方丈記をドイツ語に訳した Dr. Daiji Itchikawa

「ミナカタ・コード」 を書いた時、英訳方丈記の諸版についても調べ、英訳以外の訳本も一通り確認した。
訳本については鈴鹿三七 [1] の「外國語譯方丈記考」(鴨長明研究 ; 2-3合併号, p. 14-15. 1933)や、
幣原道太郎の 「方丈記の欧訳」(駒澤大学文学部研究紀要 ; 19, p. 1-22. 1961)等、いくつかの論文にまとめられている。
比較的短い文章の中に、日本人の仏教的無常観がよく表れていることが理由だろう、日本の古典の中では多くの言語に翻訳されている作品の一つである。
夏目漱石の英訳を初めとして多くの訳本があるが、その中に Daiji Itchikawa なる人物のドイツ語訳本がある。
比較的詳しい説明のある鈴鹿の論文から該当部分を以下に引用する。
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西暦1902年刊いちかは氏譯本。これは1902年に Berlin で出版され、
Dr. Daiji Ichikawa(市川大治とでも譯字を充てたものか、自分はまだ此の人については何も知らぬ)の手に成る。
外題は Eine Kleine Hütte とあるが、表紙の左方上部に漢字で方丈記と肉太に印刷してある。又附録にはいろは歌の譯がある [2]
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このドイツ語訳については、簗瀬一雄編 「校註鴨長明全集」 (1956) や 「鴨長明研究」(簗瀬一雄著作集 ; 2. 1980)でも触れられていて、
訳者として [イチカハ・ダイヂ] の名を挙げているが、漢字形は記されていない。この Daiji Itchikawa という名前には見覚えがあった。
20年以上前に同一人物の著作と思われる 「Die Kultur Japans」 [3] を整理した事があった。
その時に手近な人名事典類をいくつか調べたが、漢字も経歴もわからなかった。
当時と比べると現在は参考資料も整備された環境にある。オンラインで利用できるデータベース類も増えたので、改めて調べてみた。

明治時代のドイツ在住の日本人については、Rudolf Hartmann がベルリン大学の日本人留学生を調査した
「Japanische Studenten an der Berliner Universität, 1870-1914」 があり、非常に有用な文献である。
(1997年初版。改訂第2版は2000年に出版されていて、700人弱の名前が挙げられている。)
彼らは当時の日本の超一流エリートであり、その多くは帰国後様々な分野で日本をリードする人物となっていて、
ざっと見ただけでも各界の著名人が数多く並び、殆んどの人物の漢字表記と経歴が判明している。そしてその中に Daiji Ichikawa [4] の名も挙げられている。
しかし彼についてはドイツでの経歴が記されているのみで生没年も漢字形も不明となっている。
それによると Daiji Ichikawa は1900年から1904年まで哲学を、その後1908年まで国民経済学を学んでいて、
同時に1905年から1908年まではベルリン東洋語学校の講師もしている [5]
この資料は現在データベース形式で公開されていて、内容は一部改訂されているが、
Daiji Ichikawa については漢字形、生没年とも空欄のままである。(2018年3月閲覧確認)

Daiji Ichikawa はもしかしたら帰国する事無くドイツで生涯を終えたのか、
あるいは若くして亡くなるなどで帰国後は表立った舞台に立つことはなかったのか、などとも思っていた。

鈴鹿は仮に "市川大治" の漢字を充てているが、戦前戦後の主だった人名事典にはそれらしい人物は収録されていない。
明治30年代に留学していることを考えると、帝国大学 [6] 出身の可能性が高い。
そこで手始めに「帝大出身錄」 (1922) を調べてみると市川代治という人物を見出すことができた。記載は以下の通り。
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市川代治. 東京市外千駄ヶ谷町字千駄ヶ谷 422.
