明治維新の頃、稀代の女傑と呼ばれた女代言人がいた

今では女性弁護士といっても特別に珍しくないのだが日本の法曹界への女性進出の歴史は新しく、
一般には昭和13年に高等試験司法科試験に合格した3人の女性、三淵嘉子 [1]、 中田正子 [2]、 久米愛 [3] がその嚆矢とされている。
それまでは弁護士はずっと男性限定の職業だったのだ。もっとも弁護士は弁護士法制定以前は代言人という名称で呼ばれていた。
明治5年、司法職務定制によって「訴ノ事情ヲ陳述スル」者として代言人が設けられるが特に資格は必要ではなかった。
明治9年には代言人規則が制定され試験による免許制になるのだが、その代言人規則には性別について何も明記されていない。
これは規則の不備と言うよりも、当時はこういう職業に就くのが男性である事は規定するまでも無い当然の事だったのだろう。
同年に出された「婦女ニハ免状ヲ与フベカラザルカ」という伺に対して「代言人規則ニ対スル疑義ニ付テノ司法省指令」には「伺ノ通」とある。
明治26年制定の弁護士法では「成年男子タルコト」と性別要件が明記され、男性の職業である事が法的に定められる。
この要件が昭和8年に削除された事によって女性にも門戸が開かれ、その後上記3人が初めて試験に合格したのである。
しかし代言人規則制定よりも更に前、明治維新まもない頃に唯一の女性代言人として名を馳せ稀代の女傑と呼ばれた女性がいたらしい。
その名前は園輝子と言う。

園輝子の名前を知ったのはずいぶん昔、20年以上前になる。当時、国際日本文化研究センターで洋書の整理を担当していた。
センター創設と共に数万冊の日本関係の資料が蒐集されていたのだが、その未整理の資料の中に彼女の自伝
"Tel Sono, the Japanese reformer : an autobiography" (New York : Printed by Hunt & Eaton, 1890) があった。
新書版ほどで70ページたらずの薄い本だ。扉写真にある左手に本を持った和服で立姿の女性が著者 Tel Sono [4] である。
明治時代に単身アメリカに渡った上に英語で自伝を出版した [5] 程の女性だから少し調べたら素性はすぐ分るだろうと思ったのだが
机上の人名事典、例えば「日本女性人名辞典」や「海を越えた日本人名事典」等をいくつか調べても該当する人物が見当たらない。
さらに大きな事典や当時の人名録等も調べたが掲載されている資料を見つける事はできなかった。 [補注1]
(現在に至るまで彼女を収録した人名事典を知らない。またネット上でも彼女の生涯についての情報はほぼ無いに等しい。)
当時あれこれ探して「明治ニュース事典」に「園輝子」という女性の記事を三つ見つけた。これが彼女を調べ始めたきっかけだった。

以下、当時の新聞や雑誌記事の引用は原則として新字体にし、一部現代仮名遣いに改め、句読点を適宜補った箇所がある。
送り仮名については「所ろ(ところ)→所」、「今ま(いま)→今」など、ある程度現代の用法に整え、明白な誤字は訂正した。
また、輝子の名前を「てる子」「照子」等とする表記も見られるが「てる」の漢字については「照女」などの表現も含めて「輝」に統一した。
「明治ニュース事典」にあるのは次の三つの記事だ。

女代言人の氷店
女代言人の雷名轟く浅草並木町園輝子の氷店 [6] ではこの頃の大暑で、去る十七、八の両日の氷水の売れ高が五十七円八十六銭七厘あったそうだ。
(1876年7月22日、郵便報知)
一時世間に名の渉りたる女代言人園輝子は代言人規則発行の後、更にその業を廃しその鬢髪も流行の大曲髷となし、
大渡辺小太郎 [7] に従い、日本外史、史記等の口説を受けるよし。しかしこのたび馬術の師草苅氏 [8] が飯田町に曲馬を演ずると、
初日に行って総花を打つなど、姿は巾幗[おんな]たれども志は何処やら干顋[おとこ]らしく思われます。
(1876年11月15日、郵便報知)
倚松園女塾を管理、近く開塾
今回麻布仲の町に新設したる倚松園女塾は、去る明治十八年米国に留学し、爾後九年間欧米各洲を歴遊して、
女子教育の方法を実検したる園輝子女史の管理するものなり。その学科は読書、習字、作文、算術、英学、家計簿記、修身、家事経済及び
衣食住に関する事、衛生及び育児法の要旨、礼儀法、和洋裁縫、和洋料理等にて、和歌及び挿花の類は望みによりて教授することとし、
九月十日開塾のはず。
(1894年8月18日、毎日)

どうやらこの園輝子が Tel Sono で間違いなさそうだ。だが不思議な事に記事の内容は彼女の代言人としての活躍についてではない。
どんな女性なのか興味を持ったので上記の自伝をあらためて読んでみた。
その自伝から手掛かりになりそうな事柄を中心に彼女の前半生の概略を抜き出してみると ...

家柄は代々裕福で祖父は "Moan Waka Sono" [9] と言い名古屋に住んでいた。
祖父には歌人の長女、医者の長男、軍師の次男、医者の三男がおり、輝子は三男の娘である。
父親の名前は "Tesai" [10] と言い、東京で医者をしていたが輝子が生まれてすぐ茨城に移った。
輝子は四人兄弟の二人目で男兄弟は医者、妹 [11] は女学校の教師だが、その学校は自身が設立した地元で最初の女学校である。
13歳で輝子は父親から和歌を習い始めた。輝子は19歳で結婚した [12] 。その翌年(1866年)、住んでいた町 "Manaba" で反乱 [13] が起きた。
夫はやがて酒におぼれたため3歳になる娘をつれて実家に帰った(1871年5月2日)。
そこで学校を作り3年ほど教えたが、将来や娘の教育のことを考えて法律の道に進むことに決め娘を残して東京に出た。
三ヶ月ほど代書の仕事をしたのち代言人の仕事を始めたが、女性代言人は彼女一人だけで裁判所に向かうと彼女を見る人垣ができた。
この頃、"N. Ohash" と "S. Keta" の二人の詩人が "Tokishensh" [14] という本に女性代言人の事を書き、彼女の名前が日本中に知られるようになった。
代言人の仕事を12年続けたが [15] 女性の教育向上が大事だと思うようになり、女性の地位が高いアメリカで勉強しようと考えた。
アメリカに向けて出航したのは1885年12月19日、サンフランシスコには翌年1月7日に到着した。
自伝には輝子が日本を離れる時に決意を詠んだ歌が二首挙げられている。

動かじなこの身を千々にくだくとも國にちかひし大和こころは
外国の露とこのみはきゆるとも意むなしくたちかへるべき

自伝に書かれているアメリカでの生活については省略するが到着3ヶ月後に資金を預けていた日本の銀行が破産したため [16] 苦労したが、
牧師 "Meyama" [17] 氏等の世話になり、下女として働きながら初等教育から始めて幾つかの学校に通った。
その当時世話になった人物として Mrs. E.P. Keeney, Mrs. K. Waterman, Mrs. Reid, Mrs. M.E. Harris 等の人物を挙げている。
1889年4月には Woman's Christian Temperance Union (WCTU) [18] に加入する。
1889年5月に Chicago Training School [19] (校長は Mrs. L.R. Meyer)に加わるためにシカゴに移るが
その際、WCTU の会長 L.M. Carver がユニオンシグナル(6月13日)に輝子の記事を書いている。
1889年の11月までシカゴにいたが、その後ブルックリンの Missionary Training Institute [20] (Mrs. L.D. Osborn が校長)に移っている。
1889年のクリスマスには洗礼を受け Japanese Mission of Methodist Episcopal Church に加わっていて、サンフランシスコに戻っている。
そして最後にこう書かれている。「私の計画は故国にクリスチャンの学校を建てる事。」

この本 [21] の巻末には輝子が書いたパンフレットが貼付されているものもある。1892年頃書かれたものと思われるが、
学校設立のため基金を集めるための「Tel Sono Association」の会則や役員の名前 [22] があり、賛同者のメッセージも添えられている。
その中には "Teijiro Kito" [23]、 Mrs. A.J. Gordon [24]、 William Elliot Griffis [25] 等の名前が見える。
また、この自伝はイギリスの Parents' Review [26] という雑誌にも1893年に転載されていて、基金を募っている事も付記されている。

いくつか書かれている年号と年齢から判断すると彼女は1846年の生まれということになる。
自伝にある祖父や父親の名前の漢字が調べてみても分らなかったのだが、自伝や新聞記事を読む限りはなかなかの偉人ではないか。
なのになぜ彼女の名前が事典類に収録されていないのだろうか。この学校は、そして彼女はどうなったのだろう。改めて調べて見た。

1886年1月22日の読売新聞に輝子渡米の記事がある。
「園輝女洋行。奇婦人を以て称されし園輝女は今度感奮せるところ有って米国へ渡航し学業を収め女子教育法を研究し
帰朝のうへは女子の地位を男子同等に進ませるの覚悟なりと。」

1894年9月16日の同新聞には開塾の記事がある。 [27]
「倚松女塾の開塾式
麻布仲町に設置したる倚松女塾 [28] は昨日午後一時を以て開塾の式を挙げたり。
先ず牧師の祈祷あり次に呉大五郎 [29]、 渋沢栄一 [30]、 美山貫一氏の演説あり。
最後に塾主園輝子氏は同塾設立の趣旨及び米国留学中の困苦より欧州漫遊の実況を述べ之にて式全く了り茶菓の饗応あり。
夫より來賓一同を楼上に案内し欧米より持来りたる珍草奇木、玉石其他雑品及び風景人物等の写真を縦覧せしめたり。
来会者の重なるものは土方 [31]、 大越 [32]、 浜尾 [33]、 等の各夫人、津田梅子 [34]、 渋沢、津田仙 [35] 等の人々なりし。」

「奇婦人」と言う紹介が気になるが、開塾式の来会者を見ると錚々たる人物が並んでいる。
だが開塾の式典で「珍草奇木 ... を縦覧」とはちょっと奇異な感じがしないでもない。
1915年3月14-18日の同新聞に「日輝法尼」という連載記事がある。彼女の晩年までのおおよそを知ることができる。

「日輝法尼」(1)
本門寺の境内に幽邃なる右松庵
ここは府下池上本門寺境内で御座います。幾百年の齢を経し松杉の大樹森々と聳え立つ間を香の煙のさながら羽衣の棚曳くようにうっすりと
静に縫ひ廻っている幽境を、右に進んで山の中腹に降らんとする途中、右松庵 [36] と門札うった瀟洒にして言い難き一種の趣ある家があります。
之ぞ園権大納言の後裔で一代の女傑として日本はおろか欧米の隅々迄名声を轟かした園輝子刀自、今は世俗と縁を断ち切った日輝(69)法尼が
晩年の住家でございます。家の後をぐるりと廻って山の襞目を降り台所口から訪うと庭伝に縁に廻されました。やがて奥から「私がその園ですよ」と
声もろ共ガラリと硝子障子を開け凝っと視線を注がれた老尼、五十七八歳にしか見えぬ上に壮者にも見られぬ白き豊頬の艶々しさ、身には純白の
ネルの着物に同じ羽織、爽やかな張りのある声、浄地に匂う白木蓮の化身の出現ではないかとしみじみ記者は見上げました。
「遠慮する事はない、ずんずんお上がり」といいながら、二十余畳押し開いた座敷の火鉢の前に導かれました。
南の縁側のガラス障子越しに荏原郡一帯が広々と展開している。
庭から坂をなして梅樹満開、鴬の声が其処此処に聞える、「どうだ実によい処だろう」と住みなれた法尼でさえ今更のようにいわれました。
法尼は貴顕名門の交友が多く、二三日前も女官小池道子 [37] 女史から「いとまあらばそのふの松のかをとひて高き教をきかましものを」という一首を添えて
茶と菓子を送り越されたが「たまはりしお茶のかをりをききながらいただく菓子の味は又妙」と誠に淡々たる風、
けれども追憶の糸をたぐれば流石勃々と血潮は湧き立ち物語は縷々尽くべくもありませんでした。
法尼即ち輝子は医者園貞齋の長女、常陸土浦に成長しましたが、幼時から異才はあらわれ地理学者として名高く現に芝公園にその碑が建てられている
伊能忠敬 [38] がわざわざ園家に行って「花匂う末の栄ぞ思はるる今日尋ね来し園の撫子」と嘆ぜられた程でした。
輝子は十八歳の時ある藩士に嫁ぎました。間もなく廃藩置県の大変革で士族は禄の代りに一時金をして公債証書 [39] を与えられました。
所謂士族の商売で何れも失敗、輝子の夫も此仲間に入りかかった時「先祖のお庇で頂戴した公債を消費し、家を亡す様な事があっては妻として
家を治めている私が申訳が立たぬ、公債に手をつける位なら離縁して下さい」と抗議したが、矢張り支え切れず輝子を離縁という事になりました。

「日輝法尼」(2)
派手な姫様代言人輝子洋行を企つ
離縁された時輝子は豊子という三歳になる娘を連れて生家に帰りました。
此の娘こそ今の海軍軍医大監中島彜雄 [40] 氏夫人であります。生家は豊ではありませんでした。愛子の教育のため、又、自分の発展のため何か
一仕事をせねばならぬ、それには東京に出て勉強するより他にはないと輝子は考えました、両親は之を許しません。
輝子は妹春子と机を並べて習字をしている時、妹の草紙へそっと「私、東京へ行こうと思ふが春ちゃんはどう思って?」、
妹は大賛成「私も行きたい」と書きました。両人脱走の約束が成立した、二三日後それは丁度日本で始めて戸毎に国旗を掲げた日でした。
見物にかこつけ二人は家を抜けて常陸よりとぼとぼ浅草の知人を頼って来ました。間もなく追手が来て両人は国へ連れかえられました。
豊子は母の輝子を見て嬉しさの餘り泣きつきました。輝子も此の可愛い子を置いて何処に行かれようと泣いて泣いて涙の泉が枯れました。
然しよく考えて見れば目前の事に負けて大事な将来の計を破ってはならぬと今度は只一人、一通の書置をあとに一円余りの金を握って再び出京しました。
そしてある人の世話で代書から代言人仲間に入る事になりました。
初めて仲間に挨拶に出た時の輝子の扮装は、小倉袴に靴、髪は束髪でした。日本婦人の束髪の元祖 [41] は輝子で、又、日本婦人で代言人になったのは
後にも先にも此の輝子一人であります。弁舌爽かに論旨堂々たる「お姫様代言」如何ばかり満都の好奇心をうならせた事か、輝子は代言をして
巨額の金を握ったが [42] 元来無欲で只一片稜々たる侠気に燃え立っていたので、義の為には惜しげもなく金を撒布しました。
此の時東京は桜花の如く華やかに潔よき江戸気質が衰滅の時でした。輝子はいよいよ江戸人最後の打留としてぱっと現はれた女王の如く輝き、
満都の人気は輝子一人の為に華麗爛熟の極に達しました。
その頃輝子は本所の草刈庄五郎という馬術の名人に弟子入りしていました、お召縮緬の羽織に仙台平の袴、馬上豊に紫縮緬の手綱をかいとりながら [43]
市中を行く輝子を人々は追い駆けて見物しました。立寄る茶屋ではお大名を迎ふる格で之に対しました。
鳶の者などは輝子の為めとあらば瞬く間に数百名、輝子の前に勢揃いをするようになっていました。
中江兆民 [44] や風月堂 [45] を首め名高い人々で輝子の世話になった人も非常にあり風月で毎年輝子に餅を送る例は此の時からです、
そうこうしている内に輝子は己が義侠心によって瀕死の処を救った渡邊丈太郎 [46] という男と結婚しました。
渡邊は妻に命を助けられ、妻に法律学校へ通わされた、妻の助手とされた、万事頭の上がらぬが非常な苦痛、遂に放蕩を始め夫婦別れとなりました。
間もなく弁護士規則が出来て婦人弁護士は廃止になりました。
輝子は多くの裁判に立ち会って日本婦人の悲惨な境遇を知り心ひそかに泣いていました、何よりもしっかしした女子教育を隆盛にせねばならぬと
茲に洋行を思い立ち慶応義塾の福沢諭吉 [47] 氏の処へ相談にまいりました。

