検印紙第一号とされる小宮山天香著 「断蓬奇縁」 と鳳文館

自身の著作物に検印紙を最初に使用したことが確認される人物として、小宮山天香(本名: 桂介、1855-1930)を挙げる文献が多い。
一例として稲岡 (1985) から引用する。
[検印紙とは] 印税部数を確認するために著作権者が捺印 -検印という- した小紙片のことで ... [中略]
今のところ、印税契約の嚆矢は、明治十九年十二月、小宮山天香が 『慨世史談 断蓬奇談』 [1] 刊行の際に、鳳文館と交した出版契約書とされる。... [中略]
このように、現在判明している限りでは、検印紙の第一号は、此の政治小説の奥付に貼付された証紙ということになる。
この出版契約書とは 「断蓬奇縁」 の著者小宮山桂介と、鳳文館の前田円との間で明治19年12月22日付で交わされた 「斷蓬奇縁出版契約書」 のことで、
木戸 (1954) によってその全文の影印が翻刻と共に紹介 [2] され、世に知られることになった。
その第三条には、"小宮山桂介ニ於テ本書見返シニ毎部印紙ヲ貼付シ捺印ヲ為スベキ事" [3] とある。

小宮山天香は明治期の新聞記者で小説家。海外の小説の翻訳も手掛けた。
「断蓬奇縁」 は、エルクマン・シャトリアン (Erckmann-Chatrian) の 「マダム テレーズ」 (Madame Thérèse) の抄訳で、
明治15~16年、日本立憲政党新聞に掲載の 「勇婦テレーズ傳」 に加筆、改題したもの。木版の和装四冊本で明治20年に出版された。

どのような検印紙と印が捺されているのか、「断蓬奇縁」 の実物(京都大学所蔵本)を調べてみた。
契約書では見返し(表紙をめくった次のページ)に貼ることになっているが、実際には巻末の奥付に貼られている。奥付には、
明治二十年五月三日版權免許 同年六月出版
譯述并出版人 東京府平民 小宮山桂介 神田區西小川町二丁目一番地
出版人 東京府士族 前田圓 京橋區彌左衛門町十五番地
發行所 東京京橋區彌左衛門町十五番地 鳳文館
とあり、上部の空いた部分に検印紙が貼付され、割印 [図] がある。
検印紙は縦約25mm.、周囲4辺には切り取り線が細かい点線で印刷されていて、右辺と下辺では明瞭に、上辺と左辺でも僅かに確認できる。
上辺と左辺に大きな目打が切られているが、4辺ともそれらを無視して裁断されている。
印刷はエッチングと思われる凹版、中央に "桂華書館章"、右に "版權所有"、左に "卍里一梓"、下に "不許翻刻" とあり、
このデザインは明治初期の郵便切手や証券印紙などにも似たものが見られる。
検印紙の印刷は大変鮮明で、当時の切手と比べても遜色ない。割印は "發賣認許" の丸印である。
この検印紙はインターネットでは国会図書館デジタルコレクション [4]、 国書データベース [5] で確認できる。
また、稲岡 (1985) の挿図 [6] にも図示されているので、別本での貼付具合の違いもある程度判る [7]
さて、この検印紙に記された "桂華書館" の実体が判らない。天香は "桂華山人"、"桂花散人" 等 [8] の別号を使っているので、
これが天香を指すのは間違いないが、なぜ "書館" というあたかも書肆であるかのような表現にしたのだろうか。
奥付では小宮山桂介の肩書は "譯述并出版人" とあり、前田と並んで出版人とされているし、
契約書第四条では "版權ハ小宮山桂介並鳳文館ニ於テ所有スベキ事" となっている。
明治20年5月9日付け官報1155号の版権免許書目広告にも、
同書は "著 佛國シャートリアル氏、譯 小宮山桂介、出版 前田圓 小宮山桂介" とある。
このあたりにも小宮山の出版への関わり方や、それが印税契約とどのように関係するのか、のヒントがありそうだ。
なお、この検印紙が他の出版物に使われた様子はなく、"桂華書館" の他所での使用例も今のところ見つけられない。

