日)もある。

京大では医科と文科の間で一種のなわばり争いがあったようだが、この実験は決して三浦が独断で行ったものではなく、
実験方法などは文科大学長松本文三郎(インド哲学)や心理学講座教授松本亦太郎の指示によったものらしい。
松本亦太郎は明治39年に創設された心理学講座の初代教授で福来友吉と共に東京帝国大学教授元良勇次郎を師とする、いわば兄弟弟子である。
心理学講座の三期生である三浦は明治43年11月19-23日と12月21-26日に二回実験を行い、その結果京大光線を発見したのである。

三浦の実験以前の文科大学での関連した動きを簡単に書いておく。
創設まもない心理学講座は当時最新の実験器具を揃え、ドイツ留学後の松本教授を中心にして日本の心理学最先端の研究を進めていたが、
三浦は心理研究会で「宗教進化の理法」や「メンデリズムに就いて」等を発表している。
9月8日には岡崎の千里眼梅子に対して実験を行っているが、これは全くの偽者であったという。
また、明治43年3月24日には今村博士が心理研究会で御船千鶴子の実験結果を報告している。

三浦は11月に行った一度目の実験結果を二ヶ所に発表している。
文科大学の機関紙である「藝文」(二巻1号、明治44年1月1日発行)に発表した「透視の実験的研究」(12月7日稿)と、
「日本及日本人」(550号、明治44年1月15日発行)に発表した「余が透視の実験及透視の研究に就いて」(12月14日稿)である。
共に第二回の実験以前に書かれたもので透視を肯定的に見ているが、実験内容そのものについては「藝文」の論文が詳しい。
そこで「藝文」に発表された論文から彼の実験がどういうものであったかを見てみることにする。
(引用は基本的に新字体、現代かな使いに直した。)

まず緒言で「(不思議な現象については)懐疑的である」が「若し存在するものならば一度経験して見たい者であると云うのが年来の希望」であり
「(狐憑等の現象を)機会を得る毎に求めて親しく実験して見た」が「一つも以って不思議とするに足るものはなかった。」と述べている。
そこで透視を行う婦人が丸亀にいるとの知らせを受け「透視の事実は確かであるか如何か」を確かめようとしたとある。
東京朝日新聞がいく子の事を報道したのは10月23日だが、それ以前から地元ではかなり評判になっていた様なので
三浦が報道以前にいく子の能力を知っていた可能性はあるが、いつ知ったかは特定できない。
(福来はこの報を受け早速29日に実験物を丸亀に送付し、透視実験を依頼している。)
三浦の実験の詳細は以下のようなものであった。
透視者:長尾いく子。40歳、子供は3人。(当時の新聞等では郁子、幾子とも表記されているが、三浦の表記に従って「いく子」とする。)
山口県の士族出身で父親は子爵毛利元秀の家令であり、いく子は厳格な家庭で育ち和歌に秀でていた。
いく子が自分の透視能力に気付いたのは同年七月末頃、御船千鶴子の記事を見て試してみたら案外当たった、というのが最初だという。
日時:明治43年11月19-23日
(21日は後述の様に実験は行われなかった。また、後に三浦は第一回実験の日程を24日までとも書いているが23日までである。)
場所:長尾氏宅 (香川県丸亀市)
立会人:長尾氏(長尾與吉、丸亀区裁判所監督判事)、岡田辰次郎(丸亀高等女学校長、三浦の旧師という)、菊池俊諦(丸亀中学校教頭)等。
菊池氏は福来らが行った実験も含めて、ほとんどの実験に立ち会っている。
実験物は長尾家で用意された小さな黒漆塗り木製の箱(銭入れ)に入れた。錠はついているけれど施錠せず、机に置いて実験した。
三浦はいく子の印象について、「神経質ではあるけれども温厚率直で上品に且つ殊に情に厚き人」で「暗示感性に強い」と感じている。
実験の準備について三浦は「物理的刺戟物を必要とするか」「(その刺戟を)受容すべき生理的機関を必要とするか」
「透視者の心理的作用意識の状態」「透視者の透視作用以外他の心理的及生理的特質」を念頭においたとしている。

第一回実験(11月19日夜8時)
三浦本人が別室にて紙に文字を書き折りたたんで箱に入れた。(文字を書く場所は長尾氏側から指定されている。)
書いた文字は 阝(こざと扁)、一筆ごとに分解した矢の字、満州文字、折りたたんだ時に重なるように書いた p と q である。
いく子は別室(三浦が字を書いた部屋とは別)で精神統一した後現われ、机の前に座り目を閉じ、透視は箱には手を触れずに行われた。
実験には三浦等が同室、かなり至近距離でいく子と机を介して対面する形で立ち会っているので、この場で実験物を盗み見る事はできないだろう。
ただ、論文中の図では照明はランプであり現在と比べるとかなり暗いと思う。
3分後、「文字をと云う御約束で有りましたがどうも文字であるかないかはっきり十分に出ませぬ。雲が掛った様で訳りませぬ。」との答えで中止される。
三浦は「形だけは形の様に見えた者であろう」、また約束を破ったことで郁子の感情を害したため後の実験にも影響があったようだと考えている。

第二回実験(11月19日夜8時30分)
別室で紙に「秒且」と書き八つ折りにして箱に入れるがこれは書き直しを求められる。
透視者が文字を書いた人に対して疑心を持っていると精神統一ができないとの理由で菊池氏の立会いを依頼される。
これは第一回実験で約束を破って文字以外の物を書いた事により、いく子が三浦のことを難しい人と思ったことを指す。
そこで改めて菊池氏立会いの上別室で「水月」と書くが、この時一度書き直し「水」とのみ書いた書き損じはその場に広げたまま残している。
透視は同じ手順で行われ、6分30秒で「水月」でありますと口答した。
まず「水」を答え、書き損じたことをどのように書き損じたかまで当てている。更に透視をし「水月」の文字を答えたという。

第三回実験(11月19日夜9時30分)
三浦が京都で用意した「宇韋力」と書いた紙を幾重にも包み封筒に入れたものを箱に入れた。
6分で透視し「宇韋力」と自書した。また包んだ紙の様子についても透視できた。
但し、いく子は糊付けなどの封印を非常に嫌うのであらかじめ玄関で封をはがして箱に入れている。

第四回実験(11月20日午後2時)
透視実験ではなく、皮膚の知覚実験を行っている。

第五回実験(11月20日午後2時30分)
これも透視実験ではなく、聴覚実験を行っている。精神を統一した状態では60000ヘルツ以上の音を聞き得たという。
(ヒトの聴覚の高音域の限界は20000ヘルツ程度である。)

