明治時代に将棋を海外に紹介した鈴木重陽という人は少し変わり者
日本の将棋がインドあたりを起源とすることは良く知られている。西洋に伝播したのがチェスで、極東の日本にたどり着いたのが将棋だ。
囲碁に比べて海外ではあまり普及していないようだが、駒に漢字が使われているのが一因だろう。
日本以外の漢字文化圏ではシャンチー(象棋)の方が親しまれている。
そんな将棋を明治時代に海外に紹介するべく、英語で入門書を出版した人物がいる。
1905年に、Japanese chess (shō-ngi) という本
[1]
がアメリカで出版されている。著者は "Chō-Yō" と名乗る人物である。
駒の漢字をローマ字に置き換えた上で駒の説明や将棋のルールを解説した本で、詰将棋も掲載されている。
象棋の紹介もあり、さらに将棋の戦略に結び付けてアレキサンダー大王や日露戦争(旅順攻囲戦)についても数十ページ以上を費やしている。
入門書には違いないが、将棋を知らない外国人がこの本を読んで将棋が指せるようになるとは思えないし、関係なさそうな話題が多すぎる。
標題紙には "象棊哲學"、"將棋經" とも書かれていて、単なる解説本ではない奇抜な著作だ。著者は漢字で "重陽華山"
[2] ともある。
この本に出会ったのは30年以上前。当時は著者の正体が判らず、ずいぶん調べて鈴木重陽という人物にあたりをつけたが確証が無かった。
最近になって調べ直してみた。どうやら間違っていなかったようだ。
詰将棋サイト 「詰将棋一番星」 中の記事
"詰将棋の散歩道"、第10回と第54回にこの本が紹介されていて、著者は鈴木重陽とある。
筆者は第10回(2011年10月号)が篠原昇氏、第54回(2015年6月号)が磯田征一氏。
元記事は雑誌 「詰将棋パラダイス」 に連載されたものだという。第54回の 「謎がいっぱい『六韜三略』」 の記述を引用する。
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著者は [中略] 長いこと正体不明で、中国人と間違えられたりしたが、海外サイトの広告
[3]
に略歴があって、初めてその片鱗が分かった。
それによると 「日本生まれの重陽は、1893年のシカゴ万博で東洋美術について講義するためアメリカに来た。
万博閉会後はアメリカに残り、シカゴ新聞・大学クラブとシカゴ美術協会の会員になった。重陽は東洋美術の著名なコレクターであった。」
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鈴木重陽は、日本では明治時代中頃の英語教育者として知られていて、編纂者、あるいは校閲者としていくつかの英語関係の著作がある。
確認できたものを出版順に並べてみる。(書誌事項の確認は主に国会図書館デジタルコレクションに拠る)
1. Chōyow's speller for use in chyū-shō gakkō and other common schools : on the basis of the new illustrated edition of
Webster's great American dictionary / by Chōyow Sdzki. -- 鈴木重陽, 1885.4.
姓表記の "Sdzki" はかなり独特で、彼以外の使用例は見当たらない。
2. A selection of English phrases and expressions, with illustrative passages from Johnson, Macaulay,
and other standard writers / by Chōyōw Sdzki. -- Sawaya, 1886.
3. 英和字海 / 棚橋一郎
[4]、鈴木重陽同纂. -- 文學社, 1887.1.
重陽の肩書は "第一高等中學校教官"、奥付には "東京府士族"、"京橋區南鍋町二丁目五番地" とある。英文標題紙もあり、
そこには著者は "Chōyōw"、肩書は "Late an instructor of the English language in Tōkyō fu Shihangakkō (Normal School);
instructor of the English language in Tōkyō fu Chūgakkō and also Dai-ichi-kōtō Chūgakkō;
compiler of a selection of English phrases with illustrative passages &c;
and author of Chōyōw's speller for use in Chūgakkō and Shōgakkō and other common schools." となっている。
4. 英和小字彙 / 西山義行
[5] 編纂 ; 鈴木重陽校訂 ; 棚橋一郎訂正. -- 文學社, 1887.5.
重陽の肩書は "第一高等中學校英語教官"。
5. 英和字彙 : 附音圖解 / 柴田昌吉, 子安峻同著 ; 天野爲之
[6] 訂正 ; 鈴木重陽増補. -- 同盟書房, 1887.7.
明治6年に日就社から出版された英和字彙の増補版。
6. 重陽スペラール獨案内 / 守屋駒之助
[7] 纂譯 ; 鈴木重陽校閲. -- 金刺芳流堂, 1887.8.
重陽の英文表記は "Chōyow"。
7. 英語之良師 / 著者高木錦次郎
[8] ; 鈴木重陽校閲. -- 博聞社, 1888.1.
重陽の肩書は "第一高等中學校教官、東京府中學校教官"。
8. すいんとん小文典獨學自在 / 櫻田源治
[9] 譯述 ; 鈴木重陽校閲. -- 林平次郎, 1888.9.
英文序にある著者表記は "Choyow"。
9. 重陽スペラー獨案内 / 西山義行挿譯 ; 重陽先生校閲. -- 文海堂, 1888.12.
英文著者表記は "Choyow"、肩書は "東京府英語傳習所教師、勸學義塾教頭、東京府尋常中学校教師、補充中学校教師"
奥付にある住所は "東京京橋區宗十郎町一番地寄留"
後に増刷されたものもあり、また出版者が異なる版が存在するものもある
[10] ようだが、初学者向けの著作がほとんどである。
重陽は校閲者、校訂者となっているものが多く、それぞれの著作で具体的にどの程度の関与をしたのかはよく判らない
[11]。
「英語教育史資料5」 (大村喜吉他編, 1980) に彼の略歴
[12] がある。それを基に簡単な年譜を作ってみた。
1857 [安政4] 肥前国松浦郡(現在の佐賀県唐津東村)に生まれる。
1866 [慶応2] 耐恒寮で英学を修める。
1869 [明治2] 志道館で漢学を修める。
1873 [明治6] 長崎外国語学校英語学校卒業、東京大学法学部に入って修業。
1884 [明治17] 東京府中学校(後の東京府立一中、現在の日比谷高校)に就任、英語を教える。
1885 [明治18] 師範学校兼務。
1886 [明治19] 第一高等中学校兼務。
1889 [明治22] 東京府尋常中学校辞任。
没年は未詳とされていて、重陽は "ひげもじゃの達磨のような"、"洋装をした鍾馗のような" 風貌
[13] だったともある。
上京以前、唐津時代の重陽の経歴が判る資料は少ない。
「英和字海」 の奥付には "東京府士族" とあるが、出身は佐賀県唐津東村、唐津藩の耐恒寮で学んでいるので、唐津藩の武士の出だろう。
「東松浦郡史」(久敬社修訂増補, 1973)等で、鈴木姓の唐津藩士族が何人か確認できるので、おそらくこの中の誰かの末裔と思われる。
年譜にある耐恒寮は、唐津藩藩主の小笠原長国が唐津城内に設立した英語学校(現在の佐賀県立唐津東高等学校、唐津東中学校の前身)である。
「英語教育史資料」 では、重陽が耐恒寮で英学を修めた時期を、志道館(唐津藩の藩校)で漢学を学んだ時期より前の1866年 としているのだが、
耐恒寮の設立は、佐賀県立唐津東高等学校の沿革史によれば明治3年なので年代が合わない。
(明治4年開設、とする資料もある。生徒が集まり実際の教育が始まったのが明治4年なのかもしれない。)
同史には、耐恒寮の英学生は志道館の学生から選ばれたとあるし、後年英語教師となる重陽が英学を学んだ後で漢学を学ぶ、というのは少し不自然だ。
「英語教育史資料」 の記述は何等かの錯誤があるのかとも思うが、調べきれていない。なお、耐恒寮はその後閉鎖され、1872年9月に廃校となっている。
また、「長崎英語學校學歳第一報 明治八年七月至九年二月」 の "下等語學卒業生徒表" には、"鈴木重陽 佐賀縣士族 明治八年七月" とある。
重陽は九州から上京、大学を目指したようで、長崎英語学校を卒業後、東京開成学校に入学している。
上京前後の消息を幾つかの資料から追ってみる。
明治9年9月21日付の 「郵便報知」 の記事 "東京開成學校新入學者公告" に長崎英語學校生徒として鈴木重陽の名が見える。
同年11月に開成学校から各英語学校宛てに出された給費生採用通知にも、土方寧、石川千代松、高田早苗、田中館愛橘等と共に重陽の名がある。
