頁/行 |
初版(昭和17年版に拠る) |
修訂版(昭和23年) |
3/15 |
大正初年頃を以て記述の筆をおく |
即ち昭和初年頃を以て記述の筆をおく |
5/2 |
神武天皇以前は年紀を詳かにし難いが、人皇の御代のみでも一千五百年に近い。 |
神武天皇以前は年紀を詳かにし難く、人皇の御代のみでも一千五百年に近いとはいふものの、仁徳天皇以前の紀念は国史の語るところを、そのままうけいれられないことは史家の通説であるけれども、とにかく相当長い歳月がそこに考へられる。 |
8/1 |
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宣命体とよばれてゐる |
8/3 |
一字一音式のもの |
一字一音式の純仮名文 |
12/14 |
さては天稚彦の死を悼んで、その妻下照姫がよんだといふ |
さては日本武尊の薨去を悼んで、その妃たちがよんだといふ [歌の引用も差し替え] |
26/11 |
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なほ日本書紀の後をうけて続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録・日本三大実録が平安時代に入って撰ばれたが、国史官撰のことはこれを以て跡を絶った。書紀以下を一括して世に六国史といふ。 |
28/15 |
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この書は南都薬師寺の僧景戒の撰に係り |
38/5 |
恭佛跡十九首 |
恭佛跡十七首 |
38/15 |
行啓し給うた |
出遊し給うた |
40/13 |
一度帰朝しようとしたが |
帰朝しようとして |
43/5 |
中古文学は |
中古文学は上古のそれと共に |
52/1 |
醍醐天皇の御代にかけて |
醍醐天皇の御代にかけて寛平の御時の |
76/13 |
近頃 |
近頃になって |
78/4 |
花桜折る少将・このついで・虫めづる姫君など |
花桜折る少将・このついで・虫めづる姫君・ほどほどの懸想・逢坂こえぬ権中納言・かひ合せ・思はぬかたにとまりする少将・はなだの女御・はいずみ・よしなしごとなど |
78/9 |
とする説もある。 |
とする説もあるが、そのあるものは(例えば逢坂こえぬ権中納言のごとき)は既に後冷泉天皇の御代に成っている証左もあり、十篇が全部は一時にかかれたものではないらしい。 |
78/9 |
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なほ更級日記以後の女流日記として注意すべきものは讃岐典侍日記一巻がある。歌人藤原顕綱の女で堀川天皇の御代に典侍として宮中に奉仕した作者が嘉承二年天皇の御発病の当初から御看護に力を尽したかひもなく崩御の悲しみにあふ一個月の日記と、その冬再び宮廷に奉仕して、ことごとに先帝を偲び奉りつつ新帝の御即位から大嘗祭に奉仕した日記と、前後二年に亘るもので、殊に前半はあまりの御いたわしさに卒読にたへぬものがある。その外外題は家集のやうで、その実は日記といってよいものがある。寛平頃の女歌人伊勢の集なども一部さうした体をなしてゐるが、この期の成尋阿闍梨母集などもそれで、わが子成尋が後三条天皇の延久四年渡宋した前後の日記で、切な母性愛のにじみでてゐる作品である。 |
79/13 |
これ亦むげに |
これはむげに |
84/14 |
散木奇家集 |
散木弃家集 |
86/1 |
俊慧 |
俊恵 |
86/12 |
偽書 |
いづれも仮託の書 |
86/12 |
歌経標式だけは藤原浜成が宝亀三年に作ったもので、現存せる歌論書では最も古いものとすべきである。 |
歌経標式は現存せる古写本によって藤原浜成が宝亀三年に作ったものであることが知られ、歌論書としては最も古いものである。 |
88/2 |