「日輝法尼」(3)
一代の女傑輝子も米国で下婢となる
福沢諭吉は勿論輝子の洋行には大賛成でした。輝子は此時三十八歳、英語は一字半句も知りませんでした。
若し其の望みが達せられなかったら再び日本の地を踏まぬという誓を立て愈二三ヶ月後に出発する事に決しました、
処が福沢氏は其の翌日の新聞に、直ぐに輝子が出発する事を掲載 [48] しました。
之を見た輝子は「ははあ之は自分が女だからどんな事で挫折せぬとも限らぬ、
早く出発せよという催促だ」と見てとり直に支度にかかり巨額の貸金の証文は洋行祝いとして熨斗をつけて返し、自分はたった百九十円を懐にして
明治十八年十二月十九日勇心勃々遥か北米の空を望みつつ太平洋の波涛に乗り出でました。
流石故国の懐しさよ。気丈の輝子も甲板の欄に椅った儘、次第次第に青い浪の裡に沈み行く陸地に名残を惜しむのでした。
観音崎の灯台をみてはライトハウスと叫ぶ、朝起きるとグッドモーニングという、それら外人の言葉を輝子は吸い付けられるように熱心に耳を傾け、
桑港に着した時には朧げながら一通りの会話が出来る様になりました。
桑港に着するや牧師美山貫一氏の世話で、やっとの事南京町の床下の暗室に部屋を得、此処からある家庭へおさんとして一週間二弗の割で
朝六時から八時迄通勤する事 [49] になりました。南京町といへば不潔と罪悪の巣です [50] 、此る中に輝子は平然として、夜になると、
四書の講義を聞かせていました、日本では一代の侠客新門辰五郎 [51] を辰や辰やと頤使した輝子は、米国に於いて石炭砕きに迄なって苦しみながら
小学校を卒業しました。それが四十二歳の時です。卒業後輝子は桑港婦人会、即ち園輝会を創立しました。藤井領事 [52]、 早川鉄冶 [53] 氏を首め丁度
其時鉄道視察の為め渡米された奈良原繁 [54] 氏の外土方久元伯も輝子が帰朝後の計画を聞いて非常な感動、夫々助力する処がありました。
殊に土方伯はかつて東京で「心あらば人に見せばや金座の朝日ににほふ園の梅が枝」と輝子を賞賛された人、今又万里の異境に於てかくも
赫々と輝く有様と見てその喜びは一通りではありませんでした。輝子は一流の演説家、園輝会の会長として米国に名声を博したが、
まだ修行不足との事で市俄古[シカゴ]の教育学校へ入学しました。之からも輝子の朝日の登るが如き生活が又もや異域に於て開かれます。

「日輝法尼」(4)
大統領に玄関まで送り出された輝子
明治二十二年四月二十七日市俄古にまいりましたが餘り感心出来ぬ学校だったので、紐育[ニューヨーク]に転校しました。
前後四年間苦学時代の自叙伝は此校にいて書いたもので、無上の歓迎を受け、総売上高一万一千円に達しました。
紐育滞在中輝子は毎日平均三ヶ所の演説会に臨み時には数万の聴衆を相手にした事もありました。
輝子が世界婦人矯風会 [55] 参列の為ボストンに行った時、満都の歓迎の光景は実に前代未聞で、
現外国語学校教授村井知至 [56] 氏の如きはそれを目撃し驚嘆の声を放った一人であります。
輝子其時の扮装は黒緞子の着物に黒緞子の袴、中央に日の丸をそめ出した幅二尺五寸長さ四尺の「バンナア」を捧げて進んだのであります。
猶ほ輝子の最大名誉は華盛頓で「レセプション」の式を受けた時 [57] です。此式を受けたさに欧米貴婦人は数万の金を投じて運動し
やっと思を果すのです、我遣米大公使でさえ受けた事が無い処へ輝子は式の正面に着席、鞠躬如として進む各国大公使に握手を与えたのであります。
それから大統領訪問、大統領にわざわざ玄関まで見送られたのは今日迄の日本婦人では輝子一人です。
輝子は自分が学んだ学校に「プアクロゼット」の制を遺し貧民救助の便を立て
園輝会より年々六千円づつ日本に於て輝子設立の学校へ送金する約束を結んで英国へ渡りました。
英国の公使館に着するや大演説をして時の公使即ち今の枢密顧問官河瀬真孝 [58] 氏をはじめ領事大越成徳、佐藤愛麿 [59] 諸氏を感嘆させました。 [60]
在欧七ヶ月、殆んど足跡の至らなかった処はありませんでした。 [61]
英国を後に懐しき日本に向かって出発したのは明治二十六年九月一日でありました。
神戸に着するや先づ愛嬢中島豊子へ打電、押しつぶされんばかりの出迎に囲まれて着京するや先ず福沢諭吉氏に対面、
苦学八年の物語に流石の輝子も思わずホロリと涙を落したのであります。
やがて輝子は麻布に倚松園女塾を建立し日本女子教育に一身をゆだねる事になりました。

「日輝法尼」(5)
世人の嫉妬に呆れはてて隠遁生活
女の腕一つでこれだけの大成功は不思議である!と実際輝子の人物を知らぬ上に嫉妬心の手伝った宗教家達は輝子が目障りでならぬ、
そして遂に己が同胞の一婦人を詐偽者であるかのやうに外国に対して忠義顔に種々申送り、米国の園輝会を解散し輝子への送金を杜絶させ、
又此方の新聞社をおだて上げて輝子の名誉を傷つけたのであります。
そこで輝子は法廷に訴へその新聞社を閉鎖させると同時に名誉毀損の謝罪をさせた [62] のであります。
然し何と申しても維持費が出なくなったので余儀なく塾を閉じて仕舞ました。 [63]
此時宮中に奉仕する事をしきりに勧めた人もありましたが、輝子は「自分は生涯、民間で心も身も自由勝手で通したいから」と断り
伊豆伊東に退き七百六十円で土地を求め八間四方の二階家を造って伊東婦人会 [64] を興し大活動を始めましたが、
まもなく輝子はその土地と家を五千五百円で売り払い池上本門寺に来て今の庵を建てたのであります。
財産全部を渋沢栄一氏に託し [65] 自分は黒髪を断って常寂院日輝法尼となり、朝夕静かに行い澄まして居ります。
金の心配は少しもない、世俗には一点の執着もない、今は悠々寂々毎日古今東西の書を読み耽るのが仕事、
又何よりの楽みは人や世の為に尽す事です。本門寺大客殿の新築往き悩んだ時など真先に百五十円を寄付し続いて一万五千円の借金の世話、
松苗千本の寄進、又土地の学校へ百五十円の寄付、貧民生徒の毎年教科書贈与、其他赤十字、愛国婦人会、日清日露戦役軍需品寄附等 [66]
公私の義捐数限も有ません、法尼は人を助けても決して礼を望まない、「私はあなたが心から喜ぶのが嬉しさにお助けするのです、
あなたの喜び顔が私への何よりの感謝です、お心はわかっているからお礼の手紙など送らぬよう」と必ず申されます。
それでも礼状をよせて来ると「私があれ程云ったのに、無駄な事をする人だ」と不機嫌です。
一昨年十二月のある朝の事でした。広い平野を見渡しながらいつものように庭前をゆきつ戻りつしていますと
何とはなしに一種の感に触れた、それからどうやら心気に変動がありましたので之を上人に計った処が
「一心不乱に法の道を辿っている者でさえその霊感を得る事は容易でないのです。貴女は悟を開かれたのです。」
と感嘆せられたのです。法尼は境内に自分の墓迄建てて居ります [67]。 全く楽園にある如く日々を楽しんで居ります。
そして時々只一人諸国遍歴を思い立ち悠々その心霊を大自然の威力と融合させては愈深き修養の道を進んでおられるのであります。[終]

さらに同新聞1916年3月27日にも園輝子の記事がある。
明治の女傑の寿筵 我国女代言人の元祖 博士も八百屋の爺さんも同じ食卓
府下池上本門寺境内に悠々余生を楽しんでゐられる日輝法尼事園輝子刀自(70)の延命祝賀会は小谷部博士 [68]、 等主催の下に二十六日午後一時より
池上小学校に於て開かれました。刀自は昨春「日輝法尼」の題にて本紙に掲載した通り園大納言 [69] の後裔として常陸土浦に生れ
十四才の時地理学者伊能忠敬より「花匂ふ末の栄ぞ思はるる今日尋ね来し園の撫子」と称えられたに対して即座に
「里馴れぬ谷の鴬巣を出でて博士の君に逢ふぞ嬉しき」と返歌して驚嘆させたのであります。
十八歳で嫁し一女を挙げたが故あって破鏡の嘆に会してより出京して女代言人となったが之れは我国女代言人の元祖であります。
女ながらも侠と義の権化かの一代の侠客新門辰五郎さへ「辰や辰や」と呼ばれながら刀自を敬ひ参じて居った有様です。
小倉袴に西洋靴唐人髷を結って紫縮緬の手綱をかひくりながら馬を進める輝字女史の姿を見ると人々は「園女史が園女史が」と嘯きながら
道を開いて後姿を見送る程鳴り轟いたものでした。
明治十八年女子教育研究の為洋行を決心し日本の金を費さずに外国の金で勉強し其上どれだけ婦人の力の偉大なものであるかを
試みて来て下さいといふ餞別の言葉を受けて飄然として先づ渡米し女中奉公よりはじめて八ヶ年辛酸を尽し四十二歳の時基督教婦人矯風会に入り
続いて桑港婦人会、園輝会を起し、欧米貴婦人すら容易に叶わぬ大統領のレセプションの式を受け、それより欧洲各国を遊説し明治二十七年明治唯一の
女傑といふ賛辞を浴びせられつつ帰朝し、翌年松園女塾を開き年来の志望通り女子教育に従事し初めたが邦人基督教信者と衝突するに及んで
隠遁を思ひ立ち、三十七年本門寺の丘の中腹、品海を一望にあつめ得る処に間口六間奥行四間の庵を造りその心神を天地の霊気に融合せしめつつ
朝夕を長閑に送って居られるのであります。
人に慈愛をかくるが何より楽み、昨日の祝賀会の如きもその隠徳に浴した村民や小学校生徒数百名が会場に集まって刀自の来場を待つ、
一方刀自は寓居友松庵に出入の大工、経師屋、鳶者、女中等を呼んで日頃の厚意に対する感謝として金包を分って居られる。
祝に来た八百屋の爺さんも主催者の小谷部博士も一所になって働きそして同じ食卓を囲んで赤飯を食べてゐる和気藹々たる様のめでたさ。
やがて刀自は渋沢男より祝に送られた薄藤羽二重の下に白無垢、黒縮緬の被布という扮装で会場に出ると一同君が代の合唱、それから
池上小学校長、本門寺執事、有志諸氏の祝辞や諸方よりの祝歌披露の後、小学校生徒の唱歌、松村介石 [70] 氏の講演及び教談師野口復堂 [71] 氏が
刀自一生の物語をなしたあとで刀自の懇なる謝辞があり午後五時閉会いたしました。
知己やら村民が一致して慈母の寿を祝ふが如く心から打ちとけて働き喜び合った純朴にしてあたたかな会は稀に見る処でございました。

さらに1919年2月10日朝刊の記事。
米国で憲法発布を聴く 婦人最初の洋行者たる日輝法尼
日本婦人最初の洋行者として昔時は女弁護士までされた園輝子さんは池上本門寺に友松庵日輝法尼として行ひ澄して居られますが、
九日幸路を踏んでお訪ねしますと卅年前憲法発布当時の思出を語られる。
憲法が布かれてもう卅年経ちますかねー,左様左様私は丁度市俄古の学校にゐた時でしたよ。貴女のお国にも憲法が布かれたというて
私が平常を知ってゐる友達は何れも祝ってくれましたが,何しろもう私は浮世を離れて了ったので昔日のことはよく覚えてはゐません。
ただ当時不幸にして家庭から離れた私は我日本と外国との婦人の権利が大分異ってゐるといふ点から、
それには屹度其処に根本的に何か異った女子教育の大きな力があるに違ひない、其処を一つ研究して見たいと思って外国へも行ったのでした。
其前ですか、エー、私は矢張り恁うした気質で優しい文芸よりは政治的な方面に熱を有ってゐたのですが、
何も自ら社会に立って政治運動を致さうといふやうなことは好みませんでしたし又当時それ程の心の余裕よりも自分を修めることに匆忙だったのです。
其当時の婦人ですか、いえもう何も記憶は残ってゐません私が最初目覚めて手を取って貰ったと思ふ人は
岡松甕谷 [72] 先生でそれから福沢諭吉先生です。
福沢さんは私が洋行する時、婦人が洋行の皮切りとしては大賛成だがどうか今迄の男子の洋行のやうに徒らに日本の金を捨てて来ずに
無一文で行っても大に釣銭を有って来るやうにしてくれ...とのことでした
当時英語のいろはも知らない私に左様した大任をどうして果せやうかと思ったのでした
又今考へると随分大胆不敵な者だったので、それから八年間亜米利加で苦学した事は数限りもありませんが、
兎に角帰朝た時に、再び福沢さんに逢って其逐一の談をすると福沢さんは丁度廿分許りただ黙って私の顔を凝視めてゐられたが、
やがてイヤ、それでは吾々男児たるもの誠に恐縮の他はない... との御言葉でした。
左様、大山夫人 [73] や瓜生夫人 [74] の洋行は私より一年半程晩かったでしたらう」と日輝法尼は全く浮世を忘れたやうでした。

輝子に関連する事柄と共に簡単に年譜をまとめてみた。(一部年齢から推定した年がある)
西暦(元号)年齢
輝子の足跡 [関連事項]
1846 (弘化3) 医師園貞齋の娘として江戸で生まれ土浦(茨城県)で育つ。
1865 (慶応1) 19 歳 結婚 (ただし結婚は1863年の可能性がある)。
1871 (明治4) 25 歳 離婚して実家へ帰る。[津田梅子ら渡米]
1874 (明治7) 28 歳 この頃まで茨城で教師をしていたが上京、代言人となる。その後再婚しているが弁護士規則ができる前に離婚したらしい。
1876 (明治9) 30 歳 代言人規則制定後は浅草で氷屋を営業したり、渡辺小太郎の許で学んだりしたらしい。[代言人規則制定]
1885 (明治18) 39 歳 12月、渡米。
1886 (明治19) 40 歳 1月、サンフランシスコに到着。[東京婦人矯風会が結成される]
1888 (明治21) 42 歳 アメリカで小学校を卒業する。
1889 (明治22) 43 歳 4月、Woman's Chrisitan Temperance Union に参加。その後シカゴ、ニューヨークへ。
1890 (明治23) 44 歳 アメリカで自伝を出版。
1891 (明治24) 45 歳 11月、ボストンで行われた WCTU の大会で演説をする。
1892 (明治25) 46 歳 この頃、WTCU で盛んに演説をしている事がワシントンポストなどの記事に見られる。
1893 (明治26) 47 歳 1月、渡英。9月に帰国の途に。
1894 (明治27) 48 歳 9月、倚松園女塾を開塾。
1898 (明治32) 52 歳 伊豆で伊東婦人会を開く。
1904 (明治37) 58 歳 本門寺に隠遁。
1916 (大正5) 70 歳 古稀の祝賀会が催される。
1925 (大正14) 79 歳 この時点で生存。