君は山形縣に原籍を有し、明治三十二年東大文學部哲學科を卒業し後ち滿鐡東京支社内東亞經濟調査局に入り以て今日に至る。
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おそらくこの人物だろう。短い記事だけれど、これだけわかれば最初の手がかりとしては十分だ。他の人名録を当たってみると、
「日本紳士録」 では27版 (1923) に "文学士、会社員" とあり、住所は上記と同じである。
「東京帝國大學卒業生氏名録」 (1939) にも明治32年7月哲学科卒業として名前があり、
同窓生として波多野精一、福来友吉、加藤玄智等の名前がある。

また、泉健の 「『Ost-Asien』研究 その3. 人名注解;日本人編」(和歌山大学教育学部紀要. 人文科学 ; 54. 2004) [7] にも
簡単な解説を見つけることができたが生没年は空欄で、経歴についても Hartmann とほぼ同じ内容である。
1907年頃、ベルリン東洋語学校の講師時代に撮影された写真が掲載されていて、ルドルフ・ランゲ [8] や、ヘルマン・プラウト [9] 等と共に写っている。

ある程度まとまった伝記は 「両羽之現代人」(古川省吾編, 1919)の同氏の章 (p. 222-228) がおそらく唯一のものだろう。それに拠って大略を記すと、
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市川代治、南満洲鉄道株式会社高級社員 [10]、文学士 [11]
山形県東村山郡蔵増村 [現在は天童市] で明治5 (1872) 年10月25日生れ、父は市川和吉 [12]
蔵増尋常小学校、天童高等小学校を経て、県立山形中学を優等で卒業、仙台の第二高等学校に進む。
二高の同級には福来友吉 [13] が、上級生には高山樗牛 [14] がいた。
明治29 (1896) 年上京、帝国大学文科に入学、社会学を専攻し、明治32 (1899) 年に特待生として卒業 [15]
翌年渡欧 [16]、ベルリン大学で政治経済を学んだ。
プロイセン陸軍大学、ベルリン東洋語学校 [17]、国民大学、ベルリッツ国際語学校等で講師を務め、
明治41 (1908) 年秋に帰国、帰国後は満鉄東亜経済調査局に入社、調査機関の完備発展に尽力した。
また、日独協会理事を務め、ドイツ勲章赤鷲四等 [18] を受けた。
その他、「亜細亜倶楽部」 を設立(市川の帰朝により解散したという)し、雑誌 「大日本」 の編集顧問なども務めた。
在外時には "ハノーベル市劇場に於いて 「日露戦争観」 の大演説をなし" [19]
"カトウヰッツ市の劇場に於いて再び 「黄禍有無」 に就いて演説し"、
"亜細亜協会の懇請により 「日本の婚姻」 と題し一夕の講演を陸軍大学講堂に於いて試みた" [20] と言う。
ドイツの新聞に日本国情の紹介記事を寄稿し 「鴨長明著方丈記の独訳」 と 「日本の文化(独文)」 を著述した。
夫人は同県人市川孫四氏の長女俊子 [21]
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最後に挙げられている著作はまさしく "Eine kleine Hütte, Hōjōki" と "Die Kultur Japans" であり、Daiji Itchikawa は市川代治に間違いない。
ドイツ語の著作としては、上記の2冊の外、住吉物語を Anna Vogel と共訳した 「Tamayori Hime」 [22] があることもわかった。
また、ドイツ在住時には Ost-Asien 誌にいくつかの記事を投稿している [23] し、帰国後は上記 「大日本」 等の雑誌に論説を寄稿している [24]

同時期にドイツに渡航した人物の日記等にも、市川の名前を見つけることができる。
例えば井上円了 [25] の 「西航日録」(「井上円了世界旅行記」, 2003 所収)では、
明治36 (1903) 年5月5日、"大谷塋亮君および市川代治氏とともにベルリン市外に至り" とあり、
同月14日にも "市川氏の周旋にかかる旅宿に入る。当日は大谷君、中村久四郎氏(旧哲学館講師)および市川氏とともに、記念のために撮影す。" とある。
井上哲次郎の日記 「巽軒日記」 には、明治41 (1908) 年2月9日、"市川代治、独逸より賀状を送来る。"、