六百番陳状・袖中抄はその著であるが、なほ古今集以下諸集の註を多くものしてゐる。さきに経信・俊頼父子相ついで歌を以て著はれたが、いま顕季・顕輔・清輔相うけ、更に清輔の弟等また家学を宣揚するに至って、一家は歌道に一勢力を樹立するやうになった。世にこの一家を六条家と称したが、六条家の人人は作家としてよりは寧ろ学究として、その業績の見るべきものを残している。六条家は中古末期から近古初期にかけて栄えたが、近古期に至り二条家の台頭するに及んで漸次窮迫して行った。 |
六百番陳状は左大臣家に於て行はれた六百番歌合に於けるわが歌に対する俊成の判に対してその意見を陳べたもので、その両者対立の迹を見るべき述作である。なほ彼は袖中抄の外、古今集以下諸集の注を多くものしてゐるが、それらにもその歌に対する見解がうかがはれる。さきに経信・俊頼父子相ついで歌を以て著はれたが、いま顕季・顕輔・清輔相うけ、更に清輔の弟等また家学を宣揚するに至って、一家は歌道に一勢力を樹立するやうになった。世にこの一家を六条家と称したが、六条家の人人は作家としてよりは寧ろ学究として、その業績の見るべきものを残している。六条家は中古末期から近古初期にかけて栄えたが、近古期に至り二条家の台頭するに及んで漸次窮迫して行ったことは次章において述べるであらう。 |
92/15 |
和讃は多く七音五音を重畳して作られる。そしてそれはやがて雑芸の源流をなすものであるが、その起源は中古初期に溯ることが出来る。 |
わが国の佛会歌謡は上代にまで溯るであらう。法華讃歎・百石讃歎などよばれるものがそれで、平安時代に入って長篇の作が、多くあらはれたがその句法は漸次七五調に整へられ、中期に至って源信の作と伝へられるものに、すぐれたものが多い。[讃引用] 以下二百数十句に亘る天台大師和讃、その他極楽六時讃・来迎和讃などがそれである。而してそれらは多く七五四句を一節とするもののやうであるが、かうしたところから所謂今様歌は生れたと見てよく、平安末期の歌宴歌謡である雑芸の源流はかうしたところに求められる。 |
95/4 |
しかもこの間にあって、人人は中古風な情緒偏重の思潮から全く離脱しきれず、新旧両思潮が相交錯してゐる点に当代文学が特徴づけられる。 |
しかもこれらの新興仏教が著しく国家的色彩をおびてゐることは注意せられるべきである。なほ遠く奈良時代に淵源した本地垂迹説は、本期に入って従来の仏本神迹説に対して、神本仏迹説がおこり、ひいて弘安年間に渡会行忠によって伊勢神道が、更に室町時代に入って卜部兼倶によって唯一神道が唱道せられるなど、神道説の勃興を見るに至り、鎌倉時代に移入せられた宋学によってもたらされた大義名分説と結びついて、戦乱の間に人心にかなりの影響を及ぼしたことも見のがせないことであらう。かうしていろいろ新しい時代の思想の芽生えがうかがはれる間にあって、人人は中古風な情趣偏重の思潮から全く離脱しきれず、新旧両思潮が相交錯してゐる点に当代文学が特徴づけられる。 |
98/7 |
竟宴があった。 |
竟宴があったが、竟宴のをりに、上皇が いそのかみ古きをいまにならべこし昔をあとをまたたづねつつ と仰せられたに徴しても、その御抱負のほどをうかがふことが出来よう。この集に名づくるに新古今を以てし給うたのも、かうした叡慮によるものである。 |
98/12 |
上皇の聖作に擬して |
上皇の御旨を奉じて |
98/14 |
八代集といひ |
世に八代集といひ |
99/11 |
建仁元年千五百番歌合が行はれた。この歌合は後鳥羽上皇を始め奉り三十名家を左右に分ち、各作家の百首歌を合せて二十巻とし、上皇・良経以下の十家が各二巻を判じたもので、作者も判者も、共に一代の巨匠である。 |
建久四年に六百番歌合、建仁元年に千五百番歌合が行はれた。殊に千五百番歌合は後鳥羽上皇を始め奉り三十名家を左右に分ち、各作家の百首歌を合せて二十巻とし、上皇・良経以下の十家が各二巻を判じたもので、作者も判者も、共に一代の巨匠であり、歌合としては空前の大規模のものである。 |
99/14 |
