乾元社版南方熊楠全集と小林義雄博士
博覧強記の奇人として生前から半ば伝説の存在となっていた南方熊楠の業績は、
生前に出版されたいくつかの随筆集と没後に2度編纂された全集(乾元社, 1951-52 と平凡社, 1971-75)以外は長らく公刊されなかった。
膨大な日記や書簡等が本格的に整理公刊され始めるのは1980年代になってからである。
熊楠が生涯を賭けて描き続けた数千枚と言われる菌類図譜もようやく1980年代末から編集出版されたが、全てが日の目を見たわけではない。
(現在はスキャナによってデジタル画像化されていて、その一部は国立科学博物館のサイトで閲覧できる。)
その菌類図譜のうち、「南方熊楠菌誌」 (1987-)、「南方熊楠菌類彩色図譜百選」 (1989) を整理編集したのが小林義雄である。
小林義雄は長く国立科学博物館で菌類研究を続け、多くの論文や著作を発表した菌類分類学者で、
在野の学者で論文という形では成果を殆んど発表しなかった熊楠とは正反対だが、
「菌類歴史と民俗学」の著作もあり、民俗学的分野にも関心があった点は熊楠と共通する。
小林は「南方熊楠菌誌」第一巻(1987年7月刊)の解説の中で次のように書いている。以下同書の10ページから引用([ ] 内は補記)する。
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南方熊楠全集の決定版 [平凡社版を指す] も10年以前に完成された。出版社の厚意により分冊を頂戴する毎に偉大な学者の感化を色々な面で受けている次第である。
[中略] 次に数日前届いたばかりの第9巻をぱらぱらと拾い読みしていると樫山嘉一氏宛書簡(昭和16年)の末尾に
「今度東京にてヒメノガスター亜目篇出版、まことに貧弱なもので、従来地下菌を貴下ほど発見せしもの一人もなし」とある。
この書物は正しく私がつくったもので南方さんのお目に留まったことを30余年経てはじめて知った次第である。
拙書の中にはそれまで日本産として発見、記録されたもの全部と、小生が新しく記録したものを加えてあり、貧弱と思われるのは日本国の小ささである。
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「ヒメノガスター亜目篇」は大日本植物誌の第2巻として小林が執筆したもので、1938年に出版された。
ヒメノガスター (Hymenogaster) と言うのは豆の様な形の地下生担子菌類である。
(現在は分類体系が大幅に変更されている。また、ヒメノガスター属以外にも多くの地下生担子菌類が日本に産する事も明らかになっている。)
小林は、南方が自著を読んでいたことをこの時初めて知った、と言うのだ。
この樫山嘉一氏宛書簡は全集第9巻、611-614ページに収録されている。
樫山から贈られた菌類(へろへろとふるえるホウキタケやショウロの様なキノコなど)について熊楠が返事をしたもので、
その末尾に追伸のような形で付け加えられているのが上記の一文である。
この解説を小林が何時書いたのか、日付が記されていないのでわからないが、
1975年に全巻が完結した平凡社版全集について「10年以前に完成された」とあるから、
少なくとも1985年以降、おそらく「菌誌」出版直前の1987年前半頃と考えて良いだろう。
だが、小林がヒメノガスター亜目を出版したのは1938年なので、1987年頃とすれば半世紀ちかく経っていることになる。
「30余年経て」という数字とはかなりズレがあり、合わないように思う。
小林は植物研究雑誌の48巻12号(発行日付は1973年12月)に「南方熊楠全集に載る真菌類など」という一文を寄せている。
そこには「今般平凡社より南方熊楠全集が出版されたのを機会にこれらを通読し」とあるから、実際は出版後いち早く読んでいるのがわかる。
そして、その文中の「へろへろほうきたけ」の項では、上記の樫山嘉一氏宛書簡にふれ、そこに書かれた菌類について解説している。
自著の件には触れていないが、小林は少なくとも1973年の時点で熊楠が自著を読んでいたことを知っていたはずなのだ。
この時気付いたのであれば、「30余年経て」という数字はちょうど当てはまる。
「菌誌」の解説には、20年以上前に熊楠の原稿について相談を受けた事等、ずいぶん以前のエピソードも書かれているので、
それらの経過を書く中で何か時系列の錯誤があった可能性もあり、意図的なものではないかもしれないが、
どちらにしても平凡社版全集を読んではじめて知った、という点は変わらない。
だが実際は平凡社版全集出版よりも以前から知っていたのではないか、と思われる節がある。
