明治維新の頃、稀代の女傑と呼ばれた女代言人がいた

今では女性弁護士といっても特別に珍しくないのだが法曹界への女性進出の歴史は新しく、
一般には昭和13年に高等試験司法科試験に合格した3人の女性、三淵嘉子 [1]、 中田正子 [2]、 久米愛 [3] がその嚆矢とされている。
それまでは弁護士はずっと男性限定の職業だったのだ。もっとも弁護士は弁護士法制定以前は代言人という名称で呼ばれていた。
明治5年、司法職務定制によって「訴ノ事情ヲ陳述スル」者として代言人が設けられるが特に資格は必要ではなかった。
明治9年には代言人規則が制定され試験による免許制になるのだが、その代言人規則には性別について何も明記されていない。
これは規則の不備と言うよりも、当時はこういう職業に就くのが男性である事は規定するまでも無い当然の事だったのだろう。
同年に出された「婦女ニハ免状ヲ与フベカラザルカ」という伺に対して「代言人規則ニ対スル疑義ニ付テノ司法省指令」には「伺ノ通」とある。
明治26年制定の弁護士法では「成年男子タルコト」と性別要件が明記され、男性の職業である事が法的に定められる。
この要件が昭和8年に削除された事によって女性にも門戸が開かれ、その後上記3人が初めて試験に合格したのである。
しかし代言人規則制定よりも更に前、明治維新まもない頃に唯一の女性代言人として名を馳せ稀代の女傑と言われた女性がいたらしい。
その名前は園輝子と言う。

園輝子の名前を知ったのはずいぶん昔、20年以上前になる。
彼女の自伝「Tel Sono, the Japanese reformer : an autobiography」(New York : Printed by Hunt & Eaton, 1890) を読む機会があった。
新書版ほどで70ページたらずの薄い本だ。扉写真にある左手に本を持った和服で立姿の女性が著者 Tel Sono [4] である。
明治時代に単身アメリカに渡った上に英語で自伝を出版した [5] 程の女性だから少し調べたら素性はすぐ分るだろうと思ったのだが
机上の人名事典、例えば「日本女性人名辞典」や「海を越えた日本人名事典」等をいくつか調べても該当する人物が見当たらない。
さらに大きな事典や当時の人名録等も調べたが掲載されている資料を見つける事はできなかった。
(現在に至るまで彼女を収録した人名事典を知らない。またネット上でも彼女の生涯についての情報はほぼ無いに等しい。)
当時あれこれ探して「明治ニュース事典」に「園輝子」という女性の記事を三つ見つけた。これが彼女を調べ始めたきっかけだった。

以下、当時の新聞や雑誌記事の引用は原則として新字体にし、一部現代仮名遣いに改め、句読点を適宜補った箇所がある。
送り仮名については「所ろ(ところ)→所」、「今ま(いま)→今」など、ある程度現代の用法に整え、明白な誤字は訂正した。
また、輝子の名前を「てる子」「照子」等とする表記も見られるが「てる」の漢字については「照女」などの表現も含めて「輝」に統一した。
「明治ニュース事典」にあるのは次の三つの記事だ。

女代言人の氷店
女代言人の雷名轟く浅草並木町園輝子の氷店 [6] ではこの頃の大暑で、去る十七、八の両日の氷水の売れ高が五十七円八十六銭七厘あったそうだ。
(1876年7月22日、郵便報知)

一時世間に名の渉りたる女代言人園輝子は代言人規則発行の後、更にその業を廃しその鬢髪も流行の大曲髷となし、
大渡辺小太郎 [7] に従い、日本外史、史記等の口説を受けるよし。しかしこのたび馬術の師草苅氏 [8] が飯田町に曲馬を演ずると、
初日に行って総花を打つなど、姿は巾幗[おんな]たれども志は何処やら干顋[おとこ]らしく思われます。
(1876年11月15日、郵便報知)

倚松園女塾を管理、近く開塾
今回麻布仲の町に新設したる倚松園女塾は、去る明治十八年米国に留学し、爾後九年間欧米各洲を歴遊して、
女子教育の方法を実検したる園輝子女史の管理するものなり。その学科は読書、習字、作文、算術、英学、家計簿記、修身、家事経済及び
衣食住に関する事、衛生及び育児法の要旨、礼儀法、和洋裁縫、和洋料理等にて、和歌及び挿花の類は望みによりて教授することとし、
九月十日開塾のはず。
(1894年8月18日、毎日)

どうやらこの園輝子が Tel Sono で間違いなさそうだ。だが不思議な事に記事の内容は彼女の代言人としての活躍についてではない。
どんな女性なのか興味を持ったので上記の自伝をあらためて読んでみた。
その自伝から手掛かりになりそうな事柄を中心に彼女の前半生の概略を抜き出してみると ...

家柄は代々裕福で祖父は "Moan Waka Sono" [9] と言い名古屋に住んでいた。
祖父には歌人の長女、医者の長男、軍師の次男、医者の三男がおり、輝子は三男の娘である。
父親の名前は "Tesai" [10] と言い、東京で医者をしていたが輝子が生まれてすぐ茨城に移った。
輝子は四人兄弟の二人目で男兄弟は医者、妹 [11] は女学校の教師だが、その学校は自身が設立した地元で最初の女学校である。
13歳で輝子は父親から和歌を習い始めた。輝子は19歳で結婚した [12] 。その翌年(1866年)、住んでいた町 "Manaba" で反乱 [13] が起きた。
夫はやがて酒におぼれたため3歳になる娘をつれて実家に帰った(1871年5月2日)。
そこで学校を作り3年ほど教えたが、将来や娘の教育のことを考えて法律の道に進むことに決め娘を残して東京に出た。
三ヶ月ほど代書の仕事をしたのち代言人の仕事を始めたが、女性代言人は彼女一人だけで裁判所に向かうと彼女を見る人垣ができた。
この頃、"N. Ohash" と "S. Keta" の二人の詩人が "Tokishensh" [14] という本に女性代言人の事を書き、彼女の名前が日本中に知られるようになった。
代言人の仕事を12年続けたが [15] 女性の教育向上が大事だと思うようになり、女性の地位が高いアメリカで勉強しようと考えた。
アメリカに向けて出航したのは1885年12月19日、サンフランシスコには翌年1月7日に到着した。
自伝には輝子が日本を離れる時に決意を詠んだ歌が二首挙げられている。

動かじなこの身を千々にくだくとも國にちかひし大和こころは
外国の露とこのみはきゆるとも意むなしくたちかへるべき

自伝に書かれているアメリカでの生活については省略するが到着3ヵ月後に資金を預けていた日本の銀行が破産したため [16] 苦労したが、
牧師 "Meyama" [17] 氏等の世話になり、下女として働きながら初等教育から始めて幾つかの学校に通った。
その当時世話になった人物として Mrs. E.P. Keeney, Mrs. K. Waterman, Mrs. Reid, Mrs. M.E. Harris 等の人物を挙げている。
1889年4月には Woman's Christian Temperance Union (WCTU) [18] に加入する。
1889年5月に Chicago Training School [19] (校長は Mrs. L.R. Meyer)に加わるためにシカゴに移るが
その際、WCTU の会長 L.M. Carver がユニオンシグナル(6月13日)に輝子の記事を書いている。
1889年の11月までシカゴにいたが、その後ブルックリンの Missionary Training Institute [20] (Mrs. L.D. Osborn が校長)に移っている。
1889年のクリスマスには洗礼を受け Japanese Mission of Methodist Episcopal Church に加わっていて、サンフランシスコに戻っている。
そして最後にこう書かれている。「私の計画は故国にクリスチャンの学校を建てる事。」

この本 [21] の巻末には輝子が書いたパンフレットが貼付されているものもある。1892年頃書かれたものと思われるが、
学校設立のため基金を集めるための「Tel Sono Association」の会則や役員の名前 [22] があり、賛同者のメッセージも添えられている。
その中には "Teijiro Kito" [23]、 Mrs. A.J. Gordon [24]、 William Elliot Griffis [25] 等の名前が見える。
また、この自伝はイギリスの Parents' Review [26] という雑誌にも1893年に転載されていて、基金を募っている事も付記されている。

いくつか書かれている年号と年齢から判断すると彼女は1846年の生まれということになる。
自伝にある祖父や父親の名前の漢字が調べてみても分らなかったのだが、自伝や新聞記事を読む限りはなかなかの偉人ではないか。
なのになぜ彼女の名前が事典類に収録されていないのだろうか。この学校は、そして彼女はどうなったのだろう。改めて調べて見た。

1886年1月22日の読売新聞に輝子渡米の記事がある。
「園輝女洋行。奇婦人を以て称されし園輝女は今度感奮せるところ有って米国へ渡航し学業を収め女子教育法を研究し
帰朝のうへは女子の地位を男子同等に進ませるの覚悟なりと。」

1894年9月16日の同新聞には開塾の記事がある。 [27]
「倚松女塾の開塾式」
麻布仲町に設置したる倚松女塾 [28] は昨日午後一時を以て開塾の式を挙げたり。
先ず牧師の祈祷あり次に呉大五郎 [29]、 渋沢栄一 [30]、 美山貫一氏の演説あり。
最後に塾主園輝子氏は同塾設立の趣旨及び米国留学中の困苦より欧州漫遊の実況を述べ之にて式全く了り茶菓の饗応あり。
夫より來賓一同を楼上に案内し欧米より持来りたる珍草奇木、玉石其他雑品及び風景人物等の写真を縦覧せしめたり。
来会者の重なるものは土方 [31]、 大越 [32]、 浜尾 [33]、 等の各夫人、津田梅子 [34]、 渋沢、津田仙 [35] 等の人々なりし。

「奇婦人」と言う紹介が気になるが、開塾式の来会者を見ると錚々たる人物が並んでいる。
だが開塾の式典で「珍草奇木 ... を縦覧」とはちょっと奇異な感じがしないでもない。
1915年3月14-18日の同新聞に「日輝法尼」という連載記事がある。彼女の晩年までのおおよそを知ることができる。

「日輝法尼」(1)
本門寺の境内に幽邃なる右松庵
ここは府下池上本門寺境内で御座います。幾百年の齢を経し松杉の大樹森々と聳え立つ間を香の煙のさながら羽衣の棚曳くようにうっすりと
静に縫ひ廻っている幽境を、右に進んで山の中腹に降らんとする途中、右松庵 [36] と門札うった瀟洒にして言い難き一種の趣ある家があります。
之ぞ園権大納言の後裔で一代の女傑として日本はおろか欧米の隅々迄名声を轟かした園輝子刀自、今は世俗と縁を断ち切った日輝(69)法尼が
晩年の住家でございます。家の後をぐるりと廻って山の襞目を降り台所口から訪うと庭伝に縁に廻されました。やがて奥から「私がその園ですよ」と
声もろ共ガラリと硝子障子を開け凝っと視線を注がれた老尼、五十七八歳にしか見えぬ上に壮者にも見られぬ白き豊頬の艶々しさ、身には純白の
ネルの着物に同じ羽織、爽やかな張りのある声、浄地に匂う白木蓮の化身の出現ではないかとしみじみ記者は見上げました。
「遠慮する事はない、ずんずんお上がり」といいながら、二十余畳押し開いた座敷の火鉢の前に導かれました。
南の縁側のガラス障子越しに荏原郡一帯が広々と展開している。
庭から坂をなして梅樹満開、鴬の声が其処此処に聞える、「どうだ実によい処だろう」と住みなれた法尼でさえ今更のようにいわれました。
法尼は貴顕名門の交友が多く、二三日前も女官小池道子 [37] 女史から「いとまあらばそのふの松のかをとひて高き教をきかましものを」という一首を添えて
茶と菓子を送り越されたが「たまはりしお茶のかをりをききながらいただく菓子の味は又妙」と誠に淡々たる風、
けれども追憶の糸をたぐれば流石勃々と血潮は湧き立ち物語は縷々尽くべくもありませんでした。
法尼即ち輝子は医者園貞齋の長女、常陸土浦に成長しましたが、幼時から異才はあらわれ地理学者として名高く現に芝公園にその碑が建てられている
伊能忠敬 [38] がわざわざ園家に行って「花匂う末の栄ぞ思はるる今日尋ね来し園の撫子」と嘆ぜられた程でした。
輝子は十八歳の時ある藩士に嫁ぎました。間もなく廃藩置県の大変革で士族は禄の代りに一時金をして公債証書 [39] を与えられました。
所謂士族の商売で何れも失敗、輝子の夫も此仲間に入りかかった時「先祖のお庇で頂戴した公債を消費し、家を亡す様な事があっては妻として
家を治めている私が申訳が立たぬ、公債に手をつける位なら離縁して下さい」と抗議したが、矢張り支え切れず輝子を離縁という事になりました。