新古今集時代に名ある作家は、後鳥羽・土御門・順徳三上皇は申すも畏し、その他公家・緇徒・女流に多士済済たりし由は前に述べたが、就中撰者の一人なる定家は一代の作家・批評家として歌壇に重きをなしてゐた。「和歌に師なし。ただ旧歌を以て師とし、心を古風に染め、詞を先達にならはば、誰か詠ぜざらむや」といってゐるが、語彙は三代集を出づべからずと説くに至っては尚古の余弊といはねばならぬ。かうしたところから、その技巧主義が生ずるのは当然であらう。しかしその晩年の歌風は漸次絢爛から平淡に入ったものの如く、貞永元年後堀川天皇の勅に依って撰した新勅撰和歌集にはさうした調子が見える。なほ彼は驚くべき精力を以て古典の書写・校合に精進して、後世に偉大な業績を残してゐる。家集を拾遺愚草といひ、歌論に近代秀歌・毎月抄・詠歌大概がある。日記明月記は当時の事情を知るよすがとして役立つ。定家と相対する巨匠は家隆である。定家と互いに相推重してゐたが、その歌は定家に比して比較的なだらかであり、多作驚くべきものがある。従って定家に歌屑はないが、家隆の作は玉石混淆してゐる。家集を壬二集といふ。これら二家とほぼ時を同うして出た源実朝は頼朝の子、弱年にして歌を定家に問うたが、のち萬葉集を知るに及んでその歌風も一変し、端的に表情を吐露して、高古・遒勁の調、時流と異なるものがある。 |
新古今集時代の作家として、後鳥羽上皇はすぐれた天分の持主でおはした。鬱勃たる覇気を内に蔵して姑く歌に韜晦し給うたこととて溌剌たる御気宇は自ら御製の上にもうかがはれ、清新な趣は即ち語句の間に溢れてゐる。御集一巻の外後鳥羽院御口伝の御述作を残し給うた。皇子土御門・順徳の二上皇亦歌に堪能におはしたが、順徳院には歌論として八雲御抄の御著がある。その他公家・緇徒・女流に多士済済たりし由は前に述べたが、就中撰者の一人なる定家は一代の作家・批評家として歌壇に重きをなしてゐた。「和歌に師なし。ただ旧歌を以て師とし、心を古風に染め、詞を先達にならはば、誰か詠ぜざらむや」といってゐるが、語彙は三代集を出づべからずと説くに至っては尚古の余弊といはねばならぬ。彼は歌に十体を説き、その一に有心体を立てたが、この体こそは十体の一にゐて、しかも十体すべてに通じるところであるとした。即ち定家の歌の理想はここにあるといってよい。かうしたところから、その技巧主義が生ずるのは当然であらう。しかしその晩年の歌風は漸次絢爛から平淡に入ったものの如く、貞永元年後堀川天皇の勅に依って撰した新勅撰和歌集にはさうした調子が見える。なほ彼は驚くべき精力を以て古典の書写・校合に精進して、後世に偉大な業績を残してゐる。家集を拾遺愚草といひ、歌論に近代秀歌・毎月抄・詠歌大概がある。日記明月記は治承四年から嘉禎元年に及び、当時の事情を知るよすがとして役立つ。定家と相対する巨匠は家隆である。定家と互いに相推重してゐたが、その歌は定家に比して比較的なだらかであり、多作驚くべきものがある。従って定家に歌屑はないが、家隆の作は玉石混淆してゐる。家集を壬二集といふ。これら二家の外、藤原良経・慈円などすぐれた作家であったが、なほこれらの諸家とほぼ時を同うして出た源実朝は頼朝の子、弱年にして歌を定家に問うたが、直に万葉集の精神に参じて、端的に衷情を吐露し、高古・遒勁の調、時流と異なるものがある。 |
101/1 |
争うたが |
争うたことは前章に既に述べたところであるが |
101/4 |
土御門道親 |
源道親 |
103/6 |
玉葉和歌集で |
玉葉和歌集と、吉野時代に入って花園院の御撰に成る風雅和歌集とで、これらは |
103/7 |
定家の |
京極家の主張する定家の |
103/9 |
この集に於て注目すべき作家には為兼以外に伏見天皇の中宮永福門院、為兼の妹為子等がある。 |
これらの集に於て注目すべき作家としては伏見・花園両天皇をはじめ奉り、伏見天皇の中宮永福門院・両天皇が師事し給うた為兼、さては為兼の妹為子等がある。 |
104/6 |