第六回実験(11月20日午後3時45分)
立会人は長尾氏、菊池氏の外、丸亀女学校教諭目黒藤吾氏。
京都大学の実験室で用意した、紙に青、赤紫色、淡墨、菫、青黒の染料で「風 對 品 火 角」と書き封印したもの。
これも実験前に玄関で封を解いて箱に入れている。
5分で透視し、「風 對 品 火 角」と自書し、最初の二文字が色文字だと答える。
風は青、對は赤、それ以外は黒色であるかやや紺青色を帯びているようだと答えている。
三浦は菫色が黒く見えるのは、暗い場所では菫色は黒く見える普通の視覚と同じであると考えている。

21日は子供が病気だから休みたいとの連絡を受け、三浦の実験は行われていないが、
実は福来が20日夜丸亀に到着し、21日午前にサイコロの目を当てさせる実験を行っている。(三度試み、全て失敗している。)
また、この時未現像の写真を透視させる実験のために福来自身が用意した写真乾板を菊池氏に託し、後日の実験を依頼している。
福来は12-15日に丸亀で今村と共同でいく子に実験した後、熊本の千鶴子の所へ行って実験、そこで写真乾板を実験に使うことを思いつき、
東京に帰る途中に再度丸亀に立ち寄ったのである。子供の病気にも拘らずいく子が福来の実験に応じたのは、
福来がそれだけ長尾家に信頼されていたという事だろう。ともかく、いく子も福来も非常なハードスケジュールだったことがわかる。

第七回実験(11月22日午後2時半)
透視実験の前に、握力テストを行っているがいく子は暗示にかかってしまい握った手が開かなくなってしまった。
「暗示感性の強い位だから透視も出来るのだ」としている。
暗示にかかったというのは、横瀬琢之という催眠術師によって直前に暗示にかけられていたからである。
横瀬は21日に福来が熊本からの帰路、丸亀に立ち寄った際に連れてきた人物で「高楠博士(仏教学者高楠順次郎の事だろう)と親戚」らしく、
いく子の透視能力が増すように催眠術をかけるためにわざわざやって来てそのまま住み着いてしまう、といういかにも怪しい人物で
後々騒ぎの片棒を担ぐ事になるのだがここではそれについては触れない。

第八回実験(11月20日午後2時27分) [これは22日の誤記だろう。7-10回の実験は時刻にも誤記があるようだ。]
立会人は長尾氏、岡田氏、菊池氏。
天谷博士(天谷千松: 京都帝国大学医科大学生理学講座教授)より委托された三浦も内容を知らない物で、
黄色い紙で切り抜いた「ま」の字を同色の紙に貼り付け、紙で包んだもの。
3分で透視は中止。別室にある別の試験物と混じって見えてしまうので取り替えてほしいと言われる。
三浦は透視力が鋭敏なためであろうと考えている。

第九回実験(11月22日午後3時頃)
三浦が京都で作った、紙に「彳」を水筆に何も付けずに書いたもの。三浦は透視実験中、彼女の前で「行人偏」と念じ続けた。
透視4分40秒でいく子は「文字の上にまた(文字を)書き更にこれを消したもの」と答える。
三浦は玄関に置いている他の実験物に該当するものがあったので、これは白紙であるが玄関にはそんなものが有った旨を教えると
いく子は最初に白色の紙が現れたが、おかしいと思って見直したら文字がでた、
その文字は「山と云う字を書き、その上に巴と云う字を書き、そのあとは十分にわかりませぬ。」と答えている。
三浦は無色の文字跡は透視できないこと、透視はいわゆる読心力ではないこと、
透視者は透視できたものが箱の中のものか別室のものか区別できないこと、透視は近くから遠くへ及ぶことを特徴として考えている。

第十回実験(11月22日午後2時過頃)
第九回実験でいく子が透視した文字を重ねがきしたものを試験することにした。
それは京都で準備した、「世」「山」「由」「戸」を重ねて書いた物である。
しばらく透視した後、色々出てきて混乱するので他のものにしてほしいが先ほど見えた物と同じであると答える。
(三浦は「世」の最後の画を止めずに大きく撥ねており「巴」の最後の画のように見える。)
三浦は重ねて書かれた文字の透視による判読は一般人の視覚による判読能力そのままだと考えている。

第十一回実験(11月22日午後3時半)
京都大学で作成した、写真の種版の上に鉛板製の十字を貼り付け紙で包んだもの。
4分で「硝子が一枚、その裏は青磁色であって銀光りがあり。この上に鉛又は錫の十の字が乗って居ります。」と答える。
種版の色は違っているがその他は的中している。
また、この時、第八回実験の試料である 「ま」の字と青色の「タ」の字が見えたという。
三浦は「タ」の字については、何が見えたのかわからないが「ま」の字が見えたとの答えから
遠くのものが連絡して現れてもそれが自分の目の前に有るものかどうか十分に区別がつかないらしいと考える。
この種版は12月2日現像した所、十字が白く抜けて現れ、また白い点々が現れたという。
透視者の頭乃至身体から何等か不可見的の放射線を出すものかとの仮説も考えている。

三浦が写真乾板を使った理由は書かれていないのだが、光線の発生(乾板の感光)の可能性を考えていた様である。
そもそも、千里眼実験に写真乾板を最初に使用したのは今村だが、
それは開封したかどうかを後で確認する手段として使われたようである。
今村が一番最初に乾板を使用した実験がいつなのか私は特定できていないが、今村の実験結果は既に報道されていたし
透視時に乾板が感光するらしいという事を三浦は知っていたはずである。
もちろん福来も知っており、福来自身で試してみようとしたのが21日に菊池氏に託した乾板である。
このあたりの事情が後の騒動の原因の一つにもなっている。

さて、この透視実験の際、三浦は持参していたプリズムをいく子と試験物の間に差し込む事を提案している。
いく子が「透視する時はその箱及試験物は必ず一尺か一尺五寸は上に上って見える」と言うので
それがプリズムの挿入によって変化するかどうかを調べようとしたのである。
いく子は「面白いすぐやって見ましょう」と申し出に応じたが直前になって長尾氏により拒絶される。
理学的試験をすると透視能力を損なう恐れがあるので福来博士から止められているというのが長尾氏の説明であり三浦は不審に感じている。
福来は後に念写等の現象は物理学を超えた心霊現象であると唱えるようになるが既にその兆しが現れている。
三浦の実験はこれで終わっているが、続けて聴力検査を第十二回実験(11月22日午後4時)として行っている。