「日輝法尼」(2)
派手な姫様代言人輝子洋行を企つ
離縁された時輝子は豊子という三歳になる娘を連れて生家に帰りました。
此の娘こそ今の海軍軍医大監中島彜雄 [40] 氏夫人であります。生家は豊ではありませんでした。愛子の教育のため、又、自分の発展のため何か
一仕事をせねばならぬ、それには東京に出て勉強するより他にはないと輝子は考えました、両親は之を許しません。
輝子は妹春子と机を並べて習字をしている時、妹の草紙へそっと「私、東京へ行こうと思ふが春ちゃんはどう思って?」、
妹は大賛成「私も行きたい」と書きました。両人脱走の約束が成立した、二三日後それは丁度日本で始めて戸毎に国旗を掲げた日でした。
見物にかこつけ二人は家を抜けて常陸よりとぼとぼ浅草の知人を頼って来ました。間もなく追手が来て両人は国へ連れかえられました。
豊子は母の輝子を見て嬉しさの餘り泣きつきました。輝子も此の可愛い子を置いて何処に行かれようと泣いて泣いて涙の泉が枯れました。
然しよく考えて見れば目前の事に負けて大事な将来の計を破ってはならぬと今度は只一人、一通の書置をあとに一円余りの金を握って再び出京しました。
そしてある人の世話で代書から代言人仲間に入る事になりました。
初めて仲間に挨拶に出た時の輝子の扮装は、小倉袴に靴、髪は束髪でした。日本婦人の束髪の元祖 [41] は輝子で、又、日本婦人で代言人になったのは
後にも先にも此の輝子一人であります。弁舌爽かに論旨堂々たる「お姫様代言」如何ばかり満都の好奇心をうならせた事か、輝子は代言をして
巨額の金を握ったが [42] 元来無欲で只一片稜々たる侠気に燃え立っていたので、義の為には惜しげもなく金を撒布しました。
此の時東京は桜花の如く華やかに潔よき江戸気質が衰滅の時でした。輝子はいよいよ江戸人最後の打留としてぱっと現はれた女王の如く輝き、
満都の人気は輝子一人の為に華麗爛熟の極に達しました。
その頃輝子は本所の草刈庄五郎という馬術の名人に弟子入りしていました、お召縮緬の羽織に仙台平の袴、馬上豊に紫縮緬の手綱をかいとりながら [43]
市中を行く輝子を人々は追い駆けて見物しました。立寄る茶屋ではお大名を迎ふる格で之に対しました。
鳶の者などは輝子の為めとあらば瞬く間に数百名、輝子の前に勢揃いをするようになっていました。
中江兆民 [44] や風月堂 [45] を首め名高い人々で輝子の世話になった人も非常にあり風月で毎年輝子に餅を送る例は此の時からです、
そうこうしている内に輝子は己が義侠心によって瀕死の処を救った渡邊丈太郎 [46] という男と結婚しました。
渡邊は妻に命を助けられ、妻に法律学校へ通わされた、妻の助手とされた、万事頭の上がらぬが非常な苦痛、遂に放蕩を始め夫婦別れとなりました。
間もなく弁護士規則が出来て婦人弁護士は廃止になりました。
輝子は多くの裁判に立ち会って日本婦人の悲惨な境遇を知り心ひそかに泣いていました、何よりもしっかしした女子教育を隆盛にせねばならぬと
茲に洋行を思い立ち慶応義塾の福沢諭吉 [47] 氏の処へ相談にまいりました。

「日輝法尼」(3)
一代の女傑輝子も米国で下婢となる
福沢諭吉は勿論輝子の洋行には大賛成でした。輝子は此時三十八歳、英語は一字半句も知りませんでした。
若し其の望みが達せられなかったら再び日本の地を踏まぬという誓を立て愈二三ヶ月後に出発する事に決しました、
処が福沢氏は其の翌日の新聞に、直ぐに輝子が出発する事を掲載 [48] しました。
之を見た輝子は「ははあ之は自分が女だからどんな事で挫折せぬとも限らぬ、
早く出発せよという催促だ」と見てとり直に支度にかかり巨額の貸金の証文は洋行祝いとして熨斗をつけて返し、自分はたった百九十円を懐にして
明治十八年十二月十九日勇心勃々遥か北米の空を望みつつ太平洋の波涛に乗り出でました。
流石故国の懐しさよ。気丈の輝子も甲板の欄に椅った儘、次第次第に青い浪の裡に沈み行く陸地に名残を惜しむのでした。
観音崎の灯台をみてはライトハウスと叫ぶ、朝起きるとグッドモーニングという、それら外人の言葉を輝子は吸い付けられるように熱心に耳を傾け、
桑港に着した時には朧げながら一通りの会話が出来る様になりました。
桑港に着するや牧師美山貫一氏の世話で、やっとの事南京町の床下の暗室に部屋を得、此処からある家庭へおさんとして一週間二弗の割で
朝六時から八時迄通勤する事 [49] になりました。南京町といへば不潔と罪悪の巣です [50] 、此る中に輝子は平然として、夜になると、
四書の講義を聞かせていました、日本では一代の侠客新門辰五郎 [51] を辰や辰やと頤使した輝子は、米国に於いて石炭砕きに迄なって苦しみながら
小学校を卒業しました。それが四十二歳の時です。卒業後輝子は桑港婦人会、即ち園輝会を創立しました。藤井領事 [52]、 早川鉄冶 [53] 氏を首め丁度
其時鉄道視察の為め渡米された奈良原繁 [54] 氏の外土方久元伯も輝子が帰朝後の計画を聞いて非常な感動、夫々助力する処がありました。
殊に土方伯はかつて東京で「心あらば人に見せばや金座の朝日ににほふ園の梅が枝」と輝子を賞賛された人、今又万里の異境に於てかくも
赫々と輝く有様と見てその喜びは一通りではありませんでした。輝子は一流の演説家、園輝会の会長として米国に名声を博したが、
まだ修行不足との事で市俄古[シカゴ]の教育学校へ入学しました。之からも輝子の朝日の登るが如き生活が又もや異域に於て開かれます。

「日輝法尼」(4)
大統領に玄関まで送り出された輝子
明治二十二年四月二十七日市俄古にまいりましたが餘り感心出来ぬ学校だったので、紐育[ニューヨーク]に転校しました。
前後四年間苦学時代の自叙伝は此校にいて書いたもので、無上の歓迎を受け、総売上高一万一千円に達しました。
紐育滞在中輝子は毎日平均三ヶ所の演説会に臨み時には数万の聴衆を相手にした事もありました。
輝子が世界婦人矯風会 [55] 参列の為ボストンに行った時、満都の歓迎の光景は実に前代未聞で、
現外国語学校教授村井知至 [56] 氏の如きはそれを目撃し驚嘆の声を放った一人であります。
輝子其時の扮装は黒緞子の着物に黒緞子の袴、中央に日の丸をそめ出した幅二尺五寸長さ四尺の「バンナア」を捧げて進んだのであります。
猶ほ輝子の最大名誉は華盛頓で「レセプション」の式を受けた時 [57] です。此式を受けたさに欧米貴婦人は数万の金を投じて運動し
やっと思を果すのです、我遣米大公使でさえ受けた事が無い処へ輝子は式の正面に着席、鞠躬如として進む各国大公使に握手を与えたのであります。
それから大統領訪問、大統領にわざわざ玄関まで見送られたのは今日迄の日本婦人では輝子一人です。
輝子は自分が学んだ学校に「プアクロゼット」の制を遺し貧民救助の便を立て
園輝会より年々六千円づつ日本に於て輝子設立の学校へ送金する約束を結んで英国へ渡りました。
英国の公使館に着するや大演説をして時の公使即ち今の枢密顧問官河瀬真孝 [58] 氏をはじめ領事大越成徳、佐藤愛麿 [59] 諸氏を感嘆させました。 [60]
在欧七ヶ月、殆んど足跡の至らなかった処はありませんでした。 [61]
英国を後に懐しき日本に向かって出発したのは明治二十六年九月一日でありました。
神戸に着するや先づ愛嬢中島豊子へ打電、押しつぶされんばかりの出迎に囲まれて着京するや先ず福沢諭吉氏に対面、
苦学八年の物語に流石の輝子も思わずホロリと涙を落したのであります。
やがて輝子は麻布に倚松女塾を建立し日本女子教育に一身をゆだねる事になりました。

「日輝法尼」(5)
世人の嫉妬に呆れはてて隠遁生活
女の腕一つでこれだけの大成功は不思議である!と実際輝子の人物を知らぬ上に嫉妬心の手伝った宗教家達は輝子が目障りでならぬ、
そして遂に己が同胞の一婦人を詐偽者であるかのやうに外国に対して忠義顔に種々申送り、米国の園輝会を解散し輝子への送金を杜絶させ、
又此方の新聞社をおだて上げて輝子の名誉を傷つけたのであります。
そこで輝子は法廷に訴へその新聞社を閉鎖させると同時に名誉毀損の謝罪をさせた [62] のであります。
然し何と申しても維持費が出なくなったので余儀なく塾を閉じて仕舞ました。 [63]
此時宮中に奉仕する事をしきりに勧めた人もありましたが、輝子は「自分は生涯、民間で心も身も自由勝手で通したいから」と断り
伊豆伊東に退き七百六十円で土地を求め八間四方の二階家を造って伊東婦人会 [64] を興し大活動を始めましたが、
まもなく輝子はその土地と家を五千五百円で売り払い池上本門寺に来て今の庵を建てたのであります。
財産全部を渋沢栄一氏に託し [65] 自分は黒髪を断って常寂院日輝法尼となり、朝夕静かに行い澄まして居ります。
金の心配は少しもない、世俗には一点の執着もない、今は悠々寂々毎日古今東西の書を読み耽るのが仕事、
又何よりの楽みは人や世の為に尽す事です。本門寺大客殿の新築往き悩んだ時など真先に百五十円を寄付し続いて一万五千円の借金の世話、
松苗千本の寄進、又土地の学校へ百五十円の寄付、貧民生徒の毎年教科書贈与、其他赤十字、愛国婦人会、日清日露戦役軍需品寄附等 [66]
公私の義捐数限も有ません、法尼は人を助けても決して礼を望まない、「私はあなたが心から喜ぶのが嬉しさにお助けするのです、
あなたの喜び顔が私への何よりの感謝です、お心はわかっているからお礼の手紙など送らぬよう」と必ず申されます。
それでも礼状をよせて来ると「私があれ程云ったのに、無駄な事をする人だ」と不機嫌です。
一昨年十二月のある朝の事でした。広い平野を見渡しながらいつものように庭前をゆきつ戻りつしていますと
何とはなしに一種の感に触れた、それからどうやら心気に変動がありましたので之を上人に計った処が
「一心不乱に法の道を辿っている者でさえその霊感を得る事は容易でないのです。貴女は悟を開かれたのです。」
と感嘆せられたのです。法尼は境内に自分の墓迄建てて居ります [67]。 全く楽園にある如く日々を楽しんで居ります。
そして時々只一人諸国遍歴を思い立ち悠々その心霊を大自然の威力と融合させては愈深き修養の道を進んでおられるのであります。[終]

さらに同新聞1916年3月27日にも園輝子の記事がある。

明治の女傑の寿筵 我国女代言人の元祖 博士も八百屋の爺さんも同じ食卓
府下池上本門寺境内に悠々余生を楽しんでゐられる日輝法尼事園輝子刀自(70)の延命祝賀会は小谷部博士 [68]、 等主催の下に二十六日午後一時より
池上小学校に於て開かれました。刀自は昨春「日輝法尼」の題にて本紙に掲載した通り園大納言 [69] の後裔として常陸土浦に生れ
十四才の時地理学者伊能忠敬より「花匂ふ末の栄ぞ思はるる今日尋ね来し園の撫子」と称えられたに対して即座に
「里馴れぬ谷の鴬巣を出でて博士の君に逢ふぞ嬉しき」と返歌して驚嘆させたのであります。
十八歳で嫁し一女を挙げたが故あって破鏡の嘆に会してより出京して女代言人となったが之れは我国女代言人の元祖であります。
女ながらも侠と義の権化かの一代の侠客新門辰五郎さへ「辰や辰や」と呼ばれながら刀自を敬ひ参じて居った有様です。
小倉袴に西洋靴唐人髷を結って紫縮緬の手綱をかひくりながら馬を進める輝字女史の姿を見ると人々は「園女史が園女史が」と嘯きながら
道を開いて後姿を見送る程鳴り轟いたものでした。
明治十八年女子教育研究の為洋行を決心し日本の金を費さずに外国の金で勉強し其上どれだけ婦人の力の偉大なものであるかを
試みて来て下さいといふ餞別の言葉を受けて飄然として先づ渡米し女中奉公よりはじめて八ヶ年辛酸を尽し四十二歳の時基督教婦人矯風会に入り
続いて桑港婦人会、園輝会を起し、欧米貴婦人すら容易に叶わぬ大統領のレセプションの式を受け、それより欧洲各国を遊説し明治二十七年明治唯一の
女傑といふ賛辞を浴びせられつつ帰朝し、翌年松園女塾を開き年来の志望通り女子教育に従事し初めたが邦人基督教信者と衝突するに及んで
隠遁を思ひ立ち、三十七年本門寺の丘の中腹、品海を一望にあつめ得る処に間口六間奥行四間の庵を造りその心神を天地の霊気に融合せしめつつ
朝夕を長閑に送って居られるのであります。
人に慈愛をかくるが何より楽み、昨日の祝賀会の如きもその隠徳に浴した村民や小学校生徒数百名が会場に集まって刀自の来場を待つ、
一方刀自は寓居友松庵に出入の大工、経師屋、鳶者、女中等を呼んで日頃の厚意に対する感謝として金包を分って居られる。
祝に来た八百屋の爺さんも主催者の小谷部博士も一所になって働きそして同じ食卓を囲んで赤飯を食べてゐる和気藹々たる様のめでたさ。
やがて刀自は渋沢男より祝に送られた薄藤羽二重の下に白無垢、黒縮緬の被布という扮装で会場に出ると一同君が代の合唱、それから
池上小学校長、本門寺執事、有志諸氏の祝辞や諸方よりの祝歌披露の後、小学校生徒の唱歌、松村介石 [70] 氏の講演及び教談師野口復堂 [71] 氏が
刀自一生の物語をなしたあとで刀自の懇なる謝辞があり午後五時閉会いたしました。
知己やら村民が一致して慈母の寿を祝ふが如く心から打ちとけて働き喜び合った純朴にしてあたたかな会は稀に見る処でございました。

