「埃漢文字同源考重訂及補遺」の附録がおもしろい
甲骨文字に遡る漢字が中国で発生した事はまちがいないと思うけれど、その起源は他の文明に由来するという説が無い訳ではない。
例えばフランスの東洋学者 Joseph de Guignes (1721-1800) は中国文明はエジプト由来だと主張したし、何人かの学者が同様の論を展開した。
日本では明治時代に史学者の久米邦武が漢字はエジプト文字に由来する、と主張した事がある。
例えば「仮名文と漢文」(「八紘」3号, 1895)で
「謂ゆる科斗文字てふものの形に溯りて熟看するに、頗る埃及文字に似たるあり。元は同源にして終に異派をなし ...」と言い、
また「国字改良論」(「太陽」7巻2号, 1901)でも
「漢字は楔形字埃及字などの混合にて、単音語を用ゐる民族に用ひられて改良したる者なるべし」と述べている。(「久米邦武歴史著作集」に拠る。)
この他にもそういった主張があり、言語学大辞典別巻、世界文字辞典の「漢字」の項には
「中国での文字の発明には、古代オリエントの文字が古代インダス文明を経て刺激となったのではないかという研究者
(アメリカのオリエント学者ゲルプ I.J. Gelb)がいるが、もとより確証があるわけではない。」 とあるけれど、少数派意見のようである。
しかし、漢字とエジプトの文字を綿密に比較検討した結果、これを同源だとする著書が昭和8年に板津七三郎という人物によって出版されている。
「埃漢文字同源考」である。(「埃」はエジプトを表す。漢字ではエジプトを「埃及」と書く。)
本文 458ページの立派な本だ。序を大島義脩(帝室博物館長)
[1]
、序説を奥田抱生
[2]
が寄せている。
出版は岡書院。大正から昭和初期にかけて民俗学、考古学関係の学術書を多く手がけた出版社である。
著者の板津七三郎 (1866-1944) は名古屋で開業医をしていた人物だ。
愛知県立医学専門学校を卒業後、名古屋監獄で医長を務める傍ら自宅で済衆館医院を開業したと言う。
1901年に日本で始めて黒色表皮腫を報告するなど、医学者としての業績もいくつかある一方、
古物蒐集が趣味で考古学にも強い関心があったようである。
その蒐集対象は広く、正倉院から流出した古文書なども所蔵しており「正倉院文書拾遺」に所蔵者としてその名が見える。
古い文字に興味を持ったのは明治44年、たまたま入手した古い銅瓶の底に刻された銘を読んだのがきっかけだと言う。
これについては板津自身が考古学雑誌2巻9号に「商銅父辛尊彜」として報告している。
ほかにも板津は同雑誌の10巻6号に「釘ぬきに就て黒川君に教を乞ふ」、11巻7号に「所謂尊氏経に就て」を寄せているから
古物は趣味とは言え、相当専門的な知識を持っていたようだ。
古物蒐集から古代文字に興味を持った板津は、やがてヒエログリフと漢字の比較対照を考えるようになった。
当時の日本はヒエログリフやエジプト考古学の研究は殆んど皆無と言っても過言ではない時代だが、
板津は「ブッヂェ氏の新撰埃及絵文字表にある890字を基礎」とし
[3]、
「エルマン氏の埃及絵文字1923年版」
[4]
等で補足しながら漢字と比較を行い、
凡そ20年に亘る研究の結果、ほぼ全ての文字についてヒエログリフと漢字が形と意味において対応する事を見出した、と言うのだ。
実際、この本の大半はヒエログリフと漢字の比較対応表からなっている。
ヒエログリフ一文字づつについて対応する漢字を挙げ、形、意味、音などの比較を論じ、
結論として漢字は中国文明の独創ではなくエジプト文字の分派であると断言するに憚らない、と言う。
そして、その起源は紀元前2300年頃、古代エジプトの探検隊、あるいは貿易商等によって水路を通って持ち込まれた、とまで推定しているのだ。
何か対象物を見てそれを象形文字にすれば、同じ人類なのだから同じような形になるのはむしろ当然じゃないの? と思う。
太陽を絵にすれば誰だって「○」のような物を書くはずだ。
鳥を表す文字がヒエログリフも漢字も頭が左向きなのがちょっと不思議だったりするのだが、これは右利きの人が多いからだろう。
「愛」とか「幸福」と言った抽象的な概念の文字が全く同じとなれば話は別だが、自然物をかたどれば同じ様な絵(文字)になるのは当たり前で、
だからこそ象形文字(形[かたち]を象る[かたどる])なのだ。しかし、そんな意見は「軽見皮相の論」にすぎないと著者は切り捨てている。
二年後の昭和10年には「埃漢文字同源考重訂及補遺」が出版される。これはどうやら自費出版のようである。
奥付には「著作兼発行者、名古屋市中区役割町9番地 板津七三郎」とある。
口絵2枚、86ページの薄い本である。
前著以後の調査に拠ったという正誤表や若干の追加すべき項目が列記されていて主張は変わらないが、本文は31ページまでだ。