第十三回実験(11月23日午後7時半)
X線についての実験を行っている。精神統一をした状態で 「唯白い煙の様なものがぼーっとして見えます」と答える。

第十四回実験(11月23日午後7時半)
立会人: 長尾氏、岡田氏、菊池氏ほか計7人。
実験物は天谷博士よりの委託物で医科大学で作られた、三浦自身も内容の知らないもので次の三つ。
菫色の紙で切り抜いた「入」の字を黒紙ではさんだ物。
紙で切り抜いた紫色の「イ」と朱色の「山」を一枚の紙に並べて貼った物。
紙で上を赤、下を緑でつぎ合わせ名刺で挟んだ物。どれも白紙で幾重にも包んでいる。これを一度に箱にいれて実験した。
それぞれの字だけではなく、箱の中の位置関係も透視するように要求している。
5分30秒で透視。ただし位置の順序は区別することは出来ないといわれる。答えは
白い紙に「ア山」と現れる、アは赤、山は朱で貼ったもので、書いたものではない。
白い紙に黒い紙を重ねて張りその上に紫色の「入」という字を切り抜いたものを貼り付けている。
上が赤紙、下が青紙で赤紙の右端が丸まっている、というものであった。
三浦は大体あたっていると判断している。実験はこれで終了である。

学長に報告した所、なお残りの実験も行うようにと言われたが長尾氏側の諸事情などで実験できず、予備的な実験のみに終ったと述べている。
透視する時の態度条件と主観的心理状態について、いく子が説明するところによると
精神を集中して(別室で口を漱いで天照皇太神宮を拝し心を落ち付けるのが常である)瞼は閉じているけれども目で見ようとして努力すると
忽然として箱中の物体が眼前に現れ出る、更に心を込めれば中の文字が現れ出る、
さらにその時真赤な火の塊が現れ、後上方から眼に向かって貫け出る様な感じがするのだという。
三浦はこれは大いに注目すべき事ではないかと考えている。
また、実験物以外の周囲の物も同時に透視できる事も見逃すことはできないとしている。
そして、「透視は事実であると云う事を茲に断言して憚らない」と述べ、
深く研究すれば説明されうる現象ではないか、各専門家の研究を進める必要があるとしている。

三浦は様々な方法で書いた文字を用意したり、実験中に文字を念じたり、プリズムを挿入しようとしたりして
透視という現象をさまざまな角度から検証しようとしていたことがわかる。ただし厳密さを欠くことは否めない。
予備的な実験に終わったと述べながら、透視を事実だと認めてしまったのは明らかに勇み足である。

この論文の執筆後、三浦は二度目の実験を行っている。既に透視という現象を事実と判断した三浦は
上述第十一回実験の結果から透視のメカニズムとして一種の放射線の発生を考え、二度目の実験では感光実験を重点的に行っているが
この実験の結果は論文としては発表されていないようである。
二度目の実験直後に三浦は既に一連の実験結果に対して疑問を持ち始めており、公表する時間的余裕はなかったと思われる。
そこで当時の新聞記事(東京朝日新聞)を元に彼の実験と其の周辺を追ってみる。
新聞記事の引用は原則として旧字体、旧かな使いのまま、若干の誤植もそのままにした。
また当時の新聞記事は句読点がないベタ書きだが、敢えてそのままにして原文の3行分を1行にした。
次の漢字は難読だと思うのであらかじめよみを書いておく。
粍:ミリメートル. -- 仙米突:センチメートル. -- 葉鐵:ブリキ

この二回の実験の間に別に光線の通信試験を行っているというがこれについての詳細は今のところ分からない。
また、三浦は21日から実験を始めたはずだが21日の実験については報じられていない。
22日の実験は以下のように報じられている。

透覺と光線の關係。注目すべき新實驗。物理學上の大問題
京都大學文科にては過日同大學哲學科三年生三浦恒助氏を丸龜市に派遣し千里眼長尾いく子の能力を實驗せしが其成績實
に驚くべきものあるより今回同大學にては愈千里眼に對する根本的解決を與へんと松本文科大學長及び心理專門の松本
(亦)博士中心となり醫科理工科兩大學の諸博士よりも各意見を徴し心理生理物理の各方面より參酌したる實驗物を作
製し三浦氏をして再び實驗せしめたるが三浦氏は二十二日之を以て實驗し實に驚く可き新事實を得たり
實驗物 今回の實驗物作製に就ては世に所謂千里眼とて透視なるものが果して有り得べきものやるや否やは前
回の實驗に依りて有り得べきものと諸博士も認めたれば此透視が如何なる作用に依りて現るゝものなるやを先ず第一着
に研究せざるべからず今回の實驗物は是れが解決の爲作製したるものにて各密度を異にし厚さを同うする各種の金屬を
寫眞乾板の上に置き之を黒色の紙にて嚴封したる儘ボール製寫眞箱に入れたるものなり氏は此實驗物をいく子より三尺程
隔たりたる机の上に置き尚間接にいく子の能力を比較的實驗せんが爲め氏のポケット及び實驗箱より五間を隔つる別室、
七間を隔つる玄關、約十丁を隔つる氏が宿泊する岡田丸龜高等女學校長邸等に同實驗物を置きたり斯くて氏は透覺着手に
際し之をいく子に告げたるに一時にいく子の腦中に現れ頗る混合錯雜せしより已むなく透覺三分にして一先ず之を中止す
るに至れり
乾板感光 然るに茲に驚くべき現象はポケット内に入れありし乾板に著るしき影響を與へたることなり透覺
物はイルホ、ピーオーピーの乾板及びプロマイド紙を入れ其上に二粍半の鉛の十字及同エル字アルミニユームのピー字
を藥品の附着しある反對の硝子に据置たるに氏は誤って其箱の鉛の方を内にしてポケットに入れたるに心附き透覺中直に
鉛の方をいく子の所謂放射線に向ふように置き直したるに夫れが爲め放射線に向ひし鉛は影響を受くること一分餘氏は直に
記者に同行を求め試みに同市の靑山寫眞館の暗室内に於て現像したるに一般に眞黒色に感じ居れるに拘らず鉛の置かれた
る部分のみは眞白に感光し居たり尚同實驗に使用したる透覺物は悉く現像に附し其結果を發表すべき筈なるが之に依つ
て前回實驗の際乾板感光の事實は一層確實となりぬ
腦の放射線 氏の談に據れば二粍の鉛はエッキス光線も之を透さず又透し得るものはラジユームのガンマ
レーのみにして是とても長時間を要せざれば決して感ずる能はず其事實より見れば透視の際いく子の人體恐らくは頭腦よ
り放射線を發するものと認むる外なくこは學術上最も重大の事實なり頭腦より特殊の放射線を發すると云ふに就ては最近
佛蘭西の學者間にも研究せられ是には隨分議論もあることとていく子の透覺能力は此際最も參考に價すべき好材料と云ふべ
く或はいく子によりて此大問題を解決するに至るやも測られずと云へり氏は是が爲め大學に向って早速教授一名の派遣を
請求せり(高松特電)」(12月23日報)

