動物磁石。

歴史とか文学とかにはあまり興味がなく、普段はそういったジャンルの資料を進んで手に取ることはしない。
それでも、たまに妙に気になる標題の書籍が目に留まることがあって、興味半分で読んでみたりする。
ずいぶん以前のことだが、図書館で何気なく書架を眺めていると 「動物磁石」 [1] と言う題簽が目に留まった。帙入りの和装本である。
動物と磁石、というおよそ結びつきのなさそうな言葉を組み合わせたこの書名に惹かれて、手に取ってみた。
帙の中には、天、地、人、と編立てされた和綴じの本が3冊、収められている。虫食いの跡もあり、第一印象では江戸末期頃を思わせるが、
まず左開き(表紙を上にして置いた時に左側に綴目がある)であることに違和感を覚えた。普通の和古書で左開きはありえない。
もしや、と思って表紙を開くと、予想通り、全編が見事な筆記体の欧文写本だった。英語ではない。オランダ語である。
おそらく江戸時代、蘭学者がオランダ語の書物を筆写したものだろう。少し戸惑ったが、オランダ語と思って綴りを辿っていくと、タイトルは
Oordeelkundige geschiedenis van het dierlijk magnetismus と読めた。
なるほど、動物磁石 [dierlijk = 動物の、magnetismus = 磁力] だと思ったが、何のことだがわからない。
ちょっと面白そうだ、と思って調べてみた。

動物磁石、という訳語をいつ誰が考案したのかは調べきれていない。
奥村 [2] に拠れば 「附音挿圖英和字彙」 (柴田昌吉・子安峻編, 1873) に
Mesmerism(後に詳述する)の項目があり、"動物磁石力" と訳されているあたりが初出と考えられる、としている。
だが、それよりも20年程溯った幕末安政年間に完成した 「氣海觀瀾廣義」 [3] には既に "動物磁石" という語が見えるので、
(Mesmerism の訳語としてかどうかはさておき)遅くとも1850年代か、それ以前に造られた語だろう。
あるいは中国で漢訳された語かも知れないが、「英華字典」(William Lobscheid 著. Hong Kong, 1866-1869) では、
Mesmerism, Animal magnetism に "身之鑷氣" の訳を当てていて、動物磁石の語は無い。("鑷"の音はジョウ。抜く、という意味がある)
おそらく日本の蘭学者による訳語か、と思う [4]。 以下、「氣海觀瀾廣義」の磁石の項から引用する。
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又ココニ動物磁石の學アリ。千七百七十年「ウェー子ン」府の醫アントン、メッスメル氏、始メテ自然力ノ營爲ヲ考ヘ、別に一見識ヲ建テ、
以テ一異療法を設ケ、鋼鐡若ハ磁石ヲ以テ病者ヲ擦シ、後又手ヲ以テ按摩スル法ヲ設クルニ至リ、コレヲ動物磁石力ト名ヅケ、
金屬ヲ用ヰル者ヲ、金屬磁石力ト名ヅケ、萬物普通の磁石流動物、摩擦セラレテ其運營ヲ進メ、以テ神經ニ感スルニ因テ効アリトイフ。
メッスメル氏自コレヲ秘法トナシ、奇異ノ療法ヲナシ、衆人ヲ怪マシメリ。
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18世紀に、オーストリアの医者メスメル (Franz Anton Mesmer, 1734-1825) は、全ての生物が持ち、生体に作用する一種の流体を仮定し、
動物磁気 (magnétisme animal) と名付けた。そしてその流れを整えることで病気を治療できる、と考えた。これがメスメリズムである。
「氣海觀瀾廣義」にもある通り、メスメルは最初こそ磁石を用いたが、以後は施術者が患者に手を当てるなどして "動物磁気" を整え、治療するようになる。
催眠療法の一種だろう、現在の医学界ではそれ以上の効果は認められていない。

さて、この写本「動物磁石」の先頭の紙葉は、オランダ語の原書の標題紙を改行位置もそのままに転記している。
出版地は "Groningen"、出版年は "1814" とあるので、簡単に原本を特定することができた。オランダ語の原本の書誌情報は以下の通り。

OORDEELKUNDIGE|GESCHIEDENIS|VAN HET|DIERLIJK MAGNETISMUS,|DOOR|J.P.F. DELEUZE.|
UIT HET FRANSCH.|[rule]|MET EENE VOORREDE VAN|G. BAKKER.|[rule]|GRONINGEN,
Bij SCHIERBEEK en VAN BOEKEREN,|1814.
Collation: 8º, †⁸ A-T⁸. pp. [i-v] vi-xvi [1] 2-300 [4]