その後ろに、自跋、雑誌や新聞などに掲載された前著の書評を集めた「批判集」、学者から寄せられた手紙を集めた「批判芳簡集」等がある。
「批判集」の中には志賀潔の文章もあるし大阪朝日新聞の天声人語にも取り上げられたようだが、「天声人語」はやや否定的だ。
板津は、前著を各諸氏に贈呈したようで、「批判芳簡集」の中には有名な学者の名前も見える。
どんな返事が寄せられたのか、ちょっと抜き出してみると ...(肩書きは板津による)
飯島忠夫(高等中学校教授、文学博士)
[5]
「... 誠に卓抜の御識見と存ぜられ ...」
石井碩 (彫刻大家)
[6]
「... 従来疑団に包まれ居候諸点殆ど悉く了解し得欣喜不措候 ...」
板倉與五郎 (医師、挙母病院長)
[7]
「... 先人未踏の新天地を開拓したるものにして将来後進の為に指導する方針を示したるのみならず延いて
世界の文化史、考古学、及博言学上に至大の貢献を捧げたるものにして真に一代の典籍たり ...」
播磨龍城(弁護士法学士)
[8]
「... 偉大なる産物を学界に寄与せられ候事は真に東洋学界の一大偉績として世界に向って気を吐くものに有之 ...」
西村真次(早稲田大学教授、文学博士)
[9]
「... さやうとはまで断じ得不候へ共「日本文化史概論」に於いて小生も一国文学の近似を若干図示したる関係上
御念の入りたる難研究をかほどまで大成せられたる ...」
岡島誠太郎(京都大学講師、文学士)
[10]
「... 全体に於いて自由に痛快に所論を御進捗被遊候趣実に愉快に在候 ...
有るか無きかの如き日本に於ける埃及研究に斯くまで御精励なる先覚者のある事に大いに意を強くしたる所に有之 ...
従来聊か埃及に手をつけたる者として貴著によりて眼界を弘められ大にヒントを得申候点及び漢字に対する一の新見解として投ぜられたる一石は
小生にも大いに参考に相成り候点は幾重にも感謝仕候 ...」
渡邊世祐(東京帝国大学史料編纂官、文学博士)
[11]
「御研究に依りこの [二つの文字の関係についての] 理論的説明に関し大なる曙先を得たるに感致し ...」
葛城理平(横浜 犧蒼編纂者)
[12]
「... 高著の如く詳密なるは未曾有と奉存候 ...」
金田一京助(東京帝国大学、文学博士)
[13]
「... 支那文字と埃及文との間の類似の点にも関心を寄せて居たものだったものですから ...
世界文明の唯一起原地にだんだん説かれつつある埃及は文字の上でもさうなって来るかと大いに興味を起して居る所 ...」
高田忠周
[14]
「埃漢文字同源は近頃大分研究され始め候様の折柄誠に結構の御事と奉存候 ...」
中村不折(画伯)
[15]
「... 小生も亦漢文字は埃及より出たることを考え居候ものに ... 高著により一層研究に資することを考え欣喜雀躍致居候」
内藤八郎(医学博士)
[16]
「... 貴著の権威が失なはれるやうなことは断じてなく永久不変であると信じます ...」
内藤虎次郎(京都大学名誉教授)
[17]
「... 東西文化交渉上絶大の問題に御着手真摯なる学者的態度を以之臨まれ候事不堪敬佩候、
但し小生の微弱なる所見にては漢字に対ては御研究は尚多少更に御研鑽の余地あるやに候攷候 ...」
桑木厳翼(東京帝国大学教授、文学博士)
[18]
「... 御研究の精細なるに敬服仕候 ...」
新村出(京都大学教授、文学博士)
[19]
「... 頗る重要なる御研究学界を刺戟するところ少からざるべく存候 ...」
あの金田一京助や新村出がこんな意見を? 京都大学関係者が妙に多いのも気になる。
このあたりもそれなりに面白いが、問題はこの後だ。そこには、
「余りに頁数過少の為め冊子の態を為さずと、印刷子からの請求により、本著に全然無関係の者なれども茲に増頁法として著者の実験したる事実中
一寸と興味百パーセント不思議を感じ、一度世に問ひ、教えを乞はんとする二三件を摘録し御愛嬌に供せんとする。」
として「超常現象実験漫録」なる文章が附録として収められている。
考古学に興味のあった板津だから、本のかさを増やすのなら他に幾らでも書く事はあったはずだが、いきなり「超常現象」である。
まず自分の体験として次の4つの体験談を記しているが、いわゆる正夢の類の話が多い。概略は以下の通りである。
(1) 16歳の頃、兄弟が亡くなる夢を見たが、その日に妹が急病で亡くなっていた事が後日判明した。
(2) 往診先で、別の患者の家に立ち寄るようにとの電話が自宅よりあった旨を告げられたが、その患者に心当たりがなく、
また帰宅後尋ねて見たところそのような電話はしていないとの事だったが、
後日ある病人がその時刻に「板津先生に一度診察を」と連呼して亡くなった事を聞かされる。