イルホ、とはイルフォード社の事だろう。現在まで続く、イギリスの老舗乾板メーカーである。
ピーオーピー(P.O.P.)は Printing-out paper, 焼出し印画紙のことである。
24日の同新聞は、今村博士が大阪の千里眼塩崎孝作に対して行った実験でも乾板が感光したことを報じている。

透視實驗の確定。科學上の新發見。京大光線と命名
京都文科大學より派遣されたる同大學心理學專攻の三浦恒助氏が丸龜市の千里眼長尾いく子の透視研究に就きいく子の頭
腦より一種の放射線を發するを發見したる事は既電の如くなるが二十二日午後更に實見の結果により最早
放射線の發生 は動かすべからざる事實となれり當日使用の實驗物は最も鋭敏なるブロマイド紙及び半粍
の鉛アルミニユームをいく子より約二尺を距つる机上に置けり透視七分にして直に現像したるに何れも著るしき感光を呈
し鉛がいく子に對し前方及側面に向って其厚さ丈の判然たる陰影を現出したり之に依りて見るに之は明かに光線に感じた
るの事實を示すのみならずその光線の依って來る方向をも示すものにして其方向はいく子の頭腦より直線の方向なる事を發
見したり此實驗の際約七間を距つるいく子の直前に對して約六十度の角度にある別室の箪笥の上に一個の寫眞乾板を置き
しに夫も明かに感光し剰さへ前同様光線放射の方向を示して鉛の上部に当りて
著大なる陰影 を生じたり而して鉛の觸れ居らざる面の感光は甚だしく真黒となり居たり以上の如く約七間の
距離を距てて然も斯かる短時間に斯かる程度に感光する放射線の感光力の偉大なるは實に驚嘆するの外なしと又廿三日は
午前九時半より實驗せるが、當日の實驗物は同大學某助教授の掌を撮影したる寫眞の未だ現像せざるものを透視せしめた
るに透視後いく子は「何うも黒くなって判然わかりませぬ何か丸い様なものがあればあるかとも見えますが分かりませぬ」と
答えたり直に之を現像したるに果せる哉乾板面は眞黒に感光し居りて何等の模様なくいく子
答事實に的中 せるを發見したり其放射線に對し鉛と乾板を用いての研究は三浦氏が前回十一月下旬來縣
の際にも行はれしものにて其時既に之と同一の現象を呈したるが今回は更に嚴密に實驗確定し得たりといふ氏の談に從來
學問上の事實に徴するに新放射線の發見は多く寫眞感光及びフォスコレッテンス(螢光)の二つの方法に依りて發見せられ
居るに依り此際も尚此二點に就て充分確むる必要ありまたデレクトロメートル及デレクトロスコープを用ひて此放射線が
ラシオクヒービーを有するや否やを實驗するの必要ありと氏は直に目下兩機械の送附方を京都大學に請求したり其他物理
學の示す普通の手續に依り此放射線の性質を研究せざるべからず而して放射線の存在は今や
不可動の事實 となりたるも果して之が爲めに透視し得るものなるや即ち之が透視作用其物と如何なる關係
ありや未だ俄に判定すべからず是等の點も專ら實驗研究中なり氏が從来の實驗の結果に依ればいく子の放射線を物理學電
氣學生理學等より見るも從来に類例なき新放射線と認むるの外なく假りに之を京大光線と名づくべしと尚佛蘭西のシャン
パルテーの如きは人體より生理的に發する光線に就て研究せしが頭腦より發するものと心臓より發するものとは其性質著
るしく異れるを指摘し居れり同氏の著書中の頭腦に光を發する部分と今回いく子の放射線とは甚だ相似たる所あるが如し
といふ (高松特電)」(12月25日報)

上記23日午前の実験で、掌を撮影した未現像乾板を透視させたら「何うも黒くなって判然わかりませぬ」と答え、
現像したところ黒く感光しており結果は的中である、とする部分は後に三浦が書いた「藝文」(二巻4号)の記事や
藤、藤原共著「千里眼実験録」によれば少し様子が違っている。
それによると21日より3回透視を試みたが透視できず、現像してみると掌が薄く現れ、包み紙の影が写っており、
(後から考えれば)明らかに開封した結果と考えられるものだったという。
ラシオクヒービー、というのは該当する単語を思いつかない。Radioactivity = 放射能のことだろうか。
シャンパルテー、というのは シャルパンティエ (Augustin Charpentier, 1852-1916)の誤記である。
ナンシー大学の生理学者で「同じ重さの物なら小さい方が重く感じる」という「シャルパンティエの錯覚」に名前を残すが
当時、人体から一種の光線が出るという研究を発表しており、
1904年には "Comptes rendus hebdomadaires des seances de l'Academie des sciences." に10編以上の報告をしている。

26日には今村博士が大阪の千里眼塩崎少年の実験で「三浦氏の所謂京大光線説に尚幾多の疑問を附し得る驚くべき新事實を發見したり」
と報じる一方で、23日午後に行われた三浦の実験も報じている。

福來博士到着す 長尾いく子の透視實驗
京都文科大學より派遣中の三浦恒助氏は廿三日午後も引續き長尾いく子に對し厚さ二粍ある鉛、亞鉛、銅、鐵、アルミニユー
ム各金屬板の裏へ五箇の文字を配せる白紙を糊にて貼付し實驗せしめたるに悉く適中し尚貴金屬板下に寫眞乾板を置
き實驗の後現像したるに乾板中金屬の形のみ黒く焦げ居るを明かにし感光を呈せるを認めたれば三浦氏は之にて實驗を中
止したり福來博士は廿五日到着一ヶ月滞在の豫定にて實驗を爲すべしと(高松特電)」(12月26日報)

三浦の実験を報じているにも拘らず、見出しは福来の名を出している。
透視研究の第一人者の到着という事で此の問題に決着がつくのでは、との期待があったのかもしれない。
「藝文」(二巻4号)によると三浦はこの日、別の実験も行っている。それは
「郁子の方から余の思って居る事なら何でも当てると云い出したから純粋の思想読解の試験として一心に「瓢箪」を念じて
居て当てさせたが答えは「机」とあって全く当たらなかった」という物であった。
また、郁子に知られないようにしたいくつかの乾板、あるいは始終監視していた乾板は感光していなかったという。

