司書官でもあった菌学者、澤田兼吉が著した本

澤田兼吉(1883-1950. 名前はかねよし、と読む。姓の表記については、引用を除き旧字体の「澤」で統一する。)は
日本の菌学者の中で最も多くの新種を記載した人物の一人である。
現在は使われなくなった名前もあるけれど、台湾から2500種を超える菌類を記録した「台湾菌類調査報告」や「東北地方菌類調査報告」、
その他の論文で発表された新種は生涯で500種を超えると「日本菌学史」(日本菌学会, 2006)には書かれている。
菌類学辞典のスタンダード、Dictionary of the fungi. 10th ed. (2008) に見出しとして掲載されている数少ない日本人研究者でもある。
(ただし生年が間違って 1888 になっている)。
カエデ類のうどんこ病菌の属名 Sawadaea にも名を残す他、澤田に因んだ種名の菌も多く東アジアにおける菌類分類学のパイオニアと言えるだろう。
澤田の菌学関係の経歴は上記菌学史等に拠れば次の様になっている。
(他に参考にした文献は「日本樹病学史 III」(伊藤一雄, 1966)、「岩手県植物文献目録」(岩手植物の会, 1971)、李國玄, 中原大学碩士学位論文(2006)等。
李の論文中の澤田の履歴は「台湾紳士名鑑」(新高新報社, 1937)に拠るとあるが「台湾紳士名鑑」は未見。)

1883年 12月、盛岡に生れる。
1903年 3月、盛岡中学校卒業。
1903年 盛岡高等農林学校勤務。植物標本製作係りだったようだが、同時に図書館にも勤務していたらしい。
1908年 8月、台湾総督府農事試験場(後に中央研究所農業部)の植物病理部に勤務 (技手)。
1910年 「職員録」(内閣官報局)によればこの年度から農事試験場教育部技手を兼務。7月には図書館取扱主任。
1920年 7月、同植物病理部長心得。
1921年 3月、台湾総督府殖産局農務課に代わる。8月、台湾総督府中央研究所技手、農業部植物病理科勤務。9月、台湾総督府殖産局植物検査所勤務。
1922年 台湾総督府中央試験場農業部 [植物学雑誌421号(1922年1月発行)の転居記事による]
1923年 台湾総督府高等農林学校(後に台北高等農林学校をへて台北帝国大学)に移り講師、のち教授。
1925年 高等農林教授。
1927年 台北高等農林学校教授。
1928年 台北帝国大学農林専門部教授。
1931年 再び総督府中央研究所農業部植物病理科に戻る。
1939年 台湾総督府農事試験場病理昆虫科。
1942年 退官。その後、台北帝国大学理農学部嘱託ならびに講師。
1945年 終戦後も台湾大学農学院に留用。
1947年 帰国。10月に盛岡農林専門学校嘱託。
1948年 農林省林業試験場嘱託。

また上記文献以外に、松田吉郎氏の「嘉南大圳事業をめぐって」(兵庫教育大学紀要 ; 18(2), p. 97-110, 1998) の中の、
戦前から戦後にかけて嘉南大圳で技師をしていた中島力男氏からの聞き取り内容に、戦後そこで協力させられた日本人技術者として
「糖業試験場長の沢田兼吉さん(終戦後、宇都宮大学学長)」という記述があるが、少なくとも終戦後の経歴は誤っている。

帰国後は林業試験場の青森支場好摩分場に勤務したが、2年足らず後の昭和25年4月に脳溢血で急逝した。
没後、遺稿として発表された「東北地方に於ける針葉樹の菌類」の昭和24年12月付で書かれた澤田の緒言には
「今日迄に東北地方産菌類約1600種を研究し...」とある。
台湾に渡る以前、盛岡高等農林学校時代に多くの菌類を採集していた事を考慮してもその研究のバイタリティーは驚異的である。
上記の「日本菌学史」には菌類学者としての澤田の業績のみが紹介されているのだが彼にはもう一つの顔がある。
澤田は10年以上に亘って台北帝国大学の図書館員(司書官)を務め、「書病攷」という本を残している。

