「明日の日本と資源」という本は内容だけでなく、本そのものに価値がある

昭和28年9月に「明日の日本と資源」という本がダイヤモンド社から出版されている。総理府資源調査会事務局が編集したものだ。
資源調査会は昭和22年、敗戦後の日本経済を自立させるべく、総合的な資源の利用法を確立するためにGHQ顧問アッカーマン等の推奨で組織された。
当初は「資源委員会」として発足したが、昭和24年に「資源調査会」に改称されている。
同書に拠れば「新しい理念の上に立ち、新しい視角から資源の開発、利用のための科学的な方法を確立することをめざし」た会だ。

資源調査会はその活動の成果を、資源調査会勧告、資源調査会報告、データブック、資源調査会資料などの一連の刊行物で公にしている。
「明日の日本と資源」は、それらの資料を基に資源問題全般を概観する書として出版されたものだ。
国土の狭い日本の資源は限られている。しかし将来は人口の増加が当然予測されるし、経済の発展も必須課題である。
それに伴って必要になるであろう様々な資源の総合的な開発利用を科学技術の発達、国土の保全、将来の繁栄などの観点から広く扱っている。
最近言われる「エコな社会」にも通じる提言等考えさせられる内容もあり、そこで想定された未来よりもさらに進んだ現在読んでも面白いが、
この本の出版以後の技術革新と高度経済成長は、日本を予測できなかった方向に進ませたようだ。

だが、私が気になったのはそんな未来予測や提言の内容ではない。この本の奥付の最後に付記された次の一文である。
「本書の本文用紙は竹を原料とした紙を使っています(本書第一篇第三章「パルプ資源の開發」の項参照)。」

この本は竹を原料とした紙、竹紙で作られているのだ。
「明日の日本と資源」は、市販用のダイヤモンド社版の他に非売品の総理府資源調査会事務局版が同時に発行されているが、
事務局版の奥付にも同じ言葉が印刷されていて、ともにダイヤモンド印刷株式会社の印刷である。
竹紙は古い漢籍の料紙として接した経験はあるが、現代の竹紙で作られ、それを明示した日本の出版物に初めて出会った。

奥付に書かれている第一篇「日本の資源」第三章「天然の繊維から人造の繊維へ」とは、衣料を中心とした繊維資源の章である。
冒頭に「戰時中と戰後にかけて衣料の缺乏に苦しんだことは、まだ記憶に生々しい。」とある。
戦中は衣料繊維だけでなく製紙用パルプ資源も欠乏し、出版業界でも用紙制限令などにより統制が行われた。
その影響は例えば戦時中に号を追うごとに極端に薄くなり、さらには廃刊に追い込まれる雑誌に如実に見て取れる。

さて、第三章の「パルプ資源の開發」という項では製紙用だけではなく人絹やスフの原料としてのパルプ資源を増産する方法として
1. パルプ備林の造成、
2. 歩留りの良好なパルプ製造技術の開発、
3. 竹、ワラ等の非木材パルプ資源の活用、などが挙げられている。
この本は、竹パルプ資源の活用を単に提言するだけでなく、活用の成果を出版物という製品それ自体として世に問うているのである。

竹パルプについては昭和25年に「草本性パルプ資源活用に関する勧告」が資源調査会勧告第8号でなされている。
(この勧告書も竹紙を使用していると言う [1] のだが、私は現物を確認できていない。)
竹パルプ工業の育成については昭和24年春から資源調査会で議論されたらしい。
戦前、日本はパルプ原木の多くを樺太に依存しており、将来は台湾等の南方資源や満洲も頼りにしていた。
敗戦でそれらを失い、新たな資源開発が急務とされたのだろう。

竹で紙を作る、というのは特に目新しいことではない。
明治以前の和紙はコウゾ、ガンピ、ミツマタ等の靭皮繊維から作られるのが一般で竹紙は例外的だが、
中国では竹はむしろ紙の主要な原料の一つであり、江西や福建等で製造される竹紙は書籍用紙としても広く使われてきた [2]
現在も上記地域を中心に伝統的方法で製造されているが、生産量は少ないようで、
中国で書籍用としてどのくらい使われているかは分からないが、主流ではないだろう。
竹紙で作られた清代以前の漢籍は概して紙質が薄くて腰が弱く、劣化も進んで褐変し脆くなっている場合が多いので取扱いに気を使う。
私は竹紙というものは薄様のどちらかと言えば品質の良くない紙と思っていたが、竹紙すべてがそういう訳ではなさそうだ。