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かくて吉野に蒙塵し給うた大覚寺統の天皇は戦乱の間にも和歌を捨て給うことなく、後村上天皇は「よもの海なみをさまりて和歌の浦に」と歌集勅撰の御意図を示し給うた。 |
109/1 |
平治物語の原型は「頼朝伊豆下着事」迄 |
平治物語の原型は「頼朝遠流事附盛安夢合事」迄 |
113/4 |
中山忠親の作である。 |
中山忠親の作と伝える。 |
113/15 |
なほ増鏡の序に「まことやいやよつぎは隆信朝臣の後鳥羽院の御位のほどまでを記したりとぞ見え侍りし」とあるによって、今鏡と増鏡との中間をつなぐ藤原隆信の作に成る彌世継があったことは知られるが、散佚して伝わらない。この間隙を補ったものに近世の才女荒木田麗女に月の行方の著がある。麗女はなほ増鏡の後をうけて近世初頭までの史実によって池の藻屑を書いている。 |
なほ「鏡もの」の一類としては、神代の物語なる秋津島物語が建保六年に書かれているが、写本のままに伝はってゐて刊本はない。その外増鏡の序に「まことやいやよつぎは隆信朝臣の後鳥羽院の御位のほどまでを記したりとぞ見え侍りし」とあるによって、今鏡と増鏡との中間をつなぐ彌世継が藤原隆信によって書かれたことは知られるが、散佚して伝わらない。この間隙を補ったものに近世の才女荒木田麗女に月の行方の著がある。麗女はなほ増鏡の後をうけて後陽成天皇の慶長八年までの史実によって池の藻屑を書いている。かくて神代から近世初頭までの歴史物語は一応そろふわけである。 |
114/6 |
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一系の天子によって統治せられるわが国体を闡明し、保平以来の乱世から台頭せる武家政治を排撃し、門閥格式を重視し、公家政治を謳歌することは、両者その揆を一にするが、前者が仏教の末法思想・百王思想に捉はれて、著しく悲観的であるに対し、後者は宋学の影響を受けた名分論を高調し、鎌倉時代以後に漸く盛になった伊勢神道説をもうけ入れて国体観の尊厳化を力説し正道の究極の勝利を確信する点に著者の烈烈たる気魄が見られる。 |
124/8 |
示寂した。 |
示寂したといふ。 |
137/13 |
現存せるもの四十餘種 |
現存せるもの約五十種 |
139/1 |
知られ、定家・家隆等も |
知られる。後鳥羽上皇はいたくこれを好ませられ、定家・家隆等も |
139/6 |
つひにその末葉ごろには、冷泉為相によって式目の制定を見るに至った。 |
既に文永・弘安頃には本式・新式などいふものが出来、鎌倉でも冷泉為相が藤谷の式目を制定したといはれる。 |
139/12 |
さきに為相の制した式目を |
さきに制定せられた式目を |
139/14 |
良基にはこれらの著の外筑波問答がある。 |
良基にはこれらの外連理秘抄・筑波問答・知連抄等の著がある。 |
140/1 |
宗祇は紀伊の人 |
宗祇は近江の人(又紀伊の人ともいふ) |
140/1 |
心敬・宗砌等 |
宗砌・心敬等 |
141/14 |
時鳥都のうつけさこそまつらめ |
時鳥都のうつけさこそまつらん |
142/1 |
連歌の菟玖波集をもぢって新撰犬筑波集を撰ぶに至った。犬筑波集の成立は通説によれば永正十一年といはれてゐるが、... なほこの書名も或は後人の命名ではないかとの説もある。 ... 勿論宗鑑の作だけではないが、作者を注記してないから詳しくは知られない。 |
俳諧連歌抄を撰んだ。これは今新撰犬筑波集とよばれているが、その成立は通説に拠れば永正十一年といはれてゐるが、... なほ今の書名は或は後人の命名ではないかとの説もある。 ... 集中の作は宗鑑の作だけではなく、当代の多くの作家の作品を集めてあることは、諸書を参看して知られるのであるが、一一作者を注記してないから詳しくは知られない。ともあれ初期の俳諧を大観し得る点に於て、この集は俳諧史上重要な位置をしむべきである。 |
154/13 |
ついで |
ついで翌九年 |
155/9 |