同年11月22日、"不在中市川代治来訪す" とある。これはおそらく帰国の挨拶だろう。

市川は留学して僅か一年ほどの間に二つの日本の古典をドイツ語に訳している。
留学中の彼がドイツのいくつかの学校で講師の職に就けたのも、この訳業と無関係ではないだろう。
だが、その後(帰国後も含めて)市川が日本の古典を翻訳紹介した様子は無い。
雑誌等に発表された論説は、ドイツを中心とした国際情勢や経済関係についてのものが殆んどである。
鈴鹿が日本文学の翻訳者としての市川の名前に気付かなかったのはそのためだろう。

さて、鈴鹿は 「外國語譯方丈記考」 を発表した1933年当時、京都大学附属図書館の職員だった。
その時の附属図書館館長は広辞苑の編者として有名な国語学者、京都大学文学部教授の新村出(1911年から1936年まで在任)である。

Hartmann の留学生リストを見ていて、その新村出の名前があるのに気が付いた。(ただし第2版では Shimura Izuru となっている。)
新村は1907年から1908年までベルリン大学に留学していて市川の留学時期と重なっている。
当時のベルリン大学の日本人留学生は学問分野を超えた交流も多かったようだし、
新村が市川と面識があった可能性があるだろうと思って調べてみると、新村と市川は東京帝国大学文科大学で同学年であることが判った。
博言学科(新村)と哲学科(市川)の違いはあるが、文科は一学年70人程度なので大学時代から当然知っていただろう。
さらに、新村が1931年に書いた 「藤井健治郎博士を憶ふ」 [26] という文章(藝文 [27] ; 22巻2号, p.204-206. 1931)には
1907年4月、新村がベルリンの駅に着いた時の想い出が、次のように記されている。
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"私が君と初めて相知ったのは明治四十年の四月中旬私の留学の地たる伯林の某駅頭に迎へられた夕べであった。
迎へてくれたのは君と故人市川代治君との二人ではなかったか。一夜を旅館にすごして休養した翌日、
二君に案内されて既に先容ありしグレヂッチ街の古ぼけた下宿屋に寓することとなった後 ..."
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おそらく旧知の新村にベルリンでの迎えや案内を頼まれた市川が、同郷で一年先輩の藤井と共に出迎えたと思われる。
「新村出宛書簡発信者一覧」 (2012) にも市川の名前があるので、学生時代からの交流が続いていたのだろう。

1920年に東亜経済調査局を依願免職した市川は、その年のうちに48歳で亡くなっている [28]。 体調を崩して退職、そのまま亡くなられたのだと思う。

市川は、東亜経済調査局で多くの資料を扱う立場だったはずで、おそらくそのためだろう、日本図書館協会の会員 [29] となっている。
京都大学附属図書館の職員だった鈴鹿ももちろん同会会員で、その時期は短期間ではあるが重なっている [30]
鈴鹿が "此の人については何も知らぬ" と書いた人物 Dr. Daiji Ichikawa は全く無縁の人物という訳ではなく、旧知の友人も身近にいたことになる。
ベルリン大学で哲学を学んでいた市川がなぜ日本の古典を翻訳、出版することになったのか [31]、鈴鹿が図書館協会の名簿に気付けば、
あるいは新村に市川の事を尋ねていれば、そのあたりの事情を知ることができたかもしれない。

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[1]. 鈴鹿三七 (1888-1967) は京都生れ。吉田神社の古い社家の家柄である。
 京都帝国大学で国文学を専攻し長く京都大学附属図書館に在籍した鈴鹿は、書誌学に造詣が深く、ノートルダム清心女子大学教授、皇學館大学教授等を歴任した。
 京都大学附属図書館には1918年から1950年まで在籍した(1914年にも短期間在籍している)。
[2]. Eine kleine Hütte, Hōjōki : Lebensanschauung von Kamo no Chōmei übersetzt von Dr. Daiji Itchikawa. -- Berlin : C.A. Schwetschke und Sohn, 1902.