輝子の自伝や読売新聞の日輝法尼の記事を読む限り、彼女の人生は
「大志を抱いて渡米し苦学、帰国し女子教育を志すが、あらぬ妨害を受け断念せざるを得ず出家して余生を送った女性」といった感じだろうか。
親分肌で行動力はあったが女性である彼女が活躍するには生まれた時代があまりに早すぎた、といった印象も受ける。
だが自伝にはちょっと眉唾くさい逸話もあってちょっと風呂敷を広げすぎているようにも思えるし、
アメリカでキリスト教の洗礼を受けた人間が後に出家するというのも奇妙な話だ。本当の姿はどうだったのだろう。

毎日新聞の1886年7月10日に「在桑港日本人」という記事があり、輝子渡米の頃のサンフランシスコの日本人の様子が窺える。
それに拠ると当時のサンフランシスコ在住の日本人は数百人程度だったらしい。学生は20人ほど、それ以外は殆んどが労働者であり、
しかも条件はかなり悪かった。経済的にも精神的にも彼等のよりどころとなったのが教会であり、美山貫一らの福音会がその中心であった。
宿の世話などもしており、キリスト教徒であるかどうかに拘らず何らかの形で福音会とつながりを持つ者が多かったようである。
その福音会の記録をまとめた「福音会沿革史料」でアメリカでの輝子の様子を知る事ができる。
輝子が渡米以前からキリスト教に関心があったかどうかは分らないが、自伝の中では幼少時から偶像崇拝などはしなかった、などと
進歩的な面を強調しているし、渡米前、日本での宣教師の活動などから海外の教育事情等を知ったようだから、
案外すんなりとキリスト教になじんだのかも知れない。

「福音会沿革史料」には1886年9月11日の例会で園輝子が演説したとある。また、1889年3月16日には
「此夜婦人慈善会ありしを以て例会を開くこと能はず。慈善会は其第三回にして司会者は園輝女史なり。
之より益其働を広くせんとの企てにてミッセス・ハリス以下数人婦人の演説あり。頗る盛会なりしが恨くは少く不規則に流れ
会衆をして満足して散解せしむること能はざりき。然れども将来の望は甚だ豊なりと謂うべし。」と書かれている。
また、この日の事を伝えた桑港新聞記載の記事として
「会主園輝女史が例の滑稽を以て本国女子の情態より男女同権の困難を説き、自己の経歴と将来の希望及び婦人慈善会の目的は
善良なる婦妻君を養成するにありと論ぜり ... 最後に山口肇は大いに「会主が滑稽を以て落語家然たるの演説は最も不都合の極なり」と説き
一時は非常の混雑を生ぜしが、ハリス婦人の頓才奇語に依て波瀾を生ぜず閉会す。」とある。
輝子の演説は代言人時代に鍛えられたものに違いないが 「滑稽をもって落語家然」と評されているところを見ると
理路整然と自説を展開、説得するような物ではなく、かなり俗っぽい大衆受けする漫談のような物ではなかったかと思われる。
輝子の記事はこれだけであり、福音会とはやや距離を置いていた可能性もある。

自伝にもあるように輝子はアメリカで WCTU に参加している。
1886年、WCTU のレヴィット(M.C. Leavitt)が来日し各地で講演を行ったのをきっかけとして日本でも東京婦人矯風会が結成される。
1887年にはアメリカ留学中の根本正を介して東京婦人矯風会の設立を WCTU の会長ウィラードに報告している。
1893年には各地の矯風会の全国組織として日本基督婦人矯風会が設立された。(現: (財)日本キリスト教婦人矯風会)
輝子が渡米し WCTU に参加、活動し始めたちょうどその頃に日本でも急速に婦人矯風会の運動が広がることになる。
日本基督婦人矯風会は1888年には機関紙「東京婦人矯風会雑誌」を発刊する。
後に「婦人矯風会雑誌」、「婦人新報」と誌名を変えながら活動を拡げ、多くの活動家が寄稿しているのだが
その総目次(復刻版. 不二出版)を調査したけれどこの雑誌に帰国後の輝子が寄稿している様子はない。
「日本キリスト教婦人矯風会百年史」にも輝子の名前は見当たらない。
また婦人矯風会は各地で会員らが演説会を開いているが、演説が得意なはずの輝子が日本で盛んに講演した様な記録は見当たらない。

輝子の渡米中から帰国直後にかけての時期にリアルタイムでその消息を伝えた雑誌に「女学雑誌」 [75] がある。
その記事を読んでみると、どうも様子が違っているのだ。主な記事を追ってみる。

162号(1889年5月18日)に、輝子が米国桑港日本婦人慈善会でナイチンゲール伝を演じたという短い記事がある。
調べた限りではこれが彼女の名前が見える最初の記事である。また166号(1889年6月15日)には「園てる子女史」と題して
「同女史は長く当地に在りて勉強し、且つ婦人慈善会等のために尽力し居られたりしが今度シカゴなるジャコネツスクール [76] に入学の目的にて
昨九日当地を出発せられたり。卒業帰朝の後は専ら我邦婦人社会に働かんとて熱心し居られる由(ザ・スチーマー六月分)」 [77] とある。
滞米時の輝子の消息は初めは海外事情を伝える「外報」として短く伝えられるに過ぎない。
それも日本では名前があまり知られておらず、なんだかアメリカでがんばっている日本人女性がいるらしい、といった感じである。

172号(1889年7月28日)では以下のように比較的詳しく紹介されている。
「日本改革者園てる嬢と題して、去六月十三日のユニヲン、シグナル雑誌に米国サンフランシスコ婦人禁酒会頭カルバー夫人が記載せられたるものを見るに、
嬢は日本上流の人の子にして、父は医師たり、身らは代言を業としたるが、本邦に在る間だ宣教師等の景況によりて略ぼ米国の情実を推知し、
五年前即はち千八百八十五年十二月断乎独行して彼国桑港に渡り、先づ支那日本美以美伝道会社に行き、宣教師マスター氏 [78] の保護を受たるが、
其后美山貫一氏の勧めに従がひ、或る家族の仲働らきとなりて専ぱら英語を学び、刻苦して三ヶ月内に第一第二読本を読了したり、
然るに此頃ろ嬢が多少の金を預置たる日本国の某銀行破産したりしかば、兼ての予算俄かに相違し、非常の辛苦を為したりしに、
キーネー婦人と云へる人の信切によりて其家に同居し、只管ら学を勉め、又基督教の道に感じて大に改悟し、宣教師ハリス [79] 氏によりて受洗したり。
之よりして嬢が志望翻然一変し、真正の改革は只伝道にありと確認して大ひなる熱心を以て道を伝ゆる事に決念し、一意教理を研窮し、
又有志者と計りて桑港に婦人禁酒会を起し、或は同志者より一百弗を集めて桑港校(伝道女学校)に入校したり、出発する砌り、
桑港在留の学生一百余名集まりて静粛なる送別会を開きたりしに、嬢は熱信なる勧話を述べて大ひに聴衆を感動せしめたり、云々と。」 [80]

以下、輝子の記事を拾っていく。
303号(1892年2月6日)
「園てる子夫人 米国女学新誌 [81] は記して曰く、日本東京の人園てる子夫人は過る二ヶ月間ボストン府及び近傍諸所の教会を遊説せられぬ、
主なる目的は日本上流の婦女子の為に基督教主義の学校を建設せんとての基本金募集にして中にもボストン府エーゼー、ゴルドン夫人等は
尤も熱心なる助力者なり。夫人は日本に於ける女代言人の最初のものにして尤とも同国婦人の位置の賎しきに懸念し如何でか之を高めんと
非常なる熱心は遂に今より四年前夫人をして米国に渡来せしめぬ。されど不幸にもカルフォルニア州に着するや未だ日浅きに夫人が資本金を託せし
銀行の閉鎖せしが為め遂に幾多の不慮の困難に遭遇しけれど夫人が熱心は此等をよく耐え澆き加ふるに其中にてよく英学を修め遂に紐育府
ブルークリンなるヲスボン夫人の伝道学校に日本語教師として聘せらるに至れり、夫人が経歴は大に見るべきものにして今は
「日本に於ける余が成長」 [82] と題し小さき書を版し自叙せられしものありと。」

346号(1893年6月10日)
「園てる女史。 女代言を以て一時都下に名高く、磊落不羈夏時一襲の単衣手拭を肩にして湯屋に入るや、一気兵児帯を脱して衣褌と一丸棚裡に投下し、
去って揚々板間を濶歩し、小桶を一転して之れを腰にし、バンツサン洗しだの一声に凡婦をして後に瞠若たらしめし園てる女史は渡米せりとの噂以来
近頃聞く所なかりしが今は突然英京倫敦ウエストミンスター、ガゼット [83] 紙上にその消息を聞けり、こは該記者の女史現寓同市南ケンシントン、コロンエル街
十三番館を訪ひし記事なり、其記載に依れば女史は渡米後貯金預先の銀行倒産に依て大に悟る所あり、代言業の一方を利すれば必ず一方を害せし報と諦、
左程苦にもせずして幾多薪水の労苦を経遂に基督教に入て伝道諸学校の諸嬢と交り邦語と英語を交換して、はては宗教上にも力を尽し、ムーデー [84]
サンキー [85] などいふ当時北米に有名の宗教家にも相見るを得、ここに日本高等女子教育の事業を企画し自己の名義を以て大に義捐金額を集、
さてはブルック氏 [86] の勧に応じ倫敦に至り、夫の女学校設置資金募集に勉めつつあるなり、其記事中女史は日本の貴族に出で父は学者にて、
曽て大蔵官吏に婚し居ること三年にして、日本の風習の如く離婚なせしとあり、彼の渡辺小太郎氏と結婚せしことならんか [87]
又日本に女の代言は女史が空前絶後なり、そは日本は憲法発布以来女子の弁護士を禁ぜしを以てなりとあり、
記者との談話中には五月には帰朝するよし云々改進新聞 [88] に見ゆ」

366号(1894年2月3日)
「園テル女史。米国の諸新聞紙上に其名さわがしかりし園テル女史も亦帰朝ありぬ。所謂る、日本女性の改革者たるや否やは、
今后その実行せらるる所を見るの外なし。」

378号(1894年5月5日)
「園てる女史自叙伝。「日本の改革者園てる女自叙伝」と題する英文の一書、ニウョークのハント書店にて出版せしものを、
此頃ろ領けて一読せり。同女史は、近月帰朝せられたる婦人なるが、其の米国に於ての募金運動殊の外目立ち、
而も所々に宣伝せられたる演説の極めて壮大なりしかば、帰朝の後の現在は抑そも如何に起居せらるるならん、
其近況に加へて兼て其履歴をも知らせくれよなど申し越さるる外国人も尠なしとせず。
抑そも、「テル・ソノ」と云へる名は二三年此の方外国の新聞紙にて毎度見掛たることもあり [89] と雖ど、
其の洋行前は、本邦にて如何なる生涯を送られたる人なりや、餘り公けに聞き知りたることもあらざれば、
然り斯々の名女なりしと答へんようもなく、左りとて其近状に就きては、未尚ほ精しく探知するの折を得ざりしに当って、
端なく先づ此の一書を手にし、反って外国文によりての案内をうくること奇と云ふべし。
然し乍ら、此は、輝子女史が自作の叙伝なれば、其履歴を知らんが為には、蓋し、此に優りたる手引あるまじとは思はる。
此書開巻第一に、輝子女史が肖像をかかぐ。一巻の書を左手にかかえ、右手をたもとに突袖したる和装の躰たらく、想ふに、
海外数千方理を廻って、白皙人種が面前に洒々として演説せられたる折の現態なるか。当年の風采、眼前に在り。
題して自叙伝とあれば、素より著者が自作に相違あるまじきが、園輝として、下に日本の改革者と自から注せられたること、少しく異様に見ゆ。
目録十一章、両親の系統、自己の学問よりはじめて、シカゴに於ける遊説の事、並にユニヲン・シグナル雑誌の評文などに終る。
六十頁の叙事なかなかに尠からず。今、其巻末に見えたる世に訴ふるの開書なるものを見るに、英文の大意、左の如し、
妾は、眇乎たる一個の日本婦人なり。十三才の時、吾が父の教へによりて、真の神を認めたり。妾は未だ曾て偶像を礼拝せしことあらず。
二十六才の時、東京にて代言人となりたり。
日本にては、婦人にして代言人となりたる事、古来より例しなきことなり。代言の業を営むにつれ、吾が国の婦人が現状如何なる乎を初めて認識し、
如何にしてか之を改良し之を幸福ならしめんとて、遂にアメリカに渡来したり。妾、もし吾国同胞姉妹の状態を考ふるときは、
涙、雨の如く流る。彼等は実に此の幸福なるクリスチアンの生涯を知らざる也。凡そ五年以前、妾はクリストの御事を研究し、
爾来クリステアンとなれり。当アメリカに於ても伝道事業に助力したり、こはあらゆる真の教育の基礎はクリストの宗教にあることを
認識せしが為也。妾はサンフランシスコにて、日本人の為めに一の慈善上の会を設けたり。
此会、今は、もと日本に伝道せし宣教師ハリス氏の夫人が監督の下に存す。
又、妾は紐育州ブルックリンなるヲスボーン婦人が伝道学校にて日本語の教師たりき。
日本は一の帝国なり、アメリカは自由なる基督教国なり。日本の風俗は当アメリカとはたがひ、すべて上流社会より来る習慣は、
下流社会にて一々模倣せらるるなり。左れば、上流社会に於てもし一人クリステアンとならば、風聞乍まち下流社会の百人に達すべし。
然るに、外国宣教師が高等の社会に出入するは出来がたければ、妾自身、かかる社会の間だに伝道するの事業を執らざる可らず、
妾は高等社会の婦人なり。
親愛なる兄弟及姉妹よ、願くは、吾国の婦人が間だに、エスの御為めに成さんとする此一大事業に対し、妾を助け玉へ。
もしも妾にして吾日本の故郷の都に一学校を創立せんには、多く多くの人々、学ばんが為に集り来るべし、
而して此等の人々かくして真の救主を知ることを得べし。妾は所々の教会に於て演説し、かくして「主の金」を集めつつあるなり。
妾は来る十二月帰国せざるを得ず。神の大ひなる愛を速やかに吾が国の婦人に知らせんとて、妾が心は燃ゆる也。
ヲー、吾が神に祈る、エスの御名が吾が本国の異教の婦人に聞かるることを得んが為めに、速やかに此の金を与え玉え。
クリストに於ける諸君が姉妹 園輝子
右の開書に対して掲載したるは、園輝協会と云える一組織の憲法規則なり。其の大略は、
此協会の目的は、園輝夫人が其の本国に於て属する高等社会の婦人女子が為めに、無宗派の基督教主義の学校を設立する事、
並びに十年間之を維持する事に於て、日本東京の園輝婦人を助くるにあり。
一弗の寄附を為すものは通常会員たり、五弗を寄するものは維持員たり、すべて此の会員は投票の権あり、男女は一様に役員に選挙せらるるの権あり。
毎年二月年会を開き、当時役員を改撰し会計の報告を為し、日本に於ける此事業の進歩もしくは必要事件は、
園輝夫人もしくはその代人によりて十分に披露せらるべし。