台湾に赴任後どういう経緯かは知らないが澤田は研究の傍らに図書の仕事も受け持つ事になる。
「若い時から図書に縁があって、三十年前に台湾に渡ってから研究の傍らその役所の図書の受持をさせられたのであった。
大正に入って未だ餘り年の経ない頃のことであったが ...」とある(「書病攷」p. 16)ので、
おそらく台湾総督府農事試験場で教育部技手を兼任していた頃の事と思われる。
同郷の石川啄木の日記「甲辰詩程」の明治37年1月2日には澤田から来簡、とあるので(翌日には啄木から澤田へ返信されている)
台湾に渡る以前の随分若い頃から文学にも関心があった様だから、図書の仕事を進んで引き受けたのかも知れない。
その経験を買われたのだろうか、昭和6年9月には台北帝国大学の司書官に任官する。

台北帝国大学は昭和3年に台北高等農林学校などを前身として開設された、いわゆる旧帝大の一つである。
昭和6年に閲覧室と書庫が完成した附属図書館は、資料の分類にいち早く UDC(国際十進分類法)を取り入れた数少ない大学図書館だ。
当初、閲覧室が平屋建レンガ造で150坪、書庫が鉄筋コンクリート4階建で130坪、と計画されていたようだが
「台北帝国大学一覧」によれば図書館は文政学部研究棟と渡り廊下で繋がっていて、二階建レンガ造、延べ295.30坪、
書庫及び閲覧室が二階建鉄筋鉄骨混用コンクリート造、延べ443坪となっている。
(この旧図書館の建物は戦後は台湾大学図書館として利用され、若干の改修を経て現在は 台湾大学校史館 となっている。
写真で見る限り、外観、内装ともに良く保存されていて戦前の旧帝国大学時代の重厚な雰囲気を感じる事ができる。
台湾大学には当時の建造物が他にもいくつか残っているようだ。)
蔵書数は年々かなりの勢いで増加しているが澤田が任官した当時の蔵書規模は25万冊程度、終戦後の接収時には47万冊余だった。

台北帝国大学司書官任用令では
「台北帝国大学司書官は左の資格の一を有する者より高等試験委員の詮衡を経て之を任用することを得。
1. 教育又は図書に関する高等文官の職に在りたる者
2. 三年以上教育又は図書に関する奏任官待遇の職に在りたる者
3. 五年以上教育又は図書に関する判任官待遇の職に在り任官五級俸以上の俸給又は八十五円以上の月俸を受けたる者
4. 図書に関し特別の学芸技術を有する者」とある。
台北帝国大学の司書官は一人、司書は数人程度、(詳細は下表参照)で司書官はおよそ今の事務長クラスに当たる地位と考えていい。

「台北帝国大学一覧」の職員名簿には館長、司書の他に書記やその他の職員も含めて多い年には20人程の名前が並ぶが司書官だけを追うと
初代は青木茂則。館長に田中長三郎(柑橘類分類の世界的権威)が就くまでは館長事務取扱だが昭和4年11月22日に退官。
奈良女子高等師範学校教授だった人物である。
二代目が阿部文夫(あやお)。農林専門部教授(教育学)、文博。昭和5年4月12日任官、昭和6年1月24日転任。
東京帝国大学心理学科卒、千葉県立園芸専門学校教授から台湾総督府農林専門学校教授を務めた人物で一年半のヨーロッパ派遣の後の任官である。
台湾総督府視学官、日本民族衛生学会理事なども務めていた。
そして次が澤田兼吉。昭和6年9月7日司書官任官、昭和17年1月14日退官。(同年2月から3月までは図書目録に関する事務嘱託)。
任官以前の澤田の肩書きは農林専門部教授(植物病理学)兼中央研究所技手、退官後は台北帝国大学理農学部講師(植物病理学実験)になっている。
澤田の後任の司書官は経済学士の星野弘四という人物である。
渡台以前は京都帝国大学経済学部助手、昭和6年から17年までは断続的に京都帝国大学附属図書館職員として勤務した経歴がある。
星野は戦後も台湾に残り、台北帝国大学が中華民国に接収された後の図書館の残務整理を行ったのでおそらく終戦まで司書官だったろう。
そうすると司書官は歴代4人、澤田は台北帝国大学図書館の短い歴史の最盛期、10年余りに亘って一番長く司書官を務めた人物になる。