 本文は41ページまでの小冊子である。鈴鹿は著者の表記を "Ichikawa" と書いているが、原本の表記は "Itchikawa" である。
 鈴鹿は "表紙の左方上部に漢字で方丈記と肉太に印刷してある" とも記している。
 私が調査した京都大学附属図書館所蔵本(登録番号25375;請求記号 4-6/I/1)は現在は改装されていて、
 ボール紙の表紙が付けられ、元の表紙左上部にあったはずの肉太の "方丈記" の文字は大半が切り取られているが、
 標題紙前の紙葉中央にも同様に "方丈記" と印刷されている。原版はおそらく Itchikawa の筆になるものだろう。
 鈴鹿が言及している 「附録のいろは歌の訳」 はひらがなといろは歌を訳を付けて解説したものである。参考までに引用する。
   Farben und Gerüche noch so sehen, sie müssen alle vergehn.
    Was giebt es Beständiges in unserer Welt?
     Im deren Abgrunde des Nichts verschwindet der heutige Tag.
      Ein Traum ist nur das Leben, darum sollen wir nicht klagen.
 この京都大学附属図書館所蔵本は明治35 (1902) 年4月10日付の受入印がある寄贈本で、寄贈者は "D. Itchikawa"、つまり著者本人である。
 当時の輸送事情を考えると1902年のかなり早い時期に出版され、出版直後に送付されたと思われる。
 国内で所蔵している図書館は少なく、 CiNii Books で確認できるのは京大、愛媛大、大阪府立大、金沢大の4館のみ(2018年3月現在)なので、
 著者が主だった複数の大学に寄贈したとは考えにくく、寄贈先として京都大学が選ばれた理由は不明である。
 なお、愛媛大学図書館所蔵(鈴鹿文庫)本は鈴鹿三七没後に一括購入(一部寄贈)された鈴鹿の旧蔵書だが(請求記号 914/Su151)、
 鈴鹿が上記論文執筆時に京大所蔵本と別に自蔵していたかどうかは不明。
[3]. Die Kultur Japans von Dr. Daiji Itchikawa. 2. Aufl. -- Berlin : Verlag von K. Curtius, 1907. (Bücher der Türme ; Bd. 9).
 タイトルページにある著者の肩書は "Lektor am orientalischen Seminar zu Berlin. Lehrer des Japanischen an der Kgl. Kriegsakademie zu Berlin"。
 また、A. Merthan Dündar の 「Japan in the Turkish press」 (Asian research trends ; 7, p.55-73. 2012) に拠れば、
 この著作は1914年に Mübahât Bey によって翻訳され 「Japonya Tarih-i Siyasisi」 と題してイスタンブールで出版されているという。
 現物を確認できていないので全訳かどうかは分からないが、オスマン帝国時代に日本文化を紹介した数少ない日本人の著作と言えるだろう。
[4]. "イチカワ" のアルファベット表記は、自身の著作ではドイツ語風に Itchikawa と綴っているが、
 Hartmann のリストでは人名はヘボン式に統一されていて Ichikawa と表記されている。
[5] ベルリン東洋語学校 (Seminar für Orientalische Sprachen zu Berlin) は、1887年、ベルリン大学の付属高等教育機関として設立された。
 当時のベルリン東洋語学校は、ドイツ人教師とネイティブスピーカーの講師が教えるシステムになっていたようである。