東京開成学校は本科と予科が設けられたが、予科は1877年に東京大学予備門となる。
そして、「第一高等學校一覽 自明治三十五年至明治三十六年」 の卒業生名簿(三十五年十二月末調)の、
明治11年7月(東京大學豫備門)卒業の法科志望生19名の中に "鈴木重陽 長崎" とある。
名簿では学士等の称号を持つ人物や死没者はそれと明記されているが、重陽には称号の記載は無く
[14]、生存者扱いである。
同一覧を年を追って見ていくと、「自大正四年至大正五年」 の名簿(大正四年九月末調)までは同様だが、
「自大正五年至大正六年」 の名簿(大正五年八月末調)では死没者扱いになっている。
予備門卒業後、東京大学法学部に進んだことは、「東京大學法理文學部一覽」(明治13-14)の法学部第2年級の名簿で確認できる
[15] が、
同一覧(明治14-15)の名簿には重陽の名が無く、「東京大學卒業生氏名錄」 にも、重陽の名は無い。
おそらく第2学級で退学したと思われる。(同氏名録で卒業が確認できるのは11名)
法律を志望していた重陽は、何等かの理由で1881年頃に退学し、やがて英語教師を目指したと考えられる。
1880年代前半の重陽についても、よく判らない。
高田麻美 「東京教育博物館における学術教育」(教育学研究 83(1), p. 1-12. 2016)に拠ると、
1878年に東京府師範分校に入学した逸見幸太郎という人物が1881年3月から1883年5月までの間、
鈴木重陽から英学を学んだとされているが、どこで重陽から学んだかは明確な記述がない。
高田は重陽について "東京府士族の英語教員であり、後年に東京府中学校や私立共成学校で英語を教授した" と脚注している。
後に総理大臣となる高橋是清は1871年から72年にかけて前述の耐恒寮に英語教師として招かれている。
1878年、東京に戻った高橋是清を慕って上京した学生達によって、久敬社が創設されている。
「唐津市史」 の記述等から要約すると、久敬社は東京市麹町番町の旧唐津藩小笠原邸内に設けられ、
在京の唐津人が親睦の意味を持って学問を論じ会合していたもので、当初は30人程度の集まりだったらしい。
市史には10人程の名前が挙げられていて、その中には鈴木重陽の名
[16] がある。
だが、明治20年前後に唐津人で東京大学その他官私学校で専門の学業を卒えていた人々、
あるいは、在学中の学生として挙げられている人物の中に重陽の名は無い。
「佐賀県教育史」 第2巻に掲載されている久敬社の沿革(「久敬社誌」 による)には、
1881年 "此歳幹事を改選して天野爲之・鈴木重陽の二氏幹事となる。"
1882年 "十一月幹事の改選を行ひ鈴木重陽氏其任を罷め中澤見作氏之に代る。" と記されている。
前掲年譜によると、1884年に東京府中学校(後の東京府立一中、現在の日比谷高校)の英語教師になっていて、
この頃から英語教師としていくつかの資料に名前が見えるようになる。肩書には複数の学校が挙げられているが、
当時の学校は統合、名称変更等が激しいので、重陽の在任期間を中心に変遷を示した上で、各学校での重陽の様子を追ってみる。
(以下、東京都公文書館情報検索システムの検索結果に拠るものには日付冒頭に * 印をつけて示す。)
共立学校
1871年創立 → 尋常中学共立学校 (1891)。現在の開成学園。
「開成学園九十年史」 (1961), p. 45-46 に以下の記述がある。
"明治十五年二月の定期試験成績表を見ると、英学部に高橋是清、鈴木知雄、武田直道、鈴木重陽、川井安定 ... の諸先生の名が連なっている。"
また、「ロータリーの日本化 大夢翁土屋元作伝」 (日出ロータリークラブ編, 1989), p. 99-100 に以下の記述がある。
"... 神田共立学校へ入学する事になった。... この学校では高橋是清、鈴木智雄 [ママ] 等が先生であって、
私は深澤要橘という老人及鈴木重陽という人に教わった。 ... 中途攻玉社へ転学した。これが明治十六年の下期で ..."
1882年には共立学校で教師をしていたことが判る。共立学校には耐恒寮の教師だった高橋是清がいたので、その縁かもしれない。
1882年に共立学校に入学した岡倉由三郎
[17]
の 「嗚呼神田先生」(英語青年 50(11), 1924所収)には、
"Lion の綽名に相應の鈴木重陽と云ふ縮れ毛の怖ろしい顔と聲の先生からは Quackenbos の英文典初歩
[18]
を、びくびくもので習った" とある。
「梧堂先生追懷錄」 (1910) には、山崎覺二郎
[19] が次のように書いている。前後の文脈からおそらく1882年頃のことだと思われる。
"取り敢へず共立學校に入學し且つ鈴木重陽氏の處へ通ふこととなった"
学校の授業とは別に家庭教師をしていたのかもしれない。
明治英学校
哲学者の得能文は、共立学校での試験で乙組に編入されることを嫌い、新設の神田裏猿楽町にあった明治英学校に転じ、
そこで鈴木重陽から英語を教わった、と随筆集 「さびしき心」 (1941) に収められた 「昔の書生気質」 に書いている。
得能の年譜(「人生読本 春夏秋冬」, 1938 所収)に拠ると、1884年、19歳で共立学校から明治英学校に転じている。
東京府中学校
東京府第一中学 (1878) → 東京府中学校 (1881) → 東京府尋常中学校 (1887) → 東京府第一中学校 (1899)。現在の都立日比谷高等学校。
*1884.6.14 「鈴木重陽東京府中学校教員雇申付」
1885.3 "東京府中學校 ... 鈴木重陽君は雇教師に任ぜられたり ... 英語を教授せらる" 「東京府教育談話會報告書 第三册」
*1887.3.2 「小学校教員授業生学力検定試験委員撰任の儀上申 元東京府中学校教諭心得 鈴木重陽」
1888.1 "東京府中學校教官" 「英語之良師」 著者肩書
*1888.?.?. 「鈴木重陽中学校教師解雇の上委嘱の件」
1888年、小学校教員及授業生学力検定試験委員として、"東京府尋常中学校委嘱教師鈴木重陽" の名があるが、下記第4回を最後に名前が消える。
*1888.11.22. 「本年第四回小学校教員及授業生学力検定試験委員申付 ... 東京府尋常中学校委嘱教師鈴木重陽」
1888.12 "東京府尋常中学校教師" 「重陽スペラー獨案内」 著者肩書
1889 東京府尋常中学校辞任。「英語教育史資料5」
東京府立一中、日比谷高校学校の同窓会である如蘭会の名簿、「如蘭會員及現在生徒名簿」(大正十年六月)に、旧職員として重陽の名がある。
それによると、重陽の身分は英語の嘱託、期間は明治17年6月から22年4月まで、本籍地は東京となってる。
また、物故者は × 印が付けられているが重陽にはその印は無い。
「東京府立第一中學校創立五十年史」 (1929) にも同様の名簿があるが、やはり × 印は付いていない。
1885年7月に東京府中学校を卒業した岡田鉄蔵
[20]
の 「追憶」(「八十年の回想」. 如蘭会, 1958 所収)には、重陽について以下の逸話がある。
"髯武者で西洋人の様な鈴木重陽先生は自著 Chōyō's Speller
[21]
という本をもって来て教えられた。"
"ある時鈴木重陽先生が abundant, flowers, noted の三語を用いて一文を綴れといわれると栗野君
[22]
は言下に鉛筆をとって
Abundant are the flowers that are noted for their beauty. と書いて先生も我々をも驚嘆させた。"
師範学校
東京府師範学校 (1873) → 東京府尋常師範学校が分離 (1887)
1885 師範学校兼務。「英語教育史資料5」
*1885.7.15. 「東京府中学校教諭心得兼東京府師範学校教諭心得申付 中学校教員雇鈴木重陽」
*1890.7.16. 「尋常師範学校委嘱教員増俸之件(東京府尋常師範学校委嘱教員鈴木重陽増給の義認可)」
*1890.9.15. 「本年後期小学校訓導及授業生学力検査委員長及委員申付 ... 尋常師範学校嘱托教師鈴木重陽」
*1891.4.20. 「尋常師範学校教員(鈴木重陽)解嘱ノ件」
「初等教育」 5巻11号(1912) に掲載された、萩城生の 「東京師範同窓會の回顧」 に第5代校長元田直の頃の教員として、鈴木重陽の名がある。
元田は1887年4月から1890年10月まで東京府尋常師範学校長を務めている。それによると、
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"英語の鈴木重陽、發音を以て鳴る、彼常に自慢して曰く、「予が喉は、ニューヨルク人やロンドン人に聽かしむべく、先づ世界第一ならむ」 と、
一生戯れに横槍を入れて曰く、「然らば先生の發音は日本在留の全西洋人に優るか」 と、先生答て曰く、「彼等は皆西洋の田舎人なり」 と、
彼は第一高等學校の教授も兼ねしが、後米國に渡りしといふ"