一部重複するが、参考までに「台北帝国大学一覧」の各年度の図書館の記事から人事を中心にまとめてみた。(雇以下の人名は省略した。)
附属図書館以外に各部局(理農学部、医学部、予科等)にも図書室があったらしい記事がいくつかの文献に散見されるが
司書官はおらず、司書もいなかった様である。また図書館としての独立棟も確認できず、規模なども今のところ把握できていない。
年度
事項
昭和3年
台北帝国大学官制. 司書官:専任1人, 奏任。司書:専任3人、判任。
司書官(館長事務取扱):青木茂則。書記:齋藤利司。司書:武田虎之助, 裏川吉太郎, 大山綱憲。
昭和4年
司書1人増員。
昭和4年4月19日. 同月14日に竣功した文政学部本館に附属図書館を移す。
昭和5年1月19日. 附属図書館竣功に付き、同事務室及び閲覧室を移す。
館長:田中長三郎。書記:齋藤利司。司書:武田虎之助, 裏川吉太郎, 大山綱憲, 菊野巖。嘱託(図書整理事務):伊藤賢道。
司書官青木茂則は3月2日付けで館長事務取扱を解職、11月22日に退官。
昭和5年
司書1人増員。
館長:田中長三郎。司書官: 阿部文夫。書記:齋藤利司。司書:武田虎之助, 裏川吉太郎, 大山綱憲, 菊野巖, 升田栄。
昭和6年
昭和6年9月10日. 図書館書庫および閲覧室竣功。
館長:田中長三郎。司書官:(欠)。書記:齋藤利司。司書:武田虎之助, 裏川吉太郎, 大山綱憲, 菊野巖, 升田栄。
阿部文夫は昭和6年1月24日転任。
昭和7年
館長:田中長三郎。司書官:澤田兼吉。書記:齋藤利司。司書:武田虎之助, 裏川吉太郎, 大山綱憲, 菊野巖, 升田栄。
昭和8年
館長以下異動なし。
昭和9年
館長:田中長三郎。司書官:澤田兼吉。書記:宮平林栄。司書:裏川吉太郎, 大山綱憲, 菊野巖, 升田栄, 樋口末広。
昭和10年
館長:安藤正次。(国文学者。文政学部長を経て図書館長、1941年には台北帝国大学総長。)
司書官以下異動なし。
昭和11年
司書1人増員。
渡り廊下が完成。(平屋建レンガ造、36.63 坪。図書館と書庫を挟んで建っていた文政学部を繋ぐ廊下で図書館の両翼部に二本あった)
館長:安藤正次。司書官:澤田兼吉。書記:宮平林栄。司書:大山綱憲, 菊野巖, 升田栄, 樋口末広, 岩石正夫, 柴田悳也。
昭和12年
館長以下異動なし。
昭和13年
倉庫および荷解室ができる。(平屋建レンガ造、43.75 坪。当時の建物配置図に拠れば附属図書館脇に隣接している)
館長以下異動なし。
昭和14年
館長:安藤正次。司書官:澤田兼吉。書記:宮平林栄。司書:大山綱憲, 菊野巖, 升田栄, 樋口末広, 柴田悳也, 森沢巖。
昭和15年
館長:素木得一。(昆虫学者。)
司書官:澤田兼吉。書記:宮平林栄。司書:大山綱憲, 菊野巖, 升田栄, 樋口末広, 新井英夫, 森沢巖。
昭和16年
館長:矢野禾積。(英文学者。後に東洋大学学長。)
司書官:澤田兼吉。書記:(兼)大山。司書:大山綱憲, 升田栄, 新井英夫, 森沢巖, 江崎光夫。
書記は司書の大山が兼務。
昭和17年
司書1人増員。
館長:矢野禾積。司書官:星野弘四。書記:(兼)大山,(兼)佐藤。司書:大山綱憲,(兼)升田栄, 森沢巖, 新井英夫, 堅田年穂, 緒方三郎, 佐藤経尚。
升田は庶務課書記が本務。書記は司書の大山と佐藤が兼務。
昭和18年
館長:矢野禾積。司書官:星野弘四。書記:(兼)大山,(兼)佐藤。司書:大山綱憲, 森沢巖, 新井英夫, 堅田年穂, 緒方三郎, 加藤健一郎, 佐藤経尚。