鳳文館 [9] は、明治15年に前田円 [10] が設立した出版社で、「資治通鑑」、「佩文韻府」 などの漢籍関係の書籍を主に出版した。
明治20年1月に鳳文館から出版された依田学海 [11] 著 「吉野拾遺名歌譽」 の巻末には、同社の新刊予定の広告が掲載されている。
そこには "政事小説斷蓬奇縁 廿年三月出版" [12]、"當世諷喩二人女婿 廿年三月出版"、"百嘆千笑西洋滑稽小説、廿年四月ヨリ順次出版" 等とある。
「當世諷喩二人女婿」 と 「百嘆千笑西洋滑稽小説」 は、共に依田学海の著作である。
「當世諷喩二人女婿」 は 「當世二人女婿」 の標題で予定通り3月に出版されているが、「百嘆千笑西洋滑稽小説」 は出版された形跡がない。

漢籍類を専門とし、予約出版で成功した鳳文館だが、設立間もなく経営不振に陥り [13]、明治19年頃から他分野の出版を模索しはじめる。
経営不振の鳳文館は、なぜ 「断蓬奇縁」 を印税契約で出版したのだろうか。
上記 「契約書」 の第二条には、原稿料の支払いに関する項目があるので、引用する。
本書翻譯ノ勞ニ酬ユル爲メ譯者小宮山桂介ヘ對シ壹部ニ附金拾錢ノ割ヲ以テ印税ト稱シ賣上ケ高ニ應シ板權期限内
(版權免許ノ日ヨリ向フ三十ヶ年)ハ鳳文館ヨリ差出ス事、但本條報酬金ノ中一金三拾圓並依田氏評點謝金貳拾圓ハ
前ニ鳳文館ヨリ差出シタルヲ以テ最初五百部ハ印税ヲ要セザルベシ
「断蓬奇縁」 に序と評点(本文上部に置かれる注釈文)を書いた依田に、この契約以前に謝金20円が支払われたことになっている。
依田は、詳細な日記(「学海日録」 として岩波書店より刊行)を残しているので、
そこから 「断蓬奇縁」 出版に関する箇所を抜き出し、関連事項と共に時系列で見てみる。「学海日録」 からの引用は " " で示す。
M19.11.20: "又前田円きたりて断蓬奇縁・双玉新話の二篇を示さる。"
M19.12.6: "前田円が紹介書をもちて小宮山桂介来る。... 断奇縁[ママ]を訳して余に評を請へり。"
M19.12.22: 小宮山桂介と、前田円との間で 「斷蓬奇縁出版契約書」 が交わされる。
M19.12.22: "夜に入りて前田円きたりて、小宮山が訳の断蓬奇縁をとる。此書、鳳文館にて上木するよし也。"
M19.12.31: "川尻宝岑来り、二人婿の演戯本第一巻を校訂し示さる。前田円来て、金二十円、著述料をおくらる。"
M20.2.23: "前田円きたりて、二人婿の報酬料おくらる。"
M20.3: 「当世二人女婿」 出版。
M20.5.3: 「斷蓬奇縁」 版権免許。
M20.6: 「斷蓬奇縁」 出版。
M20.6.26: "前田円断蓬奇縁をおくり来る。"

明治19年12月31日付で依田が受け取った著述料20円は、おそらく 「斷蓬奇縁」 の謝金だろう。
同月22日付の契約書には "前ニ鳳文館ヨリ差出シタル" とあって日時が前後するが、渡すのが遅れたのだと思う。
キャンベル (2005) は、この20円を明治20年3月出版 「当世二人女婿」 の報酬としているが、日記では同年2月23日付で払われている。

木戸 (1954, 1960) は、この契約書を "天香が自己の著作物に対して堂々とその権利を主張し、実践している"、
また、"この契約書が餘りにも完全なので原型(恐らく外国から移入)があったに相違ない" とし、
この契約の陰にフランスの(著作権などの)法律に精通していた河津祐之 [14] の存在があったのではないかとしている。確かにそうかもしれない。
当時、著作原稿は買取り制が一般だった。例えば依田は、上述の日記にある通り 「当世二人女婿」 の報酬を出版前に受け取っている。
しかし、最初の500部は印税不要、売れ高に応じて後払い、というこの契約は、資金難に陥っていた鳳文館にとっては好都合だったに違いない。
実際、この本の売れ行きはそれほど良くなかったようなので、鳳文館は出版前に天香に渡した報酬金30円以外はほとんど払わずに済んだと思われる。
堂々と著者の権利を主張したつもりの天香と、すぐに著作料を払うのが苦しい鳳文館との思惑が図らずも一致した、と言うのは考え過ぎだろうか。
もし、鳳文館の資金難が日本最初の印税契約の一因だったとすれば皮肉と言うしかない。