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発音に相当の自信があったようだ。この発音自慢の拠り所は何だろう、と思う。
第一高等中学校
東京大学予備門 (1877) → 第一高等中学校 (1886) → 第一高等学校 (1894)
1886 第一高等中学校兼務。「英語教育史資料5」
*1886.5.30. 「第一高等中学校ヨリ本府中学校教諭心得鈴木重陽嘱託伺併テ本人及秋永桂蔵兼務御免許伺
東京府中学校兼同府師範学校教諭心得鈴木重陽他1名の兼務を免ず」
1887.1 "第一高等中學校教官" 「英和字海」著者肩書
1887.5."第一高等中學校英語教官" 「英和小字彙」 著者肩書
1888.1 "第一高等中學校教官 「英語之良師」 著者肩書
松本亦太郎の 「遊學行路の記」 (1939) に、第一高等中学校に在学した4年間に教えを受けた先生として、重陽の名がある。
教科は "会話作文"。松本は1886年9月、第一高等中学校に入学、明治1890年7月に卒業している。
東京府英語伝習所
1887年6月、小学校教員あるいは英語教員志願者に英語を教えるための学校として東京府尋常中学校を仮用して設立された。
官報 (1867号) には1889年9月16日に授業を始めた、とある。何時まで存続したかは調べきれなかった。
1888.12 "東京府英語傳習所教師" 「重陽スペラー獨案内」 著者肩書
勸學義塾
1872年2月開校。1874年に私立外国語学校に公認、1877年から私立中学になる。主に英語を教えていた。
1880年代に閉校したとされている
[23]
が、1890年3月出版の 「東都指南車」 には掲載されている。
1888.12 "勸學義塾教頭" 「重陽スペラー獨案内」 著者肩書
ここでは英語教師ではなく、教頭となっている。どのような経緯だったのかは確認できていない。
補充中学校
1888年9月、皇典講究所の一画で発足。1891年4月、私立共立中学校に改称。後の東京府第四中学校、現在の都立戸山高等学校。
1888.12 "補充中学校" 「重陽スペラー獨案内」 著者肩書
共成学校
*1885.3.16. 「学校設置願之件(共成学校鈴木重陽学校設置願認可)所在地:芝区新幸町」
*1885.4.14. 「私立学校開業届(共成学校鈴木重陽学校開業届)」
*1886.9.29. 「共成学校校主鈴木重陽より天羽与三平へ校主譲替願に付指令」
浅草小学校
「淺草小學校開校五十年」 に寄せた來馬琢道(1877-1964、曹洞宗の僧侶、政治家)の 「明治廿年頃の淺草小學校」 に重陽の名が見える。
"明治二十年に高等三年となり、東北の隅の二階の教場で授業を受け、其時が長島先生の受持で、始めて英語が科目に編入せられた、
鈴木重陽さんと云ふ先生が 「重陽スペラー」 と云ふ書物を我々に渡して、ABCDから教授した、同級内でも少しは他で學んだ者もあったと見えて、
随分早く解るのに私はちっともABCが覺えられず ..."
重陽は複数の学校で英語教師をしていたことが判る。また、東京府中学校で英語を教え始めるより前から個人的な家庭教師もしていたようである。
「小野梓全集 第五巻」 (1982) に収録された岩村通俊宛書翰 (1884.5.5付) に、以下の様にある
[24]。
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"陳ば先般御令児様より教師御托レ有之に付、友人鈴木重陽に托候処引受呉候間、
御都合次第参上候様為レ致可レ申心得に御座候。
就ては報酬之義如何哉同人に問合候処、如何様にても宜敷旨申居り実意申し呉れざるに付き、他之凡例問合候処、
毎日一時之教授にて其宅へ参り候者は大抵一月七円内外之報酬致居候由に付 ... "
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重陽の英語教師としての日本での活動は、ほぼ1880年代半ばから後半の短期間に限られる。
その他の分野、例えば日本美術関係、将棋関係等の活動は、少なくとも資料上からは拾い出すことができない。
小野梓の 「留客齋日記」 の明治16[1883] 年5月10日には、重陽が小野を訪ねたことが記録されている。
"此日鈴木重陽來訪。話二石州中學之事一。" とある。"石州中学" は、日記中にこの一度しか現れず、何を指すのか、よく判らない。
日記には、1881年11月から1883年5月に亘って鈴木姓の人物が現れ、重陽の他には鈴木福三という人物がいる。
"鈴木" と姓のみ記された人物も複数回現れ、その中に重陽が含まれるかどうかも判別が難しいが、小野とどのような関係だったのか判らない。
「英和字海」 を共編した棚橋一郎は後に衆議院議員を務める等、重陽の周辺に政治的活動をした人物が複数いるのは確かだが、
重陽自身が政治的活動をしていた様子はなく、英語教師以外の一面を窺い知ることはできない。
ただ一つだけ、重陽の珍奇な逸話を見つけることができた。
重陽は渡米前に結婚していたようで、娘がいた。「姓名の研究」(荒木良造, 1929)に娘の珍名が紹介されている。
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鈴木モージョセフィン(女)東京市下谷區
これは明治二十七・八年頃、東京師範の先生に鈴木重陽といふ人があり、女の子が生れたので奈何いふ名をつけやうかと考えた末、
東洋では孟子の母、西洋ではジョセフィンがゑらいといふので両賢女にあやかって命名されたのださうだ。
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明治二十七・八年頃といえば、後述するように既に重陽は渡米後のはずなので、年代は多少の誤りがあるだろう。
あるいは、この娘の名前が話題になったのが明治二十七・八年頃ということかもしれない。
孟子の母は、孟母三遷や孟母断機と言った故事もあるように賢母(教育ママ)だったことで知られるが、確かな名前は伝わっていない。
母にあやかるのなら "モーボジョセフィン" とすべきだったな、とは思う。
"ジョセフィン" は、おそらくナポレオン・ボナパルトの妻、ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ (Joséphine de Beauharnais) のことだろう。
今では一般には "ジョゼフィーヌ" あるいは "ジョセフィーヌ" と表記されることが多いようだが、
例えば、当時よく読まれていたスウィントンの 「万国史」
[25] では "ジヨセフイン" となっている。
いずれにせよ、ずいぶん変な名前を付けたものだ。この重陽という人物、かなりの変人だ。
モージョセフィンさんがその後どんな人生を歩んだのか気になるが、重陽夫人と共に消息を知る手がかりが全く無い。
そして、重陽は渡米する。この時期を境にして、日本側の資料で重陽の活動を追うことはできなくなる
[26]。
渡航記録を調べきれていないので、渡米の時期は今のところ不明
[27]
である。東京都公文書館情報検索システムでは、
1891年4月20日付で 「尋常師範学校教員(鈴木重陽)解嘱ノ件」 とあるので、これ以後なのは確かだろう。
前述のとおり、1893年のシカゴ万博に関与したこと
[28]
は間違いないが、当初からの目的だったのかはよく判らない。
国立公文書館アジア歴史資料センターのデータベースでは、
外務省月報(明治33年9月分)の告知、卅三年九月中海外旅券紛失ノ旨届出タル者、として
「旅券番號 72034. 氏名 鈴木重陽. 旅行地名 米國. 下付年月日 明治29年8月20日」 との記載がある。
下付年月日がシカゴ万博以降なのが気になる。当時の旅券発行事情について調べてみたのだが、詳細は判らなかった。
旅券番号からも手掛かりが得られそうだが、まだ調べていない。
シカゴ万博は、1893年5月1日から10月30日までシカゴで開催された万国博覧会である。
(正式名は World's Columbian Exposition。"市俄古博覧会"、"閣龍世界博覧会" 等の訳もあるが、ここでは "シカゴ万博" を使う。)
「臨時博覽会事務局報告」 (1895)、「海外博覽會本邦参同史料第4輯」 (1929) 等の公式記録や、
シカゴ万博関係者の日記、回想録類や訪問記、その他シカゴ万博に関する資料をできるだけ調べたが、
日本側の記録ではシカゴ万博と重陽を結びつけるものを見つけることができず、重陽の動向はつかめない。
一方、アメリカ側の記録 Revised catalogue, Department of Fine Arts with index of exhibitors (1893) には日本人関係者として、
---
Imperial Commissioners, Hon. N. Yamataki
[29],
Hon. S. Temija
[30]
Examiner of arts works, S. Amano
[31]
Officer in charge of exhibits, S. Chōyō.