さて、澤田の図書館職員の経験と知識から書かれたのが「書病攷」だ。(昭和17年、台湾三省堂発行。)
なぜか表紙の著者の名前は澤田謙吉となっている。また、序を書いた日付は昭和14年初夏となっていて、出版までに3年近くの間がある。
戦前、台湾で出版された日本語の図書は台湾関係の本や実用書を除けば意外と少ない。
ましてこのような風変わりな内容の本の出版を引き受けてくれる出版社はなかなか見つからなかったのかも知れない。
タイトルの「書病」という言い方はちょっと独特で、澤田の造語かどうかは定かでないが他では用例を見かけない。
澤田雨竹の号で書かれた序文には彼の考え方がよく表れている。それに拠れば
虫に食われたり、黴が生えたり、紙が変色したなどというのは書物が健全でないのであって、これは書物の病気である。
だから人間の病気に対する医学が進歩しているのと同様に、この書物の病気に対しても病原を明らかにし科学的防除法を講じなければならない、とある。
植物病理学者らしい捉え方だと思う。生きた植物に菌類などが感染して枯れたり、変な形になったりと、いわゆる病気になる。
澤田にとって、植物から作られた本が菌害や虫害を蒙る事はまさに本の病気「書病」だったのだ。
(現在では資料の劣化とか汚損、虫害などと言うのが普通だ。)

出版社の台湾三省堂は、名前が示すとおり三省堂の関連会社である。
三省堂が台湾に進出するのは昭和9年に傍系の東都書籍が台北に開業するのがきっかけだが
台湾三省堂はそれとは別に昭和16年11月に新刊書と文房具を扱う小売店として小塚文具店と三省堂の半々出資で設立された株式会社だ。
終戦までの短い活動期間の中で手がけた出版物が10点ほど確認できる。
澤田の本は昭和17年5月25日発行で、出版日を確認できた中では一番早い出版物だ。

戦時の台湾で出版されたこの本はタイトルだけでなくその内容もかなりユニークで次の様な章立てになっている。
1. はしがき
2. 曝書
3. 図書の中味を損う人参死番虫
4. ラワン材から図書への扁蠧虫
5. 図書の外装を損なう油虫
6. 油断のならぬイエシロアリ
7. 図書を噛じる鼠族
8. 図書を舐める紙魚
9. 図書に泥を塗るヒメキゴシジガバチ
10. 読書子の危険がる結核菌
11. 図書を変色させる湿気と黴
12. 図書を褪色させる日光
13. 図書を汚染させる塵埃
14. 図書の害虫及害菌防除用の薬品
15. 図書の害虫を防ぐ本草