さらに1919年2月10日朝刊の記事。
米国で憲法発布を聴く 婦人最初の洋行者たる日輝法尼
日本婦人最初の洋行者として昔時は女弁護士までされた園輝子さんは池上本門寺に友松庵日輝法尼として行ひ澄して居られますが、
九日幸路を踏んでお訪ねしますと卅年前憲法発布当時の思出を語られる。
憲法が布かれてもう卅年経ちますかねー,左様左様私は丁度市俄古の学校にゐた時でしたよ。貴女のお国にも憲法が布かれたというて
私が平常を知ってゐる友達は何れも祝ってくれましたが,何しろもう私は浮世を離れて了ったので昔日のことはよく覚えてはゐません。
ただ当時不幸にして家庭から離れた私は我日本と外国との婦人の権利が大分異ってゐるといふ点から、
それには屹度其処に根本的に何か異った女子教育の大きな力があるに違ひない、其処を一つ研究して見たいと思って外国へも行ったのでした。
其前ですか、エー、私は矢張り恁うした気質で優しい文芸よりは政治的な方面に熱を有ってゐたのですが、
何も自ら社会に立って政治運動を致さうといふやうなことは好みませんでしたし又当時それ程の心の余裕よりも自分を修めることに匆忙だったのです。
其当時の婦人ですか、いえもう何も記憶は残ってゐません私が最初目覚めて手を取って貰ったと思ふ人は
岡松甕谷 [72] 先生でそれから福沢諭吉先生です。
福沢さんは私が洋行する時、婦人が洋行の皮切りとしては大賛成だがどうか今迄の男子の洋行のやうに徒らに日本の金を捨てて来ずに
無一文で行っても大に釣銭を有って来るやうにしてくれ...とのことでした
当時英語のいろはも知らない私に左様した大任をどうして果せやうかと思ったのでした
又今考へると随分大胆不敵な者だったので、それから八年間亜米利加で苦学した事は数限りもありませんが、
兎に角帰朝た時に、再び福沢さんに逢って其逐一の談をすると福沢さんは丁度廿分許りただ黙って私の顔を凝視めてゐられたが、
やがてイヤ、それでは吾々男児たるもの誠に恐縮の他はない... との御言葉でした。
左様、大山夫人 [73] や瓜生夫人 [74] の洋行は私より一年半程晩かったでしたらう」と日輝法尼は全く浮世を忘れたやうでした。

輝子に関連する事柄と共に簡単に年譜をまとめてみた。(一部年齢から推定した年がある)
西暦(元号)年齢
輝子の足跡 [関連事項]
1846 (弘化3) 医師園貞齋の娘として江戸で生まれ土浦(茨城県)で育つ。
1865 (慶応1) 19 歳 結婚 (ただし結婚は1863年の可能性がある)。
1871 (明治4) 25 歳 離婚して実家へ帰る。[津田梅子ら渡米]
1874 (明治7) 28 歳 この頃まで茨城で教師をしていたが上京、代言人となる。その後再婚しているが弁護士規則ができる前に離婚したらしい。
1876 (明治9) 30 歳 代言人規則制定後は浅草で氷屋を営業したり、渡辺小太郎の許で学んだりしたらしい。[代言人規則制定]
1885 (明治18) 39 歳 12月、渡米。
1886 (明治19) 40 歳 1月、サンフランシスコに到着。[東京婦人矯風会が結成される]
1888 (明治21) 42 歳 アメリカで小学校を卒業する。
1889 (明治22) 43 歳 4月、Woman's Chrisitan Temperance Union に参加。その後シカゴ、ニューヨークへ。
1890 (明治23) 44 歳 アメリカで自伝を出版。
1891 (明治24) 45 歳 11月、ボストンで行われた WCTU の大会で演説をする。
1892 (明治25) 46 歳 この頃、WTCU で盛んに演説をしている事がワシントンポストなどの記事に見られる。
1893 (明治26) 47 歳 1月、渡英。9月に帰国の途に。
1894 (明治27) 48 歳 9月、倚松園女塾を開塾。
1898 (明治32) 52 歳 伊豆で伊東婦人会を開く。
1904 (明治37) 58 歳 本門寺に隠遁。
1916 (大正5) 70 歳 古稀の祝賀会が催される。
1925 (大正14) 79 歳 この時点で生存。

輝子の自伝や読売新聞の日輝法尼の記事を読む限りは彼女の人生は
「大志を抱いて渡米し苦学、帰国し女子教育を志すが、あらぬ妨害を受け断念せざるを得ず出家して余生を送った女性」といった感じだろうか。
親分肌で行動力はあったが女性である彼女が活躍するには生まれた時代があまりに早すぎた、といった印象も受ける。
だが自伝にはちょっと眉唾くさい逸話もあってちょっと風呂敷を広げすぎているようにも思えるし、
アメリカでキリスト教の洗礼を受けた人間が後に出家するというのも奇妙な話だ。本当の姿はどうだったのだろう。

毎日新聞の1886年7月10日に「在桑港日本人」という記事がある。輝子渡米の頃のサンフランシスコの日本人の様子が窺える。
それに拠ると当時のサンフランシスコ在住の日本人は数百人程度だったらしい。学生は20人ほど、それ以外は殆んどが労働者であり、
しかも条件はかなり悪かった。経済的にも精神的にも彼等のよりどころとなったのが教会であり、美山貫一らの福音会がその中心であった。
宿の世話などもしており、キリスト教徒であるかどうかに拘らず何らかの形で福音会とつながりを持つ者が多かったようである。
その福音会の記録をまとめた「福音会沿革史料」でアメリカでの輝子の様子を知る事ができる。
輝子が渡米以前からキリスト教に関心があったかどうかは分らないが、自伝の中では幼少時から偶像崇拝などはしなかった、などと
進歩的な面を強調しているし、渡米前、日本での宣教師の活動などから海外の教育事情等を知ったようだから、
案外すんなりとキリスト教になじんだのかも知れない。

「福音会沿革史料」には1886年9月11日の例会で園輝子が演説したとある。また、1889年3月16日には
「此夜婦人慈善会ありしを以て例会を開くこと能はず。慈善会は其第三回にして司会者は園輝女史なり。
之より益其働を広くせんとの企てにてミッセス・ハリス以下数人婦人の演説あり。頗る盛会なりしが恨くは少く不規則に流れ
会衆をして満足して散解せしむること能はざりき。然れども将来の望は甚だ豊なりと謂うべし。」と書かれている。
また、この日の事を伝えた桑港新聞記載の記事として
「会主園輝女史が例の滑稽を以て本国女子の情態より男女同権の困難を説き、自己の経歴と将来の希望及び婦人慈善会の目的は
善良なる婦妻君を養成するにありと論ぜり ... 最後に山口肇は大いに「会主が滑稽を以て落語家然たるの演説は最も不都合の極なり」と説き
一時は非常の混雑を生ぜしが、ハリス婦人の頓才奇語に依て波瀾を生ぜず閉会す。」とある。
輝子の演説は代言人時代に鍛えられたものに違いないが 「滑稽をもって落語家然」と評されているところを見ると
理路整然と自説を展開、説得するような物ではなく、かなり俗っぽい大衆受けする漫談のような物ではなかったかと思われる。
輝子の記事はこれだけであり、福音会とはやや距離を置いていた可能性もある。

自伝にもあるように輝子はアメリカで WCTU に参加している。
1886年、WCTU のレヴィット(M.C. Leavitt)が来日し各地で講演を行ったのをきっかけとして日本でも東京婦人矯風会が結成される。
1887年にはアメリカ留学中の根本正を介して東京婦人矯風会の設立を WCTU の会長ウィラードに報告している。
1893年には各地の矯風会の全国組織として日本基督婦人矯風会が設立された。(現: (財)日本キリスト教婦人矯風会)
輝子が渡米し WCTU に参加、活動し始めたちょうどその頃に日本でも急速に婦人矯風会の運動が広がることになる。
日本基督婦人矯風会は1888年には機関紙「東京婦人矯風会雑誌」を発刊する。
後に「婦人矯風会雑誌」、「婦人新報」と誌名を変えながら活動を拡げ、多くの活動家が寄稿しているのだが
その総目次(復刻版. 不二出版)を調査したけれどこの雑誌に帰国後の輝子が寄稿している様子はない。
「日本キリスト教婦人矯風会百年史」にも輝子の名前は見当たらない。
また婦人矯風会は各地で会員らが演説会を開いているが、演説が得意なはずの輝子が日本で盛んに講演した様な記録は見当たらない。

輝子の渡米中から帰国直後にかけての時期にリアルタイムでその消息を伝えた雑誌に「女学雑誌」 [75] がある。
その記事を読んでみると、どうも様子が違っているのだ。主な記事を追ってみる。

162号(1889年5月18日)に、輝子が米国桑港日本婦人慈善会でナイチンゲール伝を演じたという短い記事がある。
調べた限りではこれが彼女の名前が見える最初の記事である。また166号(1889年6月15日)には「園てる子女史」と題して
「同女史は長く当地に在りて勉強し、且つ婦人慈善会等のために尽力し居られたりしが今度シカゴなるジャコネツスクール [76] に入学の目的にて
昨九日当地を出発せられたり。卒業帰朝の後は専ら我邦婦人社会に働かんとて熱心し居られる由(ザ・スチーマー六月分)」 [77] とある。
滞米時の輝子の消息は初めは海外事情を伝える「外報」として短く伝えられるに過ぎない。
それも日本では名前があまり知られておらず、なんだかアメリカでがんばっている日本人女性がいるらしい、といった感じである。

172号(1889年7月28日)では以下のように比較的詳しく紹介されている。
「日本改革者園てる嬢と題して、去六月十三日のユニヲン、シグナル雑誌に米国サンフランシスコ婦人禁酒会頭カルバー夫人が記載せられたるものを見るに、
嬢は日本上流の人の子にして、父は医師たり、身らは代言を業としたるが、本邦に在る間だ宣教師等の景況によりて略ぼ米国の情実を推知し、
五年前即はち千八百八十五年十二月断乎独行して彼国桑港に渡り、先づ支那日本美以美伝道会社に行き、宣教師マスター氏 [78] の保護を受たるが、
其后美山貫一氏の勧めに従がひ、或る家族の仲働らきとなりて専ぱら英語を学び、刻苦して三ヶ月内に第一第二読本を読了したり、
然るに此頃ろ嬢が多少の金を預置たる日本国の某銀行破産したりしかば、兼ての予算俄かに相違し、非常の辛苦を為したりしに、
キーネー婦人と云へる人の信切によりて其家に同居し、只管ら学を勉め、又基督教の道に感じて大に改悟し、宣教師ハリス [79] 氏によりて受洗したり。
之よりして嬢が志望翻然一変し、真正の改革は只伝道にありと確認して大ひなる熱心を以て道を伝ゆる事に決念し、一意教理を研窮し、
又有志者と計りて桑港に婦人禁酒会を起し、或は同志者より一百弗を集めて桑港校(伝道女学校)に入校したり、出発する砌り、
桑港在留の学生一百余名集まりて静粛なる送別会を開きたりしに、嬢は熱信なる勧話を述べて大ひに聴衆を感動せしめたり、云々と。」 [80]