透視界の新實驗 研究いよいよ進む 岡山にも千里眼
京大光線の發見と共に透視研究の歩はいよいよ進められ、近く學界の一大問題の解決せられんとしつつあるは眞に喜ぶべ
し而かも一方にはまた新透視者の續々現れて研究の資材を供するあり
京大光線と二博士
京都文科大學の三浦恒助氏の研究中なる京大光線即ち曩に長尾いく子の頭腦より發せる放射線の發見に就き大學にては同
氏の効績を認め飽く迄實行せしむべく二十五日來縣せる福來博士二十七日來縣すべき今村博士と相談し他の方法に依り放
射線を研究すべし尚三浦氏はいく子の頭腦より發する光線即ち放射線の存在を確實に認めたる次第にて同氏研究の顛末
は文科大學の命に依り一月一日發行の雜誌「藝文」に發表さるべし因に長尾判事は學術の爲めの實驗には喜んで之に應ずる
も以前實驗したる事を幾度も繰返し根本の解決に努めず實驗はかりして居ては何時迄經ても不可解なり今後斯の如き事を
幾度も繰返さるる事は御免を被るべしと語り居れり(高松特電)」
エヌ光線と相違
三浦恒助氏は千里眼夫人長尾いく子に就き連日試驗を爲しつつあり二十五日午後零時半よりいく子の放射線
に關し異りたる方面より實驗を爲したるが其際三浦氏は別に寫眞乾板を風呂敷に包みて所持し居りたるにいく子の目が風
呂敷包に觸るるや否や其瞬間に感光せることを發見しいく子の希望により之を現像したり此不思議なる放射線の性質を確む
る爲め三浦氏は二十六日午前更に試驗を爲し直徑八仙米突無色透明の硝子壜に葉鐵二重蓋を施し壜の底及内面は脱脂棉を
以て之を掩ひ中に蒸餾水を充たし更に其中へ直徑七仙米突長さ十五仙米突無色透明の硝子壜に前同様蒸餾水及脱脂棉を入
れ其中央に「水晶」の二字を記せる薄き板切を縦に納めたるものを入れ壜の内外共に封を施し肉眼を以て中央の文字を見る
能はざるやうに爲し外部は黒の西洋紙にて四重に卷たるものを與へ透視せしめたるに約二分間にして的確に水晶の二字を
透視的中したり此實驗装置は佛國の大家ブロンドロー氏が主張せる「エヌ」光線といく子の放射線と同一のものにあらずや
との疑ひの下に行ひたるも「エヌ」光線は不純の鉛と純粹の水とを透過せずと云ふに依りいく子の放射線は全く別種のもの
といふを憚らず尚三浦氏の語る處に據れば「エヌ」光線が最も良く透過するは銀、水銀等にて水は全く透過せざるも少しく
鹽分を混入する時は鋭敏に透過するを以て試驗用の蒸餾水は毫も鹽分の混入せざる樣注意したりと、三浦氏は更に此點を
明らかにせんが爲進んで純水銀等に就て實驗を爲すと云ふ(丸龜特電)」(12月27日報)

ブロンドー氏が発見したエヌ光線というのは、1903年に René Blondlot (ブロンドロと表記するほうが近いと思う)が発見したと主張した
一種の放射線のことである。ブロンドロはナンシー大学の教授であり、エヌはナンシーの頭文字である。
もちろん現在では否定されているのだが、追試験で確認できたとする研究者も複数現れて話題になっていた。
ブロンドロやシャルパンティエの研究は荒唐無稽な感じもするが、当時は1895年にレントゲンがエックス線を発見、
1898年にはキュリー夫妻がラジウムを発見と放射線研究が緒についたばかりであり、なお未知の放射線もあるのではと考えられていた。

嚴密なる再實驗 長尾夫人の透視力 寫眞乾板面の感光
長尾いく子の新放射線の事實は既電の如く最早寸毫疑ひの餘地なきまでに至りたるも三浦恒助氏は尚學者の疑ひを
解かんが爲め最も嚴密なる手續に據り行へる最後の寫眞乾板感光實驗の結果を報道すべし
暗室の實驗 從來の實驗に使用したる實驗物は何れも京都大學の暗室にて最も嚴密なる注意を用い製作した
るものにて携帶の途中にも特に注意したる次第なり製作の時より僅に三日を経過したるに過ぎざるも尚携帶途中にて光りを
感じたるにあらずやと疑ふ者あり當地の青山寫眞師の如きも其一人なるより其現像を同寫眞師に一任したるが同寫眞師も
自ら現像の結果始めて感光の事實に驚嘆したる程なり而して二十六日午後八時より特に夜間を選び燈火其他の光を避け全
く暗室に爲して實驗を行へるが此實驗に使用したる物體は全部五個にして其第一號は二、五ミリの鉛にて之はいく子の直
前稍右方いく子の頭より一尺ほど隔たりたる所に頭よりも少し高く天井より實驗物を垂れ乾板は縦に置き乾板面はいく子
の前直面に對し約六十度の角を爲せり
乾板の感光 之を現像したるに乾板は極めて黒く感光して鉛の右側及び上端に向ひいく子の頭腦に對し實驗
物の位置の直線の方向に鉛の厚み丈け著るしき陰影を生じたり第二號は鉛、鐵、亞鉛、銅、アルミニユームを各種の形に
て寫眞乾板に付けたるものを後部の方稍右頭より三尺の距離を隔てて頭より一尺程高く天井より垂れしめ、乾板面はいく
子の顔面に對し約三十度の角度を爲して置けり、然るに三浦氏は誤りて裏向きになし乾板の方がいく子に近くなりし爲め乾
板は極めて黒く感光したれば金屬の白色の模様は生せざりき然るに最も驚くべきは却て金屬の處だけが一層黒く感光した
る事なり
黒色と白色 他の實驗より推察するに此の現像が實驗より十六時間を經たる爲め一旦鉛に吸収せられたる放
射線の第二次放射線を放射し乾板に影響を與へたる事明白なり前回の實驗に於て陰形を生じたる時の鉛及び約七間半を隔
てて感光し尚使用方に向って陰影を生じたる實驗物の鉛二個を實驗したる後直に放射線と直接受けたる面と新らしき寫眞
乾板に向けて上せ包みて暗室に放置し置く事六日の後現像したるに今回は反對に鉛に接したる部分のみ黒色に感光し他の
部分のみは白色となりて感光せず此鉛は既に大學にて他の放射線の影響に依り第二次放射線の發生なき事は十分實驗せる
處なり
手拭に包む 依て今回は誤って裏向けに置きしに黒くなりし金屬の處のみ一層黒くなりし結果と一致したり
第三號は五厘銅貨を用ひて乾板の上に置き之を錫箔にて二重に包み尚其上を黒紙にて包み之をボール箱に入れいく子の
右側の方の机の上に置きしに裏向となり金屬の處だけ一層黒く感じたる事前の如し、第四號はブロマイド紙の上に五十錢
銀貨と一錢銅貨をまた硝子板の上には二、五ミリの鉛及びアルミニユームを置き之をいく子の前面稍入口の方の机の上に置
乾板を水平となる樣に置けり此度はブロントロオのエヌ光線に關係あるかを見んが爲めに濡れ手拭を四ツに折りて十
分に包み置けり然るに此方は感光せざりき、ブロントロオの研究に依ればエヌ光線は純粹の水を透らずと云へば今回の試
驗に於て純粹の水にて包みたる乾板に感光せざるは之に何か關係あるべきか
習慣的能力 又廿六日午前の試驗に於て蒸溜水を入れたる物の文字を透視し得たるもこは装置後數日を經て
内蓋より鉛を生じ居たり、さればこれは純粹の水とは云ふべからずブロントロオは少しく鹽類を加ふればエヌ光線は容易
に通過すべしと云へり之れば爲其試驗は尚再び行ふの必要ありてエヌ光線に非ずと云ふ證據にはならず以て其新放射線
が透視作用の直接原因なるや否やは斷言を與ふべからずと今一つはいく子の前方机の左側に置きたる乾板が最も十分に感
光したりといふ、之を數回實驗したる處に依れば習慣的心理的に頭腦より發射する事實と習慣的物理的に乾板に感光した
る事實とは常に一定の關係あるが如くにて今回も三回光を感じたりといふ
確定の事實 これまでの實驗及び更に今回の嚴密なる實驗に依っていく子の頭腦より新放射線即ち京大光線
を放射する事は最早動かすべからざる事實となれり尚今回の發見者三浦氏は自分は物理學には一向暗く只透視のの心理の
研究の一助として寫眞感光試驗を爲し見たるのみにて此放射線の性質の何たるかは到底自分の研究し得る處に非ず、され
ば此方面に關しては專門の學者に依って研究せられ其性質を明白にするの必要ありて之れが明かとなるに至れば隨って透
視作用の心理的方面も自から明白となるべしと語れり (丸龜特電)」(12月28日報)