同年に鳳文館は、呉文聰著 「統計詳説 上巻」 を出版(明治20年7月20日版権免許 同年8月出版)[15] している。
冒頭の凡例には、"書肆鳳文館來テ統計書ヲ著サンコトヲ請フ" とあり、鳳文館側から出版を依頼 [16] されたことが判る。
市町村制発布を見越し、平易な文章の実務的な本を出すことで、経営の立て直しを図ろうとしたのだろうか。
そして、この 「統計詳説」 の奥付にも検印紙が貼付され、割印 [図] がある。
検印紙 [17] は縦約30mm.、切れ目が線状のかなり細かい目打 (ルレット, roulette) がある。
左右の辺、上三分の一のあたりの目打ちにズレがあるため、上下で横幅が僅かに異なる。
印刷は平版、楕円枠の中に鳳凰と思われる鳥が描かれ、中央に "W" とある。鳳凰は社名の鳳文館に由るものだろう。
"W" の意味は不詳だが、著者呉文聰(くれ あやとし、名は "ふみあき"、"ぶんそう" とも。)の姓 "呉" の中国音 WU の頭文字か。
割印は丸印、一部不鮮明で判読できない。

「統計詳説」 に 「断蓬奇縁」 と同形式の検印紙と割印があるのは、「統計詳説」 も印税契約で出版された証しではないだろうか。
仮にそうだとすると、当時一般的ではなかった印税契約を提案したのは鳳文館の方では、と思う。
この本は、随分多く売れた(「呉文聰著作集」 第3巻, p. 176 に拠る)ようで、思いがけず多額の印税を払うことになったのかもしれない。
結局、鳳文館は事業を立て直すことができず、翌年には廃業 [18] する。「統計詳説」 は、鳳文館の事実上最後の出版物 [19] だろう。
日本最初の印税契約を著者と結び、検印紙を最初に使用したとされる鳳文館は、2種の検印紙を残して出版界から姿を消した。

[参考文献]
稲岡 (1985): 検印紙事始 証紙(印紙)のいろいろ.(アステ ; 3, p. 24-25).
稲岡 (1992): 蔵版、偽版、板権 - 著作権前史の研究. (東京都立中央図書館研究紀要 ; 22).
木戸 (1954): 新資料による小宮山天香の研究. (明治大正文学研究 ; 12, p. 125-135).
木戸 (1960): 知られざる文学. 川又書店.
キャンベル (1996): 復興期明治漢文の移ろい : 出版社鳳文館が志向したもの. (文学 ; 7(3), p. 17-32).
キャンベル (2005): 東京鳳文館の歳月. ぺりかん. (江戸の出版 ; p. 174-232).
鈴木 (1972): 出版 : 好不況下 興亡の一世紀. 新訂増補版. 出版ニュース社.
* 国会図書館デジタルコレクション、国書データベースの最終閲覧確認日は 2025.04.01 です。