以下303号(1892年2月6日)
「園てる子夫人 米国女学新誌 [81] は記して曰く、日本東京の人園てる子夫人は過る二ヶ月間ボストン府及び近傍諸所の教会を遊説せられぬ、
主なる目的は日本上流の婦女子の為に基督教主義の学校を建設せんとての基本金募集にして中にもボストン府エーゼー、ゴルドン夫人等は
尤も熱心なる助力者なり。夫人は日本に於ける女代言人の最初のものにして尤とも同国婦人の位置の賎しきに懸念し如何でか之を高めんと
非常なる熱心は遂に今より四年前夫人をして米国に渡来せしめぬ。されど不幸にもカルフォルニア州に着するや未だ日浅きに夫人が資本金を託せし
銀行の閉鎖せしが為め遂に幾多の不慮の困難に遭遇しけれど夫人が熱心は此等をよく耐え澆き加ふるに其中にてよく英学を修め遂に紐育府
ブルークリンなるヲスボン夫人の伝道学校に日本語教師として聘せらるに至れり、夫人が経歴は大に見るべきものにして今は
「日本に於ける余が成長」 [82] と題し小さき書を版し自叙せられしものありと。」

346号(1893年6月10日)
「園てる女史。 女代言を以て一時都下に名高く、磊落不羈夏時一襲の単衣手拭を肩にして湯屋に入るや、一気兵児帯を脱して衣褌と一丸棚裡に投下し、
去って揚々板間を濶歩し、小桶を一転して之れを腰にし、バンツサン洗しだの一声に凡婦をして後に瞠若たらしめし園てる女史は渡米せりとの噂以来
近頃聞く所なかりしが今は突然英京倫敦ウエストミンスター、ガゼット [83] 紙上にその消息を聞けり、こは該記者の女史現寓同市南ケンシントン、コロンエル街
十三番館を訪ひし記事なり、其記載に依れば女史は渡米後貯金預先の銀行倒産に依て大に悟る所あり、代言業の一方を利すれば必ず一方を害せし報と諦、
左程苦にもせずして幾多薪水の労苦を経遂に基督教に入て伝道諸学校の諸嬢と交り邦語と英語を交換して、はては宗教上にも力を尽し、ムーデー [84]
サンキー [85] などいふ当時北米に有名の宗教家にも相見るを得、ここに日本高等女子教育の事業を企画し自己の名義を以て大に義捐金額を集、
さてはブルック氏 [86] の勧に応じ倫敦に至り、夫の女学校設置資金募集に勉めつつあるなり、其記事中女史は日本の貴族に出で父は学者にて、
曽て大蔵官吏に婚し居ること三年にして、日本の風習の如く離婚なせしとあり、彼の渡辺小太郎氏と結婚せしことならんか [87]
又日本に女の代言は女史が空前絶後なり、そは日本は憲法発布以来女子の弁護士を禁ぜしを以てなりとあり、
記者との談話中には五月には帰朝するよし云々改進新聞 [88] に見ゆ」

366号(1894年2月3日)
「園テル女史。米国の諸新聞紙上に其名さわがしかりし園テル女史も亦帰朝ありぬ。所謂る、日本女性の改革者たるや否やは、
今后その実行せらるる所を見るの外なし。」

378号(1894年5月5日)
「園てる女史自叙伝。「日本の改革者園てる女自叙伝」と題する英文の一書、ニウョークのハント書店にて出版せしものを、
此頃ろ領けて一読せり。同女史は、近月帰朝せられたる婦人なるが、其の米国に於ての募金運動殊の外目立ち、
而も所々に宣伝せられたる演説の極めて壮大なりしかば、帰朝の後の現在は抑そも如何に起居せらるるならん、
其近況に加へて兼て其履歴をも知らせくれよなど申し越さるる外国人も尠なしとせず。
抑そも、「テル・ソノ」と云へる名は二三年此の方外国の新聞紙にて毎度見掛たることもあり [89] と雖ど、
其の洋行前は、本邦にて如何なる生涯を送られたる人なりや、餘り公けに聞き知りたることもあらざれば、
然り斯々の名女なりしと答へんようもなく、左りとて其近状に就きては、未尚ほ精しく探知するの折を得ざりしに当って、
端なく先づ此の一書を手にし、反って外国文によりての案内をうくること奇と云ふべし。
然し乍ら、此は、輝子女史が自作の叙伝なれば、其履歴を知らんが為には、蓋し、此に優りたる手引あるまじとは思はる。
此書開巻第一に、輝子女史が肖像をかかぐ。一巻の書を左手にかかえ、右手をたもとに突袖したる和装の躰たらく、想ふに、
海外数千方理を廻って、白皙人種が面前に洒々として演説せられたる折の現態なるか。当年の風采、眼前に在り。
題して自叙伝とあれば、素より著者が自作に相違あるまじきが、園輝として、下に日本の改革者と自から注せられたること、少しく異様に見ゆ。
目録十一章、両親の系統、自己の学問よりはじめて、シカゴに於ける遊説の事、並にユニヲン・シグナル雑誌の評文などに終る。
六十頁の叙事なかなかに尠からず。今、其巻末に見えたる世に訴ふるの開書なるものを見るに、英文の大意、左の如し、
妾は、眇乎たる一個の日本婦人なり。十三才の時、吾が父の教へによりて、真の神を認めたり。妾は未だ曾て偶像を礼拝せしことあらず。
二十六才の時、東京にて代言人となりたり。
日本にては、婦人にして代言人となりたる事、古来より例しなきことなり。代言の業を営むにつれ、吾が国の婦人が現状如何なる乎を初めて認識し、
如何にしてか之を改良し之を幸福ならしめんとて、遂にアメリカに渡来したり。妾、もし吾国同胞姉妹の状態を考ふるときは、
涙、雨の如く流る。彼等は実に此の幸福なるクリスチアンの生涯を知らざる也。凡そ五年以前、妾はクリストの御事を研究し、
爾来クリステアンとなれり。当アメリカに於ても伝道事業に助力したり、こはあらゆる真の教育の基礎はクリストの宗教にあることを
認識せしが為也。妾はサンフランシスコにて、日本人の為めに一の慈善上の会を設けたり。
此会、今は、もと日本に伝道せし宣教師ハリス氏の夫人が監督の下に存す。
又、妾は紐育州ブルックリンなるヲスボーン婦人が伝道学校にて日本語の教師たりき。
日本は一の帝国なり、アメリカは自由なる基督教国なり。日本の風俗は当アメリカとはたがひ、すべて上流社会より来る習慣は、
下流社会にて一々模倣せらるるなり。左れば、上流社会に於てもし一人クリステアンとならば、風聞乍まち下流社会の百人に達すべし。
然るに、外国宣教師が高等の社会に出入するは出来がたければ、妾自身、かかる社会の間だに伝道するの事業を執らざる可らず、
妾は高等社会の婦人なり。
親愛なる兄弟及姉妹よ、願くは、吾国の婦人が間だに、エスの御為めに成さんとする此一大事業に対し、妾を助け玉へ。
もしも妾にして吾日本の故郷の都に一学校を創立せんには、多く多くの人々、学ばんが為に集り来るべし、
而して此等の人々かくして真の救主を知ることを得べし。妾は所々の教会に於て演説し、かくして「主の金」を集めつつあるなり。
妾は来る十二月帰国せざるを得ず。神の大ひなる愛を速やかに吾が国の婦人に知らせんとて、妾が心は燃ゆる也。
ヲー、吾が神に祈る、エスの御名が吾が本国の異教の婦人に聞かるることを得んが為めに、速やかに此の金を与え玉え。
クリストに於ける諸君が姉妹 園輝子
右の開書に対して掲載したるは、園輝協会と云える一組織の憲法規則なり。其の大略は、
此協会の目的は、園輝夫人が其の本国に於て属する高等社会の婦人女子が為めに、無宗派の基督教主義の学校を設立する事、
並びに十年間之を維持する事に於て、日本東京の園輝婦人を助くるにあり。
一弗の寄附を為すものは通常会員たり、五弗を寄するものは維持員たり、すべて此の会員は投票の権あり、男女は一様に役員に選挙せらるるの権あり。
毎年二月年会を開き、当時役員を改撰し会計の報告を為し、日本に於ける此事業の進歩もしくは必要事件は、
園輝夫人もしくはその代人によりて十分に披露せらるべし。

385号(1894年6月23日)。記事に付された署名は井上次郎 [90]
「園てる子を訪ふ(上)
園輝子につきて聞くこと多し。内外の人にして彼女につきて聞かんとするもの更に多し。彼女が、英米二国に於て如何に経歴したるやは、
其の自から著はしたる自叙伝と彼地に発行せらるる新聞雑誌の記事をして、自から弁せしめよ。彼女が日本に帰りたる后の経歴如何ん、
現状如何ん、将来また如何んと云ふことは、直ちに彼女をして自から語らしめよ。彼女につきて聞くこと多きが中にも、
容易ならぬ事実ありとして精かに報道し、速かに女学雑誌記者たるものをして其任を尽さしめよと迫まり玉ふ人もなきにあらねど、
抑そも今の園輝その人は眇たる一介の婦人にはあらず、兎に角に日本婦人を代表すと自白して欧米諸国を盛んに遊説せし公人なり。
此の人の一褒一貶は直ちに牽ひて日本婦人の信用に関するもの少なしとせず。左れば、吾等は、彼女につきて言ふことを尤とも慎しまざるべからず。
而も、其の成功につきて尤とも希望せざる可らず。願はくは、日本婦人の為めに掛念せる欧米の誠実なる知己をして其志をアダにせしめじ。
又願はくは、日本婦人たるものの面目を海外に維持して、国としての辱を公人の身の上より受入るることなからんとて、
即はち久しく彼女につきて言ふことなく、ただ彼女が如何に実行するやを視察せんとなしたりき。然し乍ら、
彼女に付て掛念するもの彌よ多し。左れば、諸君が自から彼女を訪ふて、直ちに彼女を叩く所あらんとする望みを代表して、
吾等ここに彼女が廬を訪ふべし。而して、彼女をして自から其現在につきて証言せしめ、更に其の将来につきて計画する所ろを聞かしめよ。
吾等は、ただ写言機としてここに彼女が言へりしままを写すべし。紳士の躰面によりて秘すべき丈のことを秘して、其他を悉く公けにすべし。
彼女が廬は麻布仲の町、もと中島衆議院議長が寓したる家の隣にあり。
新築と見まがふ斗りの新らしき品よき構へにして、応接の間には、中華李鴻章が揮毫せし大幅をかけ、主人が諸国を遊歴せしかたみとして、
熊の掌、象の彫刻、印度の珠数、同じき国あたりの赤帽、大英国女王の近ごろの写真など陳列せられたり。
主人は、洋装にして、応接淡白、猶予なく、滞ふりなく盛んに多言せらるると思へかし。
庭の后ろには、目下二三十坪の西洋風の二階屋を新築しつつあり。ほとんど落成して遠からず、室を成さんとするの光景なりと見よ。
彼女は、数度たび、クリストの名を呼び、お恵み、神の霊など云える神聖なる文字をくりかへすことありと聞けよ。
欧米を遊歴せられ女学校を多く実見せられつらん、何事か尤も感動せられしやと聞けるに、第一に、家庭に於ける教育の行届きたることと
学力ある女学生の品格の優美なることにありと答ふ。家に於ては、主人は殊の外世話しく、夕方晩餐の卓上に於て初めてゆるりと相話すの外、
子供等の上に感化すること殆んどあるなし子供の感化教育は一切母たる人の受持なり。
食事の間も、ストーリー(お話し)を読み聞かせてゆるりと喫食せしめ、さまざまの教訓を語りきかせ、
明朝の科業の下よみは悉とく助力して、扨て祈りして静かに休ます。妾の如き老年のものも、子供と同様に取扱ひをうけ、
現に此の通りの世話を受けて教訓せられたり。其心切なること、其の周到なること。感涙したたる斗りなりしと、
真心見えて熱心に感謝せり。又、教育ある女学生などが、何処となくオトナシク、何処となく優美なるには、甚はだ感服せられたり。
すべて口数を多く聞かず、外面至ってシトヤカに温和しくて、而して内に独立心つよく毅然たる所あるを尊とむの風なれば、
学問あり心得ある女学生と云えば、大抵かくの如し、これ妾が尤も感心せし所なるが、帰朝ののち、所々にて今の女学生の評判を聞き、
私の妻は何処其処の卒業生なるに、交際のさま、家政の伎倆は云々なりなど言はるるを数度たび聞き、実に嘆息いたしますと言ふ。
左らば御身は如何なる教育を施こさるべきやと問へば、もとより学問もなき及ばざる我身なれば、ただ実見せしこと、
経歴せしことを語り聞かすの主旨にて、家の如く塾の如き躰裁にして、凡そ三十名ばかりの寄宿生を置き、起居を共にし、
わが実行を見せ、日夜の間に薫陶せんと思ふ。左らば、主として、如何なる社会の子を目的とせらるるやと問ふに、
先以て中等以上の子となさんとす、而して、追々は下等社会の子の為めに、別に貧民学校を設くることとし、
之を郷里茨城に建てんと心掛け候、すでに之が為めに「講中」の如きものを組織し、義捐金を月々集蓄するの仕組を立て侍りぬと言ふ。