---
とあり、重陽の肖像写真も掲載されている。
また、文中では "For information concerning exhibits for sale, apply to Mr. S. Chōyō" あるいは
"Many of these exhibits are for sale. Prices may be obtained from Mr. S. Chōyō" 等と書かれていて、
重陽は展示品の売買担当となっているが、具体的な活動や役割はどんなものだったのか、詳細を調べきれない
[32]。
「臨時博覽會事務局報告」 によると、シカゴ万博の展示品はかなり売れ残りがあったようで、その処理に困ったらしい。
重陽は、シカゴ万博閉幕後もシカゴに留まり、日本雑貨店を開いていた
[33]
が、残品整理にも関わっていたのだろう。
なお、このカタログの、彼の名前の表記方法が少し気になる。
他の三人は 「名前のイニシャル + 姓」 の形式だが、重陽だけが 「姓のイニシャル + 名前」 となっている。
この形式は当時の一般的な日本人名の英文表記ではない。以後、アメリカの新聞で重陽の記事が散見されるが、
"S. Choyo"、"Cho-Yo"、"Kazan Cho-Yo" 等と表記されていて、"Suzuki" を名乗ることはほとんどない。何か意図があったのだろうと思う。
そして、重陽はそのまま帰国することなくアメリカで暮らす
[34]
ことになる。当初からそのつもりだったかどうかは不明だが。
シカゴ万博以降の重陽の活動を新聞記事から追ってみる。
1894年3月4日付 The Inter Ocean(シカゴの新聞)の記事
[35]。
Chicago Ceramic Association で、重陽が日本の陶磁器について講演をしている。
"The speaker said the subject was a very hard one, and he would not go into the subject of technically manipulated Japanese ceramic works.
He talked about the origin of Japanese potteries and porcelains and the places where they were made."
特に専門的な内容ではなかったようだ。唐津出身の士族である重陽が、唐津焼を基礎とした陶磁器の知識を持っていたことは十分に想像できる。
シカゴ万博関連では1895年1月2日付 The Saint Paul daily globe に以下の記事がある。
Echo of World's Fair. Reunion of the world's congress auxiliary.
First of a series of World's Congress Extensions held in Chicago.
Chicago Jan.1. The initial reunion meeting of the world's congress auxiliary was held at the Auditorium tonight.
The auxiliary was formed for the purposes of renewing the friendships and commemorating the achivements of the world's congresses of 1893.
... A greeting from the Orient was read by Prof. S. Choyo, late of the University of Tokio.
ここでも "S. Choyo" となっていて、"Prof." の肩書がついている。
「詰将棋の散歩道」 にもあるように、彼はシカゴ美術協会(Art Institute of Chicago、シカゴ美術館)とも何等かの関係があったようである。
同協会のサイトには、重陽によって寄贈された
振袖 が紹介されている。
18世紀のものとされるが、"Gift of Professor S. Choyo through the Antiquarian Society" との説明がある
[36]。
また、同協会第31回年次報告 (June 1, 1909-June 1, 1910) に拠ると、寄贈図書一覧に重陽の寄贈資料が挙がっている。
"Kaiyama, K. -- Collection of old designs. 3 v. 1891. Gift of Mr. Chō-Yō
[37]."
巻末の会員名簿には重陽の名前は無く、会員だった時期を特定できていない。目立った活動や、まとまったコレクションの寄贈等も確認できない。
彼の将棋入門書を出版したのは The Press Club of Chicago(シカゴ記者クラブ)である。
1880年に設立されたこのクラブは数多くの記者、作家等が所属していて、1907年の要覧によると内外700人弱の会員がいる。
その会員名簿の中に彼の名がある
[38]。ジャーナリストとして日本文化の紹介等をしていたのだろう。
記者クラブに入会した時期は分からないが、1905年4月27日付 The Rock Island Argus の記事 "R.H. Little
[39] given banquet" に名前が見える。
記者クラブで開催された晩餐会の記事なので、この時には既に記者クラブに入っていたと思われる。
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Dinner at Press Club for returning war correspondent. Chicago, April 27.
Richard Henry Little, the war correspondent, was welcomed back to Chicago
by 250 of his friend at a dinner at the Press club last night. ... while other speeches were made by Homer J. Carr,
Capt. G.E. Darby, Cho Yo, Turnbull White, and George Ade.
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重陽がジャーナリストとしてどのような活動をしていたのか、彼が執筆した具体的な記事を見つけられないが、
彼自身が新聞沙汰になった事件を見つけた。離婚騒動が報じられたのだ。
ワシントン州スポーカンの新聞 The Spokane press 1907年2月18日の記事を引用する
[40]。
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Jap wife tortured by jiu jitsu asks divorce. Chicago, Feb. 18
Mrs. Greta A. Cho-Yo has begun suit for divorce against her Japanese husband,
alleging that he tortured her with jiu jitsu attacks. The woman declares that her husband practiced jiu jitsu
on her until he was nearly paralyzed.
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今風に言えば DVで訴えられた、ということだろう。
この件を報じた新聞は少ないようだが、2年半後の離婚成立時にはかなり多くの新聞に取り上げられている。
おそらく日本人と結婚したアメリカ人女性の離婚原因が、日本の武道である柔術による暴行であることが人々の関心を呼んだのだと思う。
1909年10月末、いくつかの新聞に掲載された彼の離婚騒動の顛末は、おおよそ次のようなことだ。
重陽の妻 Mrs. Greta A. Cho-Yo が夫から暴力を受けたとして裁判になり、離婚が成立した。当時重陽は52歳。
Greta によると、重陽とは1904年に結婚したが、柔術の技で暴力をふるわれた結果、背骨を傷め、腕は麻痺し、
ピアノの練習も5分すらもできないようになったと言う。記事の内容はどの新聞もほとんど同じなので、
一例として Abilene Daily Reporter の10月30日の記事を引用する。
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Jap cripples up his American spouse. Chicago, Oct. 28.
Charging that her husband, Kazan Cho-Yo, author and former instructor in the University of Tokyo,
had crippled her by applying jiu jitsu methods of cruelty, Mrs. Gretna [sic] A. Cho-Yo, an American girl,
wife of the oriental, was granted a decree of divorce here today.
The young woman told on the witness stands how she had lived with Cho-Yo for two years after their marriage in 1904,
and was compelled by infuries he inflicted to leave him and practically to abandon musical studies.
"He was most cruel to me," she said "On one occasion when I was ill,
he raised my arms high above my head and held them untill I was in torture.
At other times he shook and tossed me around the room until I was almost unconscious.
"My nec and back were injured and my arms nearly paralyzed.
My spinal vertebrals and several ribs were displaced by his treatment, and I have almost despaired of recovering.
Formerly I practiced many hours a day at the piano; now five miutes' practice pains me."
Mrs. Cho-Yo was granted alimony. She and her husband have income of $5.000.
Cho-Yo has written a book on chess which is recognized by chess experts.
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もう一例、The Tacoma Times の11月1日の記事はこんな風。
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Jap husband too cruel to his white wife.
Gets divorce from her Oriental husband and gives some advice.
Chicao, Oct. 30. After four or five years of married life with a Japanese,
Mrs. Greta Cho Yo has secured a divorce from Professor Kazan Cho Yo,
and today stated that she has concluded that Japanese husbands are cruel
and that their temperament is such that they cannot understand the temperament of Oriental people.
She said: "American girls, don't take Japanese husbands; they are cruel.
American girls should never marry Orientals, because they cannot understand the American temperament.
I thought we could by happy because we had so many views in common, but I was soon disillusioned.
He cound not hear music, and I lived for music. I shall now try to be happy with my little girl, Usona."
Mrs. Cho Yo declared that her husband took seeming pleasure in subjecting her to "jiu jitsu tortures."
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新聞の記事によれば、夫人の Greta さんはピアノ奏者のようだ。
The Dawson news の1911年7月7日の記事 "Some freak divorce cases" にはフルネームが出ていて、
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"Miss Greta Antis, a well-known Chicago girl ..."
"she had been noted for her talent for music, being a graduate of the Chicago Musical College
[41]."
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と書かれている。さらに Kansas City Times の1909年10月30日の記事には離婚後の様子も簡単に報じられている。
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"Mrs. Greta Antis Cho Yo ... has gone back to teaching music in Hyde Park.
She was a music teacher before her marriage to the Japanese five years ago.
With her 3-years-old girl she is now living with her father."