著者曰く「文明の利器を応用して心霊的通意し其日時の寸分の差なきは実に不可解の一事、今ま猶ほ奇現象として疑う処なり。」
(3) 大正6年、急性腎臓炎に罹った著者は、7年3月にはほぼ絶望視されるほど重篤な状態になったが、
信心深い兄が多賀神社に祈願したところ「快復すべし」との神籤を得た。また、複数の易者から「7月には治る」と言われる。
5月18日には「神前に一老看護婦あり、枕頭に進で曰く、汝は何を逡巡するか、蓋し罹病を悲観するならんが、之は当方に於て
看護治癒せしむべし ... 」という夢を見る。はたして、7月には奇跡的に快癒した。
(4) 大正11年3月12日、ふと目覚めると毛髪の焼ける臭いがするが、特に異常は無い。
再び寝た所、甥が死亡する夢を見る。翌朝起きると、訃報の電報が届いた。
次に「超常現象者試験」という一節がある。
著者の患者(結核性腰椎炎の女性、26歳)の夫なる人物が「鞍馬山天狗」の看板を掲げて占いをする男(28歳)だった。
そこでその男に対して、いくつかの実験を試みた。要約すると、
「千里眼の術を為すか?」との問いに「わけなく遂行すべし」と答えたので
名刺の裏に絵を書き名刺筐に密封して示したところ、三角、四角、円、国旗の4回は的中させた。
また、炭火を握っても火傷しない、などの術を見せたと言う。
ちょっとした大道芸のような感じがしないでもないが、その人物の生い立ちが凄い。
10歳の時、木曽川端黒田で学校の帰途に老人に誘拐され山の中に置き去りにされ、それ以来山窟に雨露を凌ぎ、草などを食って暮らした。
ある日樵夫の後をつけて人里まで降り、家に帰ったところ既に10年が過ぎていた。その間に様々な術を身につけたと言うのである。
なぜわざわざ誘拐して山中に置き去りにするのか意図がわからないが、10歳の子供が良く生き延びた物だ。
10年も経てば成長もするし着物も小さくなるだろうから裸のはずだが、その辺には何も触れられていない。おそらく年数は誇張があるだろう。
透視の術を身に付けたきっかけは「空腹に堪えず、煩悶の時に強く瞑目せしに面前の石の下に食物ありと見えたり、
早速匍匐してその石を漸く抗起するに、果して一種の白色透明の粘き苔を得たり。之れを食するに満腹するを得たり。」という顛末だ。
いきなりちょっと菌類っぽい話題が出てきて驚いたが、これは何だろうか。
信州あたりでは地下浅い所に「天狗の麦飯」と言われる飯粒状の藍藻等の集合体が発生する事が知られている。
小諸市では天然記念物に指定されているが、食用とすることも可能である。
それに類似した物かも知れない。そうだとすると天狗の麦飯は木曽付近にも分布している可能性があるのだろうか...。
次に大正13年5月、名古屋の宣布館で行われた高楠順次郎博士
[20]
の講演による、として博士の書生(24歳)の逸話を挙げる。
その書生は脳疾患のため智力が劣っていたため母親が清水の観音様に祈願したところ、満願日に突如人格が一変し仏事に関する事を口走り始めた。
あたかも発狂したかの様だったため、高楠博士が上洛の際に引き取った人物だという。
博士が内心試験のつもりで連れ帰るとなにやら漢字を書き始めた。
博士にはそれが何かわからなかったが、前田慧雲
[21]
に見せたところ大般若経だとわかった。
この人物は兵役後、遂には堂々と仏事講演を行うようになり、堂を建て多くの帰依者を得たというものだ。
これは超常現象とはちょっと違うような気もする。
大正新脩大蔵経を編纂した高楠博士が般若経である事を見抜けなかった、というのはちょっと信じ難いのだが、
それはともかく高楠博士はいったい何の試験のつもりだったのだろう。
板津がこれらの例を基に、飢餓により引き起こされる養分不足のため脳を変化し特殊な能力が現れるのではないか、と推察しているあたりはやはり医者である。
板津自身、母親が乳が出ず餅米粉で育てられたので幼時は大変病弱だったと言うが、ヒエログリフと漢字の対照ができたのもその為かも知れない。
「埃漢文字同源考」それ自体、トンデモ本として面白いがこの附録が華を添えていると思う。
--- 以下傍注 ---
[1]
大島義脩 (1871-1935). 旧制第八高等学校の初代校長を務め、女子学習院院長、帝室博物館長などを歴任した。
[2]
奥田抱生 (1860-1934). 漢学者。古物研究でも知られ、板津は著書の中で「埃及文字学の権威」と紹介している。
[3]
Egyptian language : easy lessons in Egyptian hieroglyphics with sign list / by Sir E.A. Walis Budge. -- London : Routledge & Kegan Paul, 1910.