ネズミや結核菌のように現在ではほとんど問題になっていない事柄も多いし
「ジガバチの害」と聞いて、それがどのような事か即答できる図書館員なんてあまりいないんじゃないかと思う。
昆虫少年だった私でもこのハチが図書館で害虫扱いされていた、とはちょっと意外だったから。
(個人的には、書架の本の隙間にジガバチが巣を作るような環境には憧れる。
子供の頃、勉強部屋の窓の近くを飛び回るハキリバチやルリジガバチ等になんとか巣を作ってもらおうと、色々と工夫した。)
また薬品類は現在では一般には使われない危険な薬品が紹介されていたりもするが、基本的な部分は今でも通用する内容だ。
シバンムシやシミ等の昆虫類の説明もかなり詳しいが、これは澤田が生物全般に理解があったためだろう。
だが一番異彩を放っているのが11章のカビの項目である。
日本より気温も湿度も高い亜熱帯の台湾では本にカビが発生する事が多かったようである。
もちろん日本でも油断すると本がカビだらけになるのは今でもよくある事だ。
澤田は菌類の専門家だから、この章にはカビの学名や専門用語がぞろぞろと出てくる。
また、引用されている文献も他の章に比べて格段に専門的で、多くの外国の研究者の研究が紹介されている。
大半は繊維類に影響を及ぼす菌類の研究で、文化財保護の面からカビを研究した大槻虎男の研究結果にも言及している。
澤田は典拠として著者と発表年を挙げているだけなので、主要な物について該当すると思われる論文のタイトル等を挙げておく。

Bakhtin, V.S. (1928): The fungus pests of books. (Дневник Всесоюзного съежда ботаников в Пенинграде в январе 1928 года ; p. 169-170).
Galloway, L.D. (1935): The moisture requirements of mould fungi with special reference to mildow in textiles. (Journal of Textile Institute ; 26, p. 123-129).
Groom, P. and Panisset, T. (1933): Studies of Penicillium chrysogenum Thom in relation to temperate and relative humidity of the air. (Annals of applied biology ; 20, p. 633-660).
Kärcher, H. (1931): Über die Kälteresistenz einiger Pilze und Algen. (Planta ; 14(2), p. 515-516).
Mason, F.A. (1922): Micro-organisms in the leather industries. III. (Bulletin of the Bureau of Bio-Technology ; 6, p. 161-175).
Rennerfelt, E. (1937): Unaersolmingar over svampinfektionen i slipmassa och dess utveckling däri. (Svenska Skogsvardsforeningens Tidskrift ; 35(1). p. 43-159).
Sartory, A. etc. (1935): Querques champignons inférieurs déstructeurs du papier. (La papier ; 38, p. 43-53, 529-542).
Serrano, F.B. (1927): Deterioration of abaca (Manila hemp) fiber through mold action. (Philippine journal of science ; 32(1), p. 75-101).
Smith, G. (1928-1931): The identification of fungi causing mildew in cotton goods, the Aspergillus. (Journal of Textile Institute ; 19, p. 92-100, and 22, p. 110-116).
Read, J.W. (1934): Destroying mold spores on bread by ultra-violet radiation. (Cereal chemistry ; 11(1), p. 80-85).
Weinzirl, J. (1921): The resistance of mold spores to the action of sunlight. (University of Wisconsin studies in science ; 2, p. 55-59).
Welch, H. (1930): The effect of ultra violet light on molds, toxins and filtrates. (Journal of preventive medicine ; 4(4), p. 295-330).
遠藤保太郎 (1926): 絹絲ノ褐色化ト其豫防法. 明文堂.
大槻虎男 (1937): 糊の研究. IV. 掛軸の汚染成生試験と汚染に与る二種の糸状菌の分離. (植物及動物 ; 5(10), p. 1809-1820).