国内で所蔵している図書館は現時点では確認できていないが、アムステルダム大学図書館所蔵本が pdf 形式で全文公開されている。
元々は "Histoire critique du magnétisme animal" のタイトルでフランス語で出版された本のオランダ語訳である。

写本は縦 267 mm.、横 186 mm.、すべて無罫紙、丁付けは無く、各丁に21行、インクではなく墨のように見え、おそらくペンを使用したものと思われる。
一行目のディセンダーラインは天から約 55 mm.、最下行のディセンダーラインは地から約 22 mm.、綴じられた喉側には約 45 mm. の余白がある。
行間は約 9.5 mm で揃っているので、罫線の入った下敷きを使って書写したものだろう。上述のとおり3冊に分かれていて、
天: 65丁. 原本の76頁19行目まで。原本冒頭の序文、目次は書写されていない。
地: 62丁. 原本の151頁18行目まで。
人: 148丁. 最終頁まで、となっている。
原本の最終頁にある正誤表もそのまま書写されている。正誤表は誤植の単語と対応する正しい単語が(原本の)ページ数と行数で示されている。
筆写本の改行、改頁は原本のそれとは一致していないし、原本の頁付も付記されていないので、
正誤表に従って後で誤植部分を参照することはできないはずだが、本文は修正されていない。
筆写の際に誤写した個所は斜線で消している箇所と、胡粉で塗抹して修正している箇所がある。
字体はオランダ語の筆写にかなり慣れているように見え、全編ほぼ一定の調子で書かれている。
筆記体の字体は e の丸みがなく、i とは点の有無以外では区別できない。u には上部に半円形が書かれている。ee 等の形の似た綴りと区別するためだろう。
書写した人物、場所、時期などについては何も記されておらず、唯一の手がかりと思われるのが各冊の先頭紙葉に捺された蔵書印だ。
蔵書印は篆書体で三文字彫られている。二文字めの「海」と三文字めの「庫」は簡単に読めたが初字に少し手こずった。
竹かんむりはすぐ判別できるが下半分が判らない。篆書字典を順に調べて「籌」の字にたどり着いた。「籌海庫」だ。
「籌」は辞典に拠れば "数をかぞえる竹棒"、"かんがえはかる"、"相談する" 等の意味があるが、この場合は海について考える(海防)の意味だろう。
名前は判ったものの、参考書をあれこれ調べても言及しているものが見つからない。
ネットで検索していると松田清氏(当時京都大学教授、現名誉教授)のブログに 「狩野文庫の蘭書 (2)」という記事を見つけた。 [最終閲覧 2021.10.30]
東北大学附属図書館狩野文庫中の「籌海庫」印のある図書に触れた記事中で、
"「籌海庫」印の由来は未詳である" とし、同文庫に 「アルチルレリー(兵学書)写本 籌海庫主人写 4冊」 があることから、
"「籌海庫」は機関ではなく、個人の蔵書と推定される"、"籌海庫主人とは、誰であろうか" とも書いている。
20年以上前、当時勤務していた図書館の蘭学関係資料に関して松田先生には何度かお話を伺ったことがある。
蘭学関係の洋書に精通された先生がこのように書いている以上、素人が調べても歯が立つものではないな、と匙を投げたのが数年前のことである。

一度諦めた疑問は、何年か後に再調査を試みることがある。
データベース類など、入手できる情報は年々驚異的に増加していて、新たな手がかりが見つかることも多いからだ。
すると 「伊予史談」 384号 (2017) に "「籌海庫」は伊達宗城の蔵書印" というコラムが掲載されていることが判った。 [5]
早速取り寄せてみた。著者は "淳" とあるのみの半ページに満たないコラム (p. 28) だ。
西田泰民氏の 「小林虎三郎訳『察地小言』に関わる蘭語筆写本」(新潟史学 74号, 2016)を引いて、
「籌海庫」が宇和島藩八代藩主、伊達宗城の蔵書印と思われることが紹介されている。 [6]