386号(1894年6月30日)
「園てる子を訪ふ(下)
印度のラマバイ [91] の話し出でたるに、輝子は惜しんで言へらく、ラマバイも余程のユニテリアンとなり、其の女学校にては、一切、
聖書を教へぬよし也と。余は、ラマバイと語りしこと二回に過ぎざりしが、其凡骨にあらざること明らかにして、
容易すく信念を棄つる人とも見えず、但だ伝道の方に至っては、国風に随がはざる可らず、ラマバイほどの人物なれば、
覚悟あって教育方法の変通を為すこともあるならんと言しに。実に然ことも候はんが、妾が英吉利の父と申し居る、
ドクトル・ペンテコストが印度に行いて、ラマバイの女学校を観しとき、確かに彼が固信なきことを認めて帰国し、
公衆に報告せられしに、彼は素早くも之に先だちて英米の新聞紙に投書し、近頃ろ大ひに悔改せしなど披露して
助力者の好意をつながんとせりと語る。余は亦た言ひぬ、左れど、国によりて伝道の方を異にするとも、
直ちに目してヲーソドックスを止めたりなど評するは、宣教師社会にありがちの事なり、気力ある志士の行為は、
外形をもて直ちに軽評すべからずと弁ぜしに。輝子、直ちに応じて言へらく、真に左様には候へど、英米の人々にあれほど世話になり乍ら、
聖書を止めることは済みませんではありませんかと。余は、即はち言へり。左ることも候はん。扨て、アナタは、如何なる風に、
学校内の伝道を為さるべきやと問ひしに。夫はもとより国風にも由りますることで、一々宣教師の為さるようにも出来まじけれど、
聖書の講義をして妾が経験せしことなどを話しきかせるつもりなりと言はる。米国にては、何処の教会に属し、又、資金募集には
ミシヨンの助けを借り玉ひしやと問ひしに元ハリス教師より受洗し桑港のメソデスト派に属せしが、資金募集は決してミシヨンの手を借らず、
ただ日本婦人の女子教育に対し、妾を助けんとする人は助け玉へと叫びて要めしのみ。もとミシヨンの手を借りなば、今少しは、
容易なりけん。中には、或るミシヨンより相談あり、吾が方に来りくれなば、一切教育の事をまかせて、
且つ資金をも募らんなど申されしが、本懐に反けばとて断はりたり云々。現在は、何処の教会に出席せらるるやと問へば、出席は、
ビショップ、ビカステス [92] の監督教会なれど、芝の独立教会は、日本人の手にて独立するものと聞しゆへ、ツケ届けなどは其の方に差し出すと言はる。
蓋し、 和田秀豊氏 [93] の芝教会を指さす如くなり。ここに至りて、彼女が固有する一種の男気、明らかに顕られたり。彼女は、たしかに、
江戸子の大姉的侠気を有するなり。資金は何程募集せられしやと問へば。真に、其事にて候、過日も、 ミセス、ツルー [94] とお話して、
笑ひし事なるが、金を募れりと言へば、莫大の事のように思はれ、途に遺ちたる黄金を手あたり次第に拾ひしように想像せらるけど、
仲々に六かしきものにて、存外の事にて候。しかし、此の新築を為すことと、一年位ひ支へることは出来まするつもり。
あとより、輝園協会と云うを組織し、友人より助資を送りくれると申せど、夫も手に受けぬうちは、当にはなりませぬ。
余は問へり、ミセス、ツルーとは別懇にせらるるや。真にお親しくいたします。其外、たれか殊更らに助力せらるる人ありや。
まだ、御座りませぬ。何分、経験のなきもの、万事御注意を願ひます。此他三四の談話あり、
米国女子大学のカッテージ、システムにつきては、特に感服せらるるものの如し。余は、ここに至りて、輝子が洋行前の一事実につきて知れる所を語り。
扨て問ふよう、近頃、貴君の事につき所々より質問書参る。ことに、西京の一人よりは、近頃ろ救世軍の大将として帰朝せし人より聞しとて、
申越されし事あり。貴君は、何か思い当らるることなきやと言い出でしに。輝子、其事につきては、実に申すことを好まぬほどです。
先きに申せしラマバイが、信切らしく見へたる一米国婦人に附き添はれ夫にアヤドラレて、意外の損を為せしと事同じく、
妾が英国にありしとき、某と云ふ一婦人、旅人をねんごろにせよとの聖訓を守るまねして、妾を殊の外いたわり、
始終妾につきまはりて、ひそかに莫大の利益を取り、妾は非常の損を為せし。友人等の注意にて初めて分り、遂には、或る宗教裁判を開き、
教師の前に立合ひて対審いたしぬ。此の某婦人と如何なる関係あることにや、彼の救世軍の人は相ひ協同し、切りに妾の事をあしざまに言ひふらし、
帰朝の后も毎度来訪して様子を見らるる如し、妾は二三度拒絶せしこともあり。英国にて彼人はアヤマリ証文を出したり。くはしくは、
公使館の書記たりし呉大五郎氏なども御承知なり云々。余は茲に至りて辞去し帰途つくづくと彼の女が前途の事業につきて思案したり。
彼女は一事を除く外、 田村直臣君 [95] を女にしたらんが如き人なり。彼此と評判のみして、彼女に直に接面せざる人多きを気の毒に思ひぬ。

389号(1894年7月21日)
「園輝女に関して。其一。
拝啓陳は輝女に係る一件は為日本女子躰面不容易出来事に候処六月中の女学雑誌に両度井上次郎氏の名前を以其訪問記を御出版被成
是にて世人が同女に就き注意すべき緒を開き其労は以て深く貴社に向て謝する処に候
惜哉其広報は本の外面の観察及談話に止り未だ内部の解剖なく遺憾とする処なりと雖ども之を端緒と為し漸次筆鋒を進て其是は挙げ其非は懲らし
以て日本女子の躰面を維持せられんこと貴社の方針なるべしと察せられ多少慰る処有之候何卒此十分確実の事を御探出し御報告希望仕候
却説右訪問中小生の傍観を許さざるものは第六五六葉第四行以下「妾が英国にありし時」云々以下第九行の「対審いたしぬ」迄の記事なり
此一婦人とは「ミス・マクレーン」の事に相違有之間敷而ミス、マクレーン Miss MacLean [96] が決して斯かる卑劣の人物にあらざることは
余輩の深く信認する処にして女史は日本人若くは日本の事物とさえ云えば之を保護し之を称動し主として在英日本人に真正なる
クリスチアンインフルユーエンスを与へ一人にても救改に導んとの精神なるが故に一たび英国に遊びたる日本人にして女史の訪問を受け
且つ其の恩恵に預からざるものは尠なし其一二例を挙げんに於東京は予の知る処にても 和田垣謙三 [97] (法科大学教授)、 島田三郎 [98]、 植村正久 [99]
三好退蔵 [100]、 稲葉子爵 [101] (旧淀藩)、 植村俊平 [102] (バリストル)等最も其助力に依り益せられ於京都於大坂又彼帝国軍艦千代田乗組の仕官水兵
百七十余名(吉野号も同じ)の如し其他夫の Japanese Village の末路困難飢餓に陥りたる数十人の無頼者の如き皆多少女史の恩恵に浴せさるものなし
女史は実に左英日本人の恩人なるに却て斯かる汚名を被らしめたると誠に気の毒の至に不堪余若し暇あらば女史が是迄日本人に向て如何なることを
為せし乎を記し貴社の女学雑誌に寄せんと欲す余は先般園輝マクレーン事件裁判の判決書を英国に申遣はし置きしを以到着次第貴社にも送る可し
是を一覧せば果して園女が言の真実なるや否やを知り得べし兎に角女学雑誌三八六号第六五六葉七行のひそかに莫大の利益をとり、妾は非常の損を為せし。
との記事は此日本人の恩人ミスマクレーンに対し冤の最も甚しきものなるが故に何れかの手段を以駁撃若くは取消さしむる様いたし度尊慮如何
井上君とかにも御照会至急何等の御返答に預かり度奉願候早々頓首。 七月十日。
佐伯理一郎 [103]
追て兼て 原田助 [104] を経差出置候園女が金銭上の所置に関せるマクレーン氏が印刷せる一私文も其後公然出版するも不苦と申出候
若し差支なくば翻訳御出版相成度候成
其二。
女学雑誌記者御中
拝呈益々御多詳奉賀陳者第三八六号貴紙上園てる氏御問答記事中大に事実相違之件も少からず候間失礼を顧みず卑見開陳可仕候。
即ち英国に於て一婦人の為に莫大の損失を蒙れりとそは Miss MacLean と申婦人に御座候。然し園氏が同嬢に関し損失を致せし事は毛頭無之候。
固よりかかる事件は片言以て其真偽を判するを能はず、故に失礼ながら公平無私を以て自任する倫敦基督教新聞記者 Morgan Esq. を御紹介申上候間
同氏へ御紹介相成候はば自然黒白明瞭可仕と奉存候。尚 Miss MacLean に係はる別紙印行物一様御高覧に供し奉り候、但し御一覧済之上は早々御返戻奉願上候。
英国に於て彼人はアヤマリ証文を出したり、くはしくは呉氏御承知云々と(呉氏は目下孟買在勤と奉存候)是正しく小生を指したる事と奉在候。
尤も小生は不得已場合より園氏に係わる一事に相関し候得共決してかかる証文を起草仕候覚へも無之若し仮にこれありとすれば長坂は如何なる文にて
何人に宛て差出し今何人の手に有之哉相正せば一目瞭然たり、故に本件に付き一応小生より園氏に談判相試度存候得共小生より掛合候ては彼必ず答へず、
無益に紙筆を費すのみ付ては御手数様ながら貴下より一応園氏に御聴糺し被成下度奉願上候。園氏のロンドンに於ける不始末を識る者本邦に於て目今の所
小生の外無之と奉存候。其他氏の自著と申さる一小冊子上甚しき記事をも多く見受け申候故に小生の愚眼を以て前号以来の貴誌を拝読するに
大に事実相違と認め申候、今其一例を挙れば園氏の募金英米に於て凡そ日本金一万円 [105] に有之候事確実也(募集の金高は印刷物に一万円と明記有之候)。
然るに此新築を為すことに一年位ひ支へることは出来まするつもりとは計算上ちと明瞭ならざる所と奉存候。
Miss MacLean の人となりは Dr. Saiki (西京)或は植村牧師等に御問合せ相成候はば如何なる人物なる哉御分り相成り可申と存候。
兎に角小生の名誉に関する記事丈けは早々明瞭相成候様御取計相成度此段御依頼申上候 匆々頓首。 七月初六。
長坂毅 [106]
二伸今一二例を添ふハリス教師より領洗之義は大に疑はしき所あり目下問合中多くの人は領洗なしと云ふそは園氏は更に教会の証明書を持参せられず。
ビショップビカステスの教会に属し居る抔は全く空言なり。芝教会にツケ届云々も小生は大に疑ひ申候如何となれば先日和田牧師拙宅へ御光来の節
同氏も大に疑ひをいだき居らるる由申聞られ候御参考まで申上候。