385号(1894年6月23日)。記事に付された署名は井上次郎 [90]
「園てる子を訪ふ(上)
園輝子につきて聞くこと多し。内外の人にして彼女につきて聞かんとするもの更に多し。彼女が、英米二国に於て如何に経歴したるやは、
其の自から著はしたる自叙伝と彼地に発行せらるる新聞雑誌の記事をして、自から弁せしめよ。彼女が日本に帰りたる后の経歴如何ん、
現状如何ん、将来また如何んと云ふことは、直ちに彼女をして自から語らしめよ。彼女につきて聞くこと多きが中にも、
容易ならぬ事実ありとして精かに報道し、速かに女学雑誌記者たるものをして其任を尽さしめよと迫まり玉ふ人もなきにあらねど、
抑そも今の園輝その人は眇たる一介の婦人にはあらず、兎に角に日本婦人を代表すと自白して欧米諸国を盛んに遊説せし公人なり。
此の人の一褒一貶は直ちに牽ひて日本婦人の信用に関するもの少なしとせず。左れば、吾等は、彼女につきて言ふことを尤とも慎しまざるべからず。
而も、其の成功につきて尤とも希望せざる可らず。願はくは、日本婦人の為めに掛念せる欧米の誠実なる知己をして其志をアダにせしめじ。
又願はくは、日本婦人たるものの面目を海外に維持して、国としての辱を公人の身の上より受入るることなからんとて、
即はち久しく彼女につきて言ふことなく、ただ彼女が如何に実行するやを視察せんとなしたりき。然し乍ら、
彼女に付て掛念するもの彌よ多し。左れば、諸君が自から彼女を訪ふて、直ちに彼女を叩く所あらんとする望みを代表して、
吾等ここに彼女が廬を訪ふべし。而して、彼女をして自から其現在につきて証言せしめ、更に其の将来につきて計画する所ろを聞かしめよ。
吾等は、ただ写言機としてここに彼女が言へりしままを写すべし。紳士の躰面によりて秘すべき丈のことを秘して、其他を悉く公けにすべし。
彼女が廬は麻布仲の町、もと中島衆議院議長が寓したる家の隣にあり。
新築と見まがふ斗りの新らしき品よき構へにして、応接の間には、中華李鴻章が揮毫せし大幅をかけ、主人が諸国を遊歴せしかたみとして、
熊の掌、象の彫刻、印度の珠数、同じき国あたりの赤帽、大英国女王の近ごろの写真など陳列せられたり。
主人は、洋装にして、応接淡白、猶予なく、滞ふりなく盛んに多言せらるると思へかし。
庭の后ろには、目下二三十坪の西洋風の二階屋を新築しつつあり。ほとんど落成して遠からず、室を成さんとするの光景なりと見よ。
彼女は、数度たび、クリストの名を呼び、お恵み、神の霊など云える神聖なる文字をくりかへすことありと聞けよ。
欧米を遊歴せられ女学校を多く実見せられつらん、何事か尤も感動せられしやと聞けるに、第一に、家庭に於ける教育の行届きたることと
学力ある女学生の品格の優美なることにありと答ふ。家に於ては、主人は殊の外世話しく、夕方晩餐の卓上に於て初めてゆるりと相話すの外、
子供等の上に感化すること殆んどあるなし子供の感化教育は一切母たる人の受持なり。
食事の間も、ストーリー(お話し)を読み聞かせてゆるりと喫食せしめ、さまざまの教訓を語りきかせ、
明朝の科業の下よみは悉とく助力して、扨て祈りして静かに休ます。妾の如き老年のものも、子供と同様に取扱ひをうけ、
現に此の通りの世話を受けて教訓せられたり。其心切なること、其の周到なること。感涙したたる斗りなりしと、
真心見えて熱心に感謝せり。又、教育ある女学生などが、何処となくオトナシク、何処となく優美なるには、甚はだ感服せられたり。
すべて口数を多く聞かず、外面至ってシトヤカに温和しくて、而して内に独立心つよく毅然たる所あるを尊とむの風なれば、
学問あり心得ある女学生と云えば、大抵かくの如し、これ妾が尤も感心せし所なるが、帰朝ののち、所々にて今の女学生の評判を聞き、
私の妻は何処其処の卒業生なるに、交際のさま、家政の伎倆は云々なりなど言はるるを数度たび聞き、実に嘆息いたしますと言ふ。
左らば御身は如何なる教育を施こさるべきやと問へば、もとより学問もなき及ばざる我身なれば、ただ実見せしこと、
経歴せしことを語り聞かすの主旨にて、家の如く塾の如き躰裁にして、凡そ三十名ばかりの寄宿生を置き、起居を共にし、
わが実行を見せ、日夜の間に薫陶せんと思ふ。左らば、主として、如何なる社会の子を目的とせらるるやと問ふに、
先以て中等以上の子となさんとす、而して、追々は下等社会の子の為めに、別に貧民学校を設くることとし、
之を郷里茨城に建てんと心掛け候、すでに之が為めに「講中」の如きものを組織し、義捐金を月々集蓄するの仕組を立て侍りぬと言ふ。

386号(1894年6月30日)
「園てる子を訪ふ(下)
印度のラマバイ [91] の話し出でたるに、輝子は惜しんで言へらく、ラマバイも余程のユニテリアンとなり、其の女学校にては、一切、
聖書を教へぬよし也と。余は、ラマバイと語りしこと二回に過ぎざりしが、其凡骨にあらざること明らかにして、
容易すく信念を棄つる人とも見えず、但だ伝道の方に至っては、国風に随がはざる可らず、ラマバイほどの人物なれば、
覚悟あって教育方法の変通を為すこともあるならんと言しに。実に然ことも候はんが、妾が英吉利の父と申し居る、
ドクトル・ペンテコストが印度に行いて、ラマバイの女学校を観しとき、確かに彼が固信なきことを認めて帰国し、
公衆に報告せられしに、彼は素早くも之に先だちて英米の新聞紙に投書し、近頃ろ大ひに悔改せしなど披露して
助力者の好意をつながんとせりと語る。余は亦た言ひぬ、左れど、国によりて伝道の方を異にするとも、
直ちに目してヲーソドックスを止めたりなど評するは、宣教師社会にありがちの事なり、気力ある志士の行為は、
外形をもて直ちに軽評すべからずと弁ぜしに。輝子、直ちに応じて言へらく、真に左様には候へど、英米の人々にあれほど世話になり乍ら、
聖書を止めることは済みませんではありませんかと。余は、即はち言へり。左ることも候はん。扨て、アナタは、如何なる風に、
学校内の伝道を為さるべきやと問ひしに。夫はもとより国風にも由りますることで、一々宣教師の為さるようにも出来まじけれど、
聖書の講義をして妾が経験せしことなどを話しきかせるつもりなりと言はる。米国にては、何処の教会に属し、又、資金募集には
ミシヨンの助けを借り玉ひしやと問ひしに元ハリス教師より受洗し桑港のメソデスト派に属せしが、資金募集は決してミシヨンの手を借らず、
ただ日本婦人の女子教育に対し、妾を助けんとする人は助け玉へと叫びて要めしのみ。もとミシヨンの手を借りなば、今少しは、
容易なりけん。中には、或るミシヨンより相談あり、吾が方に来りくれなば、一切教育の事をまかせて、
且つ資金をも募らんなど申されしが、本懐に反けばとて断はりたり云々。現在は、何処の教会に出席せらるるやと問へば、出席は、
ビショップ、ビカステス [92] の監督教会なれど、芝の独立教会は、日本人の手にて独立するものと聞しゆへ、ツケ届けなどは其の方に差し出すと言はる。
蓋し、 和田秀豊氏 [93] の芝教会を指さす如くなり。ここに至りて、彼女が固有する一種の男気、明らかに顕られたり。彼女は、たしかに、
江戸子の大姉的侠気を有するなり。資金は何程募集せられしやと問へば。真に、其事にて候、過日も、 ミセス、ツルー [94] とお話して、
笑ひし事なるが、金を募れりと言へば、莫大の事のように思はれ、途に遺ちたる黄金を手あたり次第に拾ひしように想像せらるけど、
仲々に六かしきものにて、存外の事にて候。しかし、此の新築を為すことと、一年位ひ支へることは出来まするつもり。
あとより、輝園協会と云うを組織し、友人より助資を送りくれると申せど、夫も手に受けぬうちは、当にはなりませぬ。
余は問へり、ミセス、ツルーとは別懇にせらるるや。真にお親しくいたします。其外、たれか殊更らに助力せらるる人ありや。
まだ、御座りませぬ。何分、経験のなきもの、万事御注意を願ひます。此他三四の談話あり、
米国女子大学のカッテージ、システムにつきては、特に感服せらるるものの如し。余は、ここに至りて、輝子が洋行前の一事実につきて知れる所を語り。
扨て問ふよう、近頃、貴君の事につき所々より質問書参る。ことに、西京の一人よりは、近頃ろ救世軍の大将として帰朝せし人より聞しとて、
申越されし事あり。貴君は、何か思い当らるることなきやと言い出でしに。輝子、其事につきては、実に申すことを好まぬほどです。
先きに申せしラマバイが、信切らしく見へたる一米国婦人に附き添はれ夫にアヤドラレて、意外の損を為せしと事同じく、
妾が英国にありしとき、某と云ふ一婦人、旅人をねんごろにせよとの聖訓を守るまねして、妾を殊の外いたわり、
始終妾につきまはりて、ひそかに莫大の利益を取り、妾は非常の損を為せし。友人等の注意にて初めて分り、遂には、或る宗教裁判を開き、
教師の前に立合ひて対審いたしぬ。此の某婦人と如何なる関係あることにや、彼の救世軍の人は相ひ協同し、切りに妾の事をあしざまに言ひふらし、
帰朝の后も毎度来訪して様子を見らるる如し、妾は二三度拒絶せしこともあり。英国にて彼人はアヤマリ証文を出したり。くはしくは、
公使館の書記たりし呉大五郎氏なども御承知なり云々。余は茲に至りて辞去し帰途つくづくと彼の女が前途の事業につきて思案したり。
彼女は一事を除く外、 田村直臣君 [95] を女にしたらんが如き人なり。彼此と評判のみして、彼女に直に接面せざる人多きを気の毒に思ひぬ。

389号(1894年7月21日)
「園輝女に関して。其一。
拝啓陳は輝女に係る一件は為日本女子躰面不容易出来事に候処六月中の女学雑誌に両度井上次郎氏の名前を以其訪問記を御出版被成
是にて世人が同女に就き注意すべき緒を開き其労は以て深く貴社に向て謝する処に候
惜哉其広報は本の外面の観察及談話に止り未だ内部の解剖なく遺憾とする処なりと雖ども之を端緒と為し漸次筆鋒を進て其是は挙げ其非は懲らし
以て日本女子の躰面を維持せられんこと貴社の方針なるべしと察せられ多少慰る処有之候何卒此十分確実の事を御探出し御報告希望仕候
却説右訪問中小生の傍観を許さざるものは第六五六葉第四行以下「妾が英国にありし時」云々以下第九行の「対審いたしぬ」迄の記事なり
此一婦人とは「ミス・マクレーン」の事に相違有之間敷而ミス、マクレーン Miss MacLean [96] が決して斯かる卑劣の人物にあらざることは
余輩の深く信認する処にして女史は日本人若くは日本の事物とさえ云えば之を保護し之を称動し主として在英日本人に真正なる
クリスチアンインフルユーエンスを与へ一人にても救改に導んとの精神なるが故に一たび英国に遊びたる日本人にして女史の訪問を受け
且つ其の恩恵に預からざるものは尠なし其一二例を挙げんに於東京は予の知る処にても 和田垣謙三 [97] (法科大学教授)、 島田三郎 [98]、 植村正久 [99]
三好退蔵 [100]、 稲葉子爵 [101] (旧淀藩)、 植村俊平 [102] (バリストル)等最も其助力に依り益せられ於京都於大坂又彼帝国軍艦千代田乗組の仕官水兵
百七十余名(吉野号も同じ)の如し其他夫の Japanese Village の末路困難飢餓に陥りたる数十人の無頼者の如き皆多少女史の恩恵に浴せさるものなし
女史は実に左英日本人の恩人なるに却て斯かる汚名を被らしめたると誠に気の毒の至に不堪余若し暇あらば女史が是迄日本人に向て如何なることを
為せし乎を記し貴社の女学雑誌に寄せんと欲す余は先般園輝マクレーン事件裁判の判決書を英国に申遣はし置きしを以到着次第貴社にも送る可し
是を一覧せば果して園女が言の真実なるや否やを知り得べし兎に角女学雑誌三八六号第六五六葉七行のひそかに莫大の利益をとり、妾は非常の損を為せし。
との記事は此日本人の恩人ミスマクレーンに対し冤の最も甚しきものなるが故に何れかの手段を以駁撃若くは取消さしむる様いたし度尊慮如何
井上君とかにも御照会至急何等の御返答に預かり度奉願候早々頓首。 七月十日。
佐伯理一郎 [103]
追て兼て 原田助 [104] を経差出置候園女が金銭上の所置に関せるマクレーン氏が印刷せる一私文も其後公然出版するも不苦と申出候
若し差支なくば翻訳御出版相成度候成
其二。
女学雑誌記者御中
拝呈益々御多詳奉賀陳者第三八六号貴紙上園てる氏御問答記事中大に事実相違之件も少からず候間失礼を顧みず卑見開陳可仕候。
即ち英国に於て一婦人の為に莫大の損失を蒙れりとそは Miss MacLean と申婦人に御座候。然し園氏が同嬢に関し損失を致せし事は毛頭無之候。
固よりかかる事件は片言以て其真偽を判するを能はず、故に失礼ながら公平無私を以て自任する倫敦基督教新聞記者 Morgan Esq. を御紹介申上候間
同氏へ御紹介相成候はば自然黒白明瞭可仕と奉存候。尚 Miss MacLean に係はる別紙印行物一様御高覧に供し奉り候、但し御一覧済之上は早々御返戻奉願上候。
英国に於て彼人はアヤマリ証文を出したり、くはしくは呉氏御承知云々と(呉氏は目下孟買在勤と奉存候)是正しく小生を指したる事と奉在候。
尤も小生は不得已場合より園氏に係わる一事に相関し候得共決してかかる証文を起草仕候覚へも無之若し仮にこれありとすれば長坂は如何なる文にて
何人に宛て差出し今何人の手に有之哉相正せば一目瞭然たり、故に本件に付き一応小生より園氏に談判相試度存候得共小生より掛合候ては彼必ず答へず、
無益に紙筆を費すのみ付ては御手数様ながら貴下より一応園氏に御聴糺し被成下度奉願上候。園氏のロンドンに於ける不始末を識る者本邦に於て目今の所
小生の外無之と奉存候。其他氏の自著と申さる一小冊子上甚しき記事をも多く見受け申候故に小生の愚眼を以て前号以来の貴誌を拝読するに
大に事実相違と認め申候、今其一例を挙れば園氏の募金英米に於て凡そ日本金一万円 [105] に有之候事確実也(募集の金高は印刷物に一万円と明記有之候)。
然るに此新築を為すことに一年位ひ支へることは出来まするつもりとは計算上ちと明瞭ならざる所と奉存候。
Miss MacLean の人となりは Dr. Saiki (西京)或は植村牧師等に御問合せ相成候はば如何なる人物なる哉御分り相成り可申と存候。
兎に角小生の名誉に関する記事丈けは早々明瞭相成候様御取計相成度此段御依頼申上候 匆々頓首。 七月初六。
長坂毅 [106]
二伸今一二例を添ふハリス教師より領洗之義は大に疑はしき所あり目下問合中多くの人は領洗なしと云ふそは園氏は更に教会の証明書を持参せられず。
ビショップビカステスの教会に属し居る抔は全く空言なり。芝教会にツケ届云々も小生は大に疑ひ申候如何となれば先日和田牧師拙宅へ御光来の節
同氏も大に疑ひをいだき居らるる由申聞られ候御参考まで申上候。