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記事には彼女の肖像画も添えられている。夫人は結婚前、音楽教師をしていた、とある。
離婚騒動の最中、1908年3月31にシカゴで開かれた Eleanor Denig という人のリサイタルでストラウスを演奏した、
という記事が4月11日付 Musical America にあるので、それなりの知名度のある人物だったようだ。
1920年代まで、彼女の活動を報じた記事が新聞に散見される
[42]。
重陽の娘は Usona と言うらしい。エスペラント語で "アメリカ人" の意味だ。モージョセフィンと同様、少し変わった命名センスだと思う。
これらの記事で注目したいのは、夫人の表記が Mrs. Greta Cho-Yo となっている点だ。
重陽は(姓ではなく)名前なので、Mrs. Greta Suzuki とするのが通常だと思う。
新聞記事にある通り、重陽本人の表記は Professor Kazan Cho-Yo となっていて、
Cho-Yo を姓 (last name) の様に使っているのは、シカゴ万博のカタログと同様だ。
重陽のことは、将棋の本の著者とされていて、どのような活動をしていたのかは報じられていないが、
彼の収入については上記 Abilene Daily Reporter の記事では
"She and her husband have income of $5.000."(夫婦で5000ドルの収入)とある。
おそらく年収だろうが、同騒動を報じた10月29日付 Sentinel Record の記事では
"She said her husbund has an income of $5.000."(夫の収入は5000ドルと夫人は言った)となっていて、どちらかが原稿ミスだ。
Montgomery Advertiser の記事も "She said ..." となっているので、重陽個人の収入と思われる。
「日本銀行百年史 資料編」 (1986) によれば、1910年頃の為替相場は1ドルがおよそ2円。
5000ドルが当時の日本で一万円にあたるとすれば、現在の価値では2000万円程度。生活に困る額ではないはずだ。
離婚後も、重陽はシカゴで生活していた。装剣金工の研究で知られる桑原羊次郎の 「装劔金工談」(増補版, 1930)に、
著者が1913年3月にシカゴ大学を訪れた際の記述があるので、以下に要約する。
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シカゴ大学に日本の装剣小道具の蒐集品があり、図書館に陳列してあるとの話を聞き、訪問したところ、
装飾棚に約500枚の鍔が収められていた。その蒐集品
[43] の説明書きは鈴木重陽なる人物によるものだった。
ただし、用語が穏当を欠き、分類も不十分なものだった。目録を作成した鈴木という人物は殆んど日本人とは交際しない
[44] が、
シカゴに20年滞在していて記者クラブに関係しているとのことなので、連絡を取って面会し、話を聞いた。
コレクションの来歴は、"先年或る道具屋にて右の蒐集の賣物が出でて、鈴木氏の一見を求められたる所、
如何にも面白き蒐集品故に之を分散せしむるに忍びず、遂に之を工業學校長のガンソーラス氏
[45] に買わしめた所が、
ガンソーラス氏も一己人が私有しても、左程社會の益とならぬとあって、更に之をシカゴ大學に寄贈せられたる次第"
"他に小道具所有者
[46]
はないかと訊ねたが、氏は元來が新聞記者として社會に立ち居る人で小道具には左程嗜好がない故に、
格別の得物もなかったのである。"
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記者クラブ、というのは重陽の著書の出版者である Press Club of Chicago のことだろう。この時点で、重陽は56歳。
1876年に開かれたフィラデルフィア万博やシカゴ万博が、浮世絵を始めとした日本の芸術工芸品をアメリカに紹介した影響は大きかった。
19世紀末から1910年代頃、シカゴではボストンやニューヨークと共に浮世絵の人気が高く、著名なコレクターも現れた。
現在、シカゴ美術館は世界でもトップクラスの浮世絵コレクションを有するが、
そのコレクションの寄贈者の一人、クラレンス・バッキンガム (Clarence Buckingham, 1854-1913) の日本画蒐集のきっかけはシカゴ万博だった。
他にも、グーキン (Frederick W. Gookin, 1853-1936) や、チャンドラー (Charles H. Chandler, 1859-1946) 等、
当時日本美術コレクターとして活躍した人物は多い。シカゴ万博で日本美術品の管理をしていた重陽が、彼等と全く無縁だったとは思えないが、
不思議なことに彼等の周辺人物として重陽の名が現れること
[47] はほとんど無い。
さて、重陽についてあれこれ調べていて、意外な人物との意外な接点を示唆する文献にたどり着いた。
それが芸術家ズカルスキーが書いた自伝 Inner portraits (Last Gasp of San Francisco, 2000) である。
スタニスラフ・ズカルスキー (Stanisłav Szukalski, 1893-1987) は、ポーランド生まれの異端の芸術家で多くの彫刻と画を残した。
若くして才能を発揮、主にアメリカで活躍し、その独特な作品から "狂気の天才"、"誇大妄想狂でイカサマの天才" 等と評される。
近年注目されている様で、生涯が映画化されている
[48]
が、日本ではほとんど知られていない芸術家だと思う
[49]。
私はこの映画を観ていないし、彼については全く知らなかったが、Inner portraits には重陽をモデルにした作品(首像)が掲載されている。
制作は1914年、その "Portrait of Cho Yo" と題された作品
[50]
は図版で見る限り、他の資料にもある通りの髭もじゃの容貌である。作品の解説を要約すると、
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ある日、シカゴ美術館にあるズカルスキーの制作現場に、"Professor Cho Yo" と名乗る癖毛で白髪の小男
[51]
が現れる。
彼は東洋美術に詳しく、ズカルスキーの作品を称賛してアトリエに日参、やがて重陽がシカゴ博覧会で東洋美術の解説をしたことも教えられる。
博覧会後もシカゴに残り、シカゴプレスクラブの会員となった重陽は、数字の9の数学的法則に関する著書
[52]
がある、とも語った。
彼は版画などの多くの東洋美術品のコレクションを所有していた。
それをフランク・ロイド・ライトに売ることでも収入を得ていたが、やがてアトリエを訪れなくなった。
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ズカルスキーがシカゴに来たのは1907年。1908年から1913年までは、クラコウの美術学校に通ったというから、重陽との接点はわずかな期間だろう。
ズカルスキーに関しては、関連書籍をほとんど検することができていないので、これ以上のことはよく判らないが、それよりもライトとの関係が気になる。
ライト (Frank Lloyd Wright, 1867-1959) は、帝国ホテルの設計者として日本でも良く知られている建築家だ。
彼の自伝ではほとんど触れられていないけれども、ライトは浮世絵の蒐集で知られ、また優れたディーラーでもあった。
シカゴ万博の日本館(鳳凰殿)で日本文化に触れたライトは来日した際には多くの浮世絵を購入しているし、
1906年3月にはシカゴ美術館でライトの浮世絵コレクションの展覧会
[53]
も開催されている。
ライト関連の文献をかなり調査したが、重陽との関連を示す資料を見つけることはできなかった。
1914年5月13日付 Chicago Daily Tribune に晩年の重陽の活動が載っている
[54]。
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Prof. Cho-Yo talks to Hawkeyes.
"Americans are drunk with Americanisms," according to Prof. Cho-Yo, Japanese scholar and savant,
who addressed the Hawkeye Fellowship club at its weekly luncheon at the Auditorium hotel yesterday on "Japan and United States."
The professor came to Chicago as the representative of the Japanese government in its fine arts displays at the world's fair, and has since lived here.
"California people," he said, after a lengthy review of the immigration problem of the Pacific coast,
"are ungrateful from a natural point of view and grateful from a Californian point of view.
"America may demant too much for America, without consideration for other nations;
but if the people of California don't want the Japanese, the Japanese should return to their homes."
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カリフォルニア州で1913年に可決された排日土地法 (California Alien Land Law)
[55] に関する講演だろう。
その後間もなく、重陽が亡くなったらしいことは 「第一高等學校一覽 自大正五年至大正六年」 の名簿の卒業生名簿で死亡扱いとなっていることから判るが、
詳細をなかなか掴むことができず、アメリカの新聞データベースの検索などにも時間がかかり、ずっと調査が行き詰っていた。
そんな矢先、「ディスカバー・ニッケイ」 に2023年8月29日付で掲載された記事
"無名戦士たちの墓"
で、彼の最期を知ることができた。
筆者はデイ多佳子氏。シカゴに埋葬されている日本人の一人として重陽が取り上げられている。関連部分を以下に引用する。
---
「シカゴの南にあるマウントホープ墓地に建つプレスクラブの墓碑の下に埋葬された鈴木重陽も興味深い一人である。
鈴木は、1892年あたりにシカゴにやってきて、コロンビア博覧会で日本物品展示販売を手伝った後、
日本文化紹介の講演でひっぱりだこの人気を博した。が、何で生計をたてていたのかはよくわからない。
日本人との接触を嫌っていた鈴木は、シカゴの有名クラブの一つ、プレスクラブの唯一の日本人会員として、クラブに居住していた。
1915年5月、テキサス州で死亡すると、クラブの会則にのっとり、プレスクラブの墓地のロットに白人メンバーと共に埋葬された。
この時代、白人とともに同じ墓に眠っている日本人は、アメリカ広しといえども鈴木重陽だけ、とは言いすぎだろうか。」
---
記事の署名を手掛かりにデイ氏にメールで連絡を取ったところ、幾つかの資料を送付していただいた。
また、死亡時期
[56]
を絞って調査することで、関連記事を拾うことができた。
1915年5月20日付 The Age-Herald に掲載された訃報記事は以下の通り。
---
Professor Cho-Yo of Chicago, who died recently at Mineral Springs, Tex.,
[57]
was internationally famous
as an authority on oriental languages. He wa born in Japan 58 years ago and was descended from the nobility.