「藝文」(二巻4号)によると26日夜には上記実験の他に
「フェノルフタレインの溶液で彼の郁子が透視したという難破船「七寳丸」の三字を紙に書きつけて肉眼では無色であるが
もし強い塩基の溶液を上から注げば忽ち真赤な文字が現れ出る様にしたものを試験に供したが不能であった」
「七寳丸の乗員の一人でこの者のみ生存していると郁子が透視した彼の名「新太郎」の三字を同紙に列べて明礬で書き附け
これを透視させたが此の文字はよく見れば肉眼でも朧ろに見ゆる程の者なるにも拘らず、是亦不能であった」
「紙の真中へ「丸龜市」の三文字を各種の色文字で書き、その下に「長」の字を筆に何にも付けずに書いて試験したが
色の三文字だけはあたったけれども「長」の字は一向浮かばなかった。」等の実験も行っている。
尚、福来は26日午前から実験を開始している。

これで三浦の実験は終わりだが、彼は実験をさらに続けるつもりであった。しかし実験の交渉に関して長尾氏の感情を
害したため中止をやむなくされたという。但し、29日夜に他の実験に同席している。
「藝文」(二巻4号)によれば乾板を懐にして持参し他の人の透視実験中に傍に置いてみたが透視もされず、感光もしていなかった。
その後も三浦は丸亀に滞在したが、元東京帝国大学総長の物理学者山川健次郎博士等が1月に行った実験にも立ち会えなかった。

さて三浦が発表した「京大光線」であるが、各方面でかなり物議を醸したようである。
透視能力者が写真乾板を感光させるという現象は福来も今村らも既に実験で確認していたが、その解釈については異なっていた。
福来は、それが精神的なものであると考えさらに念写という現象を発見する事になるが明瞭な解釈を与えられないでいた。
対して三浦は乾板が感光する以上は物理的な現象であり一種の光線が発せられていると考え、その答えのヒントを N光線に求めた。
実験結果からN光線とは違うものであると判断し、京大光線と名づけたのである。
そして京大光線で透視のメカニズムを説明できる、または説明しようと考えた様であり、この点も福来の見解とは異なっていた。
(透視の際に発生する放射線に対する三浦の考えは「日本及日本人」に発表した論文にやや詳しく述べられている。
未知の放射線という物理学上の問題にもかかわらず、心理学徒であった三浦が追及しようとした事に限界があったのではとも思うが
そういう私はどちらにも疎いのでどの程度まで的を射た論理展開なのかはわからない。)
また、それぞれがほぼ同時期に別々の実験で乾板の感光を確認しており、最初に発見したのは誰なのかも争いの種になった。

ここで主な実験に関する日付を確認してみる。
11月14日. 今村が乾板に文字を書いた物の透視実験を行う。(今村は他にも乾板を使う実験を既に行っており、感光を確認している。)
11月18日. 福来が写真乾板を用意する。
11月21日. 福来が写真乾板を菊池氏に託す。
11月22日. 三浦が写真乾板を透視させる。(透視は成功)
12月02日. 三浦が写真乾板が感光しているのに気付く。
12月04日. 福来の乾板をいく子が透視。(透視は成功)
12月06日. 4日の透視結果の報告を福来が受け取る。
12月07日. 福来が「哉天兆」の文字を写した乾板を用意し菊池に送付。
12月11日. 「哉天兆」をいく子が透視。(透視は成功)
12月14日. 福来が透視結果の報告を受けとる。
12月15日. 福来が上記2枚の乾板を現像、感光している事に気付く。
12月16日. 福来が更に別の乾板を用意し菊池に送付、念写実験を依頼。
12月21日. 三浦が実験を開始。
12月23日. 三浦の乾板感光実験を新聞が報じる。
12月25日. 新聞で京大光線が報じられる。福来が丸亀に到着。上記乾板が指示通りに実験されなかった事を知らされる。
12月26日. 福来が一連の念写実験を開始、念写を確認する。