 初代の日本人講師は後に東京帝国大学教授となった井上哲次郎。
[6] 東京大学は設立当初の明治初期は組織の改編とそれに伴う名称変更が多いが、
 1877年に東京大学、1886年に帝国大学、1897年に東京帝国大学、1947年に東京大学、となっている。
[7]. 玉井喜作という日本人がベルリンで発行したドイツ語の月刊誌 「Ost-Asien」 (1898-1910) についての論文。
 泉の一連の論文は当時のベルリンの日本人留学生についても参考となる。
 泉は、Ost-Asien に登場する日本人の名前と経歴を広汎な参考資料に基づいて調査しているが、
 市川代治の漢字は私家版 「玉井喜作宅における寄せ書き」 によって判明した、と書いている。
[8]. Rudolf Lange (1850-1933) は日本学者。ベルリン東洋語学校の教授。
 明治初期、東京医学校(東京帝国大学医学部の前身)で講師をしていた。日本語の入門書や辞書等の著作がある。
[9]. Hermann Plaut (1847-1909) はベルリン東洋語学校の日本語教師。息子のヨゼフ・プラウトは明治末に来日、熊本の五高でドイツ語を教えた。
[10]. 原覺天の 「現代アジア研究成立史論」 に、東亜経済調査局の初期の主たるスタッフとして名前が挙げられている。
 また、「東亞經濟調査局概況:沿革及自大正九年四月至同十年三月第十八回事務報告書」 に、今期の主要人事として、
 "當局設立後間もなく入社、萬十一年八箇月の久きに亘り局務に鞅掌せられたる職員文学士市川代治の依願免職" とある。
 なお、東亜経済調査局の設立は1908年で、帰国後すぐに入社したことになる。
 京城新報の1909年6月8日の消息欄に、市川代治入京の記事があるが、肩書は "満鉄社員" となっている。
 東亜経済調査局では主任を務めていたようである。(例えば「日本雑誌」1巻4号の寄稿に見える肩書など)
[11]. 市川はドイツでは Ost-Asien の寄稿や上述の写真の説明も含めて確認できたものは全て "Dr." の肩書を使っているが、
 日本とドイツのどちらでも博士 (Doktor) の称号を得てはいないようである。
[12]. 「Die Kultur Japans」 には標題紙の次の紙葉に両親への献辞が "Meinem Vater Wakitchi und meiner Mutter Saki gewidmet" とあり、
 両親の名前は父親が "わきち"、母親が "さき" であることがわかる。
 「天童市史編集資料」 第30号、「蔵増地区資料(2)」 に市川和吉家寄託文書が収録されている。最上地方の村境訴訟等に関する文書だが、
 その中の最上川瀬替掘割関係の一連の文書(明治4-5年頃)に蔵増村百姓惣代、として市川和吉の名前がある。
 この文書は1981年に市川千代氏によって天童市史編纂室に寄託されたものなので、おそらく蔵増には市川和吉直系の子孫が今もおられるのだと思う。
 「天童市史編集資料」 第48号、「明治十九年五月高等科入学につき照会」 に、"蔵増村平民 市川和吉長男 市川代治 本月計拾三年八ヶ月" とあり、
 長男であることが判るが、一方で 「現代人名辞典」 (中央通信社, 1912) の市川代治の項には、
 "君は山形縣の人、市川孫四氏の令弟にして明治五年十月を以て生まる、現に會社員なり、夫人をとみ子と呼ぶ(麻布區飯倉四ノ一二)" とあり、符合しない。
[13]. 福来友吉 (1869-1952) は岐阜県出身。東京帝国大学哲学科でも市川と同級である。後に東大帝国大学助教授。千里眼の研究で有名。
[14]. 高山樗牛 (1871-1902) は山形県出身。東京帝国大学哲学科卒で、大学でも市川の上級にあたる。
 大学卒業後、二高の教授となった樗牛は1900年6月に留学を命じられ、