これらの論文が掲載された雑誌を台湾で全て入手する事はかなり困難だったのでは、と考えられるので
実際には Review of applied mycology 等に掲載された抄録から引用、紹介した物もあるのではと思う。

一般の本好きの人や図書館員にはとっつきにくいだろうが、この章が一番澤田の得意な分野であり、この本の特徴的な部分である。
台湾で本に発生するカビとして13種をかなり詳細に記述している。挙げられた種の大半は Aspergillus 属菌(コウジカビ類)だ。
Aspergillus 属は現在200種以上も知られている大きなグループだが、特に Aspergillus oryzae はいわゆる「コウジキン」として知られる菌で
酒や味噌、醤油などの製造に使われる日本人とは大変関わりの深い菌だ。
これらの発酵分野で重要な他、Aspergillus 属は病原性のある種や発癌性物質を生産する種なども含む多彩な菌群である。
医薬品の製造など他の応用面でも非常に重要であり、日本はコウジカビ類の研究に長い伝統と蓄積を持つ。
一般にはほとんど知られていないと思うが平成18年には日本醸造学会が「麹菌」を日本の「国菌」に認定したほどだ。
(国菌に認定された麹菌は Aspergillus oryzae, Aspergillus sojae, Aspergillus awamori 等、発酵醸造に使われる有用種に限られる。
本や家の壁などに生じる害菌の Aspergillus 属菌をも国菌としているわけではない。念のため。)

澤田は本に生えるカビを肉眼的な色調で大別した上で、それぞれの種の特徴、特にコウジカビ属については
分類上重要な形質である分生子柄、メトレ、フィアライド、分生子などの特徴を記述し(用語は若干異なっている)
いくつかの種では顕微鏡図も添えていて、にわかに菌類図鑑の様相を呈する。
ここでは澤田が挙げた種について分生子の特徴を中心に簡単に紹介するに留めたい。
(... sp. とあるのは種名が特定できていない事を表す。例えば Aspergillus sp. とあるのは Aspergillus 属の一種、という意味。)

(甲)青みかかっている種
[1]. Aspergillus fumigatus Fres.
円形蓐状に広がり青緑色。分生子は連鎖し、球形細疣状、直径 3.0-3.8 μm.
[2]. Aspergillus (fumigatus group) sp.
蓐状に生じ、淡橄欖色。分生子は連鎖し、球形、殆んど平滑または微かに細疣があり、直径 2.8-3.8 μm.
[3]. Aspergillus (glaucus group) sp.
青緑色の丈の低い菌叢を作る。分生子は連鎖し、球形で小刺があり微かな青色を帯び、直径 3.7-5.0 μm.
[4]. Aspergillus repens (Corda) Sacc.
灰緑色の菌叢を作る。分生子は長く連鎖し、球状、無色、細疣があり 5-8.5 × 5-7.5 μm.
黄色の子嚢殻(直径 95-145 μm., 子嚢胞子は楕円形、無色で縦の線帯があり 5-5.5 × 4 μm.)も形成される。
[5]. Aspergillus (glaucus group) sp.
やや丈の高い蓐状または散生する灰緑色の菌。分生子は連鎖し、無色球形、細疣を密布し直径 5.0-5.5 μm.
[6]. Aspergillus (fumigatus group) sp.
広く灰白色の菌糸を伸ばし、所々が緑灰色になる。分生子は球形、無色、細疣があり直径 3.8-4.5 μm.
また白色の子嚢殻(直径 125-170 μm., 子嚢胞子は広楕円ないし球形、光線を屈折し縦の帯線がある。5.0-6.8 × 4.5-6.0 μm.)を生じる。
[7]. Aspergillus (glaucus group) sp.
極めて淡い緑色を帯びた白色で丈が短く、広く拡がる菌。分生子は楕円形、無色、平滑、直径 4.0-4.5 × 3.5 μm.
(乙)白い種
[8]. Aspergillus sp.
白色の蓐状に生える菌。分生子は短倒卵形など、無色、細疣あり、3.8-5.0 × 3.3-4.0 μm.
[9]. Aspergillus sp.
白色粉状に生える菌。分生子は無色、球形、平滑、直径 2.5-3.5 μm.
(丙)黄色を帯びる種
[10]. Aspergillus stercoreus Sacc.
淡黄白色のやや疎に生える菌。分生子は広楕円など、細疣があり 5-11 × 5-7 μm.
[11]. Eurotium herbariorum series minor
黄褐赤色の菌叢ができ、やがて鮮黄色の子嚢殻を生じる。直径 145-200 μm., 子嚢胞子は球形ないし広楕円、厚膜、無色。
6.8-8.5 × 6-8 μm. 縦の帯線があり、低い幽かな隆起線も見られる。
(丁)茶色の種
[12]. Aspergillus wentii Wehm.
黄褐色の比較的丈の高い菌。分生子は球形、細疣があり殆んど無色。直径 5-5.5 μm.
(戊)灰色の種
[13]. Oospora sp.
灰色で円形に貼り付いた菌。分生子は連鎖し楕円形ないし短紡錘形、無色平滑、2.5-3.0 × 1.5-2.0 μm.
この菌に冒された部分はよく拭ってもクロス部分の退色は残る。