福来が16日に用意し実験を依頼した乾板は「一心」の文字を乾板に念じこむ実験のための物で実験の詳細な手順も知らせていた。
ところがいく子が一度試みた後、調子のいい時に再度試すから、という理由で乾板は長尾家の座敷の棚に隠しておいたままになっていた。
そして三浦の実験のためにいく子が精神統一した所、隠された乾板に気付きそれに念を注いでしまったという。それを現像したら感光していた。
つまりは三浦の実験によって、いわば邪魔をされたような結果になってしまったのである。
また、自分たちが既に気付いていた感光現象を三浦が自分で発見したように言い、しかも京大光線と名づけて発表してしまった。
福来が気に食わないのはある意味当然ではある。
逆にこれ以後いく子は福来らの実験には協力するものの三浦の実験は拒絶され中止されたままになる。三浦も気に食わないだろう。
ただ、三浦も正式に京大光線と命名しようとしたわけではなく、新聞記者との座談で京大光線とでも名ければいいと言ったのが
大げさに報道されたというのが真相のようである。暗躍といえば言い過ぎだが新聞記者の動きが一連の騒動の原因の一つには間違いない。

山川博士らの行った1月の実験は乾板の紛失、妨害疑惑等が持ち上がり中断、それ以降新聞記事は益々スキャンダラスな様相を呈してくる。
12月26日以降の様子を三浦氏関連の記事から拾ってみる。

1月6日には松本博士の談話を報じている。
松本博士の意見 暗室の設備の完全を疑ふ プラトーの知覺説と比較
千里眼の實驗は愈出でて愈奇、右に就き京都の松本文學博士を訪ひ千里眼に就て其意見を叩きしに、博士曰く千里
眼ですか、御船千鶴子が世に現れて以來各地に千里眼が出來たが丸龜の長尾いく子大阪の鹽崎孝作此二人は卓越して居
る、いく子の方は京都文科大學の三浦君が實驗して居るが同氏は千里眼に就て非常に趣味を持って居る人で態々研究の爲
め理工科大學の人とも相談して諸種の材料を携へて丸龜に赴いた、實驗の結果はまだ判明して居らぬ、京大光線ですかア
レはまだ京大光線と命名した譯でも何でもない唯三浦君が座談に先づ京大光線とでも名ければ宜いと云ふたのが端なく
も傳へられたのだと同君の書面にも認めてあった、兎に角寫眞感光は不思議の現象であるが私は實驗する暗室が完全の
ものであるか否かを疑ふ、是非之は光線が外部より毫も漏れ入らない室で實驗して欲しく思ふ、普通の日本の家屋といへ
ば暗室といっても不完全である、若し果して寫眞感光が事實であるとすれば其光は頭から出るのであるか亦目から出るの
であるか之を研究するも亦必要である、プラトーの知覺の説明の如き千里眼と對照すると中々興味あるものである、要す
るに今日の塲合まだ纏まった意見とてはなく醫科、理工科其他の人々とも談合して愈研究した後でないと發表すること
が出來ぬ云々(大阪電話)」(1月6日報)

松本博士とは松本文三郎の事だろう。プラトーの知覚説がどんなものか私は知らないが、全体的に中立よりはやや否定的な意見だろう。
現時点ではまだわからない、より厳密な実験をすべきだ、というのは当時透視実験に関わった学者に多く見られる意見である。
福来も2月22日の会談で「念写は六分くらい出来る方で四分疑う、四分六です。」と言っている。
ただ「其光は頭から出るのであるか亦目から出るのであるか之を研究するも亦必要」というのはどうだろう。
目は光の受容器官であり、発生器官にはなり得ないように思うのだが。

學界の大耻辱 いく子實驗中止の怪事は學者の陋劣なる根性より
... [前半省略] 京大の三浦恒
助氏と岡田丸龜高等女學校長とは常に共同的に研究をして居られた所福来博士の實驗の際(天上)の二字が現像さるるや三
浦君は同一文字の現像を希望して其交渉中長尾氏の感情を害したことがあったとかで斷然謝絶され三浦氏の實驗は其以前
總て中止されたことがあるのでそれ以來三浦君一派の人には長尾家の實驗に一回も立會ったことはない今回の問題が起る
や三浦君は從來の自分の實驗は長尾夫人に欺かれて居たものであれば全部を抛つと公言し亂暴にも幾子夫人を罵しって居
ると云ふことで詰り自分が先ず捨て人にも棄てさせると云うのでせう... [以降省略]」(1月12日報)

三浦は実験に参加できず、すでに過去の一連の実験に関しても疑問を持っている。
一月の実験の妨害騒ぎの裏には三浦や例の催眠術師横瀬らがいるなどとも噂されるが本当の所はよくわからない。
また、一月の実験に参加した藤、藤原両氏は「千里眼實験録」を2月15日に出版しトリック説を主張する。
そんな最中、御船千鶴子が服毒自殺をする(1月19日)。長尾郁子もまたインフルエンザから肺炎を起こして死亡(2月26日)する。
更なる実験が出来なくなったまま念写の真偽も、妨害事件などもうやむやのまま騒動は終息してしまう。
福来は他の千里眼と共に研究を続けいくつかの著書も発表するが、もはや協力する研究者は現れず学界に認められることも無かった。
やがて東京帝国大学を休職、そして退職(実質的には追放であった)する事になる。