 留学後は京都帝国大学教授が内定していたが、渡航直前に喀血して留学を辞退している。
[15]. 哲学科三年生の時、波多野精一、加藤玄智と共に特待生に選ばれている(官報 ; 4509号)が、翌年優等で卒業したのは波多野精一(官報 ; 4808号)。
 「東京帝國大學一覽 從明治三十二年至明治三十三年」 の学生名簿(明治三十二年九月末現在)に、大学院文科学生として市川の名があり、
 研究題目は "社會學殊ニ社會制度" となっているので、大学院に進んだことが判るが、後述の通り、同年秋には渡欧したと思われる。
 市川は学生当時、哲学会が発行していた「哲学雑誌」の編輯委員となっていて、同雑誌140号 (1898.10) に新編輯委員として名がある。
 144号 (1899.2) には原稿や寄贈図書の送付先として市川の名が "本會書記" の肩書で掲載されているが、150号 (1899.8) では "満期退職" となっている。
[16]. "佛國のラオス―號" で渡欧し、ドイツに行く前にフランスに半年滞在しパリ万国博覧会を観た、と書かれている。
 フランス郵船 (Messageries maritimes) の極東航路(横浜-マルセイユ間、スエズ運河経由)定期船の一つ、ラオス (Laos) 号の事だろう。
 ラオス号は1896年建造、1932年廃船。全長142メートル、6357総トン、定員300人。(一等148人、二等71人、三等81人)
 1904年からはアマゾン号として南米航路で就航している。なお1950年代から極東航路で就航していたラオス号は戦後建造された別の船である。
 ラオス号は神戸、長崎、上海、香港、サイゴン、シンガポール、コロンボ、ジブチ、ポートサイドに寄港しながら、横浜-マルセイユ間を一ヶ月半ほどで結んでいたが、
 フランス郵船の定期船は上海で二週間ほど停泊するため、急ぐ客は先発の船に乗り換えるのが通例だったようである。
 (当時、フランス郵船は不測の事態に備えるため、上海に少なくとも一隻を常に停泊させ、後便の到着を待って先発の便を出港させていた。)
 例えば同じ頃ヨーロッパ歴訪のために1900年2月16日に横浜からラオス号に乗船した閑院宮載仁親王の一行は、
 途中でポリネシエン号に乗り換えて3月24日にマルセイユに着いている。一方、ラオス号がマルセイユに入港したのは4月8日だった。
 市川は、1900年の夏学期からベルリン大学に在籍しているので、半年のフランス滞在と渡航期間を考えると
 少なくとも入学の8ヶ月ほど前には日本を発たなければ間に合わない。
 大学卒業は1899年7月なので、それ以後となると同年9月27日横浜発のラオス号で出発した可能性が高いと思うが、
 The Japan weekly mail (1899.Sept.27) に掲載されているラオス号の乗船者名簿には市川の名前は無い。(この乗船者名簿には三等船客は含まれない。)
 フランスに11月中旬頃に到着、翌年の1900年春頃まで滞在し、4月14日開会のパリ万博を見学した後、ドイツに向かったと考えられる。
 フランス行きの目的は "佛語研究の爲" とあるのみで具体的には不明だが、パリ万博と同時期(同年8月1-5日)に開催された第一回国際哲学会議
 (Premier Congrès international de philosophie) が目的だったのかもしれない。
 明治34年版の「學士會々員氏名録」には、"洋行" として市川の名前が掲載されている。
[17]. プロイセン陸軍大学とベルリン東洋語学校での経歴は 「Die Kultur Japans」 にある著者の肩書と一致するが、後の二つでの職歴は現時点で確認できていない。
 ベルリン東洋語学校の講師を務めた日本人留学生には他に千賀鶴太郎などがいる。
 日本人講師は、初代の井上哲次郎から1902年就任の辻高衡(1916年まで勤めた)まではずっと一人だったが、