補正によって成った。 |
補正によって寛文四年成った。 |
159/2 |
述齋をして林家を嗣ぎ |
美濃岩村の松平氏の支族なる乗薀の次子述齋をして林家を嗣ぎ |
161/1 |
御集を鴎巣集と申す。外に後水尾院御集と申すものもある。 |
御集に後水尾院御集がある。また鴎巣集とも申す。 |
161/14 |
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惣じて地下の歌は連歌に影響せられ、幾分俳諧味をおびてゐたので、堂上からは卑俗視せられたが、それはまた一面多少の清新味を有することでもあった。 |
162/6 |
なほ堂上歌学の範囲を踰えかねた。 |
なほ堂上歌学の範囲を踰えかねたが、彼と親しかった木瀬三之は「すべて古今に伝授などいへることあるべからず」といひ、これらは「末の代になりて愚なる人のいやしき心より」いひはじめたことであるといってゐるのは、既に在来の歌壇に対する反逆的気運の動きそめてゐることを思はしめる。 |
163/5 |
その歌は隠家百首、或は撰集鳥の迹などによって |
その歌は撰集鳥の迹などによって |
165/13 |
幕府に上ったことも |
幕府に上って「神皇之教陵夷、一年甚於一年、国家之学廃墜、在十一於千百」を慨き、「古語不通、則古義不明、古義不明、則古学不復焉」として倭学校を興さうとしたことも |
166/14 |
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同十三年近畿を巡遊して、伊勢松坂で本居宣長にあった。明和元年江戸浜町に居を卜して縣居と称したが、同六年十月病んで没したのである。 |
169/11 |
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かくて文化八年古史成文成り、ついで古史伝・古史徴・霊の御柱等成り、先師宣長の学をも批判的に見るやうになって、その学風は大成するに至った。 |
169/12 |
幕府の忌諱に触れて、帰郷を余儀なくせられ、遂に再び起つ機会を失った。 |
幕府の忌諱に触れ、剰え門人生田萬が窮民救済のため官権に抗した事件などもあって、天保十二年帰郷を余儀なくせられ、著述も禁ぜられて遂に再び起つ機会を失った。 |
170/5 |
蘆庵は真淵の |
蘆庵の歌論はふるの中道によって知るべく、彼は真淵の |
171/6 |
余儀なく候か」といってゐる。 |
余儀なく候か」といひ、また「しらべを会得するは自然のうへを得るにあり、自然すなはち、誠実のみ」といってゐる。 |
172/9 |
するのを聞いて |
するのを聞き |
174/1 |
殊に立圃は心の俳諧を唱へて、貞徳のやうに、単に俳言の有無を以て連歌と俳諧をを別つことには同意しなかった。 |
殊に立圃が心の俳諧を唱へたのは卓見であったが、実際の作風は貞徳を出ることがなかった。重頼は貞門中最も特色ある俳人で、同門とも争ふことが多かったが、俳諧には極めて執心ふかく、句の趣向にもつとめて変化を求めるところがあった。 |
174/5 |
現れそめた。即ち西山宗因の新俳諧運動である。 |
現れそめたことは重頼の俳諧時世粧を見てもわかるが、その最も顕著なのは即ち西山宗因の新俳諧運動である。 |
175/11 |
これより先延宝元年宗因千句を刊行してその俳風が認められ、ここに前記談林十百韻及びそれと同年の大坂独吟集が出て |
これより先延宝元年宗因千句を刊行したが、その新しい俳風が認められるのは同年の蚊柱百韻で、これに対して貞門からは甚しい非難の声が挙った。かくて前記談林十百韻及びそれと同年の大坂独吟集が出て |
177/5 |
俳諧と漢学とを学んだ。 |
俳諧と漢学とを学んだが、その頃から桃青と号した。 |
177/11 |
芭蕉庵に移ったが、 |
芭蕉庵に移ったが、恰も当時その庵の近くに掛錫してゐた仏調禅師に参じて禅を修めたことは、その句に一転機を与へるやうになったやうで、 |
178/1 |