At the age of 16 he became professor of English in the Royal university at Tokio
[58].
He came to Chicago in 1893 as curator for a Japanese art exhibit at the world's fair.
Professor Cho-Yo was a graduate in law and medicine
[59]
and was considered one of the best art critics in the United States.
He compiled a number of museum catalogues on art
[60]. He also compiled a Japanese speller which was adopted
in the schools of his native country and at the time of his death was revising the typographical characters of the Japanese language,
with the purpose of reducing them in number from 70,000 to 49
[61].
He compiled a book on Japanese chess and was engaged in botanical research work in Texas
[62]
when he became ill.
Professor Cho-Yo was a socialist and because of his political views he became a voluntary exile
[63]
from Japan.
Although versed in many branches of learning, he was best known as a philologist.
---
訃報記事は、重陽は様々な分野に精通していたが、言語学者として最も良く知られていた、と締めくくられている。
重陽が晩年、具体的にどのような活動をしていたのか、調べきれておらず、まだまだわからない部分が多い。
重陽は、明治時代の英語教師、あるいは英語の教科書の著者として言及されることが僅かにあるけれども、
将棋の海外への紹介者としては、ほぼ忘れ去られていると言って良いだろう。
昨年(2023年)あたりから、藤井聡太竜王・名人(現在八冠)の活躍で将棋が注目を浴びている。
こんな機会に、ほんの少しだけでも良いから重陽にも光が当たれば、と思う。
イリノイ州在住で、戦前シカゴの日本人を調査しておられるデイ多佳子氏から、私が知り得なかった資料をお送りいただきました。深謝いたします。
なお、文中でリンク引用したサイトはすべて2024年3月31日に最終的な閲覧、確認をしました。
--- 注(番号をクリックすると文中に戻ります)---
[1].
Japanese chess (shō-ngi) : the science and art of war or struggle, philosophically treated : Chinese chess (chong-kie) and I-Go
/ by Chō-Yō. -- New York : The Press Club of Chicago, U.S.A., c1905.
標題紙には "EURASIAMERICA" とのレーベルらしき表示があるが、他に使用例を確認できず、詳細は不明。
冒頭には著者の肖像写真、Edwin F. Brown への献辞があり、999部限定との表示がある。
Edwin F. Brown はシカゴの Manufacturer's Bank の頭取を務めた人物だが、重陽との関係はよくわからない。
序文の日付は "Chicago, 0:10 A.M. Fourth of July, 1904" となっているが、
本文中では1905年5月27日の日本海海戦にも言及しているので、本文の完成は一年近く後ということになる。
現在、複数のサイトでオリジナル版全ページが pdf 形式で公開されていて無料で閲覧可能である。例として以下に3点を挙げる。
アメリカ議会図書館本:
蔵書票は "The Library of Congress"。シリアルナンバーは空欄。議会図書館の受付日は "Mar. 7 1906"
カリフォルニア大学本:
蔵書印は "Reese Library of the University of California"。手書きシリアルナンバーは "263"、日付は "March 16th 1907"
コーネル大学本:
蔵書票は "Cornell University Library, Charles William Wason Collection"。手書きシリアルナンバーは "275"、日付は "Oct. 15th 1906"
表紙や、冒頭の著者肖像図版も確認でき、重陽の洋装で胸から上の横顔の写真になっている。(これらを横顔版とする)
一方、New York State Library、国際日本文化研究センター、京都大学法学部図書室の所蔵本の図版は羽織袴姿の全身立像である。(全身版とする)
全身版の全文を公開しているサイトは見当たらないが、New York State Library のコレクションを紹介しているサイト
Chess Books の3枚目の画像、
左上に標題紙見開きが写っていて、詳細は判別できないけれども、立ち姿の著者図版が確認できる。
横顔版には、標題紙裏に "COPYRIGHT, 1905, BY CHŌ YŌ | [ruler] | All Rights Reserved."
"M.A. DONOHUE & COMPANY | PRINTERS AND BINDERS | 407-429 DEARBORN STREET | CHICAGO"
とあるが、全身版には印刷製本者の表示が無く、その他の個所にも表示は見当たらない。
また、全身版の背には "CHŌYŌ'S 象棊學經 JAPANESE CHESS" の表示がある。(横顔版の背は確認できていない。)
その他、表紙も無地(アメリカ議会図書館本、カリフォルニア大学本)と、金文字で "六韜三畧"、"象棋哲經" と書かれたもの(コーネル大学本、全身版各本)がある。
現物は少数部しか確認できていないので詳細は分からないが、少なくとも複数の刷違いがあると思われる。
アメリカ議会図書館所蔵本が、初刷かと思う。綿密な校合はしていないが、本文は同一である。
オリジナル版の入手は難しいと思う。現在、オンデマンド版など複数種のリプリントが流通していて
紀伊国屋のサイト にあるリプリント版の説明では
"Written in 1899 by the enigmatic professor Cho-Yo - artist, pholosopher, an [sic] master player" とある。出版年は明らかに誤記である。
[2].
カリフォルニア大学本には "重陽應変華峰居士" と読めるサインがある。重陽はアメリカで "Kazan" の号を名乗っている。コーネル大学本のサインは "重陽應変居士"。
[3].
一例として、2001年に Routledge から出版された復刻版の
Amazon.co.jp
にある著者説明は以下の通り。
"A native of Japan, Cho-Yo came to America to lecture on oriental art at the World Columbian Exposition in Chicago in 1893.
Remaining in the States after the Exposition closed, he became a member of the Chicago Press and University Clubs
and affiliate of the Art Institute of Chicago. Cho-Yo was a noted collector of oriental art."
[4].
棚橋一郎 (1863-1942) は郁文館中学の校長などを務めた教育者。著者肩書は "第一高等中學校教官 文學士"。
愛知英語学校、東京英語学校、東京大学予備門を経て、1884年に東京大学和漢文学科を卒業している。
[5].
西山義行は静岡県の士族。著者肩書は "東京府尋常中学校教官"。「如蘭會員及現在生徒名簿 大正十年六月」 に拠れば1883年9月に英語教員となっている。
[6].
天野為之 (1861-1938) は、経済学者、政治家。早稲田大学学長 (1915-1917)。
江戸の唐津藩藩医の家に生まれ、明治2年に唐津に帰郷、重陽と同時期に耐恒寮で英語を学んだ後、東京開成学校から東京大学に進んでいる。
重陽は天野より一年遅れて東京開成学校に入学している。重陽の同期には、後に天野と共に改新党員として行動した人物も多い。
[7].
守屋駒之助の経歴を調べきれなかった。「英語教育史資料第5巻 英語教育事典・年表」 には掲載されていない。
[8].
高木錦次郎の経歴を調べきれなかった。「英語教育史資料第5巻 英語教育事典・年表」 には掲載されていない。
[9].
櫻田源治の経歴を調べきれなかった。奥付には "秋田県士族" とある。
「漱石全集月報第10号」 に紹介されている 「明治十七年十二月東京大學豫備門前本黌第一・二・三級及ヒ第四級生徒試業優劣表」 の
第三級に名前が見え、「第一高等中學校一覽 自明治二十一年至明治二十二年」 には "一部第二年一之組" の生徒として名前があるが、
卒業を確認できない。「英語教育史資料第5巻 英語教育事典・年表」 には掲載されていない。
[10].
重陽の著作は多くの学校で採用され、かなり増刷されたようだ。
一例として 「東亰書籍商組合員圖書總目録」 (1906) には松邑三松堂出版、として 「重陽スペラー」 が掲載されている。
[11].
例えば 「英和字彙」 の訂正増補については、村端の研究(宮崎大学教育学部紀要 ; 98, p. 31-50. 2022)等があるが、ここでは触れない。
[12].