 市川の時から日本語科が拡充され、辻との二人体制になっている。市川の後任は市川の友人(東大で同期)で七高のドイツ語教師だった菅野養助である。
 なお、上村直己 「明治期ドイツ語学者の研究」 では、市川の在任期間は1906年から1908年まで、となっている (p. 345)。
 ちなみに、初代講師の井上哲次郎は市川が東京帝国大学在学時の哲学科教授である。
 ロシアの日本学者、セルゲイ・エリセーエフは、1907年、日本語を学ぶためにベルリンに留学するが、そこで会話は市川から習ったという。
 川口久雄の「芍薬の花 - 『エリセーエフ聞書』抄(二)」(季刊藝術 ; 43号, 1977 所収)に拠れば、
 "会話は市川代治という先生だった。彼は越後出身で、方言がひどかった。越後をイチコと発音した。しかし先生によって日本研究の方向が教えられた。
 日本文化をわかろうと思うならば支那古典と仏教とがわからなければいけないとくりかえし彼は教えた。
 東洋の問題、東洋文化の性格は、この越後方言のひどい日本人によっておぼろげながらある程度あかるくなったように思った。" とある。
[18]. プロイセンの Roter Adlerorden の事。大正3年に叙勲している。
[19]. これに対応する事柄が 「Die Kultur Japans」 の序文に書かれている。
 そこにはハノーバーで1904年8月20日に "Krieg zwischen Japan und Rußland" の講演をした、とある。
[20]. 同じく、1907年2月22日に "Die Eheschließung in Japan" の講演をした、とある。
 亜細亜協会 (Deutsch-Asiatische Gesellschaft) は、1901年にベルリンで設立された団体だが、市川がどういった関わりがあるのか確認できていない。
[21]. 市川孫四は、「山形縣之自治」 (1913) によれば、蔵増村の村会議員(一級)でもあった人物で、
 「山形縣管内所得税營業税納税員錄 大正二年十月調」 の蔵増村の項にも名前が見える。
 注 [12] でも触れたが、「現代人名辞典」 には市川代治は市川孫四の弟、夫人は "とみ子"、とあり、一致しない。
 「東京社會辭彙」 (1913) の市川代治の項には "夫人を俊子と呼び跡見女學校出身にして家事を理し才聞あり" とあるので夫人の名前は俊子が正しいだろう。
 跡見校友会の会誌 「汲泉」 に掲載された校友会会員名簿には市川俊子の名がある。
 同5号 (1902.5) では "東京市小石川區久堅町八番地亀山玄助方(市川孫四郎[ママ]君女)市川俊子"、
 同7号 (1903.5) では "山形縣東村山郡藏増村甲千百〇一(市川孫四郎[ママ]君女)市川俊子" とある。
 この山形の住所は、「山形東村山西村山南村山一市三郡區民必携」 (1897) に掲載されている市川代治の地番と同じなので、
 代治は1902年頃、ドイツ滞在中に俊子と結婚したと思われる。
 代治と孫四の間柄については、現時点で確認が取れないが、「両羽之現代人」 の記述が正しいのでは、と考える。
 なお、他の親族に、市川岩藏がいる。「山形名家錄」 (1922) には "故市川代治氏の令弟なり" とあり、東京帝国大学農科大学卒、徳島県農会技師とある。
 戦後は天童市に戻ったようで、「第三十九回国会参議院農林水産委員会会議録第三号」 (1961) に、
 「農業共済制度改正促進に関する請願 第四七号」 の請願者として "山形県天童市農業共済組合長 市川岩蔵" とある。
[22]. Tamayori Hime (Fräulein Edelstein) aus dem altjapanischen "Sumiyoshi Monogatari" von Dr. D. Itchikawa und Anna Vogel. -- Berlin : Verlag von Karl Koch-Krauss, [1901].