392号(1894年8月11日)には長坂毅がミスマクリーンの伝記を寄せている。
「園輝女史が謂ふ英国の某婦人 ミス、マクリーン小伝 長坂毅
英国ロンドン府に支那語及び日本語に通ずる一婦人ありミスマクリーン Miss. M. McLean と称す。
嬢は一千八百三十八年北英国に生れ年十七にして主イエスキリストを信じその後二年を経てロンドンに出で英国陸軍大佐モルトン氏の設立に係る
マイメ女子神学校に入り勤学数年業成て後ロンドン市中伝道に従事し頗るその功を奏せしが主の召に由り一千八百六十六年支那内地伝道に赴き
伝道すること五年にして適ま病に罹り帰国保養せり。
一千八百七十二年再び主の召を蒙り遠く我邦に来れりこの時ロンドンに在る嬢の友は左の聖句を以て贐とせり。
爾曹その憂慮ところをみな神に托ぬべしそはかれ爾曹を顧み給へばなり。(ペテロ前書五章七節)
爾来嬢は神戸大坂辺に伝道し或時は 藤田伝三郎氏 [107] に雇はれ子女教育を委託せられたり。
一千八百八十一年英国に帰り当時ロンドンに開かれし日本人村落に在る下等日本人凡そ一百人を助けその窮を救へり。
尚帝国軍艦千代田及び吉野等回航の節士官以下水兵を英国貴族社会に紹介し或は親しく帝国軍艦を訪ふて福音を説き
時としては艦内にて水兵と机を共にし日本食を味へり。その他本邦政治家又は宗教家等のロンドンに游ぶ者を一々訪問して
或は宗教上或は政事上等取調の便益を与られしことも尠からざりし。
一千八百八十九年 "Echoes from Japan" (三百十六頁)を著はし大に学者社会の高評を博せられたり本書の巻首には植村牧師の序あり。
この書僅かに数月を出でずして販了を告げ久しく品切なりしが本年再び上梓発兌せられたり。この外 "Open doors in Japan" てふ著述もあり。
兎に角真個の益友と云わざるを得ざるなり。
嬢は現今 Conference Hall, Eccleston Street, Pimlico, London, S.W. に住しロンドン在留邦人(目下凡四十人)のため全力を尽し日本語を以て伝道に余念なし。
然るに昨年園輝女米国よりロンドンに来り自からマダムテルソノと称し且つわらべは日本最高等に位する公家なりと名乗りマクリーン嬢を訪はれ
それより二三ヶ月間右マダムは嬢の助けを受け所々巡遊中スコッチレデーの習慣として会計用度に厳格なるにマダムは不愉快を感じ
遂に恩ある嬢に大なる意外の冤を与え交を絶てり。このこと早くもロンドン宗教社会の聴く所となりマダムテルソノとミスマクリーンを取調べ
その冤を清めミスマクリーンの名誉を保護せられたり。
予が昨年十一月ロンドンを去りウエイマス(この間百四十六哩)より帝国軍艦吉野に乗込む際嬢は予を同所迄送り来り
ポートランド停車場客待所にて共に跪き留別の祈祷を捧げ終りし時嬢が多年所持せられし上等仕立聖書一巻を永く紀念のためにとて予に恵れたり。
開いて巻首を閲するに嬢の履歴ありたり。今その聖書より書抜き聊か良友の小伝を作り貴社に投ず請諒焉。」

394号(1894年8月25日)
園輝夫人と妾との関係
蓋し、ミス、マクリーンが其の知人朋友間に配布したるものなるべし。 「園輝と妾との関係の梗概」 [108] と題したる英文二十ページの小冊子、
我輩の手に落ちたり。初め園輝子が、突如として自ら訪ひ来りし事より、彼女に対する密かなる掛念、之につきての自からの慰さめ、
漸次彼女を紹介して公けの演説に伴なひし事、其の書記となりし事、やうやく寄附金のありし事、寄宿舎を世話せし事、
入金記載の明白ならぬを忠告せし事、園輝子が俄然として様姿の変わりし事、之が書記を謝絶する旨を直ちに告げし事などを精緻に記述し、
最後に其手にて周旋せし寄附金の確実なる表を製して園輝子の報告と相違する所あるを示したり。中に云はく、
妾は園輝に告げたりき、御身もしゼヲヂ、ミウレルの如く神を信じて一任し、而して其賜ふ所を得たりとせば、
そは御身また彼の如く之に王たるを得べし。然れど、御身は其金を獲んことを人に対して要むるにあらずや、然れば、
御身の潔白を示すべき最良の方法として、其の寄附金の為に信用ある日本信徒の中より保管人を備えざる可らず、と言ひしに、
彼女はどうしてどうして(ネバー、ネバー)と答へたり。
初め彼女が到来せし時、其の学校建築の為に、亜米利加にて六百磅を集めたり、当英国にて更に六百磅を集めたしと言へり
彼女の為に思ふ多くの友人等も、其の自叙伝には、事実にあらざる如く見ゆるもの多くあり、強ひて広く売らぬ方宣しからんと言ひたり。
などの文あり。全躰の記事、如何にも謹慎忠実にして、敢て他を貶することをせず、但だ已むことを得ず、
自己の義を保護するの趣見はれたり。

同号の時報には、倚松園女塾開塾の記事がある。
「倚松園女塾。本紙上に屢々紹介されたる園輝子女子が麻布仲の町に校舎を新築せる由は兼ねて報ぜしが今回之れを倚松園女塾と名附け
来る九月二十一日より開塾する由 」

399号(1894年9月29日)
「倚松園女塾の開塾式。園輝子の設置になる同塾は去る十五日開塾式を挙げたり、呉大五郎、渋沢栄一、美山貫一諸子の演説あり、
来賓中には土方大越(領事)浜尾等の各夫人もありたりと。

404号(1894年11月25日)
園てる対マクリン。園てる女が吾社の訪問者に対して談話したる中に、英国某女の大に欺かれたり云々の言あり
其筆記女学雑誌に出で彼地の人々が一覧するや甚しき激昂を惹起したり、事実は全く相違せる由なり。
今、( 「Light thrown on an involved subject」 [109] )と題する小冊子を見るに、巨細其実状を弁正せり。
吾人は次号に於て其一部分を訳載せんことを欲す。

405号(1894年12月25日)
園てる対マクリーンの事件に付、本号に訳載すべき予告は此に果すこと能はず、園女史が答弁をも併せ掲載ありたしとの請求に応じたれば也。

次の406号(1895年1月25日)にも予告の訳は掲載されていないが、広告欄に「レヂー、コングルトンの開書」が掲載されている
「レヂー、コングルトンの開書」 (訳写)
レヂー、コングルトンは日本の女学雑誌に於て其友人ミス、マクレーンの最も潔白無私なる所業に就き却て反対なる誤謬の報告ありしを
聴き甚だ心を労せり。ミス、マクレーンは其一身を日本の為に献けたる最も親切の友人として十有余年の間ロンドンに来る処の日本人を導き助け
又日本に於ても同様の働を為せることは皆人の知る処なり。レヂー、コングルトン並に他の多くの英国の友人等は其の全き信用をミス、マクレーンに措き
且つ同女に対せる園輝夫人の訴訟は理由なきこととして却下せられたることを証明す。此訴訟の裁判は一八九三年八月卅一日ロンドンに於て
極て丁寧に開庭せられミス、マクレーンは一々明瞭に答弁せられて其無実の申出を表証せり、然るに園輝夫人は今日に至り再び其無実の事を言いふらすとは
誠に正しからざる所業なり。レデー、コングルトンは斯かる所業を不憫に思ひ且つ苟も真理と正義とを重んずる人は日本に於ても
亦英国に於ても斯の如き根拠なき誹謗に向ひ些少の注意も惹き起さざることを信ず。
一八九四年九月廿日 仏国ドロームの旅中にて手記
連署
レヂー、アウグスタ、インスタイン
レヂー、キァリク、ブキアナン
ミッセス、エミリー、サラ、バルスフィールド 各手記

407号(1895年1月25日)にも、
「左の開書は前号の広告欄内に見ゆ。吾人は其真実なることを賛証し、其要求によりて再たび茲に掲載す。」として同文章が再掲されている。
そしてこの記事以降、この事件について女学雑誌には何も掲載されていないようである。
おそらく輝子から記事の掲載について何らかの抗議があって掲載中止となったのだと思う。
読売新聞の記事「日輝法尼」にある法廷に訴えて新聞社を閉鎖させたという記事はこのことを指すのかもしれない。

その後の消息としては女学雑誌が伝えるものは、476号(1898年11月25日)の時報に
「伊東婦人会。伊豆伊東にて園輝子等の設立する伊東婦人会は本月六日例会を開きしに、出席者六十余名なりし由」
また483号(1899年3月10日)の時報で
「伊豆伊東婦人会例会、園輝子を会長とする同会は、毎月第二日曜日、其例会を開く」とある記事のみである。

その後1915年に日輝法尼として読売新聞に記事が掲載されるまでの間の彼女の消息を伝える記事は殆んど見つけられていない。
輝子とゴードン夫人 [110] の招きによってミス・フローラ(Miss Flora E. Strout)が日蓮宗大学(立正大学の前身)の学生に講演をした、
と言う記事が 「The Japan Evangelist」 の15巻6号(1908)にある。仏教系の学校で開かれた最初の矯風会の講演だという。
フローラは WCTU の特派員として来日し1910年まで滞在し、各地で矯風演説を行っている。
既に池上本門寺に隠棲した後の輝子が矯風会とは別に講演を依頼したと思われる。

そして1925年4月2日の東京朝日新聞に次の記事がある。
「篤行の老婆 表彰を具申
市外池上村下池上三〇園てる(七四)は尾州家の儒者園貞齊の長女に生れ土浦で生長し、その後東京日本橋浜町に日本初めての女弁護士を開業して
人々を驚たんさせ、三十才で北米に渡り六十才の時帰朝、日蓮宗に帰依して友松庵と号し育英事業に尽力したのを初めに同村小学校その他へ
数回に亘り基金の寄附をなし府知事からもしばしば表彰され、今尚壮者をしのぐ元気なので、村当局は五月の銀婚式当日篤行者としての表彰方を具申した」
銀婚式、というのは大正天皇銀婚式の事であるが自伝や日輝法尼の記事が正しいとすればこの時輝子は79歳のはずである。
渡航期間もずいぶん違っているけれど、これが私が現在把握できている彼女の最後の消息である。

「明治ニュース事典」に園輝子の記事が採録されたのはなぜだろう。
明治ニュース事典は昭和9年に出版された「新聞集成明治編年史」が基礎となっている。
「新聞集成明治編年史」は明治時代の新聞記事から後の資料となるべき重要記事をできる限り広範囲に採録するという方針で編纂された。
今回「郵便報知」を初めとした明治時代の新聞を幾つか調査した。その中にはもっと重要だと思えるような興味深い記事が他にたくさんある。
膨大な新聞資料の中から今となってはさほど重要でない彼女の記事を編集者が拾い上げたのは、
当時まだ人々に "女傑" 園輝子の記憶が残っていたからかも知れない。
女学雑誌の記事から読み取れる園輝子の人物像は自伝からのそれとはずいぶん違う。
かなり胡散臭い山師のような印象を受けるが、実像はどうだったのか現時点では私には何とも評価しがたい。

園輝子については安武留美氏が著書「Transnational women's activism」 (New York University Press, 2004) 等で簡単に触れているけれど、
基本的には自伝の内容の紹介に留まる。他には彼女の生涯の詳細に言及した文章を見つける事はできなかった。 [→ 補遺(2023.5.10)補遺2(2023.11.30)]
また、輝子の記事中に現れる周辺人物の自伝なども可能な限り調査したが輝子について書かれている物はほとんどない。
だが明治時代のキリスト教史関係、女子教育史関係、法律関係などの雑誌類、一般新聞類など調査すべき資料の多くがまだ調査できていない。
特にキリスト教系の新聞雑誌類がほとんど未見のままであり、脚注を見ると判る様に未確認の事柄が多い。
中途半端なままだけれど、この辺で一応の区切りをつけたいと思う。
とはいえ、まだまだ輝子についての記事を見つける事はできるはずだ。機会があれば改めて探してみようと考えている。

調査した文献の一覧は割愛しますが文中や脚注に記したもの以外に安武氏の論文「北カリフォルニア日本人移民社会の日米教会婦人たち」
(キリスト教社会問題研究 ; 49, p. 46-76)も参考にした事を付記しておきます。
また、園輝子の自伝「Tel Sono, the Japanese reformer」のオリジナル版の入手はかなり困難ですが、オンデマンド形式でリプリントされているようです。
いくつかのサイトではオリジナル版全文が pdf ファイル等で公開されています。なお、私が参照したのは冒頭に記した通り、国際日本文化研究センター所蔵本です。
園輝子について何かご存知の方は御一報頂ければありがたいです。
[2011.03.14 記]
***
「日本研究」(国際日本文化研究センター発行)52号 (2016) の 219-222 ページに、
書評 「ダリル・フラハティ著 『公共の法と法実務 - 十九世紀日本の政治・利益と法専門職』 」 が掲載されているのに気が付いた。評者は林真貴子氏。
評によると、フラハティ氏が著書の中で "Sono Tel" について言及しているらしい。
新たな知見として「江戸時代から明治時代への移行期に活動していたが、これまで日本の研究者にその存在はほとんど知られていなかった」 園輝子を紹介した、とある。
そして、書評の最後には、ありがたい事に私のこの文章が "Sono Tel" に関する文献として紹介されている。(私の姓の漢字が間違っているけれど珍しい姓だし仕方ないな ...)
さっそくフラハティ氏の著書 "Public law, private practice : politics, profit, and the legal profession in nineteenth-century Japan" を図書館から借りて読んでみた。
出版は2013年だから、拙文公開よりも後である。読む前はちょっと期待した。
私が調べきれなかった彼女の経歴、特にアメリカ滞在時代の行動がわかるかも知れない、と思ったからだ。
だが、園輝子については彼女の自伝の内容を出るものは無く、私が知らなかった事柄は無かった。
残念な気がしたが、反面少しほっとした。まだまだ素人調査を続けても良さそうだ。
[2018.08.31 追記]

***
園輝子の御子孫、曾孫にあたる"ご隠居鳥"氏のブログ 「ご隠居鳥の独言」 が最近公開されていて、輝子についての言及がある。(2020年5月閲覧確認)
"ご隠居鳥"氏は1947年生まれだという。ブログを参考に作ってみた系図は以下の通り。
genealogy
以下、ブログからわかったことをいくつか補記しておく。
・祖先は園家から分家して若園姓を名乗り、美濃国唐栗野を開拓した。
・"Moan Waka Sono" は若園茂庵。輝子の四代前の人物で、尾張尾州家のお抱えだったと言う。
  輝子の自伝では茂庵は "grandfather" となっているので祖父と思っていたが、grandfather には「先祖」の意味もある。
・輝子の父貞濟(号は醉翁)は明治十年十月四日に亡くなっている。
・輝子の娘豊子は中島家に嫁いだので園家を継がせるために兄敬之助の娘園子を養女にしている。園子の弟は昇と言い、雷の研究者であるという。
  おそらく九州工業大学の教授だった三田昇のことだろう。詳しい経歴を確認できていない。
  彼の著書の略歴では「昭和元年電気試験所入所」、「昭和34年電気試験所福岡支所長」 等となっている。
・輝子は「昭和初期まで激動の人生を生きた」と書かれているので1930年前後に80歳代で亡くなったのではないかと思われる。
・輝子の墓は、両親の墓と共に昭和40年代までは本門寺に残っていたことがブログに記されていて、写真も掲載されている。
  五重塔の傍の一等地にあったというが、画像で見る限り比較的質素な墓で、墓には妹春子と娘豊子の名前も刻まれている。
  両親の墓には、父親が倚松園醉翁居士、母親が自覺性壽大姊と刻まれている。輝子が開いた学校 "倚松園女塾" の名の由来だろう。
  共に平成20年以前に墓仕舞いにより撤去され現存しない、とされている。
[2020.06.11 追記]