最近、「日本英学者人名事典」 (出来成訓編著. 港の人, 2024) が刊行されたが、重陽は見出しに挙がっていない。
[13].
重陽の独特な容貌の形容は複数の資料に現れ、Japanesse chess にある肖像写真ともよく一致する。
[14].
重陽が関わった著作の著者表示にも学士の称号は併記されていない。
ただ、1886年に出版された 「鬼哭子・鬼笑子・鬼怒子」(再板合本)巻末の "澤屋發兌書籍目錄" には、
Chōyow's speller for use in schools の説明として "語學士重陽先生" とあるが、根拠を確認できない。
また、1897年に出版された 「易林神占」 の巻末にある "三松堂圖書發兌目錄" には 「重陽スペル」 が挙げられていて、
著者肩書は "神學博士鈴木重陽先生" となっている。当時、神学博士の称号は日本にはなかったはずなので、
渡米後にアメリカの大学で取得した可能性も捨てきれないが、詳細不明。
[15].
同一覧末の英文表記では、"Shigeharu Suzuki" とある。本来は "しげはる" と名づけられたと思われる。
[16].
久敬社は現在、財団法人となり学生寮久敬社塾を運営していて、佐賀出身者以外も受け入れている。
久敬社のサイト
"久敬社のあゆみ"
にも創設当時の会員として鈴木重陽の名が挙げられている。
[17].
岡倉由三郎 (1868-1936) は英語学者。岡倉天心の弟。"神田先生" は英学者の神田乃武 (1857-1923) のこと。
[18].
おそらく G.P. Quackenbos の First book in English grammar だろう。原著は Appleton 社の出版。
日本の出版者からも出版され、大学南校版などの翻訳版も出版されている。
[19].
梧堂とは岡山兼吉 (1854-1894) のこと。弁護士、衆議院議員。山崎覺二郎 (1968-1945) は経済学者。東京帝国大学教授。
[20].
岡田鉄蔵 (1869-1945) は英文学者。
[21].
Chōyow's speller は、1885年4月出版とされていて、同年1月7日付官報454号の版権書目広告に書名がある。
内容は初歩的なもので、卒業間近の岡田が使用した、というのは少し違和感がある。1885年以前の版があるのかもしれない。
[22].
栗野健次郎 (1864-1936) は後の第二高等学校教授。
[23].
神辺靖光 (2012): 敗北の大名30名でつくった洋学校. (「1880年代教育史研究会」 Newsletter ; 37, p. 2) に拠る。
[24].
小野梓 (1852-1886) は、法学者、政治運動家。立憲改進党を結成し、東京専門学校(早稲田大学の前身)創立にも関わった。
岩村通俊 (1840-1915) は、明治時代の官僚。岩村の従妹、利遠の夫が小野である。
[25].
原著は Willian Swinton の Outline of the world's history (1874). 明治時代、教科書として広く使用された。
英語版は寶文館によって1886年に翻刻されたし、翻訳もいくつか出版されている。
重陽は櫻田源治が訳した 「すいんとん小文典獨學自在」 の校閲もしているし、当然読んでいると思われる。
[26].
1890年11月に出版された 「榮譽鑑」(高額納税者番付)の 「前頭之部」 に、以下の記述があるが、同名別人かも知れない。
"三圓六拾錢 京橋區山城町三 鈴木重陽"
[27].
横浜の英字新聞 Japan weekly mail には、出航客船の乗船名簿欄があり、二等以上の乗船者は名前が掲載されている。
当時、渡米する場合はほとんどが横浜からの太平洋航路を使うはずなので、著名人の出国は確認できる場合が多い。
1893年3月11日付同紙の、3月9日に横浜からサンフランシスコに出航した Gaelic 号の名簿に27人の日本人の二等乗船者名がある。
ローマ字表記で名前はイニシャルのみなので、確実性には欠けるが 「海外博覽會本邦参同史料第4輯」 等の名簿と突き合わせてみた。
少なくとも18人のシカゴ博覧会関係者の人物を比定することができ、この船で多くの関係者が渡米したことが判るが、重陽と思われる名前は見当たらない。
Japan weekly mail に掲載された1891年からシカゴ万博開催までの乗船名簿をすべて確認したが、該当しそうな名前は無い。
三等船室に乗船したとは思えないので、横浜以外から出港したのかもしれない。
なお、上記27人中に "S. Suzuki" の名がある。重陽は 「東京大學法理文學部一覽」 の英文表記では
"Shigeharu" となっているので、これが重陽の可能性もあるが、おそらくこの人物は閣龍世界博覧会尾三組の鈴木四郎左衛門だろう。
[28].
「シカゴ日系人史」 (1968) が重陽について簡単に触れている箇所があるので引用する。
"一八九三年に開かれたコロンビヤ博覧会を目当てに西部沿岸地方から来た日本人で博覧会が終った後もシカゴの落ち付くことを決意した者が、
シカゴ日本人社会のいわゆる「草分け」であった、と言われている。コロンビヤ博覧会には、日本出品取り締り役として
鈴木某が日本から来ていたこと [中略] の記録はあるが、詳細は明らかでない。"
"人見、門前、鈴木、加藤等の経営する竹細工中心の雑貨店が何件かあったことが知られている"
[29]
山高信離 (1842-1907). 臨時博覧会事務官として渡米。京都博物館館長。
[30]
手島精一 (1850-1918). 臨時博覧会事務官(コロンブス世界博覧会出品取調委員)として渡米。文部官僚。東京高等工業学校(現東京工業大学)校長等を歴任。
[31]
天野皎 (1851-1897). 臨時博覧会事務局監査官として渡米。府立大阪博物場長。名前は文献では "コウ"(あるいは "キョウ")と読む例が多い。
息子の天野徳三によってまとめられた遺稿集 「入清日記その他」 (1929) のはしがきには "鐡腕居士皎" に "てつわんこじあきら" とルビが振られている。
一方、英文表記のイニシャルは "S." となっていて、Japan weekly mail の乗船名簿にも "S. Amano" の名前がある。
おそらく幼名 "祐太郎" に拠るのだと思う。幼名の読みを記した資料を見つけられないが、サ行で始まるとすると "サチタロウ" か "スケタロウ" だろう。
上記遺稿集に収められた 「市俄古博覽會通信」 ではシカゴ万博の様子が詳しく報告されているが、重陽への言及は無い。
ただ、冒頭にシカゴ万博会場の鳳凰殿前で撮影されたとされる事務官、監査官、審査官などの集合写真が掲載されている。
前列中央(右から5人目)に山高信離、7人目に天野が写っている。この二人の間に座っている人物が重陽の可能性が高そうだ。
写真は不鮮明で判別が難しいが Japanese chess の肖像写真に似ていると思う。
この写真 は国会図書館デジタルコレクションで確認できる。
[32].
会期中の8月5日に開かれた Congress of Decorative Art の閉会セッションで、
重陽が "Japanese ceramics" の題で発表したことが翌日付 The Inter Ocean の記事にある。(デイ氏のご教示による。)
[33].
重陽の店はメソニックテンプル (Mesonic Temple) という当時のシカゴ有数の高層ビルにあったが、短期間のものだったらしい。
1895年の Chicago City directory に掲載されていると言う。(デイ氏のご教示に拠る)
また、「シカゴ日系百年史」 (1986) に花田常喜という人が当時のシカゴを訪問したことを回想した記事があるので引用する。
もとは1939年3月1日付のサンフランシスコの邦字紙 「新世界新聞」 に掲載されたものだという。
"当時、当市に居った邦人達で知合になったものに、日本出品取締役として来て居た鈴木昶陽をはじめ ..."、
"一九〇一年、再び僕がシカゴに落ちて来た時には前記の鈴木、西の両先生は当市で何れも小締りとした雑貨店を経営して居た他に、
邦人の竹細工屋等も三、四軒出来て居り、何れも仲々好況を見せて居た。"
名前の漢字が違っているが、"昶" の読みは "チョウ"。花田氏の記憶違いか誤記だろう。重陽がこの字を使った形跡は見当たらない。
[34].
「臨時博覽會事務局報告」 に拠れば、シカゴに出張した事務員は "悉皆歸朝セリ"、
評議員、審査官、渡航委員、各協会員、組合員、出品人および総代などは "悉クシカゴ市ヲ引揚クルニ至レル" とある。
また、"彼地ニ於テ採用シタル雇員ハ事務ノ繁閑ニ應シ逐次解雇シ本年 [1895] 一月二十日マテニ悉皆解雇セリ" となっているので、
雇員以外にシカゴに留まった関係者はいないはずだが、重陽がシカゴ万博終了後に一時帰国した様子はない。
[35].