澤田が紹介している菌にはかなり乾いた環境でも生育する好乾性の菌も含まれていて、
紙や衣類、壁などに生える屋内のカビとして図書館に限らず一般家屋でも問題になる厄介な種である。
Aspergillus などのカビの発生は紙に生じる褐色の斑点(フォクシング = foxing)の原因の一つでもある。
現在の図書館の書庫はたいていしっかり空調されているはずだが、古い本には結構カビが生えていたり、その痕跡が残っているものである。
戦前の台北帝国大学図書館の書庫には当然ながら現在の様な空調設備は無く、
「湿度の高い書庫の湿気を低下させるには天気の日に窓を悉く開け放ち通気させねばならな」かった(「書病攷」p. 23)とあるから
油断するとすぐにカビが発生するような環境だったと思われる。

ずいぶん昔、図書館に就職した頃職場の書庫で本のカビを面白半分に調べた事がある。
きちんと培養して調べた訳ではなく、カビの生じた面にセロハンテープを軽く当てて剥がした物をプレパラートにして検鏡する程度だが、
およその属の判別ならできた。 Aspergillus や Penicillium, Cladosporium といった菌が普通に観察できた。
Alternaria 等も観察できたし、Wallemia じゃないかと思うものや何だか分らないものも多かった。
その姿、特に Aspergillus や Penicillium の分生子柄が林立する姿は「書物の敵」(八坂書房, 2004)にある通り
「まるで綺麗な葉に覆われた可愛らしい木々やウパスの木からなる小さな森」の様である。
洋書では外面だけでなく閉じた本のページの奥の方から採った試料からもカビを観察する事ができたし、
16世紀頃の本の内側の奥から取った埃からもカビの胞子などを拾い上げる事ができた。
これが本と共に外国からはるばるやって来たものなのか、そして何百年も前から付着しているのかどうかは分らないが、
寒天培地に落とすと普通に発芽生長したので条件さえ整えばいつでも繁殖する準備はできているのだろう。
澤田はドイツの本にはカビの発生が少ないので何か特殊な薬品を使っているのかもしれない、と書いている。
そういった研究があるのは確かだが、表紙用のクロスや用紙にどの程度使われていたかは知らない。
経験的には国による違いはヨーロッパ諸国では(少なくとも現在の書籍では)あまり無い様に思うけれど、
出版社によってはクロス装の新刊書の表面に直ぐにカビ(大抵は Aspergillus sp.)が薄く生えたりする事もある。
なんとなくだけれど、ロシアの本は紙が粗末な割にカビの発生が少ないような気がする。
インドの本も、あれだけ高温多湿の国で製造されて紙質も悪い様に感じるのに、その割には目に見えるようなカビが少ない。