翌年 |
翌三年 |
179/5 |
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かくて芭蕉は晩年さうした境地から蝉脱してかるみを力説するに至った。かるみとは所謂「甘味を離れ」た「浅き砂川を見るが如き」句風であって、「詞の容易なる、趣向の軽きことをいふ」のではなく、「腸の厚き所より出で」た句風をいふのである。 |
179/13 |
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芭蕉は俳諧の根柢に横はる独自の特殊性なる風俗味を見失ふことなく、その上に和歌・連歌のもつ文芸性を生かしてゆかうとした。 |
180/8 |
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なほ芭蕉の俳論はその門下なる去来の去来抄・旅寝論、土芳の三冊子等によりてこれをうかがふことが出来る。 |
181/5 |
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その風を美濃派といふが、 |
181/9 |
猿蓑は前にもいったやうに円熟期の蕉風を代表する撰集である。 |
猿蓑は円熟期の蕉風を代表する撰集であることは前にもいった。 |
181/13 |
これに新しい生命を与へたのは、近世後期に出た与謝蕪村であった。 |
享保の末年江戸の俳人等は五色墨を出して芭蕉復帰の運動をおこしたが、かうした機運が漸く熟して、俳諧に新しい生命を与へたのは、近世後期に出た与謝蕪村であった。 |
182/9 |
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「もはら蕉翁のさびしをりをしたひ、いにしへにかへさんことをおもふ」といって元禄復帰を唱道してゐる。 |
182/11 |
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彼は「俳諧は俗語を用ひて俗をはなるるを尚ぶ」といひ、その要諦として「画家に去俗論あり。曰、画去俗無他法、多読書則書巻之気上升、市俗之気下降矣、学者其慎旃哉。それ画の俗を去だも書を読しむ。況詩と俳諧の何と遠しとする事あらんや」といってゐる。要するに私を去って直に対象の真に没入しようとする精神は、芭蕉の精神と何のかはりはなかったのである。 |
183/14 |
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なほ彼らとほぼ時を同じくして出た白雄門の逸足巣兆・道彦及び「われ俳諧のたはふれにふるくより心入侍れど師もなく友もなく」といってゐる成美等の名は記憶せられてよい。 |
184/5 |
狂詩の淵源を探れば、近古の世に一休宗純の詩集狂雲集などにあらうか。 |
狂詩の淵源を探って、遠く本朝文粋載せる所の源順の題夜行舎人狂歌にありとする学者もあるが、近古に入って五山の僧徒の間に聯句が流行するや、時に滑稽の調を以てこれをやり、その体の所謂狂詩に近いものがある。なほ一休宗純の詩集狂雲集などに近世の狂詩に類するものがあるが、 |
188/7 |
など附けるやうなものである。 |
など附けるやうなものが盛に行はれた。前句附は江戸で大に行はれ、点者も多かったが後期のはじめに出た江戸座の流をくむ俳人慶紀逸は前句附の点者として著聞している。彼がその選ぶところの中から書留めておいたのをはじめて上梓したのが俳諧武玉川で、寛延三年から宝暦六年までに十篇に及び、後俳諧燕都枝折と改題して数篇に及んだ。 |
188/11 |
相ついで百五十篇まで出した。 |
相ついで百六十七篇まで出した。 |
188/13 |
佳句はその初期のものに多く、時代下るに従って漸次その特徴を失って行った。 |