平凡社版に先立つ乾元社版全集は、1951年から52年にかけて出版された。
全集第12巻(1952年6月30日発行)の月報にある「南方全集白書」によれば印刷部数は3000部。
直接発送が1200、書店配本が1500、その他及び残部が若干、という内訳であったらしい。
そして、全集第12巻の巻末には読者名簿が掲載されている。
個人情報云々とうるさい現在では考えられないことだが、800人程の全集購入者の名前が連絡先の住所と共に記されていて、
ざっと眺めただけでも著名人の名前が多く並んでいる。政財界人、作家、評論家、民俗学者、国文学者などの名前が目立ち、
金田一京助、池田亀鑑、柳田國男、折口信夫といった当時の学界の重鎮の名前も見える。
この名簿は、月報に拠れば本社直接扱い分と、第7巻(11回配本)に挿入された読者カード用葉書による回報者を合せたものである。
全集の内容が人文系の著作中心であるためだろう、自然科学系の学者は少ない。
勿論、予約しないで書店で購入した者や、名簿葉書を返信しなかった者も多いはずなので、実際には多くの研究者が読んだとは思う。
理系学者としては湯川秀樹の名前もあるが、菌類・植物学関係の学者で私が気が付いたのは以下の七氏である。
半世紀以上前の事だし、既に皆故人となっているので掲載されている住所(所属)を出しても問題ないと思うので引用する。
斜線以下に生没年と簡単な説明を付記した。(名前は名簿掲載順。小畔四郎ら、熊楠の協力者だった変形菌研究家は除く。)
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服部広太郎。東京都千代田区神田駿河台3 // 1875-1965. 学習院教授、宮内庁御用掛。バクテリアや藻類の外、変形菌の研究も行った。
田中長三郎。東京都北多摩三鷹町大沢1-96 // 1885-1976. 大阪府立大学教授。柑橘類(ミカン)分類の権威。
牧野富太郎。東京都練馬区東大衆町557 // 1862-1957. 「牧野植物図鑑」で有名な植物学者。
渡辺篤。東京都世田谷区世田谷3-2090 // 1901-1996. 藻類学者。東大教授。熊楠とは書簡のやり取りがあった。
朝比奈泰彦。東京都新宿区戸塚町3-123 // 1881-1975. 有機化学者。東大教授。生薬の研究者だが、地衣分類の権威だった。
小林義雄。東京都台東区上野科学博物館 // 1907-1993. 菌類学者。冬虫夏草類など、多くの新種を記載した。
柴田桂太。東京都新宿区百人町資料科学研究所 // 1877-1949. 植物生理学者。東大教授、資料科学研究所所長。
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柴田桂太は出版開始前の1949年11月19日に亡くなっている。全集の予約開始がいつだったのか確認できていないが、
乾元社が1950年10月30日に発行した「原敬日記」第一巻巻末にある熊楠全集の予告には内容見本が近くできる旨が記されている。
1951年1月30日発行の同第二巻続篇には「予約申込みは既に受付を始めました」とあるので、予約は1950年末頃からではないかと思う。
そうすると柴田の生存中には予約はできなかったと思われるのだが、詳細はよく判らない。
探し漏れもあると思うが、熊楠と多少とも交流のあった菌類研究者で、当時存命中だった原攝祐(1885-1962、日本菌類目録の編纂者)、
今井三子(1900-1976、横浜国立大学教授)、伊藤誠哉(1883-1962、北海道大学教授、学長)、江本義数(1892-1979、学習院大学教授)らの名前は無い。
小林は、乾元社版全集を予約購入(あるいは読者カードを返信)した数少ない菌類学者の一人と言えるだろう。
そして上記の樫山嘉一氏宛書簡は乾元社版全集にも収録されている (第12巻、p. 295-299)。
(ヒメノガスター亜目篇への言及は平凡社版では手紙の末尾になっているが、乾元社版では手紙の冒頭になっている。
この理由は分からないが、順序以外の文面は同じなので、本文とは別に余白に書き込まれているのではないかと想像する。
最近公刊された樫山嘉一氏宛書簡集を参照すればわかるかもしれないが未見。)
小林が乾元社版全集を購入したことは間違いない。
発行途中に気が付いて全巻揃えられなかった可能性はあるが、第12巻は最終配本なので確実に入手できたに違いない。
おそらく日を置かずに目を通しているだろう。熊楠がヒメノガスター亜目篇を見ていることを1952年頃には知っていたはずだ。
なのに1987年頃になって初めて知ったかのように読める文章を「南方熊楠菌誌」の解説中に書いたのはなぜだろう。
(2017.05.25 記)