「明日の日本と資源」の本文用紙は同時代の一般書籍のそれと全く変わらない。
簾の目や透かしは入っておらず、一般の木材パルプの洋紙と肉眼や触感では区別がつかない。
既に半世紀以上経っているために、周辺がやや黄ばんではいるものの目立った劣化は見られず、むしろ良好な状態を保っているように見える。
端の切れて毛羽立っている部分から針で微量の繊維を削り取って顕微鏡で調べてみた。
繊維は直線的で表面は平滑、断面は円形で直径は 10-20 μm. 程度、全長を確認できた繊維(両端が揃った繊維)は数本しか無いが、およそ1ミリ強ほどである。
厚膜で中心に細い内腔があり、両端は針のように細くなって尖っている。これは竹繊維の特徴とよく一致する [3]
観察できた繊維は一種類のみで、木材パルプ等の他の繊維類は何も混ぜられていない、竹繊維100%の紙であることが確認できた。

「明日の日本と資源」で使用された竹紙がどこで製造されたかは、本自体には何も記されていないが、
大野氏の論文 [4] に拠って日東製紙萩工場で製造された紙であることがわかる。
委員会が竹パルプについて議論していた昭和24年当時、日本で唯一操業していた竹紙工場が日東製紙萩工場であった。
この工場は山口県が雇用対策として誘致し、昭和23年2月に操業を開始したというから、操業開始は資源調査会の勧告とは直接の関係はないのだろう。
最盛期の昭和27年頃には月産120トンを製造したという [5]
だが、原料の集荷が困難になった事や排水汚染が問題になったりで昭和36年には操業を停止、閉鎖されている。

日本で製紙原料として竹が注目、研究されるようになったのは明治以後のことである。戦前までの主な研究、製造史をまとめてみた。
(*) 印は柏木治次氏の「竹の紙」(月刊みんぱく ; 2009年3月号所収)、 (**) 印は日本綜合紙業研究會著「代用パルプの研究」(新民書房, 1941)に拠る。

明治21年頃には農商務省工務局の製紙試験場で竹紙が試験的に製造されたようだが [6] 詳細はよくわからない。
明治34年、東京農科大学でクマザサからパルプが作られたらしい。 [7] (*)
明治42年に二国三樹三によって研究された [8]。(**)
明治44年、三菱製紙が台湾に竹パルプ工場を作ったが、事業としては失敗し数年で閉鎖された。(*)
昭和初期、岐阜製紙工業試験場や香川工業試験場では竹を原料とするパルプ製造試験を行っていて、試験的には上質の紙の抄造に成功している。(**)
昭和5年、家田政男が岐阜に竹パルプ工場を設立したが竹林を全伐したため事業は中止された。(*)
昭和14年設立の新興パルプも竹を原料として製紙用パルプを製造したが品質は不十分であったという。(**)
昭和15年には北海道竹パルプ株式会社が画用紙や和紙を製造していた。(**)

昭和初期には、針葉樹パルプの不足による代用パルプ研究が盛んに行われていた。
これは製紙用パルプとしてだけではなく、人絹の原料として当時急速にパルプの需要が伸び始めたからでもある。
そこでは研究対象として桑、藁、タバコ、生姜 ... などの農産物(の収穫後の捨てられていた部分)から
フジ、ガマ、バショウといった野生植物まで様々な植物が取り上げられている。
その中の一部は実用化され、いくつかの工場が操業していた。竹パルプはその中の一つであった。
だが戦後竹紙を工業的に作り続けたのは日東製紙萩工場だけだった。
萩工場の閉鎖後、竹紙を製造する企業は現れず活用が勧告された竹パルプと竹紙は家内生産的な小規模なもの以外は生産されなくなったのである [9]

以前は建築用材や日用品の材料等で広く使われていた竹類は成長が速く、
材料としての需要が減った現在では管理されなくなった竹林が広がりすぎて問題になっている。
その竹の有効利用法として最近になって改めて竹紙が注目されつつある。
現在では中越パルプ工業等が竹紙を製造している。中越パルプ工業は
同社のサイト(2014年10月31日閲覧)に拠れば
1998年より竹紙製造に取り組み、2009年に国産竹100%の紙を製造、販売を始めたとある。
現在ではノート等も製造していて、竹紙を使った冊子などもいくつか実績があるが、一般書籍の本文用紙としてはまだ使用されていない様だ。

作家の水上勉氏も竹紙に惹かれ、自ら竹紙を漉いていた。
著書「竹紙を漉く」(文藝春秋, 2001. 文春新書 185)には17世紀に書かれた中国の産業技術書「天工開物」を頼りに試行錯誤をする様子が綴られている。
彼が主催する人形座の拠点であった一滴文庫にいた酒井由美子氏は完成した竹紙を使って「本邦最初の竹紙本をつくりはじめた」(p. 117) ともあるが、
私家本として「竹の花」などを少部数制作した以外には商業出版物として使用された様子はない。
もちろん上記「竹紙を漉く」は普通のパルプ紙で作られている。(繊維を確認したわけではないけれど、他の文春文庫と紙質は全く同じである。)