世上万般の事相を対象とし、或は史的著名の事柄を題材として、率直に無遠慮にしかも無邪気に滑稽化して哄笑しようとするところに生命があるのである。佳句がその初期のものに多いのはさうした句が多かったからである。しかるに時代下って寛政の改革以後には、さうした古川柳の率直無遠慮は往往官権の忌諱に触れるものが多く、その種の句は削除せざるを得ぬこととなって川柳初期の特徴を失ひ、更に与力出身の四世川柳の役人気質また不知不識の間にこれに影響し、五世川柳の柳風狂句以後ますますその独特の風格が薄くなり、その滑稽は悪謔、風刺は嘲罵、詠史は衒学と堕し去るに至った。 |
189/6 |
耶蘇教伝来の顛末を記した吉利支丹物語がある。 |
島原合戦に取材した島原合戦記がある。 |
190/3 |
その他三教一致を説いているものに清水物語・祇園物語・大仏物語・百八町記等がある。儒・仏・道の三教の理が結局一に帰すべきを説いてゐるが、 |
その他三教の理を説いているものに儒教的立場に立つ朝山意林庵の清水物語、仏教的見地からこれを駁した祇園物語・大仏物語、儒・仏・道三教の結局は一に帰すべきを説く如儡子の百八町記等があるが、 |
191/11 |
伽婢子・東海道名所記・浮世物語はその代表作である。 |
伽婢子・東海道名所記・浮世物語・狗張子はその代表作である。 |
192/9 |
その伝記ははっきり知られてゐない。 |
平山藤吾といった富裕な商人で、家庭的に恵まれなかったといふが、詳しい伝記は知られてゐない。 |
192/10 |
延宝三年の大阪独吟集から天和元年の後大矢数まで、 |
延宝元年の生玉万句、同三年の大坂独吟集等浪花談林の重鎮として、 |
192/15 |
好色二代男 |
諸艶大鑑好色二代男 |
196/2 |
ついで都の錦が出たが、多少和漢学の素養があって、 |
ついで都の錦が出たが、摂津の神職の出で、宍戸光風といひ、浮浪の生活を送って九州の鉱山に送られ労役に服せしめられた。多少和漢学の素養があって、 |
196/5 |
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彼の作と考へられる諸芸太平記は当代文壇の情勢を知るに便がある。 |
197/3 |
傾城物は傾城連三味線・傾城禁短気等、 |
傾城物は傾城連三味線以下の三味線物及び傾城禁短気等、 |
197/10 |
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しかしそれらも人間生活の一面として深くほり下げて描写するといふよりはさうした人人のかたよった性癖を誇張しつつ描いただけで、そこに人間のほんとうの姿は見られない。 |
198/11 |
物語のやうなものでなかっただらうかともいはれ、 |
物語でなかっただらうかともいはれ、 |
198/11 |
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十二段草子はまた浄瑠璃物語ともいひ、牛若と三河国矢矧宿の長者の女瑠璃姫との恋愛に取材した物語で、その原作は久安頃ではないかといはれ、現存のものはその後改作せられたもののやうである。 |
199/4 |
金平節で |
桜井丹波少掾の金平節で |
202/6 |
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彼と競争的立場にゐた豊竹座の作者なる西沢一風が、彼を以て「作者の氏神」といひ、「今作者といはるる人人皆近松のいきかたを手本として書き綴るもの也」といひ「またあるまじき達人、敬ひ畏るべし」と讃してゐるに見て、その真価を知ることが出来よう。 |
202/9 |
豊竹座があったが |
元禄十六年義太夫の弟子豊竹若太夫が、その師から分れて創立した豊竹座があったが |
202/10 |
傾城懐子を初作として、爾来 |
傾城懐子を初作と推定されるが、その確かなものは椀久末松山を初作とする。爾来 |
202/11 |
近松と競争の形であったが |
近松と競争の形であったが近松の世話物が義理と人情との葛藤を描いたに対し、海音の作は義理に重点をおきすぎたが故に、柔かみに欠けてゐるうらみがあって、 |