***
WIKIPEDIA に挙げられている参考文献を基に再調査しました。
英語版ウィキペディアに2019年9月20日付で Teruko Sono の項目が作成されている。(2020.12.12 閲覧確認)
このサイトも参照されていて嬉しい限りだが、私が未見だった文献も参考文献として挙げられている。それらの文献や新聞類のデータベースを調べた結果を追記する。
当時の英米の新聞などには輝子の紹介記事が散見されるが、同じ内容の短文の記事も多く、彼女の活動の詳細を伝えるものは少ない。いくつかを時系列で引用する。
* Nineth annual report of the Board of managers of the Woman's Home Missionary Society of the Methodist Episcopal Church for the year 1889-90.
1890年10月30日-11月5日に、ニューヨーク州バッファローで開催された第9回年次大会の "Friday afternoon" [31日] の記録。
  "The only woman lawyer in Japan, Miss Tel Sono, a reformer and Christian worker, was introduced to convention,
  and said, "I am grad to see you this afternoon. You have given me a noble experience. In my country there are
  very sad customs among the men and women." She spoke briefly of her coming to this country, her conversion to
  Christianity and her subsequent work for Christ."
* Portland daily press.
1891年9月5日の記事。日曜礼拝の案内。
  "Chestnut St. M.E. Church. ... addressed by Miss Tel Sono, a Japanese lady, at 7.00 p.m."
1891年9月16日の記事。
  "At the annual meeting of the local society of Christian Endeavor held at Free street church, Monday evening,
  the secretary announced 19 societies with a total membership of 1,115, and a balance on hand in the treasury of $462.
  Rev. W.C. Robinson was elected president, and Geo.E. Smith secretary and treasurer. Mrs. Tel Sono spoke on life in Japan."
* The Wellesley prelude. vol. 3, no. 5. 1891.
ウェルズリー大学はマサチューセッツ州にある1870年設立の私立大学。53ページ、College notes に輝子の訪学記事がある。
  "On Sunday [1891 Oct. 11] afternoon at five o'clock Mrs. Tel Sono, a native Japanese, addressed the students in the chapel.
  She was in her picturesque national costume, and told in a most winning manner the story of her early ideas of God,
  her later conversion to Christianity, and her many struggles in behalf of her life work, the higher education of the woman of Japan."
* The Christian union.
1891年11月28日号にある、National Woman's Christian Temperance Union 18th annual meeting の記事。
この年会は、11-12日にボストンで開催されたWCTUの第一回大会に続いて13-18日に行われている。
  "They were great favorites with the audiences, both in the Temple and at Park Street and Bromfield Street churches,
  where overflow meetings were constantly held, and Lady Somerset, Miss Florence Balgarine from Scotland,
  Mrs. Fayah Bakarad from Syria, and Mrs. Tel Sono from Japan were in constant requisition."
* Minutes of the National Woman's Christian Temperance Union at the nineteenth annual meeting. 1892.
215ページに、1892年、ワシントン D.C. での消息がある。
  "February 16th. Col. Geo. W. Bain lectured at Foundry M.E. Church to a large audience. Madam Tel Sono made a brief address."
  "February 21st. Madam Tel Sono made an address at Mount Vernon M.E. Church."
  "March 2d. Madam Tel Sono spoke to women at Foundry M.E. Church 'On the conditions of high-caste women in her country.'"
  "On February 26th, Mrs. La Fetra tendered Madam Tel Sono a reception at Hotel Fredonia."
* The Epworth Herald. vol. 2, no. 43.
1892年3月26日の記事。
  "Mrs. Tel Sono, said to be Japan's first womwn lawyer, is in this country lecturing in behalf of a Christian school for high caste Japanese girls."
* The law times. vol. 94. The Office, 1893.
333ページ、Occasional notes の記事。
  "Madame Tel Sono, the first Japanese lady who chose the study and practice of law for her life work, has recently arrived in London.
  The object of her visit is to collect funds to establish a Christian school near Tokyo, for the education of high-class girls and women.
  During her experience in the courts of Tokio she came to realise the condition of her countrywomen and the needs for such an institution
  based upon Christian principles, and this alone has influenced her to throuw up her practice and devote herself to missionary work.
  Lady Henry Somerset and other ladies are interesting themselves in Madame Tel Sono's effort, and assistance has been promised
  by several leading ministers of religion to bring the mission before the notice of the churches in London."
* The Otago daily times.
1893年5月1日の記事。"A Japanese lady reformer" として比較的長い記事がある。
  "A representative of Religious Bits has had an interesting chat with the Japanese lady lawyer, Mdme. Tel Sono, about her life generally,
  and her big scheme for teaching the Christian religions to the Japs in particular. She is described as a typical woman of Japan
  -- short and stout, with glossy black hair, coiled at the top ofher head, around a tortoiseshell comb, black eyes, of the peculiar almond
  shape which seem at times to contract to a thin line, a nose somewhat broad and flat, and a full mouth.
  "I was the first lady lawyer in Japan -- and the last," said Madame. "My cases were nearly always proved, and I made agreat deal of money.
  Men and boys came to me as clients as well as women. The people used to throng to see me as I went into court." It was Madame's father
  who taughther her business. Disgusted with the condition of women in her native land she started for America, "to learn the customs of
  a people where woman stood on a level with man." Carrying out her new resolve with characteristic energy and decision, Mdme. Tel Sono
  sailed for Sao Francisco. Shortly after her arrival there the of Japan failed, and she lost all her money. She now turned to domestic service
  as a means of support, and as furnishing her an opportunity for learning English and studying the customs of Europeans.
  Mdme. Tel Sono was very considerably victimised in her new capacity. At length she was befriended by a Christian lady in San Francisco,
  who, seeing her wretchedness, gave her a home and instructed her in tho English language. After three months this friend went away,
  and Mdme. Tel Sono took up her abode in a damp, dark cellar heneath the Japanese Mission. She attended a Christian mission,
  and was eventually baptised as a Christian believer on Christmas Day 1887. In May I889 she left San Francisco, and soon afterwards
  graduated at the Young Ladies' French Classical Institute, City of Alameda, California, of which Miss Mary J. Reid was principal.
  She then went to the training school in Chicago. From thence she removed to the Missionary Training Institute in Brooklyn.
  Having now completed her course of studies, Madamo Tel Sono is laying hor plans for the realisation of the hope of her life
  -- a Christian training school for the women of Japan. She proposes to start her work among the women of the higher classes,
  she belonging herself to tho highest rank of the nobility, and, therefore, being easily able to get access to the homes of high-class women.
  The ordinary missionary cannot reach them, and as the lower orders in Japan invariably follow tho lead of the higher, it is obvious that
  mission work is much at a standstill until the higher ranks embrace Christianity and make it fashionable."
* The Evening star.
1893年5月3日の記事。"London Gossip" 中の一節。
  "A recent arrival in London is Madame Tel Sono, the first Japanese lady who chose the study and practice of law for her life work,
  being, in fact, the first female lawyer in Japan. The object of the visit is to collect funds to establish a Christian school
  near Tokio for the education of high class girls and women. During her experience in the courts of Tokio she came to realise
  the condition ofher countrywomen, and the need for such institution based upon Christian principles, and this alone has influenced
  her to throw up her practice anil devote herself to missionary work."
* The Japan daily mail.
1893年10月21日の記事。10月17日横浜着の蒸気船ペキン号 (City of Peking) の乗客名簿に Madame Tel Sono の名が見える。
香港-サンフランシスコ間(上海、長崎、神戸、横浜、ホノルル経由)を運航していたペキン号は、19日にサンフランシスコへ出港している。
輝子はロンドンから別の船で香港に着き、そこからペキン号に乗船したのだと思う。
ついでに輝子が渡米した1885年12月19日の記事も調べてみた。
この日、サンフランシスコに向けてリオデジャネイロ号 (City of Rio de Janeiro) が出港しているが、名簿は掲載されていない。
* The woman's column.
1894年9月22日の記事。
  "Madame Tel Sono, who visited England last year for the purpose of arousing interest in her scheme to build a school in Japan
  on the lines of the establishment Pundita Ramabi has so succesfully completed in India, writes that the school in Japan will be completed in a few months."
これと全く同文の記事が、The Woman's journal の同日号にも掲載されている。
* The school journal.
1895年2月15日の記事。
「University Education of Women」 という記事の中で、"Mrs. Tel Sono has established schools in Japan" と紹介されている。
* Transactions and proceedings of the Japan Society, London. vol. II. Kegan Paul, Trench, Trübner and Co., 1895.
188ページに簡単な記述がある。
  "... and a Lady Reformer has already arisen in the person of Mrs. Sono O Teru, who has been present, as a Visitor,
  at Meeting of this Society, and who has presented her autobiography (in the English language) to our Library."
* Farm and fireside.
1896年1月1日の記事。
  "Mme. Tel Sono, a Japanese lawyer, is said to be the only feminine member of the bar in the land of the Mikado. She was educated in England.
  In addition to activity following the duties of her profession, she takes a practical interest in the welfare of her sex, and has founded a training-collage for women."
* The young woman.
1899年2月3日号の記事。
  "Even Japan has not escaped the wave of emancipation which has swept over the continents of late years,
  and we find the Mikado's country at least one lady lawyer--Madame Tel Sono, a Christian woman educated in this country.
  A few years ago Madame Sono delivered a series of lectures in English towns to raise funds for a non-sectarian
  training-school for women and girls in Tokio, and she is now doing a useful work in the Japanese capital."
この頃、輝子は既に私塾を閉じ、伊豆で婦人会を開いたりしていたが、何らかの消息が海外にも届いていたのだろうか。
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次に輝子を取り上げている文献など。
* The first women lawyers : a comparative study of gender, law and the legal / Mary Jane Mossman. Oxford : Hart, 2006.
言及は二ヶ所。まず8ページ。
  "a British journal in the 1890s compared the appearance of Madame Tel Sono, a woman lawyer in Japan
  in the late nineteenth century, to the wonder of new scientic inventions:
   Every day as she went into the court crowds used to gather and gaze upon her, as together with the telegraph,
   steam carriages, electric lights, and photography, which had only that year been introduced into Japan,
   she was considered one fo the marvels of the age, and her name became known throughout the country.
"
  斜体部分は Griffith "A Japanese lady lawyer and reformer in England" (Great thoughts, 1893) からの引用。
次に241ページ。
  "... and he [Frank] identified Mlle Tel Sono, a Japanese woman who had studies law in Tokyo." と述べ、
  L. Frank の La Femme-Avocat を参照している。
* Women in journalism at the Fin de Siècle / F. Elizabeth Gray (ed.). Basingstoke : Palgrave Macmillan, 2012.
第10章、Representing the professional woman: the celebrity interviewing of Sarah Tookey / Terri Doughty の中に、
Sarah Tooley [ナイチンゲール伝等を書いたジャーナリスト] が輝子にインタビューし、その記事が Christian weekly に発表された、
との記事が紹介されている。ただし、脚注にはその記事を突き止められていない、としている。
* The great unknown : Japanese American sketches / Greg Robinson. Boulder : University Press of Colorado, 2016.
13-17ページに "Tel Sono: Issei woman lawyer and missionary" として輝子についての言及がある。
彼女の自伝から肖像写真も転載されている。内容はほぼすべて自伝に基づくもの。
"Sono's later life lies unrecorded, and she remains largely forgotton" と締めくくられている。
[2021.03.09 追記]

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[補遺]
生前の園輝子と親交のあった教談家の野口復堂 [注71参照] が、輝子の一代記とでも言うべき著作「園の松」 [111] を著している。
現在、国会図書館デジタルコレクションで公開されていて、全文を読むことができる。
輝子の出自から晩年までの事蹟が、全編講談調で語られていて面白い。
冒頭には『事実中の事実』、『可惜面白い事実を、棺の中へ仕舞ひ込んで行かれようとするのを、
復堂が世間の為めだ私に喋べらして下ださいと漸つとの事御承知を得た』とあり、
少し誇張された表現もあるだろうが、おおよそ事実に即しているとみて良いだろう。
すべてを詳細に検討する余裕はないが、今まで私が知らなかった事柄を中心に掲載ページと併せて列記し、上記拙文への補遺とします。
なお、「園の松」からの引用は注記も含めて 『 』 で囲んで示します。(適宜、新字体、現代仮名遣いを使用します)