日本は高度経済成長期以降、木材パルプの多くを輸入に頼る事になるのだが、逼迫して困ったという話はあまり聞かない。
オイルショックの時、トイレットペーパーが無くなる、という噂が広がって買占め騒動になったことはあるけれど、実際は無くなりはしなかった。
人造繊維の主流が人絹からナイロンなどの石油系合成繊維に移ったのも一因だろうし、最近は故紙のリサイクルも進んでいる。
代替パルプとして戦中戦後に研究がすすめられた竹紙の製造はいったん途絶え、その後別の形で注目され製造が再開された、という事になる。

日東製紙の竹紙は包装紙や証券用紙などにも適した品質だったというから、かなり上質なものに違いなく、
「明日の日本と資源」を見てもそれは十分に確認できる。画仙紙等も作られていたらしいが、実物を見る機会が無い。
製造停止から半世紀経った現在、それと分かる形で残っているものはほとんど無いのでは、と思う。
書籍用紙としてどの程度使われたかも分からない。他に日東製紙の竹紙を使った出版物はどのくらいあるのだろう。
戦後、竹パルプの研究を進めた大野一月氏の論文には「本稿には特に竹紙を使用した」と記したもの [10] もあり、
探せば案外みつかるのかもしれないが、紙の繊維を調べる以外に簡単に区別する方法は無く、確認するのは容易ではない。
その意味でも「明日の日本と資源」の奥付に小さな文字で添えられたこの一文は、その本文の内容以上に注目しても良いと思う。

--- 注 (番号をクリックすると文中に戻ります)---
[1] 大野, 1955: 竹パルプ工業 : 勧告の背景と現状に就て. 其の二. (木材工業 ; 10 (2), p. 69)
[2] Christian Daniels, 1995: 16~17世紀福建の竹紙製造技術. (Journal of Asian and African studies ; no. 48-49, p. 243-294)
[3] 池田ほか, 2006: 竹繊維の鑑別と消費性能. (東京都立産業技術研究センター研究報告 ; 第1号, p. 10-13)
[4] 大野, 1955: 竹パルプ工業 : 勧告の背景と現状に就て. 其の二. (木材工業 ; 10 (2), p. 69).
  「竹パルプ勧告書」は晒粉二段漂白で、「明日の日本と資源」は三段漂白と言う製法で製造されていると言う。
[5] 昭和24年1月30日の読売新聞に、「同社[日東製紙]ではすでに二千万円で山口県と都内に工場を建設、日産4トンの竹紙を製作しているが
  将来は年産10万トンは生産できるといっている」とある。都内の工場がどこにあったか、特定できていない。
[6] 読売新聞1888年7月20日の記事を以下に引用する。(原文は旧字体)
  「製紙試験場 農商務省構内工務局の製紙試験場に於ては即今専ら原質の竹紙を以て頻りと試験漉立中なるが其の晒せしを見るに
  実に純白にして且原料最とも安価に仕上るといふ」
[7] 月刊みんぱく2009年3月号所収 柏木治次氏の「竹の紙」には「東京農科大学で小泉昇平氏がクマザサのパルプを作った。」とある。
  おそらくこの典拠と思われる1909年の小泉氏の論文「クマザサに就て」(北海道林業會報 7巻 3号)には
  「明治三十四五年頃東京農科大學ではクマザサの繊維より製紙原料用パルプを造ったことがあったが如何にも純白で而かも光澤を有し中々上等品であった、
  而し惜むらくは經濟上の關係が不利益なる計算であるとの事で本日も尚ほ其の以上研究されない様子...」とある。
  当時の農科大學學術報告等も可能な限り調べてみたが小泉氏が作ったかどうかは確認できなかった。
[8] 二国三樹三氏は明治42年東京帝国大学工科大学を卒業後、三菱製紙に入社、台湾竹パルプ工場建設に従事、勤務した。
  その後常務取締役から社長に就任している。昭和22年逝去。(製紙技術改善の歩み(19). 紙パルプ技協誌 ; 30(1), p. 3-5 による)
[9] 染色家で手漉和紙の工房を持っていた後藤清吉郎氏は 「竹紙に就て」(富士竹類植物園報告 ; 13(1968), p. 161-162)の中で
  「過去20年間に全国各地の漉場行脚をしたが、竹紙を漉く漉場にめぐり会わなかった。
  恐らく小さい私の工房が唯一の竹紙の漉場ではなかろうか。」と書いている。
[10] 日本農芸化学雑誌 31巻 10号掲載の論文「竹パルプ工業の育成と其の技術」の欄外脚注.
  この雑誌は大野氏の論文の掲載紙葉 (A117-124) だけ紙質が異なっている。
  繊維の確認はしていないが、この部分だけが竹紙と思われる。同号の他のページ(普通のパルプ紙)と比べると劣化は明らかに少なく、上質である。

(2014.11.04 記)