392号(1894年8月11日)には長坂毅がミスマクリーンの伝記を寄せている。
「園輝女史が謂ふ英国の某婦人 ミス、マクリーン小伝 長坂毅
英国ロンドン府に支那語及び日本語に通ずる一婦人ありミスマクリーン Miss. M. McLean と称す。
嬢は一千八百三十八年北英国に生れ年十七にして主イエスキリストを信じその後二年を経てロンドンに出で英国陸軍大佐モルトン氏の設立に係る
マイメ女子神学校に入り勤学数年業成て後ロンドン市中伝道に従事し頗るその功を奏せしが主の召に由り一千八百六十六年支那内地伝道に赴き
伝道すること五年にして適ま病に罹り帰国保養せり。
一千八百七十二年再び主の召を蒙り遠く我邦に来れりこの時ロンドンに在る嬢の友は左の聖句を以て贐とせり。
爾曹その憂慮ところをみな神に托ぬべしそはかれ爾曹を顧み給へばなり。(ペテロ前書五章七節)
爾来嬢は神戸大坂辺に伝道し或時は 藤田伝三郎氏 [107] に雇はれ子女教育を委託せられたり。
一千八百八十一年英国に帰り当時ロンドンに開かれし日本人村落に在る下等日本人凡そ一百人を助けその窮を救へり。
尚帝国軍艦千代田及び吉野等回航の節士官以下水兵を英国貴族社会に紹介し或は親しく帝国軍艦を訪ふて福音を説き
時としては艦内にて水兵と机を共にし日本食を味へり。その他本邦政治家又は宗教家等のロンドンに游ぶ者を一々訪問して
或は宗教上或は政事上等取調の便益を与られしことも尠からざりし。
一千八百八十九年 "Echoes from Japan" (三百十六頁)を著はし大に学者社会の高評を博せられたり本書の巻首には植村牧師の序あり。
この書僅かに数月を出でずして販了を告げ久しく品切なりしが本年再び上梓発兌せられたり。この外 "Open doors in Japan" てふ著述もあり。
兎に角真個の益友と云わざるを得ざるなり。
嬢は現今 Conference Hall, Eccleston Street, Pimlico, London, S.W. に住しロンドン在留邦人(目下凡四十人)のため全力を尽し日本語を以て伝道に余念なし。
然るに昨年園輝女米国よりロンドンに来り自からマダムテルソノと称し且つわらべは日本最高等に位する公家なりと名乗りマクリーン嬢を訪はれ
それより二三ヶ月間右マダムは嬢の助けを受け所々巡遊中スコッチレデーの習慣として会計用度に厳格なるにマダムは不愉快を感じ
遂に恩ある嬢に大なる意外の冤を与え交を絶てり。このこと早くもロンドン宗教社会の聴く所となりマダムテルソノとミスマクリーンを取調べ
その冤を清めミスマクリーンの名誉を保護せられたり。
予が昨年十一月ロンドンを去りウエイマス(この間百四十六哩)より帝国軍艦吉野に乗込む際嬢は予を同所迄送り来り
ポートランド停車場客待所にて共に跪き留別の祈祷を捧げ終りし時嬢が多年所持せられし上等仕立聖書一巻を永く紀念のためにとて予に恵れたり。
開いて巻首を閲するに嬢の履歴ありたり。今その聖書より書抜き聊か良友の小伝を作り貴社に投ず請諒焉。」

394号(1894年8月25日)
園輝夫人と妾との関係
蓋し、ミス、マクリーンが其の知人朋友間に配布したるものなるべし。 「園輝と妾との関係の梗概」 [108] と題したる英文二十ページの小冊子、
我輩の手に落ちたり。初め園輝子が、突如として自ら訪ひ来りし事より、彼女に対する密かなる掛念、之につきての自からの慰さめ、
漸次彼女を紹介して公けの演説に伴なひし事、其の書記となりし事、やうやく寄附金のありし事、寄宿舎を世話せし事、
入金記載の明白ならぬを忠告せし事、園輝子が俄然として様姿の変わりし事、之が書記を謝絶する旨を直ちに告げし事などを精緻に記述し、
最後に其手にて周旋せし寄附金の確実なる表を製して園輝子の報告と相違する所あるを示したり。中に云はく、
妾は園輝に告げたりき、御身もしゼヲヂ、ミウレルの如く神を信じて一任し、而して其賜ふ所を得たりとせば、
そは御身また彼の如く之に王たるを得べし。然れど、御身は其金を獲んことを人に対して要むるにあらずや、然れば、
御身の潔白を示すべき最良の方法として、其の寄附金の為に信用ある日本信徒の中より保管人を備えざる可らず、と言ひしに、
彼女はどうしてどうして(ネバー、ネバー)と答へたり。
初め彼女が到来せし時、其の学校建築の為に、亜米利加にて六百磅を集めたり、当英国にて更に六百磅を集めたしと言へり
彼女の為に思ふ多くの友人等も、其の自叙伝には、事実にあらざる如く見ゆるもの多くあり、強ひて広く売らぬ方宣しからんと言ひたり。
などの文あり。全躰の記事、如何にも謹慎忠実にして、敢て他を貶することをせず、但だ已むことを得ず、
自己の義を保護するの趣見はれたり。

同号の時報には、倚松園女塾開塾の記事がある。
「倚松園女塾。本紙上に屢々紹介されたる園輝子女子が麻布仲の町に校舎を新築せる由は兼ねて報ぜしが今回之れを倚松園女塾と名附け
来る九月二十一日より開塾する由 」

399号(1894年9月29日)
「倚松園女塾の開塾式。園輝子の設置になる同塾は去る十五日開塾式を挙げたり、呉大五郎、渋沢栄一、美山貫一諸子の演説あり、
来賓中には土方大越(領事)浜尾等の各夫人もありたりと。

404号(1894年11月25日)
園てる対マクリン。園てる女が吾社の訪問者に対して談話したる中に、英国某女の大に欺かれたり云々の言あり
其筆記女学雑誌に出で彼地の人々が一覧するや甚しき激昂を惹起したり、事実は全く相違せる由なり。
今、( 「Light thrown on an involved subject」 [109] )と題する小冊子を見るに、巨細其実状を弁正せり。
吾人は次号に於て其一部分を訳載せんことを欲す。

405号(1894年12月25日)
園てる対マクリーンの事件に付、本号に訳載すべき予告は此に果すこと能はず、園女史が答弁をも併せ掲載ありたしとの請求に応じたれば也。

次の406号(1895年1月25日)にも予告の訳は掲載されていないが、広告欄に「レヂー、コングルトンの開書」が掲載されている
「レヂー、コングルトンの開書」 (訳写)
レヂー、コングルトンは日本の女学雑誌に於て其友人ミス、マクレーンの最も潔白無私なる所業に就き却て反対なる誤謬の報告ありしを
聴き甚だ心を労せり。ミス、マクレーンは其一身を日本の為に献けたる最も親切の友人として十有余年の間ロンドンに来る処の日本人を導き助け
又日本に於ても同様の働を為せることは皆人の知る処なり。レヂー、コングルトン並に他の多くの英国の友人等は其の全き信用をミス、マクレーンに措き
且つ同女に対せる園輝夫人の訴訟は理由なきこととして却下せられたることを証明す。此訴訟の裁判は一八九三年八月卅一日ロンドンに於て
極て丁寧に開庭せられミス、マクレーンは一々明瞭に答弁せられて其無実の申出を表証せり、然るに園輝夫人は今日に至り再び其無実の事を言いふらすとは
誠に正しからざる所業なり。レデー、コングルトンは斯かる所業を不憫に思ひ且つ苟も真理と正義とを重んずる人は日本に於ても
亦英国に於ても斯の如き根拠なき誹謗に向ひ些少の注意も惹き起さざることを信ず。
一八九四年九月廿日 仏国ドロームの旅中にて手記
連署
レヂー、アウグスタ、インスタイン
レヂー、キァリク、ブキアナン
ミッセス、エミリー、サラ、バルスフィールド 各手記

407号(1895年1月25日)にも、
「左の開書は前号の広告欄内に見ゆ。吾人は其真実なることを賛証し、其要求によりて再たび茲に掲載す。」として同文章が再掲されている。
そしてこの記事以降、この事件について女学雑誌には何も掲載されていないようである。
おそらく輝子から記事の掲載について何らかの抗議があって掲載中止となったのだと思う。
「日輝法尼」にある法廷に訴えて新聞社を閉鎖させたという記事はこのことを指すのかもしれない。

その後の消息としては女学雑誌が伝えるものは、476号(1898年11月25日)の時報に
「伊東婦人会。伊豆伊東にて園輝子等の設立する伊東婦人会は本月六日例会を開きしに、出席者六十余名なりし由」
また483号(1899年3月10日)の時報で
「伊豆伊東婦人会例会、園輝子を会長とする同会は、毎月第二日曜日、其例会を開く」とある記事のみである。

その後1915年に日輝法尼として読売新聞に記事が掲載されるまでの間の彼女の消息を伝える記事は殆んど見つけられていない。
輝子とゴードン夫人 [110] の招きによってミス・フローラ(Miss Flora E. Strout)が日蓮宗大学(立正大学の前身)の学生に講演をした、
と言う記事が 「The Japan Evangelist」 の15巻6号(1908)にある。仏教系の学校で開かれた最初の矯風会の講演だという。
フローラは WCTU の特派員として来日し1910年まで滞在し、各地で矯風演説を行っている。
既に池上本門寺に隠棲した後の輝子が矯風会とは別に講演を依頼したと思われる。

そして1925年4月2日の東京朝日新聞に次の記事がある。
「篤行の老婆 表彰を具申
市外池上村下池上三〇園てる(七四)は尾州家の儒者園貞齊の長女に生れ土浦で生長し、その後東京日本橋浜町に日本初めての女弁護士を開業して
人々を驚たんさせ、三十才で北米に渡り六十才の時帰朝、日蓮宗に帰依して友松庵と号し育英事業に尽力したのを初めに同村小学校その他へ
数回に亘り基金の寄附をなし府知事からもしばしば表彰され、今尚壮者をしのぐ元気なので、村当局は五月の銀婚式当日篤行者としての表彰方を具申した」
銀婚式、というのは大正天皇銀婚式の事であるが自伝や日輝法尼の記事が正しいとすればこの時輝子は79歳のはずである。
渡航期間も違っているけれど、これが私が現在把握できている彼女の最後の消息である。

「明治ニュース事典」に園輝子の記事が採録されたのはなぜだろう。
明治ニュース事典は昭和9年に出版された「新聞集成明治編年史」が基礎となっている。
「新聞集成明治編年史」は明治時代の新聞記事から後の資料となるべき重要記事をできる限り広範囲に採録するという方針で編纂された。
今回「郵便報知」を初めとした明治時代の新聞を幾つか調査した。その中にはもっと重要だと思えるような興味深い記事が他にたくさんある。
膨大な新聞資料の中から今となってはさほど重要でない彼女の記事を編集者が拾い上げたのは、
当時まだ人々に "女傑" 園輝子の記憶が残っていたからかも知れない。
女学雑誌の記事から読み取れる園輝子の人物像は自伝からのそれとはずいぶん違う。
かなり胡散臭い山師のような印象を受けるが、実像はどうだったのか現時点では私には何とも評価しがたい。

園輝子については安武留美氏が著書「Transnational women's activism」 (New York University Press, 2004) 等で簡単に触れているけれど、
基本的には自伝の内容の紹介に留まる。またそれ以外には彼女の生涯の詳細に言及した文章を見つける事はできなかった。
また、輝子の記事中に現れる周辺人物の自伝なども極力調査したが輝子について書かれている物はほとんどない。
だが明治時代のキリスト教史関係、女子教育史関係、新聞類など調査すべき資料の多くがまだ調査できていない。
特にキリスト教系の新聞雑誌類がほとんど未見のままであり、脚注を見ると判る様に未確認の事柄が多い。
中途半端なままだけれど、この辺で一応の区切りをつけたいと思う。
とはいえ、まだまだ輝子についての記事を見つける事はできるはずだ。機会があれば改めて探してみようと考えている。
***
調査した文献の一覧は割愛しますが上記以外に安武氏の論文「北カリフォルニア日本人移民社会の日米教会婦人たち」
(キリスト教社会問題研究 ; 49, p. 46-76)も参考にした事を付記しておきます。
また、園輝子の自伝「Tel Sono, the Japanese reformer」のオリジナル版はかなり入手困難ですが、
リプリントが出版されているようです。いくつかのサイトではオリジナル全文が pdf ファイル等で公開されています。
園輝子について何かご存知の方は御一報頂ければありがたいです。