--- 注(番号をクリックすると文中に戻ります)---
[1]. タイトルは 「慨世史談 断蓬奇縁」 が正しい。
[2]. 後に、同氏の 「知られざる文学」 (川又書店, 1960) に収められた 「小宮山天香小伝」 の中でも言及されている。
[3]. 木戸 (1954) は、"捺印" の部分を "解印" と読み、鈴木 (1972) も "解印" と読んでいる。
  辞典をいくつか調べたが、解印とは官職を辞めること、とされていて意味が通じない。
  契約書は墨書されていて、その書体はかなり崩れているうえ、論文に付された写真は小さく不鮮明で判読が難しい。
  稲岡 (1985) はこの部分を "捺印"、稲岡 (1992) では "捺印、押印、調印の何れか" としている。
  該当する字の左側は同契約書中で使われている "擔" や "持" の左側と形がほぼ同じなので、てへんと判断して良いだろう。
  右側は "甲" か "奈" か(あるいはそれ以外か)判読に苦しむが、"甲" の運筆としては不自然に感じる。
  "捺印" と読むのが妥当だと思う。参考までに 「貼付シ●印ヲ」 の部分を、木戸 (1954) の図版から拡大して転載する。
  0010a
  ところで、この契約書を書いた人物を筆跡から推定できるか、周辺人物の筆跡をインターネットで公開されている書簡などで調べてみた。
  情報が少ない上に素人が見比べるだけなので甚だ心許ないのだが、小宮山桂介と前田円は除外して良いように思う。
[4]. 国会図書館デジタルコレクションの 「断蓬奇縁」の奥付。 [https://dl.ndl.go.jp/pid/897047/1/269 : 2025.04.01 閲覧確認]
[5]. 国書データベースの 「断蓬奇談」の奥付。 山梨大学附属図書館近代文学文庫所蔵本。[https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/300041973/260?ln=ja : 2025.04.01 閲覧確認]
[6]. 稲岡 (1985) で図示されている 「断蓬奇談」の検印紙。 同一のものが稲岡 (1992) の図57a でも示されていて、布川角左衛門所蔵本、との説明がある。
[7]. 近代文学文庫本、布川本、京大本の検印紙は、布川本は上辺と右辺、京大本は上辺と左辺に目打がある。
  近代文学文庫本は右辺のみに明瞭な目打がある。(左辺上部に僅かに目打のような欠けが見える。)
  この目打ちは、打ち抜かれているものはむしろ少なく、円形にくぼんでいるだけのものが多いので、
  尖った針状のものではなく、先端の平らな棒状(あるいは中空筒状)のもので押されているようだ。
  検印紙は一枚の紙に切手シートの様に並べて印刷されたはずなので、多くの例を調べれば1シートが何枚綴りだったか、
  どのように目打が切られたかを推定できるだろう。少なくとも1シートに4枚以上は印刷されていたと思われる。
  また、3点の検印紙の図柄を比較すると、それぞれ微妙だが明瞭な違いが認められる。
  ここでは京大本と布川本の検印紙で顕著に違っている箇所を幾つか例示する。
  左図が京大本、右図が布川本。(布川本は、稲岡 (1985) の図版の一部を拡大したもの。オフセット印刷なので網点が見える)
  なお、近代文学文庫本の検印紙は、京大本や布川本とも異なっているように見える。国会図書館本は解像度が低く、判別できない。