202/12 |
八百屋お七(享保一七年) |
八百屋お七(享保二年以前か) |
203/1 |
有名である。 |
有名であるが、彼の作はすべて並木川柳・長谷川千四・三好松洛等との合作になるので、ややもすれば全篇の統一の破られるおそれがないとしない。 |
203/4 |
こえて同五年再興し、 |
こえて同六年再興し、 |
204/15 |
浄瑠璃に比してはその価値甚だ低いものであった。 |
辰之助・藤十郎等の写実的芸風に親しんだことが、やがて彼の世話浄瑠璃の作に大きな影響を及ぼしたものといってよいだらう。 |
205/7 |
後江戸に下った作家で、上方の芸風を江戸に齎した点で注目すべきである。 |
後寛政六年江戸に下った作家で、上方の写実的芸風を江戸に齎した点で注目すべきである。 |
207/7 |
英草子と繁夜話であった。 |
英草子・繁夜話及び莠句冊であった。 |
203/13 |
根無草 |
根南志具佐 |
210/11 |
大悲千録本 |
御手料理御知而己大悲千録本 |
210/12 |
三和の莫切自根金生木 |
三和の順廻代能名家莫切自根金生木 |
210/14 |
京伝は本名を岩瀬伝蔵といひ、 |
京伝は本名を岩瀬醒、通称を伝蔵といひ、 |
210/15 |
青本作者として著聞すると共に浮世絵師として一家をなし、その他洒落本・読本等の作家としても一流を以て目される。 |
弱冠浮世絵師北尾重政の門に入り、政演と号し喜三二等の草双紙に画作してゐる中、自ら作家となるに至ったのである。彼は青本作家としての外洒落本・読本等の作家としても一流を以て目される。 |
214/4 |
馬琴は滝沢氏、 |
馬琴は滝沢氏、名は解、 |
214/6 |
黄表紙 |
青本 |
215/13 |
就中田舎源氏は大いに行はれたが、折柄天保の改革に際し筆をつぐことが不可能となり、且種彦も没して、藤袴の巻までで未完のまま終わった。 |
就中田舎源氏は国貞の挿絵と相俟って満都の人気を鍾めたが、折柄天保の改革に際し筆をつぐことが不可能となり、且種彦も没して、藤袴の巻まで三十八冊を出して未完のまま終わり、真木柱の巻二冊は草稿のまま残された。 |
216/3 |
江戸に出て青本作者として戯作する中、 |
寛政元年大坂放浪中若竹笛躬・並木千柳と浄瑠璃木下蔭狭間合戦を合作したのが、その文筆生活のはじめで、後江戸に出て、同六年青本心学時計草を出し、漸次その地歩を確保した。かくする中 |
216/8 |
寛政六年一八歳で青本を書いたのが |
寛政六年一八歳で青本天道浮世之出星操と書いたのが |
218/4 |
国運日に月に恢弘して、 |
爾来西欧の文物を摂取して、 |
229/5 |
明治三年から五年に亘って西洋道中膝栗毛を書き、 |
明治三年には西洋道中膝栗毛の初篇を出し、 |
231/7 |
否めないが、 |
否めないとはいへ、 |
240/13 |
精進しつづけてゆく。 |
精進しつづけていった。 |
242/11 |
新浪漫主義と共に反自然主義的傾向を示すものに新理想主義がある。肉の蔭に隠れてゐる霊を探り、暗黒の中に潜む光明を看取しようとする一派で、武者小路実篤が雑誌白樺に拠って、その同人と共に歩んだ道で、大正時代の文学運動はかうした方向へ動いて行った。かうしてゐる中に勃発した世界大戦を経て、最近の世界的大動乱の中へすべてが捲きこまれて行くのである。 |
新浪漫主義と共に反自然主義的傾向を示すものに人道主義がある。武者小路実篤が雑誌白樺に拠って、その同人と共に歩んだ道であるが、大正時代の文学運動については後節になほ説くところがあるであらう。 |
243/5 |
永久に定まった。 |
定まった。 |
266/4 |
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*** この後に新章「7. 大正期の文学」(約10ページ)が加筆されている。また、最終章「結語」も大幅に書き換えられている。 |