--- [ 以下注。 番号をクリックすると本文中に戻ります。] ---
[1] 三淵嘉子 (1914-1984). 旧姓は武藤。後に裁判官となり、1972年には女性として初めて裁判所所長(新潟家庭裁判所)となった。
[2] 中田正子 (1910-2002). 旧姓は田中。夫の実家である疎開先の鳥取で晩年まで長く弁護士活動を続けた。
[3] 久米愛 (1911-1976). 日本婦人法律家協会を設立し会長に就任した他、国連総会に出席するなど国際的にも広く活躍した。
[4] 現存する自伝には表紙の見返しに自筆と思われるサインが残っている物がある。
  それらを含めて確認できる範囲では輝子は自分の名前を「園てる」あるいは「Tel Sono」と書いている。
  自伝中の短歌に添えられた署名は「ふぢはらのてる子」。アメリカでは Cassie Tel Sono とも呼ばれていたようである。
[5] 日本人が外国語で著し出版された自伝としては極めて初期の物である。女性のものとしては最初だろう。
[6] 当時、いわゆる "士族の商法" として夏には氷屋を出す者が多かったようである。
[7] 大渡辺小太郎は、渡辺小太郎の誤記と思われる。渡辺小太郎は秋田県鹿角郡で弘化3年に生まれ、
  那珂道高(東洋史学者那珂通世の養父)に漢籍を学んだ。明治7年に上京、9年に代言試験を受け代言人となり、
  後に愛国公党に入り政治活動を行うが、明治21年に政治演説によって治安を乱したとして有罪となっている。
  さらに明治28年にはある裁判に関して賄賂を受け取ったとして告訴され有罪、禁錮刑を受けている。
[8] 草刈庄五郎 (1832-1896). 明治初期の馬術師範。当時歌舞伎役者などにも馬術指導をしていたようである。
[9] Moan Waka Sono. 今のところ漢字もわからず詳細不明。輝子の自伝に拠れば "philosopher" だが
  50歳過ぎてから "God in Heaven" を信仰するようになり私財を貧しい者に分け与え、80余歳まで生きたと言う。
[10] 園貞齋. 医者(儒者としている資料もある)との事だが詳細不明。輝子の自伝に拠れば1876年没。
[11] 妹の名前は春子というらしいが詳細不明。女学校についても確認できていない。
[12] 結婚相手は "Officer of the king's treasure"。大蔵官吏だろう。
[13] 幕末の茨城県で起きた反乱としては1864年に起きた天狗党の乱が有名で Manaba(真鍋)も放火などの被害を受けている。
  1866年には大きな反乱は無いので、年号に錯誤があるようだ。そうすると輝子は1863年に19歳で結婚していた事になり
  他の資料などから推定される生年と若干のずれが生じる事になる。
[14] 「東京新誌」の事だが調査できていない。Ohash, Keta (オオハシ、キタと思われる)についても未確認。
[15] 代言人規則に従えば女性には代言人資格は無いわけだが、実際には無免許代言人が横行していた。
  当時免許を受けた代言人はまだ少なく、すべて禁止してしまうと支障をきたす恐れもあり、
  ある程度黙認されていたらしいが中には私利を貪る等の悪徳代言人も多かったようである。「弁護士百年」(日本弁護士連合会, 1976)には
  「無免許時代にあった婦人代言人が事実上代言人の欠格事由として女性を考えたため消滅したことが惜しまれた。」とある。
  出典を確認できていないが、これは園輝子の事だと思われる。
  代言人規則制定後、渡米までどのような職業をしていたのかまだわからない。ずっと氷屋を営んでいたわけでもないだろう。
[16] 明治19年に倒産(廃業)した銀行はいくつかあるが、特定できていない。
[17] 美山貫一 (1847-1936). メソジスト教会の牧師。陸軍省勤務を経て1875年に渡米、サンフランシスコで福音会を設立した。
  中国人伝道館の下層室を借りて寄宿舎とし、当時サンフランシスコに渡った多くの日本人がこの寄宿舎を利用したと言う。
  1884年帰国、銀座教会を設立。翌年再渡米、ホノルルなどでも伝道活動をし禁酒運動も行った。
  美山らが開設した東京福音会夜学校は東京福音会英語学校として現在に至っている。
[18] WCTU (Woman's Christian Temperance Union)、女性キリスト教禁酒同盟(万国婦人矯風会等とも訳される)は1874年にアメリカで結成された。
  当初は禁酒運動を主な活動としていたが1879年に F.E. Willard が会長になって以後、組織は急速に拡大する。
  活動内容も女性の地位向上を中心とした多岐な分野に亘る様になり、世界に活動の場を広げることになる。
[19] Lucy Jane Rider Meyer (1849-1922) は夫の Josiah S. Meyer と共に1885年に Chicago Training School を設立、1917年まで校長を務めた。
[20] Union Missionary Training Institute は1888年に Mrs. Lucy Drake Osborn (1844-1922) がブルックリンに設立した学校で、
  生徒は数十人程度だったようである。輝子はここで日本語を教えていたらしい。
[21] 輝子の自伝に序文を寄せているのは Hester Alway という人物である。
  1895年11月8日の New York Times の記事に拠ると Missionary Training Institute の校長となっている。
  この時二人の日本人がいたと記録されている。
[22] 1892年度の会長は Sarah D. La Fetra となっている。ワシントンの WCTU 会長などを務めた人物である。
[23] 鬼頭悌二郎 (1855-1894). 明治時代の外交官。新潟出身。明治7年大蔵省出仕、後に農務省参事官など。
  明治22年副領事としてニューヨークへ、24年にはバンクーバー領事代理となる。27年官を辞し横浜同伸会社社長となる。
[24] Adoniram Judson Gordon (1836-1895) はバプテスト派の牧師。ゴードン・カレッジを設立した。
  夫人 Maria Hale Gordon (1842-1921) はボストンの WCTU の指導者だった。
[25] William Elliot Griffis (1843-1928). お雇い外国人として明治初期に来日し、大学南校などで物理、化学などを教えた。
  日本の紹介をした著書として The Mikado's Empire がある。
[26] Parents' Review は イギリスの教育者 Charlotte Maria Mason (1842-1923) が編集した雑誌。
  記事によると輝子は Mason を訪問し、基金への協力を依頼したようである。
[27] ほぼ同じ文面の記事が萬朝報(548号)など他の新聞にも掲載されている。
[28] 名称は「倚松園女塾」が正しい。名前の由来は不明。住所は麻布仲町十一番地。
  開塾前の8月から9月初めにかけて、いくつかの新聞に数度に亘って女学生募集の広告が掲載されている。それに拠ると
  「校舎寄宿舎新築落成来九月廿一日回塾。輝子夙に女子の教育に関し見る所あり曩に米国に航し尋て欧米各洲を歴遊し実に九星霜を費し
  親しく女子教育の実況を視察し得て大に啓発する所あり。今や当初の素志を実行せん為め茲に一校舎を創設せり。
  本塾の期する所は専ら実益を旨とし女子に必要なる学術工芸を学ばしめ家庭の事を練習し以て一家に主宰たるべき女子の本分を
  修養せしむるを以て主眼とす。冀くは大方の諸彦最愛の令嬢をして来学せしめられん事を。倚松園女塾塾主 園輝子」とある。
  土方苑子編「各種学校の歴史的研究」(東京大学出版会, 2008), p. 188 に拠っても倚松園女塾の設立趣旨は
  「本塾ハ実益ヲ旨トシ女子ニ要スル学術工芸ヲ学バシメ世ノ良妻賢母タルノ品性資格ヲ養成スルハ勿論、
  醇良ナル女子ノ特性ヲ涵養シ家庭ノ事ヲ習練シ之ガ主宰タルベキ女子ノ本分ヲ習得セシムルヲ以テ主脳トス」という事だから
  特に進歩的な教育を目指していたようには見えない。また、講じられた教科を見ると当時のミッション系女学校の教科よりも
  官公立系女学校のそれに近い。キリスト教を特に前面にだしたものでもなさそうである。
  塾の詳細は不明だが学生は30人程度、輝子の他には女性教師が二人いたらしい。
  また The Dundee Courier というスコットランドの新聞の1894年10月4日に "The ladie's tour round the world" という記事がある。
  F. Marie Imandt という記者の旅行記だが、日本を訪れた際に輝子を訪問していて開塾直前の塾の様子が窺える。
  まだ建設途中だったらしいが、塾は輝子の家に隣接し、一階が教室、二階が寄宿舎となっていた。
[29] 呉大五郎 (1862-?). 明治時代の外交官。上海に留学したのち、外務属となりボンベイ領事などを務めた。
  後に三井物産参事長、上海取引所取締役などを歴任している。
[30] 渋沢栄一 (1840-1931). 明治大正期の実業家。多くの会社を設立経営し近代日本の資本主義を指導した。晩年は文化事業にも力を注いだ。
[31] 土方久元 (1833-1918) は高知出身の明治時代の政治家。伯爵。東京府判事、内閣書記官長、元老院議官、農商務大臣などを歴任、
  晩年は国学院大学長など教育関係の要職に就いた。夫人龜子は才女で知られた。1910年没。
[32] 大越成徳 (1854-1923) は明治時代の外交官。外務省出仕からイギリス、フランス、上海、ブラジル等に駐在した。
  在英中に英国人 Carmen Aguirre と結婚している。
[33] 浜尾新 (1849-1925) は子爵。文部大臣、東京帝国大学総長等を歴任した。夫人作子は愛国婦人会設立に尽力した。1944年没。
[34] 津田梅子 (1864-1929). 明治の教育者。1871年に開拓使留学生として渡米。1882年は帰国後は華族女学校等で英語を教えたが
  1889年から1892年に再度渡米。1900年、女子英学塾(現在の津田塾大学)を開校した。
[35] 津田仙 (1837-1908). 明治期の農学者。キリスト者としても知られる。津田梅子は娘。
[36] 右松庵. 他の記事ではほぼ全て「友松庵」とされているので友松庵が正しいはずだが現存しないようである。
[37] 小池道子 (1845?-1929). 明治大正期の歌人。有栖川宮家に仕え、後に宮中に入って掌侍となり昭憲皇太后に仕えた。
[38] 伊能忠敬 (1745-1818). 日本で初めての正確な全国地図「大日本沿海輿地全図」を作製したので有名だが、
  忠敬は輝子の生れる30年近く前に亡くなっているのでこの逸話は明らかにおかしい。
  だが輝子が暮らしていた茨城県土浦で伊能忠敬は若い頃に算術や医学を学んでいるので忠敬の土浦での逸話が輝子の逸話と混同した可能性がある。
  輝子を称えたのが誰なのか、この歌の作者が伊能忠敬なのかどうか、共に確認できていない。
[39] 明治政府は秩禄制度改革として明治6年に秩禄公債を交付している。
  当然離婚はそれ以降のはずであるが自伝に拠ると明治4年に離婚している。
[40] 中島彜雄. 海軍軍医である事は確認できているが細かい経歴は調査できていない。妻豊子については現在のところ手掛かりがないが、
  倚松園女塾の開塾の頃には既に結婚していた。
[41] 文脈から明治5-6年の頃だと思われるが、「明治事物起源」に拠ると婦人束髪の初めは明治18年、渡邊鼎夫人だという。
  渡邊は「婦人束髪会」を起こした人物である。
[42] 代言人制度制定以前、暴利を稼ぐ悪徳代言人が横行していて、代言人制度自体がそういった代言人を制限する意図があった。
  当時の代言人は現在の弁護士のようにステイタスのある職業ではなく、どちらかと言うと悪いイメージが強かったようである。
  輝子がそうだったかどうか分らないが、巨額の金を得た、ということだから派手に活躍していたのは間違いなさそうだ。
[43] 明治4年、町民が馬子無しで馬に乗ることが許された。
  明治5-6年頃、一部の女性が馬に乗ることが流行ったが周囲からは奇異の目で見られたという。
[44] 中江兆民 (1847-1901). 江戸末期から明治の思想家。「東洋のルソー」と言われ衆議院にも当選したが在野時代は奇行でも知られた。
  輝子との関係については確認できていない。
[45] 風月堂. 1753年、大住喜右衛門が営んだ菓子屋「大阪屋」が始まり。1812年屋号を風月堂とした。
[46] 渡邊丈太郎. 詳細不明だが輝子は前述の渡辺小太郎と結婚していたと書かれているものもあるので小太郎の誤記の可能性が高い。
  しかし渡辺小太郎が輝子に命を助けられたとか、助手をしていた等の事実は確認できない。
  一方「横浜市震災誌」第五巻 (1927) に渡辺丈太郎と云う人物が「山吹町で妻子の惨死を目撃しつつ」という
  体験記を寄せている。その人物は尾張出身とあるが「日本紳士録 29版」に拠ると横浜で商栄無尽という会社で無尽業を営んでいる。
  無尽というのは一種の金融業だが、震災当時9歳の孫がいたとあるので輝子とほぼ同世代であり輝子の夫と同一人物の可能性もゼロではない。
[47] 福沢諭吉 (1835-1901). 明治時代の代表的思想家で慶應義塾の創設者。
  諭吉の伝記資料、書簡などを調査してみたが園輝子との関係は確認できなかった。
[48] 諭吉が関係していた新聞、「時事新報」の明治18年の9月から出発までを調査したが該当記事を見つけられなかった。
[49] 当時のサンフランシスコの日本人の月給は料理人などで15-25ドル、昼間学校に通いながら働くスクールボーイで週1ドル程度だった。
[50] サンフランシスコへ渡航する日本人は徐々に増えていたようだが、中には出稼ぎと称して渡航し娼婦になる女性もいたらしい。
  サンフランシスコの婦人矯風会員川口ますへの報告(女学雑誌227号, 1890年8月23日)によれば当時サンフランシスコの日本婦人は十数名、
  教会に来る人は七、八人だった。川口は輝子と協力して船が来港するたびに渡航してきた女性に目的などを聞き慈善会に来るように勧めたが