  han han
  "版" の字。下矢印の箇所、京大本は 「片」の上端が「反」の横画より突出し、上矢印の箇所では、はらいが斜め下に向いている。

  koku koku
  "刻" の字。つくりの「刀」の右肩部分が京大本は滑らか。また、上方の二つの白点の間隔や、周囲の葉の形や場所も異なる。

  ha ha
  版面左下の葉模様。中央の葉の明暗が逆になっている。
  これらの違いが印刷時に起こることはないので、原版自体が異なっていたと考えるべきだろう。
  この検印紙は一枚だけ彫られた原版を複製(殖版という)し、それを並べてシートの原版を作成したものではなく、
  一枚ずつ別に原版を彫っていると思われる。さらに多くの例を詳細に比較検討すれば、この検印紙のバリアントの詳細が判るだろう。
[8]. 松原 「文明開化と復讐物語」 (言語文化 ; 57, p. 57-73. 2018) による。
[9]. 鳳文館の歴史については、キャンベル (1996, 2005) が詳しい。
[10]. 前田円 (1853-1918) は書家として有名で、号は黙鳳。博文社の手代を経て鳳文館を興した。
  後に 「東亞新字」 (1904) で漢字の簡素化(中国の簡体字の様な字体)を提案している。
[11]. 依田学海 (1834-1909) は漢学者、文芸評論家。演劇改良運動に尽力し、戯曲も残している。
[12]. 「断蓬奇縁」 の出版は6月なので、予定より3か月ほど遅れて出版されたことになる。
[13]. 依田学海の日記 「学海日録」 には以下の様な記述があり、前田が経済的にかなり困っていたことが窺える。
  "前田円きたる。なりはひ思の外によからねば、余が著せし譄園の報酬をおくること得ならず、いとおもなしといふ。"(明治18年12月21日)
  "前田円きたる。円、借財の為に家産を尽く人に奪はれりといふ。"(明治19年2月27日)
[14]. 河津祐之 (1849-1984) は明治期の官僚。フランス留学後、司法省刑事局長や東京法学校校長などを務めた。 「断蓬奇縁」 に序を寄せている。
[15]. 出版されたのは上巻のみで、下巻は9月に出版予定だったが出版されなかった。「呉文聰著作集」 第3巻 (1973) に拠ると、
  下巻の原稿はできていたが、鳳文館が閉店したために出版できず、冨山房から明治21年6月に 「応用統計学」 として出版されたという。
  「応用統計学」 の奥付には "版權登録" "版權所有" の印はあるが、検印紙も割印もない。
[16]. 「呉文聰著作集」 第3巻, p. 244 に拠れば、団団珍聞社長の野村文夫の紹介であったとされる。
[17]. 図は京都大学附属図書館所蔵本による。ボール表紙本で、逓信次官野村靖の題辞と、石橋重朝(内閣統計局長)の序がある。
  京大本は、大正5年5月1日 に受入された呉文聰寄贈本で、表紙には文聰の弟の名 "秀三" が朱書されている。
  文聰の長男が編集した評伝 「呉文聰」 (1933) に拠ると、文聰は生前、著書を東大や慶応大などの大学に寄贈しており、
  "京都帝國大學圖書館へ自著一通りを寄贈せり ... 他の處へ寄贈せしものには二三の缺本がある" と言っていたという。
  同書に掲載された寄贈図書一覧にある11部12冊は、現在も架蔵されている。また、目録から漏れている寄贈本の存在も確認できる。
  全て、大正5年5月1日に受入されているが、特に縁のなかったと思われる京大を選んだ理由はよく判らない。
  国会図書館デジタルコレクションで公開されている同書の奥付でも、不鮮明だが同じ検印紙と割印が確認できる。
  一方、京都大学経済学部図書室所蔵本(小島勝治氏旧蔵本)はボール紙の表紙が無く、奥付には検印紙も割印もない。
  本文や奥付等は活字のゆがみや印刷のかすれ具合も全く同じだが、なぜ検印紙が貼付されていないのか判らない。後刷りだろうか。
  「呉文聰著作集」 第3巻、p.53 には、同年に呉は 「経済統計学詳説、完」 を出版しているが内容は全く同じ、との記述がある。
  この本も京都大学経済学部図書室に所蔵されている(小島勝治氏旧蔵本)ので確認した。
  「経済統計学詳説」 には標題紙はなく、表紙に "呉文聰先生講述 / 経濟統計學詳説 完 / 發售書估藏版" とある。
  本文紙面は 「統計詳説」 と全く同一だが、標題紙と冒頭の題辞はない。奥付も同一で、検印紙は貼られていない。
  ただ、目次冒頭、本文冒頭、巻末にある "統計詳説上巻" の表示は "上" を削って "全" を重ね刷りし、"統計詳説全巻" に修正されている。
  奥付の出版日付も明治20年8月のままだが、この体裁で発売されたのはおそらく鳳文館の倒産以降だろう。
  統計学雑誌424号 (1921) に掲載された出品目録では、同書の出版年を明治22年、としている。
  調査した京大経済学部図書室本の裏表紙は、「歐羅巴戰記 第壹套」 の表紙を裏返して再利用したもので、奥付の紙葉に糊付けされている。
  「歐羅巴戰記」 第壹套(參謀本部編纂課重譯. 參謀本部藏版)は明治23年1月刊行なので、出版されたのはそれ以降に間違いない。
  鳳文館は明治21年にはほぼ全ての版権を十一堂に譲与している。「統計詳説」 は鳳文館廃業後も書名を変えて発行され続けていたようだ。
[18]. 明治21年7月7日、盛大な閉館式が催され、数百人を超える文人知人が集まった。前田は版権などを全て売り払って資金を調達し、
  自らが編集した 「黙鳳帖」 を配っている。キャンベル (2005) は事実上の倒産を明治20年秋頃、としている。
[19]. 明治20年7月に尚榮堂から出版された 「スゥ井ントン氏 萬國史直譯」 の奥付には、"發行所 鳳文館" の表示があるが、委託販売のようである。

[2025.05.02 記]
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