の第4章、A selection of hieroglyphic characters with their phonetic values, etc. の事だろう。
[4]
Die Hieroglyphen / von Adorf Erman. -- 2. durchgesehener Neudruck. -- Berlin : W. de Gruyter, 1923. (Sammlung Göschen ; 608)
[5]
飯島忠夫 (1875-1954). 東洋史学者。学習院教授を務めた。
[6]
石井碩 (1873-1971). 篆刻家。雙石と号した。文部省印など作品は非常に多い。
[7]
板倉與五郎. 名古屋の開業医のようだが詳細不明。
[8]
播磨龍城. 本名辰次郎。性相学(人相等から性格や運命を知る事ができる、とする学問)にも関心を示し、雑誌「性相」の編集にも関わった。
[9]
西村真次 (1879-1943). 早稲田大学教授。日本古代文化史の他、神話学、人類学、生物学など多くの分野の著作がある。
[10]
岡島誠太郎 (1895-1948). 京都帝国大学講師。1940年に出版された 「埃及語小文典」は謄写版90ページの小冊子だが、
初めての日本語に拠るエジプト語の文法書である。こけしの蒐集家でもあったらしい。
[11]
渡邊世祐 (1874-1957). 日本史学者。史料編纂官のほか、明治大学教授などを務めた。
[12]
葛城理平 (?-1944). 漢字についての著作がいくつかあるが、詳しい経歴はわからなかった。
[13]
金田一京助 (1882-1971). 言語学者。国学院大学教授、東京帝国大学教授。アイヌ語の研究で知られる。
[14]
高田忠周 (-1946). 号は竹山。説文学者。エジプト文字にも関心があり、学位論文の最後に付けたエジプト文字に関する説が従来の学説と違っている、
との理由で学位を受けられなかったらしい。
[15]
中村不折 (1866-1943). 洋画家。不折は帝展に出品した「蒼頡が埃及文を見図して漢文字は埃及文字より胚胎せし事」を描いた絵の絵葉書を
板津に送っているが、大正13年の第五回帝展西洋画出典目録(日展史7、帝展編2)に拠るとこの作品の題名は「始制文字」である。
不折は書家として、また書の収集家としても知られている。
[16]
内藤八郎. 昭和8年に「医用外国語入門」を著している。名古屋の医者と思われる。
[17]
内藤虎次郎 (1877-1934). 東洋学者。京都帝国大学教授。号は湖南。
[18]
桑木厳翼 (1874-1946). 哲学者。京都帝国大学教授を経て東京帝国大学教授。
[19]
新村出 (1876-1967). 言語学者、国語学者。東京高等師範学校教授、東京帝国大学助教授を経て京都帝国大学教授。
「広辞苑」の編者として知られるが、キリシタン文学研究などに業績を残した。
[20]
高楠順次郎 (1866-1945). サンスクリット、仏教学者。東京大学教授などを歴任、「大正新脩大蔵経」を刊行した。
晩年には「知識民族としてのスメル族」という著書を出版し、日本民族もシュメール民族と関係があるという説を唱えた。
[21]
前田慧雲 (1855-1930). 浄土真宗本願寺派の学僧。東洋大学、 龍谷大学の学長を歴任した。
(2012.07.19 記)