  行方をくらます者が多かった、と伝えている。
[51] 新門辰五郎 (1800?-1875). 江戸時代末期の町火消、侠客。没後は講談などにも取り上げられた。
[52] 藤井三郎 (1851-1898). 外務省官吏。1886年からサンフランシスコ領事。のち総領事、弁理公使などを歴任した。
  夫人は福音会会員を中心として発足した婦人慈善会のメンバーであった。
[53] 早川鉄冶 (1863-1941). 岡山出身。札幌農学校を卒業後、大隈重信のもとで秘書官を務め外務省政務局長、内閣書記官などを歴任した。
[54] 奈良原繁 (1834-1918). 明治時代の政治家。鹿児島出身。男爵。内務権大書記官、元老院議官、貴族院議員などを経て沖縄県知事。
  沖縄では近代化を専制的に進めたため「琉球王」と呼ばれた。日本鉄道会社の初代社長でもある。
[55] 第一回大会が1891年11月、ボストンで開かれている。日本では既に矯風会が設立されていたが、
  日本からの出席は1893年の第二回大会に桜井ちかが参加したのが最初である。
  第一回大会に輝子が参加しているのは確認できている。大会議事録をまだ調査できていないが短い演説をしたようである。
[56] 村井知至 (1861-1944). キリスト教社会主義者、教育者。愛媛県出身。同志社卒業後渡米、アンドーヴァー神学校で学ぶ。
  帰国後、東京外国語学校教授などを務めた。松村介石の「道会」に協力、後には神秘主義に傾いた。
[57] ワシントンには1892年から1893年にかけて滞在したようで、当時のワシントンポスト紙に輝子の記事が散見される。
  1893年1月2日に「Madame Tel Sono's farewell : the converted Japanese women going home to found a school」の記事がある。
[58] 河瀬真孝 (1840-1919) 明治期の官僚。子爵。 改名前の名前は石川小五郎。駐英大使(明治17年から26年)などを経て枢密顧問官。
[59] 佐藤愛麿 (1857-1934) 明治大正期の外交官。メキシコ、アメリカなどに駐在した。
[60] イギリスではロンドン日本協会でも、会員を前に演説したらしい。
[61] Pall Mall gazette が1892年11月24日の記事で輝子がイギリスに来たことを報じている。
  また Birmingham Daily Post が、1893年2月7日の記事で 日本で最初の女性弁護士 Tel Sono が
  東京で女性の為のクリスチャンの学校を設立する基金を集めるためにロンドンに来た事を伝えている。
  この時資金集めに協力したのは、1890年にイギリスの婦人矯風会の会長になった Lady Henry Somerset だった。
  そのほかいくつかの雑誌などにも取り上げられているが、輝子がヨーロッパ大陸に渡ったという記事は見つけられなかった。
[62] 新聞社の閉鎖も、名誉毀損の謝罪も確認できない。後述する「女学雑誌」は1904年に廃刊するがこの騒動とは関係ない。
[63] 閉塾の時期を特定できていないが極めて短命だったことは間違いない。
  明治32年、文部省訓令により「官立学校及学科課程に関する法令の規定ある学校」での一切の宗教教育が禁止される。
  これによって結果的に閉校に追い込まれたキリスト教系の私学校も多かった。
  さらに同年に出された高等女学校令によって急増した女学校との競争がキリスト教系女学校に追い討ちをかけた。
[64] この頃の輝子の消息を伝える記事は少ないが「婦女新聞」42号(1901年2月25日)に次のような記事がある。
  「伊豆田方郡伊東婦人会は去十日会長園輝子氏の邸内(字湯川村にあり)に開き小学校職員諸氏も生徒を率ひて来会、
  同地滞在中の高崎正風男も臨場したり。高崎男まづ勅語を奉読して一場の講和をなし次に園会長および会主斉藤要八氏の講演あり、
  了りて高崎男が両陛下より恩賜の菓子を会員一同に分配したり。」
  高崎正風 (1836-1912) は男爵。岩倉使節団の一員として欧米を視察、枢密顧問官などを務めた。
[65] 渋沢栄一については多くの伝記資料が公開されているがこの事実を確認できなかった。
[66] 例えば輝子が1894年9月に道明寺袋千個を「清国征討につきいささか寸志を表するため」軍用品として第一師団に献納、
  という記録が残っている。その記録には「東京府平民園輝子、東京府麻布区仲ノ町11番地」とある。
  日清戦争当時、キリスト教は天皇制に反するとして排斥される傾向があり、キリスト教者の中には進んで戦争に賛同を表明した者も多かった。
[67] これが事実なら輝子の墓は本門寺内に現存する可能性があるのだが調査できていない。
[68] 小谷部全一郎 (1868-1941). 1888年に渡米、エール大学等で学ぶ。1898年に帰国後は牧師となる。
  アイヌの教育に力を注いだが、また源義経=ジンギスカン説、日本人ユダヤ人同祖論などを展開した。
  1898年に自伝「A Japanese Robinson Crusoe」を英語で出版しているが、この中に輝子について触れている箇所がある。
  絵が上手だったという小谷部のワシントンのハワード大学時代の逸話を訳本「ジャパニーズ・ロビンソン・クルーソー」(1991)から引用する。
  「当時の週刊新聞「スタンダード」は次のような記事を載せている。『大学礼拝堂の呼びものの一つに、日本の J. オヤベ氏が新たに描いた
  バスコン教授の肖像画がある。... ソノ夫人を描いた二点 ... など極めて見事な作品を描いて来た ...』」
  輝子以外の人物の著作に輝子の名前が現れる数少ない例であるがどのような係わりがあったのかはわからない。
[69] 公家の園家(明治維新後は伯爵)は藤原道長の子孫。鎌倉時代の園基氏を祖とする。江戸時代に基任の娘が後水尾天皇の後宮となり、
   後光明天皇を出産した事で宮中で勢力を持ち大納言となる。輝子と同時代の園家の人物には明治天皇に典侍として仕えた園祥子がいる。
   園輝子と園家の関係は確認できなかったが少なくとも直系ではない事は確実である。
[70] 松村介石 (1859-?). 明治大正期のキリスト教指導者。幼くして安井息軒に入門した。
  基督教新聞主事、キリスト教青年会館講師などを歴任、後に儒教的な要素を取り入れた日本教会を設立(後に「道会」と改称)。
  弟は昆虫学者として著名な松村松年。
[71] 野口復堂 (1865?-1940以後). 京都の商家出身の教談家。本名善四郎。
  英語教師をしていたがインドに渡って神智学教会会長のオルコットを日本に招いた。
  明治26年のシカゴ世界宗教会議にも出席、松村介石とも知り合いだった。道徳的な訓話など、教化のための講談=教談を始めた。
[72] 岡松甕谷 (1820-1895). 幕末明治の儒学者。昌平黌教授。明治9年に私学紹成書院を設立した。後に帝国大学文学部教授。
  明治初期にはいくつかの私学で律学などを講じていた。中江兆民も岡松甕谷のもとで学んだ時期がある。
[73] 大山夫人. 大山捨松 (1860-1919) の事だろう。旧姓は山川。開拓使留学生として明治4年に津田梅子らと渡米。
  明治15年帰国、参議陸軍卿で伯爵の大川巌と結婚、伯爵夫人として鹿鳴館の花と呼ばれた。
[74] 瓜生夫人. 瓜生繁子 (1862-1928) の事だろう。旧姓は永井。大山捨松と共に開拓使留学生として渡米、音楽を学ぶ。明治14年帰国。
  瓜生外吉(後の海軍大尉)と結婚。音楽教育に努め東京女子高等師範学校教授となった。
  上記二人の留学は日本人女性としては最も早い時期の海外渡航であり輝子の渡米より十数年早く、輝子の述懐は事実とは異なる。
[75] 明治18年に創刊されたキリスト教系の女性啓蒙雑誌。主な編集人は巌本善治。
  啓蒙的な記事や論説の他、若松賤子訳の「小公子」など文芸面でも当時の女性に与えた影響は大きかった。
[76] Deaconess School だが、Chicago Training School の事である。
[77] サンフランシスコ在住の邦人によって創刊された週刊新聞「蒸汽船」の事。「海外邦字新聞雑誌史」に拠れば1889年に創刊されたが
  過激な内容が治安妨害とされ発禁、半年ほどで廃刊になったとある。なお上記文献には「週刊?」とされているが
  女学雑誌の引用の仕方(六月分)を見ると月刊だったのかもしれない。日本国内で所蔵している機関を見つけられなかった。
[78] John Marshall Masters の事と思われるが輝子との接点については不明。
[79] Merriman Colbert Harris (1846-1921). アメリカメソジスト監督教会の宣教師。1873年に来日、函館に伝道し内村鑑三らに授洗。
  1878年東京に移り、東京英和学校で教えた。1886年帰米、サンフランシスコで在米邦人に伝道したが、1904年に再来日している。
[80] Union signal は WTCU の機関紙である。 この記事については輝子の自伝にも紹介されており、その全文が自伝中に引用されている。
[81] American woman's journal の事だろうが未調査。
[82] 輝子の自叙伝とはタイトルが異なるようだが「米国女学新誌」を調査できておらず、現タイトルは不明。
  現時点で上記自伝(とその巻末に貼付されたパンフレット)以外の輝子の著作は確認できていない。
[83] ウエストミンスターガゼットは調査できていない。
[84] Dwight Lyman Moody (1873-1899). アメリカの大衆伝道者。
[85] Ira David Sanky (1840-1908). アメリカのゴスペル歌手。ムーディの伝道を助けた。
[86] Phillips Brooks (1835-1983). アメリカ聖公会のマサチューセッツ主教。明治22年には来日している。
[87] 渡辺小太郎は大蔵官吏ではなかったようなので、これは一回目の結婚の事だろう。
[88] 改進新聞は明治17年に開花新聞が改題した新聞だが所蔵している機関が少なく、調査できていない。
[89] 自伝出版以降の輝子の足跡は当時の欧米の新聞に散見される。
  例えば The New York Times は1891年11月22日にボストンでの大会で写真撮影に応じた様子を報じている。
  The Wasington Post は1892年2月20日に輝子のWCTUでの演説の様子を、1893年1月2日に輝子がアメリカを離れることを報じている。
[90] 井上次郎とは「女学雑誌」の編集人、巌本善治 (1863-1942) のことである。巌本は明治女学校の校長となり、キリスト教に基づく女子教育を進めた。
[91] Pandita Ramabai (1858-1922). インドの社会改革者。1883年イギリスで洗礼を受け、後アメリカにも渡っている。
[92] Edward Bickersteth (1850-1897). イギリス福音宣布教会の伝道主教。1886年に来日、翌年に日本聖公会を組織した。
[93] 和田秀豊 (1854-1946). 明治から昭和の牧師。1884-1901年芝教会の牧師を務め、またハンセン病患者の施設慰廃園を創立した。
[94] Maria T. True (1840-1896). アメリカ人の宣教師。1874年に来日、共立女学校などで教師を務めながら伝道活動を行った。
[95] 田村直臣 (1858-1934). 日本基督教会牧師。1893年に「The Japanese bride」(日本の花嫁)を出版したが
  誤った日本の女性像を海外に紹介したとして問題になった。
[96] Margaret MacLean (1838-?). 伝記の詳細はこの後に出てくる長坂毅の小伝を参照。日本海軍や商船乗組員などに対して
  長年多大の尽力があったとして明治35年、勲六等宝冠章を授けられている。
[97] 和田垣謙三 (1860-1919). 経済学者。東京帝国大学教授。1880年にイギリスへ留学。ロンドン大学などで学んだ。
[98] 島田三郎 (1852-1923). 政治家、ジャーナリスト。1887年イギリスへ渡航。
[99] 植村正久 (1858-1925). キリスト教指導者。1888年イギリスへ渡航。
[100] 三好退蔵 (1845-1908). 貴族院議員。1871年にヨーロッパへ、1888年にも渡欧している。
[101] 稲葉子爵. 稲葉正縄(1867-1919) の事。式部官。1888年にイギリスへ渡航。
[102] 植村俊平 (1863-1941). 大阪市長。1888年にイギリスに留学している。
[103] 佐伯理一郎 (1862-1953). 熊本出身の医者。熊本医学校を卒業、海軍軍医から産婦人科医となった。
  1887年、海軍省留学生としてアメリカから欧州へ渡航している。
[104] 原田助 (1863-1940) 同志社総長、ハワイ大学教授。1891年にイギリスに行っている。
[105] 日輝法尼(4)にも「総売上高一万一千円」とあるのでおおよその金額は正しいだろう。
  物価指数などを参考にして現在の金額に換算すると数千万円程度になる。
[106] 長坂毅. 日本に救世軍を紹介した人物の一人。救世軍の機関紙「ときのこゑ」創刊時の発行編輯人で、救世軍軍歌なども作っている。
[107] 藤田伝三郎 (1841-1912). 藤田財閥の創立者。 教育や慈善事業に多く寄附を行い、美術品蒐集でも名高い。
[108] 「園輝と妾との関係の梗概」. 原タイトルが確認できず、詳細不明。
[109] 「Light thrown on an involved subject」. これについても確認できない。
[110] 園輝会の賛同者の一人である、Mrs. A.J. Gordon とは別人のイギリス人 Elizabeth Anna Gordon (1851-1925) の事だろう。
  1891年に来日、第一次世界大戦時に一時帰国したが再来日、日本で亡くなっている。仏教に関心を寄せ、キリスト教と仏教の一元論や
  ユダヤ人と日本人の関係などを論じた。
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(2011.03.14 記)