伊達宗城は、1818年生まれ。福井藩主松平慶永、土佐藩主山内豊信、薩摩藩主島津斉彬と共に 「四賢候」 と呼ばれた人物だ。
藩政改革を進め、蘭学に関心があり、高野長英、大村益次郎を招いている。明治維新後は民部卿兼大蔵卿となった。1892年没。
「伊達宗城公傳」(兵頭賢一, 2006)を調べてみると、周辺人物として町醫清恭(後に布天民と称し、1867年姓を志賀と改めている)が紹介されていた。
「愛媛県史.社会経済6」、「明治維新人名辞典」等に拠れば、天民は文政7(1828)年生まれ。江戸、京都、大坂、長崎などに遊学、
伊達宗城の典医に登用され、維新後は軍医寮の軍医となり、明治4年栃木県医、のち長野県上田病院長となっている。明治9年没。
清恭は1856年、長崎に輸入された医療用新式電気機械を購入し施療に使用することを願い出ている。
「伊達宗城公傳」から (p. 124) 引用する。(旧字体は新字体に改めた)
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当時舶来品一組の代金五拾両であり、薩州公も買上げられたと云ふ。其後吉雄敬齋 [7] が和製を組立てたものの代価は参拾両なりしと云ふ。
安政三年[1856]正月廿七日天民は右購入使用の許可を得、二月廿日長崎に着、吉雄敬齋並に蘭医ハンデンブリュック [8] に就て電気の医療用法、
其効能並に電気の一般用法即化学用、鍍金用、発火用(地雷、水雷等)等に就きて伝授を受けたり。而して電気機械(電池及付属品一組)を
金参拾両にて購入し、五月宇和島に帰着、爾来自ら各種電気機を制作して医療用、化学用等に使用し、且常に長崎より新薬を購入し、
或は自ら製造して之れを使用せるにより、当時不可思議視、魔法視せられたりと云ふと。
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伊達宗城近辺の人物が所蔵していたのなら、当時最新の治療を試みていた志賀天民が参考に閲覧した可能性もあるのでは、と思う。
写本「動物磁石」を誰が何を目的として筆写したのかはわからない。
筆跡から調べることもできそう [9] だが、今のところ手がかりを見つけられない。課題としてもうしばらく暖めて置こう。

--- [以下注] ---
[1]. 京都大学文学研究科図書館蔵。請求記号 言語/2G/138、登録番号 349434。昭和2年5月6日受入、購入元は鹿田靜七、となっている。
 鹿田は松雲堂と言う大阪の古書籍商の主人で、「内外新聞」を発行した人物でもある。
 1905年に亡くなっていて、購入時期は没後かなり経っていることになるが詳細は不明である。
 購入の経緯も判らないが、当時言語学講座の教授だった新村出が関わっていたと思われる。
[2]. 奥村大介 (2014): メスメリスムの文化史. (東京大学大学院教育学研究科紀要 ; 54, p. 1-13).
[3]. 「氣海觀瀾廣義」は川本幸民が著した物理学の啓蒙書。嘉永4(1851)-安政5(1858)刊。
 いくつかの異版があるが、橋本萬平 "「氣海觀瀾廣義」の書誌学" (科学史研究 II, 36, p. 176-178) に拠れば内容は同一と言う。
[4]. 橋本(上記)に拠れば、川本は緒方洪庵が訳した「物理約説」を参考にしたのではないかと考えられる、としているが、未見。
[5]. 飯沢文夫編 「地方史研究雑誌目次速報」 (地方史情報 ; 133号, p. 80、2017) による。
[6]. 西田は、宇和島藩旧蔵書に「籌海庫」の蔵書印があること、また東北大学狩野文庫にる「籌海庫写本蘭書」15タイトル40冊は
 伊達宗城が書写を命じた記録のある蘭書とほぼ一致すること等から「籌海庫」が宗城の蔵書印と思われるとしている。
 ただ、上記松田氏のブログにある写本 「アルチルレリー」は "籌海庫主人写" となっているというから、
 伊達宗城が籌海庫主人だとすると、宗城自身が書写した、ということになるだろう。
 宗城にそれだけのオランダ語の素養があったのか、伝記類を調べたが記述を見つけられなかった。
[7]. 吉雄敬齋は、吉雄圭齋 (1822-1894) の誤記だろう。フォス美弥子の "ファン=デン=ブルックの伝習" (有坂隆道編 日本洋学史の研究 X, p. 193-230)
 に拠れば、圭齋は長崎の医者で、電磁誘導機を製作したという。
[8]. 蘭医ハンデンブリュック、は、長崎出島の蘭医、ファン・デン・ブルク (Van den Broek, J.K., 1814-1865) のことだろう。
 「洋学史事典」に拠れば、1855年来日、1857年帰国となっているが、
 フォス美弥子の "J.K.ファン=デン=ブルックの遺文" (有坂隆道編 日本洋学史の研究 IX, p. 109-136) では長崎到着は 1853年となっている。
 医学、化学、薬学分野の伝習の外、電磁電信機、蒸気機関、石版印刷、写真機等、多くの西洋の技術を伝えたという。
[9]. "籌海" という語は、少なくとも現在は使われない語だと思うが、国書総目録にはこの語を使った海防関係の著作がいくつかある。
 西田によると、小林虎三郎には「籌海試説」というオランダ語の翻訳書があるというので関連があるかもしれないと思ったが
 西田が図示している小林虎三郎が筆写したと思われるオランダ語写本の筆跡は「動物磁石」のそれとは異なるようだ。

(2022.02.02 記)