 確認したのは岡山大学所蔵、旧岡山医学専門学校蔵書。出版年の表示は無く、推定年である。
 共訳者の Anna Vogel の経歴については今のところ手がかりがない。
[23]. 泉は 「『Ost-Asien』研究:その4. 全目次;独語版」(和歌山大学教育学部紀要. 人文科学 ; 54. 2004)で、市川の寄稿として以下の記事を挙げている。
 "Japan und der Krieg gegen Russland. I-V" (Nr. 78-82, 1904-1905)
 "Die gelbe Gefahr" (Nr. 86, 1905)
 "Glückliche Eheschliessung der Verbrecher auf Sachalin" (Nr. 88, 1905)
 "Die Einführung der Freuerwaffen in Japan" (Nr. 99, 1906)
 "Die ersten amerikanischen Kriegsschiffe in Japan" (Nr. 106, 1907)
 "Das Geschlechtsleben der jungen Leute in Japan" (Nr. 107, 1907)
 "Der Nationale Geist der Japaner" (Nr. 108, 1907)
 "Kaiser und Volk in Japan" (Nr. 109, 1907)
 "Ost-Asien vom Standpunkt des Weltpolitikers" (Nr. 110, 1907)
[24]. 「大日本」 の4巻 (1917)、6巻 (1919) 等に編集顧問として名前が見える。また、1-3巻の総目次で市川執筆の記事として挙げられているものに、
 「獨土經濟關係」、「英獨經濟戰争」、「波斯と英露関係」、「獨逸の對日本觀」、「獨逸の日露協約觀」、「獨逸の中歐縦斷策」 がある。
[25]. 井上円了 (1858-1919) は哲学者。哲学館 (現在の東洋大学) の設立者。妖怪の研究で知られた。
[26]. 藤井健治郎 (1872-1931) は京都帝国大学文科大学教授。山形県出身。東京帝国大学文科大学卒。1906-1907年、ベルリン大学に留学していた。
[27]. 藝文は、京都帝国大学文科大学に創設された京都文学会の機関誌。愛媛大学鈴鹿文庫にも藝文の該当号は残されているので、
 京大文科を卒業した鈴鹿は当然読んでいるはずだが、市川と Daiji Itchikawa の名前が結びつかなかったようである。
[28]. 市川は第27版日本紳士録 (1923) に掲載されているので、当初、没年は1923年以降だろうと思っていた。
 1939年出版の 「東京帝國大學卒業生氏名録」 は、故人には × を付しているが、市川にはその印が付いていない。
 一方、新村は1931年の時点で "故人" と記しているので、死亡時期は1920年代半ば以降、と推定して調べていたので結果的に見逃していたが、
 「帝國鐡道協會會報」22巻1号 (1921) に以下の訃報記事が掲載されている。
 "本會正會員文學士市川代治君は大正九年十二月十八日逝去せられたり本會は君の訃音に接し弔詞を靈前に呈し哀悼の意を表したり"
[29]. 入会の時期を確認できていないが、「図書館雑誌」22号 (1914.11) には "圖書館協會々員文學士市川代治" (p. 27) とある。
 「図書館雑誌」44号 (1921.3) の会員移動の欄に拠れば "神奈川縣鎌倉町字小町三九一番地" に転居、同48号 (1922.2) では退会となっている。
[30]. 鈴鹿は1918年3月に入会している。「図書館雑誌」47号 (1921.12) の会員氏名録には、市川の没後ではあるが、両者が掲載されている。
[31]. 芳賀矢一の 「留学日誌」(「芳賀矢一文集」 (冨山房, 1937) 所収)の1901年7月20日付の記事に "市川代治來訪 方丈記を貸す" とある。
 国文学者の芳賀矢一 (1867-1927) は、当時ドイツに留学していて、日記には "市川" の名が複数回現れるので、それなりの交流があったのだろう。
 前後の経緯については何も書かれていないが、ドイツ語訳出版の約半年前のことなので、芳賀から借用した方丈記を翻訳に使用したのだと思う。
(2018.04.01 記)
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その後の調査で没年を特定できました。その他にも、いくつか新たに判明した事柄があるので、注記を中心に一部書き改めました。
(2024.01.04 追記)