デイ氏のご教示による。
[36].
この振袖は長崎巌著 「在外日本染織集成」 (1995) にも掲載されているらしい (p. 149, cat.no.146) が未確認。
[37].
おそらく、「古代模様廣益紋帳大全」(甲斐山久三郎著)のことだろう。特段に稀覯本とか、美麗本というものではない。
[38].
The Press Club of Chicago : its past, present and future (1907) の、"Active members" の名簿に "Cho-Yo" とある。
[39].
Richard Henry Little (1869-1946) は、シカゴの新聞記者。Chicago Daily News 等で日露戦争の記事を書いていた。
1904年、彼が中国でロシアに拘束される事件があったので、その帰国祝いだろう。
著書で日露戦争にも触れている日本人の重陽のスピーチは当然注目されたと思われる。
[40].
シカゴのポーランド語新聞 Dziennik Chicagoski が10日早い2月8日付で報じているが、内容はほぼ同じである。
[41].
Chicago Musical Collelge は1867年に Chicago Academy of Music として創立。
1872年に Chicago Musical Collelge に改名、1945年に Roosevelt University に吸収、
現在は Chicago College of Peforming Arts となっている。著名な音楽家を輩出しているようだ。
[42].
1922年1月にショパンの演奏をした、との記事が Margaret Eaton School Digital Collection
Folder 027B
にある。
[43].
現在、シカゴ大学のこのコレクションの存在を確認できない。また、重陽が作成したという説明書についても詳細が確認できていない。
[44].
米国国勢調査によれば1910年のイリノイ州の日本人は285人となっているので、
この当時のシカゴの日本人はせいぜい300人程度だろう。緊密な日本人コミュニティは形成されていなかったようである。
[45].
Frank Wakeley Gunsaulus (1856-1921) はシカゴの牧師。シカゴ美術館の理事等を務め、美術品の収集にも努力した。
[46].
現在クリーブランド美術館に、重陽に縁があると思われる
鍔コレクション
が所蔵されていて、同美術館のサイトで画像等のデータが確認できる。
Bulletin of the Cleveland Museum of Art には所蔵の経緯が記録されていて、そこに重陽の元妻 Greta の名前がある。
同誌 v. 1, no. 1 (1919), p. 16 の "Accessions, Loans" のリストに "299 sword-guards, Japanese, lent by Mrs. Greta Antis" とあり、
さらに v. 1, no. 6 (1919), p. 114 の "Accessions, Gifts" のリストに "299 sword-guards, Japanese, [source] D.Z. Norton" とある。
Greta と D.Z. Norton との関係は判らないが、Greta が自身の鍔のコレクションを美術館に寄託し、その後 Norton が買い取って寄贈したようだ。
シカゴ大学のコレクションとは別物だろうが、離婚後の夫人が鍔のコレクションを所有していた、というのが少し気になる。
元々は重陽の蒐集品を引き継いだのかもしれないが、彼は "小道具には左程嗜好がない" と語っている。Greta 本人が日本美術に関心があったのだろうか。
"他に小道具所有者はないか" と聞かれた際、"別れた妻が持っているはずだ" くらいは教えてあげればいいのに。
[47].
1908年3月にシカゴ美術館で浮世絵の展覧会が開かれている。そのカタログ (Catalogue of a loan exhibition of Japanese colour prints,
with notes explanatory and desciptive and an introductory essay / by Frederick William Gookin) の冒頭に以下の記述がある。
"The compiler of this catalogue desires to acknowledge his indebtedness to Mr. Chōyō for invaluable assistance in its preparation."
このカタログには比較的詳しい浮世絵や画家の解説がある。重陽はおそらくこの部分の執筆に関わったのだろう。
[48].
"Struggle : the life and lost art of Szukalski" 2018年、ネットフリックスで公開。日本語タイトルは「ズカルスキーの苦悩」。
プロデューサーはデカプリオ親子で、ズカルスキーと交際があったらしい。
[49].
ズカルスキーの伝記や作品については、Archives Szukalski が詳しい。
映画関連以外で日本語で書かれたズカルスキーに関する文献は少ない。比較的詳しいものとしては、
秋田昌美 「スタニスラフ・ズカルスキー (1893?-1987) 秘教図像学の世界」(ユリイカ ; 24(13), p.164-174, 1992 所収)がある。
[50].
これと同じ彫刻と思われるものが1916年にシカゴ美術館で開かれたズカルスキーの展覧会で展示されている。
その展覧会カタログ (Exhibition of sculpture and drawings by Stanislaw Szukalski. Art Institute of Chicago,
April twenty-five to May seven, nineteen hundred and sixteen) によると、30点ほどの彫刻が展示されていて、
この彫刻のタイトルはカタログでは "Portrait of Professor Cho Yo" となっている。
特定の個人をモデルにしたものは他に "Victor Hugo"、"Professor Max Kramm"、"Portrait of Mr. Bosworth" 等があるが少ない。
ズカルスキーの作品の全容は知らないけれども、おそらく唯一の日本人モデルだろう。
また、1921年にニューヨークの Whitney Studio Club で開かれた展覧会にも重陽をモデルにした作品が展示されている。
その展覧会 (Exhibition of paintings by Stuart Davis and J. Torres-Garcia and sculptures by Stanislaw Szukalski,
April 25th to May 15th inclusive, 1921) の目録には、"Cho Yo Power" と題する彫刻が挙げられている。
共に図版が無く、作品の異同を確認できないが、重陽がモデルの作品が複数存在する可能性がある。なお、現在の所在を確認できていない。
[51].
文中では重陽は "Chinese" とされている。新聞の離婚記事にも、彼を中国人としているものがある。
当時、日本人と中国人の区別がアメリカではっきりと認識されていたとも思えないが、"Cho Yo" はいかにも中国人風だ。
[52].
Japanese chess には、重陽の造語と思われる "Chessology"、"Chessologics" という概念(将棋哲学とでも言うべきか)が語られ、
"The Tree of Chessology" と題した9が頻出する奇妙な系統樹のような絵がある。
将棋には全科学のエッセンスが詰まっている、みたいな感じの主張で、正直なところ、将棋が指せるようになるかどうかとは関係なさそう。
もっとも、これが重陽が一番言いたかったことだろうし、この本の神髄と思われるのだが。
[53].
"Hiroshige, an exhibition of colour prints from the collection of Frank Lloyd Wight."
前述の1908年の展覧会にも、ライトコレクションから多くの作品が展示されている。
[54].
デイ氏のご教示による。
[55].
当時、アメリカ西海岸では市民権を獲得することができない日系移民が増加していた。この法律は日系移民を排斥する目的があったと言われる。
[56].
前述の通り、「如蘭會員及現在生徒名簿 大正十年六月」 や 「東京府立第一中學校創立五十年史」 (1929) では物故者扱いにはなっていない。
「第一高等學校一覽」 の名簿は、大正五年八月末調で死亡となっていて、第一高等学校関係者はかなり早い時点で死亡を確認していたことになる。
シカゴでは邦人とは没交渉だった重陽だが、日本の縁故者(娘のモージョセフィンさんが居たはず)とは連絡を取っていたのだろうか。
[57].
ミネラル・スプリングスは、テキサス州東部、パノラ郡に位置し
Wikipedia
に拠ると "ghost town" とされている。
Googleのストリートビューで見ても、現在は人家等はほとんど見えない。何が目的だったのか、見当がつかない。
[58].
16歳で "professor" になったとあるのは明らかに間違い。当時(1873年頃)重陽はまだ上京していないはず。
[59].
重陽と医系分野との関わりは今のところ見えてこない。
[60].
重陽が関与した美術品目録は、前述のシカゴ大学の鍔の説明と、1908年3月のシカゴ美術館の浮世絵の展覧会目録以外には確認できていない。
彼が編集した目録があるとしても、おそらく無記名で作成されたのだと思う。
[61].
日本語のカナ漢字まじりの表記を廃して、カナのみにする試みのことだろう。明治時代には漢字廃止論やローマ字使用論などがいくつかあった。
[62].
植物調査、というのがわからない。ミネラル・スプリングスは特に植物学上有用な土地には見えないし、重陽に植物学の知識があったとも思えない。
強いて関連がありそうなものとして思いつくのは盆栽ぐらいか。あるいは漢方薬か。
[63].
重陽が社会主義者で、政治的理由による亡命者だったとの記述は意外。少なくとも日本ではそのような活動の痕跡を見いだせない。
当時、シカゴには金子喜一などの日本人社会主義者が居たし、片山潜もシカゴ万博を見物しているが、彼等周辺から重陽の名前は出てこない。
(2024.04.10 記)