その後、三浦は「藝文」二巻4号(明治44年4月発行)に「余が実験したる所謂千里眼」を発表している。
この時(44年3月10日稿)すでに千里眼騒動は過去のものになりつつあった様で、遺憾な事としながら、
「研究に預かった一人として此際責任態度を明らかにして置く必要がある故」この時点での考えを述べておくとしている。
三浦は、長尾いく子の他に 三河岡崎の千里眼梅子、京都の千里眼栗本淑子、大阪少年千里眼塩崎孝作について実験しているが
これらは全くの偽者であり、郁子についてのみ述べるとした上で次の様に書いている。
透視実験については「手続に於て根本的の欠陥あり... 甚怪む可きものがあって」前言を取り消すとし、その理由として
長尾氏からの要望として実験物には封印しないように言われた事、また実験物を一時的に玄関に置く様に要求された事、
郁子は精神統一のためと称して実験前に一度別室に離れる事、透視の際玄関に置いてある物を透視した事、
透視できるものは肉眼で見えるものと変わりない事、11月の実験の際、封筒の封がいつの間にか開いていた事があった等、
疑問点をいくつか挙げ、透視がごまかしであると積極的に証拠立てることはできないが、
「透視者の助手が番人なき玄関の試験物を窃かに開いて見て、これを透視者に知らせる者とする時は、凡てが最も能く説明せられる」とする。
(透視実験の際、実験物の字を書く机の近くには隣室から覗き見できる節穴や隙間があるという。)
三浦が疑問を持ち始めたのは12月29日に福来博士の念写「天照」が出た時であり、1月の山川博士の実験の顛末を知り確信したようである。
そして、主に12月に行った光線試験についても根本的に手落ちがあり、人工的な形跡がある事を発見したという。それは
透視実験と同様に実験物を玄関に手離す時間があった事、12月26日の実験では暗闇に置いたため十分監視できない時があった事、
また、23日には実験物の紛失騒ぎがあり、25日、26日実験の乾板には開封の形跡があった事などであり、
「一旦箱を開かれて、日光乃至懐中電灯の如き普通の光に照らされたものであろう」としている。
念写に関しては最初から信じていないとしている。
(この報文発表に先立って、明治44年1月18日に行われた心理研究会で三浦は「千里眼に就いて」と題する発表を行っている。
この発表は臨時会として行われていて、発表の詳細は分からないがその時期から考えて千里眼を否定する内容だったはずだ。
冒頭に書いた通り、一月には千里眼に対して肯定的な三浦の論文が「藝文」と「日本及日本人」に発表されたので、
あるいは既に否定の立場にある自らの反論をいち早く公表したのかも知れない。)

千里眼事件は京都大学文学部を巻き込んだ騒動だった事は間違いない。
だが、三浦が主張を自ら取り消したためであろうか、それとも教授陣が事件の前面にあまり出なかったためだろうか
「京都大学百年史」「京都帝國大學文學部三十周年史」等には取り上げられていない。
創始期の京都大学心理学研究室の研究成果を紹介している苧阪直行著「実験心理学の成立・発展期における学術誌の寄与」
(「実験心理学の誕生と展開」京都大学学術出版会, 2000 所収)には 「芸文に掲載された心理学関係論文」として
1910-1913 年の論文一覧表があるがここにも掲載されていない。そして、この一覧表と本文中の説明には誤りがある。
表には掲載論文として「野上俊夫 (1911) 透視の実験に就て, 2巻1号, 241-303.」 とし、本文の説明では
「野上(1911) の透視論文は62頁にわたる図入りの長編論文で、当時の福來友吉の心理現象説についての批判である。」とあるが、
2巻1号, 241-303頁の論文はここで紹介した三浦の論文「透視の実験的研究」である。
野上の論文は2巻2号, p. 487-503 でありこの論文に図は無い。 更に三浦の論文「余が実験したる所謂千里眼」は表に揚げられていない。
この苧坂の論文は意図的に三浦の存在と彼の論文を排除しているかのようにも見えるのだが...

さてその後の三浦だが、明治44年7月に文学部を卒業している。
卒業論文の題目は「1. 単色及其調和の美的鑑賞の実験的研究. 2. 色の命名に就て」である。
その後、医学部に再入学して大正5年11月に卒業している。医学部卒業者名簿では微生物講座を卒業したことになっているのだが
微生物講座が設置されたのは大正5年9月なので当初の所属講座は違っていたはずである。
三浦は大正年間に医学関係の雑誌にいくつかの論文を発表していて、短期間ではあるが研究者として活動していた事は間違いない。
日本微生物学会雑誌4巻 (1917) p. 392 には会員の動静として
「三浦恒助 昨年末京大卒業ノ同学士ハ京大衛生学教室副手ヲ命ゼラル」とあり、同会の幹事として編纂係を嘱託されている (p. 507)。
また三浦が同雑誌に発表した論文「輓近ニ於ケル内分泌學説」(1918) では肩書は「京都帝国大学医科大学微生物学教室助手」となっている。
さらに同雑誌16巻 (1922) p. 417 掲載の大正12年の京都帝国大学医学部講習会の案内には、微生物学及免疫学の講師として三浦の名前がある。
卒業者名簿の職業欄は空欄の年が多いが昭和初期の短期間だけ、医学部講師とあり、
前述の Index biologorum には "Inst. of Microbiol. Coll. of Med., Kyôto Imper. Univ. ... Lect. Tsunesuke Miura." とある。
卒業後は京都大学近くに住んでいたことは確認できたが昭和13年頃に亡くなった様で、それ以降の消息がつかめない。

この千里眼騒動は私が幼い頃に起こった「スプーン曲げ騒動」を思い起こさせる。
1970年代、超能力者ユリ・ゲラーが来日した。有名なスプーン曲げの他にも壊れた時計を動かしたりして話題になったが、
彼がテレビで紹介されるや「私もスプーンが曲げられた」と言う "超能力者" が全国に現れた。
ほとんどが中学生くらいの少年少女だったと思うが、特集番組が何度も放送されていた。
子供向けの雑誌にも特集が組まれ、怪しげな超能力開発法なるものも紹介されたりして
私もそれを読みながらサイコロを振ってみたりしたし、学校では友達が「曲がれ!」と叫んで給食のスプーンを投げていた。
この騒動も陰でスプーンを曲げている等と書き立てられると、いつの間にか下火になってしまった。
いく子の実験に限らず、一連の千里眼実験は確かに怪しい。だが、いく子はなぜ千里眼になったのだろう。
裁判所判事の妻で40歳、信仰も篤いという彼女が最初から嘘をつく動機も必要もないはずなのに。
もしかしたら「御船千鶴子の記事を見て試してみたら案外当たった」というのは本当なのではないか。
「嘘から出た真」ということわざがあるがいく子の千里眼は「真から出た嘘」だったのか、とも思う。

[参考にした文献など]
千里眼事件については長山靖生著「千里眼事件」が入手しやすい。今回、時系列の確認など参考にした所が多い。
三浦以外の研究者が長尾郁子に対して行った実験については、福来の著作以外では
薄井秀一著「神通力の研究」(明治44年3月)と、藤教篤、藤原咲平共著「千里眼實験録」(明治44年2月)が詳しい。
前者は肯定派、後者は否定派の著作であるが実験経過に就いてはほぼ事実に即している。
共に国立国会図書館のホームページ(近代デジタルライブラリー)で公開されており、全文を読むことができる。
また福来の当時の考えは中村清二が「東洋学芸雑誌」28巻(明治44年)に発表した会談記録
「明治四十四年二月二十二日東京帝国大学理科大学に於て福来博士と余との千里眼に関する会談」で窺うことが出来る。
その他「太陽」「日本及日本人」等の雑誌に掲載された記事を参考にした。

(2007.02.12 記; 2016.06.06 一部修正加筆)