澤田が記している種の中で [11] の Eurotium は Aspergillus 属の完全世代として知られるもので、そんなに頻繁に見つかる物でもないが
雨で濡れてしまった本の布張り表紙の布目が子嚢殻でびっしり埋まっているのを見た事がある。
[13] の Oospora は現在は使われていない学名のはずだが、澤田の記述だけでは私には正体がわからない。Acremonium の仲間だろうか。
澤田はさらに防除法などにも言及していて当時どういった対策を取っていたのかも窺える。

澤田は「書病攷」の中で
「図書館員はその任務であり且つ多数の図書を取扱ふものであるから、一層心に銘して聊かも損傷させぬやう心掛けなければならない。」
「図書館の仕事は図書の内容を知ったり、之れを整理閲覧させる許りは能でない、保存といふことに就ては充分以上に考えてほしいものである。」
等と言い、序では「図書の完全保存の為に幾らかでも参考の資とされるならば幸の至りである」と記している。
実際に澤田は図書館赴任後すぐに害虫駆除のために燻蒸室三室を要求して作らせ、害虫と菌とは別に燻蒸した後に書庫に納める事を徹底し、
害虫の大きさを考慮してそれより目の細かい金網を書庫の窓につけ、各種害虫を自分で飼育し嗜好や殺虫剤の効果を調べたり、
さらに害虫の標本を作って(これが凄い!)館員に示し周知させる事にも努めたと言う。
一般に創立まもない大学ではまとまった量の基本的な書籍を短期間に集める必要がある。
台北帝国大学は予算も比較的恵まれ、一般書籍の他に個人蔵書など貴重な本の寄贈や購入も多く、管理は大変だったと思う。
満州事変から第二次世界大戦にかけての困難な時代、澤田を中心とした館員によって完璧とは言えないまでも、最大限の管理がされていたはずだ。

台北帝国大学図書館とその蔵書は戦後中国に接収され台湾大学に引き継がれた。
戦後の接収当時はかなり混乱していたようだ。「両年来図書館工作簡報」(国立台湾大学校刊, 1947) によれば
本は100以上の研究室に分散し、貴重書は戦火を避けるために山中に隠されたりしていたが、接収時には一万冊程が散逸していた。
図書館は米軍の爆撃(特に昭和20年5月31日のいわゆる台北大空襲)で屋根や窓が破損したため閲覧室は雨ざらし、書庫の損傷も大きく、
さらに接収後しばらくは人員不足でろくに管理できない状態だったと言う。
台湾大学には現在でも台北帝国大学時代の資料が残されており、その中には貴重な古典籍も含まれているが
過去に粗雑に扱われた結果虫害や傷みの激しい物もあるらしい。
澤田の思いと努力が戦後は継承されなかったのは仕方ない事とは言え残念だ。

澤田が司書官だった10年余りの時期は、一般には研究者が精力的に活動できる年齢だが、菌学者としての業績は少し途絶える。
「台湾菌類調査報告」を見ても第6巻は1933年に出版されたが、第7巻は1942年10月、司書官退官後になって出版された。
また、この期間に澤田自身によって採集された菌類はその前後に比べて少ない。
日本語で書かれていた「台湾菌類調査報告」の最終巻 (pt. 11) はさらに没後10年近く経ってようやく英訳されて日の目を見る。
もし司書官にならなかったら澤田はさらに多くの菌類を記載、報告したに違いない。

本好きの菌学者、澤田が著した(おそらく唯一の)単行本「書病攷」、なかなか面白い。
澤田の業績としてもっと知られて良いと思うけれど、所蔵している図書館があまりにも少なく、気軽に読む事ができないのが惜しい。

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司書官としての澤田の経歴を紹介している物は少ないですが 書物蔵 の澤田に関する記事に啓発された所が多い事を記しておきます。
他に、当時の台湾の出版事情については河原功著「台湾新文学運動の展開」(研文出版, 1997)を参考にしました。

(2011.07.07 記)