・ 巻頭にキャプション付の写真図版が3枚ある。『友松庵の輝子女史』は剃髪で立ち姿、『ボストン婦人会光景』は集合写真で判別は不可能、
  『米国海浜逍遥の輝子女史』は日傘をもった女性らしき人影の遠景だが、これも判別はできない。
p.7-8. 園大納言藤原基福 [112] の末孫が若園姓を名乗り、美濃唐栗を開拓した。その八代目が若園玄達(医者)だという。
  玄達の子、茂庵が分家し尾州家に儒員兼医員として抱えられた。分家二代目は子の隆庵。三代目は隆庵の子の文敬。
p.10-11. 後に文敬は姓を園に戻し、名を松應とし、犬山で町医となる。彼には子がいなかった [113] ため、弟の英節を四代目とすることにした。
  英節は若くして出家し、京都妙心寺の禅僧となっていたが、医業を継ぐ約束で雲水となる。
p.19-22. 英節は雲水行脚で土浦に入り、高岡村の報恩寺 [114] に滞在中、村人に論語の素読などを始める。
p.27-29. 藩士早川文左衛門の姻戚で喜連川の郷士、村上源左衛門の長女さとと結婚、還俗し、貞齋と改名する。
p.30. 犬山の兄の元で医者修行をし、7年後江戸に向かう。
p.31-55. 貞齋の姉歌門子(かとこ、尾州家奥勤めで、女丈夫で知られたと言う)の逸話。 [115]
p.59-65. 江戸への道中、木曽福島の福澤彦四郎(歌門子の門人)の病気を治療、しばらく滞在。
p.66-68. 上野広小路で開業。弘化4 (1847) 年3月15日、輝子出生。1、2年後男子出生。 [116]
p.72. 貞齋が女郎を身請けするなどしたため、さとは子供をつれて土浦へ。 [117]
p.76-89. 安政3(1856) 年暮れ、貞齋が迎えに来る。その後、貞齋は土浦で開業。 [118]
p.89. 輝子と弟は土浦藩士大塚甚左衛門の妻瀧子に教育を受ける。
p.91. とある藩士と結婚、輝子18歳。
p.92. 離婚、3歳の娘豊子と土浦へ。
p.94. 妹春子と江戸へ。中野又兵衛家を頼る。
p.102. 神田富松町の建具大工の二階に借間、仕立縫物で生計を立てる。
p.130. 土浦に連れ戻される。
p.136-144. 再び江戸へ、貸金業の高谷家に寄宿。
p.147-149. 中野の世話で代書代言の仲間入り。組合頭は岡田善藏。 [119]
p.159. 馬喰町2丁目の鰻屋佃文藏宅に下宿。ここで南部出身の渡邊小太郎と知り合い、結婚する。 [120]
p.163-167. 結婚を機に若松町の芝山彌八の屋敷を借りる。 [121]
p.167. 輝子の代言としての初めての仕事は深川霊岸島の回漕問屋の息子の星野長兵衛からの訴訟依頼。
p.169. 若松町の土蔵付きの家に移り、娘の豊子を呼ぶ。女中2人、書生3人。小太郎は法律学校を卒業。 [122]
p.170. 豊子11歳、日尾直子の塾に入る。 [123]
p.172. 濱町2丁目12番地に転居。
p.175-176. 出入りの魚屋瀧に氷屋開化亭を開かせる。黒船町萱寺。読売新聞に雑報として紹介される。 [124]
p.187. 小太郎と離婚。 [125]
p.196. 銀座鍋町2丁目風月堂の横丁に自宅を普請。岡松甕谷に漢学を習う、紹介者は元田直。 [126]
p.217-218. 輝子と風月堂との関わりについて。 [127]
p.218-219. 中江兆民の関係について。 [128]
p.220. 開業後3年、父貞齋上京、その後死亡。明治10年10月4日没。
p.222. 福澤諭吉と会い、渡米の相談。 [129]
p.224-227. アメリカ-香港定期汽船モンゴリヤ号の2等で横浜から渡米。(明治18年12月19日午後2時、38歳) [130]
p.230. ホノルルで並河、川西両氏の歓迎を受ける。 [131]
p.232-233. 明治19年1月7日、サンフランシスコ着。美山貫一と会う。
  輝子が渡米する事は横浜の福音教会からあらかじめ連絡が来ていたという。
p.235. ミセス・ケネー宅に雇われる。一週間2ドル。
p.237. 『輝子女史も日本では大女だが』 との記述がある。
p.238. 当時の通称は "花" だったとされる。ミセス・ケネーからは "ハンナー" と呼ばれていた。
p.242-253. 住込先はジョンソン宅、ミセス・ウオータマン宅、メキシコ人宅、ミセス・セルデン宅等、たびたび変わる。
p.255-256. クラシカルスクール卒。上陸後4年目42歳。 桑港婦人会を創立。サンフランシスコの邦字新聞にも取り上げられる。
  奈良原繁と面会。土方伯と面会。谷干城から面会を求められたが病気のため会えず。 [132]
p.257. シカゴのトレーニングスクールへ行くことになる。
  明治22[1889]年4月27日にオークランドミッション、28日に日本人側の送別会、5月1日にメーソン会と婦人慈善会の各送別会あり。
p.258. サンフランシスコ出発直前(4月24日)に北桑港禁酒会に入会。5月9日サンフランシスコ発、川口、増井と別れる。 [133]
p.259. 同月14日シカゴ着。
p.262. 高野某に案内され、トレーニングスクールへ。校長はメイヤア。 [134]
p.263. 11月、ニューヨークブルックリンの学校に転校。 [135]
p.263-265. 自伝出版。 [136]
p.268. ボストンでの世界婦人矯風会の様子。黒緞子の着物に袴、帯は高平公使夫人よりの借り物だった。 [137]
p.270-271. ワシントンでのレセプションの様子。出席者は公使代理中山嘉吉郎、大統領クリーヴランドの訪問あり。 [138]
p.272-273. 1890年6、7月の日記の一部が引用されている。 [139]
p.276. 1893年元旦、小谷部全一郎来訪。進藤氏と晩餐、田邊氏に送られる。1月18日イギリスへ出航、26日リバプール着。 [140]
p.277. 2月1日、日本領事館で演説。この時面会した人物として、以下の人物が挙げられている。
  領事大越成徳、呉大五郎、佐藤愛麿、藤村徳司、曾根高祥、清水市太郎、六郷政賢、日野資秀、清岡邦之助、田結鉚三郎、中井正金銀行頭取 [141]
p.278. 9月1日まで滞英。イギリスでは書記ミス・アンドルウを雇う。 [142]
p.278-280. マクリーン(文中表記はマクレーン)との逸話。輝子は対審談判を開き、審判者はドクトル ペンテコストが務めた。
  ペンテコストは輝子の雪冤保証演説を行った、とある。また、当時留学中の望月小太郎を紹介された。 [143]
p.281-283. 1893年9月1日、ブリタニア号でイギリス出国。5日ジブラルタル着。
  10月5日香港着、宮川氏出迎え、City of Peking (特等船客)に乗り換え、15日神戸着。17日横浜着。 [144]
p.286-287. 新聞社と裁判。当時、裁判所に提出したとされる輝子の身元証明書が転載されている。 [145]
p.288. 渋澤男爵の夫人は輝子の媒酌、また、海軍中将細谷資氏と小松謙二郎の妹を取り持ったのも輝子。 [146]
p.289-290. キリスト教と絶縁した経緯として、ミセス・ツルとの関係が語られる。 [147]
p.290-291. 馬喰町の桝重の世話で伊豆伊東へ、伊東婦人会を開く。明治34年、高崎男爵が客遇。
  同年2月9日には勅使慈光寺侍従を迎える。 [148]
p.292. 『日蓮上人の宗風こそ我が心を靡かすべきもの』と本門寺へ。同寺内の友松庵に移り住む。 [149]
p.293. 高崎男爵令嬢が田中不二麿氏へ嫁ぐ際、心得を諭す。立会は藤井善言。 [150]
p.295. 伊豆伊東大火の後日談。 [151]
p.295. 友松庵に隠棲後の様子。腎臓萎縮病で静養。 [152]
p.296. 庵のそばに両親、妹、娘の墓を造る。 [153]
p.297. その後の輝子。 [154]
[2023.05.10 追記]

[補遺2]
国会図書館デジタルコレクションなどから新たに拾い出した資料を、なるべく時系列に沿って挙げます。
[本編を公開後、多くの資料を入手検討し、幾つかの事実を確認する事ができました。
補遺として書き足すのではなく、全編を書き直した方が事実関係が錯綜しなくて良いと思うのですが、その余裕がありません。
注記はいくつか訂正、あるいは補記した個所があります。]

* 教育報知 440号、p.17 (1894年9月22日)
「倚松園女孰開孰式[ママ]
去十五日を以て倚松園女塾の開塾式を擧行せり尋常ならば勅語奉讀と言ふへきを其にも先んじて先つ天帝に向て
一片の祈禱を爲したるは以て其塾の性質を知るへく客の半數外人たるに由て塾主平生の知己如何を知るへく
其樓上に陳列せる土砂岩石花卉草葉の歐米は勿論亞非利加印度等の産にして然も彼れ自らの蒐集せる者と謂ふに由て
塾主園輝子の跋渉如何を知るへきなり」
「澁澤榮一氏女子教育を説く
右開塾式塲に於て澁澤榮一氏女子教育を説きて曰く我國古より女子教育の名之なきに非す近世に及んで貝原益軒の如き
頗る順序ある女子教育法を説きたる者あり然れとも皆孰れも封建的にして今の社會に適する者なし然るに明治の世となりては
世態一變し遽然女子教育の面目を新たにし甚しきは我國從來の婦徳を損傷したるの實蹟なきに非す思はさるの甚しき也
知己園君今奮て倚松園女塾を興す蓋し舊來の女子教育の面目を一新するを得んか松に倚るとは何等の美名ぞ
然れ共コレ心の貞操を言ふ者にして何も蚊も男子の如く今樣の女學生を造らるゝの意にはあらじ云々」 [155]
* 千草の園 3号, p. 15-17 (1894) [156]
輝子の半生が紹介されている。ほぼ自伝の内容と一致するが、いくつか相違点もあるので全文を引用する。
「園輝子
園輝子女史ハ、茨城県土浦ノ産ニシテ、夙ニ我國婦人ノ教育完全ナラズ、其程度ノ低劣ナルヲ慨シ、
之を薫陶發達スルノ理義ヲ研究センガ爲メ、汎ク海外諸國ヲ巡遊スルノ念ヲ起シ、飄然郷關ヲ辭シ、
便船桑港ニ向ヒタルハ、實ニ明治十八年十二月ノ事ナリキ。
初メ女子ノ本國ヲ發スルヤ、豫メ三ヶ年ノ學資ヲ支フヘキ金ヲ準備シタリ、然ルニ桑港ニ到着ノ後、
本國ニ於ケル不意ノ支障ニ遭遇シ、遂ニ其資金ヲ得ル能ハザルニ至レリ、於是カ天涯孤羇、内外無援ノ身トナリ、
自ラ生計ノ道ヲ求メサルヘカラサルノ塲合ニ迫レリ、然ルニ女史天資剛毅活達、加フルニ前途多望ノ大志ヲ
懷抱セルヲ以テ、今萬里ノ異域ニ在ヲ、斯カル逆境ニ沈淪セルモ、毫モ屈撓スルノ色ナク、
此苦酸ノ境遇コソ、却テ其目的ヲ達スルノ一大好機會トハナレリ、即チ仔細ニ米人ノ氣質ヲ探求シ、
其家庭ノ有樣、生活ノ方法、家族ノ組織等ヲ實地ニ經驗スルコトヲ得タリ、盖シ此間ノ苦楚艱難ハ、
實ニ名狀スヘカラス、居ヲ移スコト十七回ニ及ヒ、或時ハ料理人トナリ、又或時ハ下等ノ勞働ニ使役セラルゝ等ノ如キ、
常ニ困苦ト繁忙トヲ以テ蔽ハレタリ、然ルニ斯カル生活ノ渦中ニアリナガラ、學術修練ノ念ハ須臾モ止ム能ハズ、
朝夕勞動ニ從事シ、晝間ハ「アラメダ」大學ニ通學 [157] シ、一意ニ英佛文學ヲ研究スルヲ力メタリ、
一千八百八十九年五月廿九日、遂ニ同大學ヲ卒業スルニ至レリ、是レ女史カ目的ヲ達スルノ一段階ナリトス。
先是、本邦人ノ渡米スルモノ年々多キヲ加ヘ、從テ婦女子ノ渡航スルモノ少カラス、然ルニ是等婦女ノ躰面行爲、
往々見ルニ忍ヒサルモノアリ、甚タシキニ至テハ、本國ノ躰面ヲ汚ス如キ醜業ヲ營ムモノスラ有ルニ至ル、
女史面タリ此醜態ヲ目撃シ、之ヲ匡正救濟スルノ念禁スル能ハス、一千八百八十九年、
桑港ニ日本婦人協會ノ設立ヲ見ルニ至リタルハ、實ニ女史ノ力タリ、爾來、在來本邦婦人ノ品位躰面ニ著シキ改良ヲ與ヘタルハ、
一ニ女史ノ苦心ニ出テタルモノニテ、當時女史ハ在米婦人唯一ノ燈明臺タリシヤ疑ヒナシ。
嗚呼女史ハ、桑港ニ在テ困苦自ラ給スル能ハザル境遇ニアリナガラ、能ク本邦婦人ノ爲ニ盡シタルヤ彼ノ如シ、
然ルニ女史ハ初ヨリ東行ノ念切ナルヲ以テ、久シク一地方ニ淹留スルヲ得ズ、時ニ會々前日本鐡道會社長奈良原繁氏、
鐡道事業視察ノ爲桑港ニアリ、深ク女史ノ志ニ感シ、金若干ヲ以テ之ニ贈レリ、女史ハ之ニ勞働中蓄積セシ分ヲ合セ、
彌東行ノ途ニ上レリ、初メニ「チカゴ」府ニ至リ、「チカゴトレイニングスクール」ニ入リ、女子教育ニ關スル事ヲ研究スル折抦、
日本語學教師トシテ、「ニューヨークトレイニング大學」ノ聘ニ應シ、傍ラ専ラ英文學ヲ講究セリ。
女史ハ米國諸州ヲ漫遊シ、深ク彼等カ風俗人情ヲ實際ニ探究セントセリ、一千八百九十一年五月、女史遂ニ其途ニ就キタリ、
此ニ特書スヘキハ、女史ガ到處ニ本邦固有ノ風俗習慣ヲ詳説シ、其流風遺俗ノ因ル所ヲ辨明シ、
以テ彼ノ支那人ト大ニ其科ヲ異ニスル所以ヲ辨シタルコト是ナリ、盖シ米國太平洋沿岸ヲ除ク外、内部ノ諸州ニ在テハ、
日本人ヲ見ルコト稀ナルヲ以テ、槪シテ支那人ト同一視シ、全ク日本ノ如何ナル國抦ナルヤヲ知ラズ、
女史此ニ見ルアリ、乃チ到ル處、演説ニ、講話ニ、力ヲ盡シテ之ヲ辨析シタルヲ以テ、大ニ米人ノ注意ヲ喚起シ、
彼我ノ待遇ヲ異ニスルニ出テタル結果トシテ我國ノ光輝ヲ發揚シタル功績ハ、實ニ偉大ナリト謂ハサルヲ得ズ、
女史ノボストン府ニ抵ルヤ、恰モ萬国禁酒大會ノ時ナリシ、女史ハ該會ヨリ日本國代表者トシテ招聘セラレタリ、
此日女史ハ一旒ノ旭日章大旗ヲ新調シ、之ヲ擁シテ數千人ノ上ニ立チ、一塲ノ演説ヲナセリ、
此演説ハ大ニ會衆ノ喝采ヲ博シ、數千ノ群集ヲシテ、日本國婦人ノ眞面目ヲ知了セシムルニ至レリ、
女史當年ノ改心想見スルニ餘アリ。
千八百九十二年十二月、女史舊世界ノ形况ヲ探撿セントシ英國ニ航セリ、「イングランド」「スコットランド」ヲ歷游シ、
到ル處ニ外人ノ歡迎ヲ受ク、演説ヲ試ミタリ、當時本邦人ノ英京ニ在ルモノ、大ニ女史ノ志ニ感シ、
補助救援女史ノ爲メニ謀ル所少シトセス、女史ハ北英吉利ニ於テ、彼ノ有名ナル「カバー子ススクール」 [158] ヲ撿閲セリ、
是レ將來女史ノ企圖スル事業ニ對シ、裨益スル者アルヲ以テナリ、是ヨリ女史ハ、亞非利加州ノ「メデーラ」島ヲ經歷シ、
再ビ英国ニ歸リ、轉シテ佛國其他ノ大陸ヲ巡遊 [159] シ、明治二十六年十月十七日無事ニ歸朝セリ、
女史外ニアルヿ八閲年、艱苦ヲ凌キ、萬難ヲ排シ、能ク當初ノ素志ヲ遂行セルノ傍ラ、到ル所ニ我國ノ光輝ヲ發揚スルヲ力メタリシハ、
東洋婦女子ノ夢想ダモ及ハザル所、而シテ其堅忍不抜ノ志ヲ持シ、憂國ノ熱情ヲ発揮スルニ至リテハ、
鬚眉ノ男兒ヲシテ瞠若タラシムルニ足ルモノアリ、女史今年齡四十有餘、今回愈々東京府下麻布區仲ノ町に塾舍ヲ新設シ、
倚松園女塾ト名ケ九月十日ヨリ開塾スルコトヽナシタリ、其趣意トスル處ハ、専ラ實譽ヲ重シ、重要ナル學術手藝ヲ學ハシメ、
世ノ良妻賢母タルノ資格ト、品位トヲ養成スルハ勿論、醇良ナル女子ノ德性ヲ涵養シ、且ツ家庭ノ事ヲ習練セシメ、
以テ女子ノ本分ヲ習得セシムルニアリト云フ。
女史自著アリ、「ウーカレスクホーム」 [160] ト云フ、米國ニ於テ出版ス、其出版册數五千册ニ上ル、
以テ女史カ名聲ノ歐米ニ普キヲ知ルニ足ラン。女子艱苦ノ際詠セシ一句アリ
いとしげき賤がしわざもたへしのぶ心になれていきこともなし」
* 女学雑誌 461号、p.35 (1898年3月10日)
女学雑誌は通読、チェックしたつもりだったが、時報欄の下記記事を見逃していた。
「伊東婦人會
静岡縣田方郡伊東村第二回伊東婦人會は、去月十三日午后一時より同村玖須美の齊藤方に開き出席者六十餘名、
會長園輝子の修身談及料理法の實驗其他會員の講話又儀式の研究などありと。」
齊藤とは齊藤要八(伊東の教員)のことだと思う。
* 東京盲啞学校沿革略創業廿五年紀念明治卅三年末調 p. 63 (1901)
寄附者氏名欄に輝子の名が見える。寄附額は10円、正確な時期は分からない。
* 女学新報 の協賛者
雑誌 "女学講義" の17号 (1901) に掲載された女学新報 [161] という雑誌の広告に、
女学新報の協賛者として 「豆州 園輝子」の名前が見える。輝子が伊豆で暮らしていた時期である。
* 兒童研究 7巻9号, p. 66 (1904)
築地本願寺境内に創られた出征軍人幼兒保育所への寄付者として名前がある。
「殊に感ずべきは神奈川松輪 [162] の園輝子といふ婦人にして、去る五月中自ら出京して金五圓を寄附したる上、
尚ほ知人の間を説き廻りて金七圓五十錢を集めて送り ...」
* おやこころ p. 35 (1904.12)
輝子と交流があった高崎正風の長男、高崎元彦が、8月26に日露戦争で戦死している。
元彦の追悼文集おやこころに、輝子の詠んだ歌が掲載されている。
「父君のをしへまもりて國のためみをすてにけんいさましの御子
 故高崎少佐の遺詠の新聞紙にいてたるを見て」
輝子の居住地は東京府となっている。
* 澁澤栄一傳記資料 別巻第一、日記(一). (竜門社, 1966)
明治38年 [1905] 5月24日の項に「夜、園輝子来話ス」 の記事が見える。
輝子が本門寺に隠遁後で、財産を渋沢に託した頃である。 [注65参照]
* 暁烏敏全集 第3部第一巻. (1960)
明治41[1908] 年日記、6月14日、p. 463-464 の記述。
「午後、佛徳会に行く。園輝子、ミス・スツラウトの二氏の談話の後、予『久遠の親を憶ふ』てふ題にて語る。
園氏は同題にて『妙』の字を語る。スツラウト氏禁酒を論ず。米国矯風会員也といふ。」 [163]
* 日本辯護士協会議録195号 (1915)
牛文野人の「牛のよだれ(二)」に輝子に言及した章 "女辯護士の元祖" がある。牛文野人氏については詳細不明。
「女辯護士の元祖。
老杉幾千年の翠を蓄へて、都の塵を外なる寂光土、府下池上本門寺の境内に、右松庵と云ふ尼寺がある、
玆年六十九の日輝尼僧の朝夕唱題三昧に入る道場である、日輝尼僧俗名は園輝子、茨城縣は土浦の産、
明治の初年に於ては日本は愚か歐米の諸國に迄も名聲を轟かした女傑が、數奇なる運命に弄ばれて、
終に佛門に入りし迄の紆餘曲折は一編の哀史であるが、この尼僧が日本に於ける女代言の元祖でありしとは知る人が少い、
輝子は十八歳の時他へ嫁したが故あって離別せられ、間もなく東京に出でゝ種々なる經過があって、
到頭女代言と云ふ奇抜な職業を開き一時は非常に繁盛して、佐藤某なる夫を迎え法律を學ばしめて
自分の補助を爲さしめたと云ふ位だから、自然其性格も判かるじゃないか、併し佐藤某 [164]
は妻の壓迫に堪へ兼ねて放蕩を始め、ツマリ離別沙汰となり、茲に輝子は福澤諭吉先生の援助の下に洋行したのである、
後の日本法制史を編む者の閑却すべからざる事柄であると思ふ。」
* 婦人集報2巻14号 (1916)
「園照子[ママ]刀自(日輝法尼)二十六日七十歳の延命祝賀會池上小學校に於て開催されたり。」 と 「個人消息」 欄にある。
* 現代佛教105号(10周年記念特輯號, 1933)
p. 570-580 に野口復堂の自伝 "復堂自傳" があり、園輝子に言及されている。
章立ては第四回まで、末尾には「未完」とあるのだが、続編を確認できていない。
「園の松」の内容と重なる記述も多いので、それ以外で気になった内容を取り上げる。
574 p. に友松庵の写真が掲載されている。本文中に写真の説明として
「武州池上本門寺の境内に在る、友松庵の光景にして、今や庵主園日輝尼が、座して富士山又は房總の山々を見て居る處」とある。
松に囲まれた庵と、開け放たれた部屋で文机のようなものを前にして座り、外を眺めている人物がかろうじて判別できる。
復堂と輝子の出会いは3章で以下の通り述べられている。
「明治四十一年に予は神戸より武州大森へ轉居した。此時附近の大井に居住せる、米國歸りの小谷部博士が
同國で知り合ひとなりし面白き日本婦人に紹介せんとて、予を大森山王の僑居より連れ出せしは僅か五六町の距離なる
寫眞の池上本門寺境内の友松庵にして、紹介さるゝ婦人は寫眞にみる通り庵主、當時六十二歳の老尼であった。
此の老尼が如何に紹介さるゝか、又妙久寺の件りに寫眞を出すかは次回で辯じる。」
復堂の父親は43歳の時に妙顕寺で若園日文師の剃刀によって得度していて、妙久寺は日文が後に引退した濃州三輪にある寺である。
続く4章が 「園輝子女史の上」 となっている。
p. 577 に、著書「園の松」について「法尼出生後の六十八年間即ち遷化の十四年前までの經歷談を載せたが」 とある。
この記述から、輝子がおよそ82歳で亡くなったことがわかる。1928年頃ということになる。
輝子が日蓮宗に帰依した理由について輝子は、
「日蓮上人の人格に惚れ、日蓮上人の法華經主義に賛成し、あの不惜身命的の行動、
首の座にすはり又は遠島、最後鎌倉よりの妥協を一蹴に付し『上に向かっては武家太平の護摩を焚き
下に向かっては金持檀家に利殖の胡麻を摺る様な坊主でないぞ』と、
高踏勇退身延の山奥に掘建小屋の住居に甘んずる此の氣概此の敵愾心は如何です。憧憬せざるを得んぢゃありませんか』」 と語っている。
復堂が父親も日蓮宗で、妙顕寺の若園日文によって得度したことを話すと輝子は
「園家の先祖は伊勢の能褒野から出て、園大納言藤原基福となって京都に住み、後柏原、後奈良兩朝に仕へたり。
園家より分家して若狭に住みし者を若園と唱えた。日文は其の若園の出である。不思議なものですね。
その若園の弟子が、あなたのお父さんで、そしてあなたが本家の園の私の傳記園の松をお書き下したとは」と語っている。
p. 577 に、「輝子は嘉永五年常州土浦の醫家園貞齋の長女と生れ」とあるが、
嘉永五年(1852)生れ、との記述は他資料とは異なる。「園の松」には弘化4年(1847) とある。
p. 578 に、「父[園貞齋]は明治十年十月四日に病死せり。」とある。
p. 578-9 に、モンゴリア号で明治18年12月19日午後2時に横浜を出港、
19年1月7日午後8時半サンフランシスコ着、とあり、船中で詠んだ歌として輝子の自伝にあるもの以外に
「ふじの峰は西に入る日の影さして積れる雪の色は紅」、「大君の光りを借りて行く旅はとこ夜の國も踏みは迷はじ」が紹介されている。
続いてアメリカでの苦労話が始まるが、その途中で終わっている。
文中には「四回五回の兩回は園さんを語る事に致します」とあり、前述のとおり続編が意図されていたはずだが確認できていない。
* 時の法令 189号, p. 16-19 (1955)
木村毅 [165] の連載記事 「多羅の芽法談」 の第44回、「女弁護士の草分け」が輝子を取り上げている。
輝子の存在を知ったのは「東京新詞」にある漢詩「代言人園輝女」 [166] であると述べ、
その後、木村は輝子と直接会ったことがある人物に会うことができた、として
アメリカのクーパア大学に留学中に輝子と知り合ったという京都東寺の救世病院長の小林参三郎氏 [167]
明治30年以後、教会が同じでしばしば会ったという立教大学史学部教授の野々村戒三氏 [168] を挙げている。
次に輝子を取り上げた新聞記事をいくつか紹介しているが、これはほぼ「新聞集成明治編年史」と同じである。
倚松園女塾については、「のちの東洋英和女学校 [169] の前身なのか、... まだ究めぬ」とし、
「もし、この女代言人のことについて、何か知っている人があったら、ぜひ教示にあずかりたい。」とも書いている。
「多羅の芽法談」 は後に単行本にまとめられ、 「まわり灯籠」(正・続、共に1959年)として出版されている。
幾つかの文章には、連載後に判明した事項が追記されているが、輝子については何も追記されていない。
[2023.11.30 追記]
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以下に未見の文献や関連資料等を挙げておきます。機会があれば調査しようと思っています。(随時追加します。)
・巌本賤子が、The Japan Evangelist 2(1), 1894. に "Mrs. Teru Sono" という記事を書いている。
 これは、「イギリス、アメリカで『日本の改革者』を自称する園テル女史について、国内での評価を述べ
 海外での読者に適切な判断を求めている」文章だという。(舞々 ; 18, p. 4-15の武田京子氏の論文による)
・婦人世界5巻7号 (1910) に輝子が 「洋行歸りの私が剃髪して佛教に入りし實歷」なる文章を寄せている。(女史文壇6巻8号冒頭の広告による)
・三田昇について。川口秀雄 (1971): 故三田昇教授の研究について.(関東学院大学工学部研究報告 ; 15(2), p. i-iv).
 著書・論文リスト、略歴が付されているらしい。この時点 (1971) で故人ということになる。
・輝子とは無関係ですが、興味深い記事を見つけたので紹介です。読売新聞の1889年11月21日の記事です。変体仮名は現行文字にしています。
  「老美人再び府廳に出頭す
  淺草區にて有名なる女代言師某子が所有地分割事件に付き花やかなる井出にて東京府廳へ乗込みし趣きは甞て記載せし事ありしが
  該事件は未だ結局に至らざりしものと見え同子はまたまた昨廿日大審院へ出訴する照會の用事ありとかにて銀林書記官に面會せんと
  再び同廳へ出頭せしが同日の打扮へとイツパ此度は頭髪を銀杏返しに髷ねられ相變らずお顔をしろじろと塗上げて鈍子紋形の義經袴を穿たれ
  黒七子に白く二ッ巴の紋を附けし羽織ゆらりと裾長に着下し三拾枚重ね緋天鵞絨の緒をすげしオイラン洲ラウカ國使用の草履を引摺り
  黒々と親骨嚴めしき鉄扇を携へゆふゆふと應接所に扣へ居られしが書記官の出頭遅刻に及びしより佐藤文書課長に面會を爲し
  書類を差出し靜々と引取られしは勇ましかりける次第なりしとぞ」
 輝子の渡米中の記事なので、別人です。同年12月4日にも続報が掲載されています。ちょっと面白そうですが、深入りするつもりは今のところありません。

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[1] 三淵嘉子 (1914-1984). 旧姓は武藤。後に裁判官となり、1972年には女性として初めて裁判所所長(新潟家庭裁判所)となった。
[2] 中田正子 (1910-2002). 旧姓は田中。夫の実家である疎開先の鳥取で晩年まで長く弁護士活動を続けた。
[3] 久米愛 (1911-1976). 日本婦人法律家協会を設立し会長に就任した他、国連総会に出席するなど国際的にも広く活躍した。
[4] 現存する自伝には表紙の見返しに自筆と思われるサインが残っている物がある。
  それらを含めて確認できる範囲では輝子は自分の名前を「そのてる」、「園てる」あるいは「Tel Sono」と書いている。
  自伝中の短歌に添えられた署名は「ふぢはらのてる子」。アメリカでは Cassie Tel Sono とも呼ばれていたようである。
  現在、国際日本文化研究センターのサイト(外像データベース)で扉の画像データが公開されている。
[5] 日本人が外国語で著し出版された自伝としては極めて初期の物である。女性のものとしては最初だろう。
  国内でこの本について言及しているものは少ないが、岡倉由三郎が 「日本人の歐米文學」 (1933) の中で
  以下の様に簡単に取り上げている。(第六章 宗教家の英文. 其二 耶蘇教家の英文)
  「一八九二年(明治二五)には、園てるといふ女性が遠く米國紐育から自序傳 "Tel Sono, the Japanese Reformer"
  なる一巻を出して気焔をあげて居る事は注目すべき事實であろう。 [中略] 此の著者の英文は極めて平易で興味の有るものである。」
  輝子の経歴については、「東京の詩人醫家の娘」 等と、自伝の内容に従い、最初の結婚相手については「真鍋町の一藩士」とし、
  「故國に自由教會を作る事を考へた人であるが、慈善の事に、救援の事に努め、米國では女史の感化で Tel Sono Society が
  諸方に出來たといふ。」としている。
  また、出版年を1892年としているが、初版の出版年は1890年である。
  改版は確認できていないが、岡倉が参照したのは後刷本かもしれない。
[6] 当時、いわゆる "士族の商法" として夏には氷屋を出す者が多かったようである。
[7] 大渡辺小太郎は、渡辺小太郎の誤記と思われる。渡辺小太郎は秋田県鹿角郡で弘化3年に生まれ、
  那珂道高(東洋史学者那珂通世の養父)に漢籍を学んだ。明治7年に上京、9年に代言試験を受け代言人となり、
  後に愛国公党に入り政治活動を行うが、明治21年に政治演説によって治安を乱したとして有罪となっている。
  さらに明治28年にはある裁判に関して賄賂を受け取ったとして告訴され有罪、禁錮刑を受けている。
[8] 草刈庄五郎 (1832-1896). 明治初期の馬術師範。当時歌舞伎役者などにも馬術指導をしていたようである。
[9] Moan Waka Sono. 今のところ漢字もわからず詳細不明。輝子の自伝に拠れば "philosopher" だが
  50歳過ぎてから "God in Heaven" を信仰するようになり私財を貧しい者に分け与え、80余歳まで生きたと言う。
[10] 園貞齋. 医者(儒者としている資料もある)との事だが詳細不明。輝子の自伝に拠れば1876年没。
[11] 妹の名前は春子というらしいが詳細不明。女学校についても確認できていない。
[12] 結婚相手は "Officer of the king's treasure"。大蔵官吏だろう。
[13] 幕末の茨城県で起きた反乱としては1864年に起きた天狗党の乱が有名で Manaba(真鍋)も放火などの被害を受けている。
  1866年には大きな反乱は無いので、年号に錯誤があるようだ。そうすると輝子は1863年に19歳で結婚していた事になり
  他の資料などから推定される生年と若干のずれが生じる事になる。
[14] 「東京新詞」は、大橋直と北真逸の二人が維新後の東京で文明開化の風俗事物を詠んだ漢詩集。両著者の経歴の詳細は明らかではない。
  明治8年 (1875年) に出版された初編に、「代書人園輝女」と題する詩がある。
    被耶袴耶傘耶靴
    男装而綰浴鴉髪
    玉腕綴成訴荅文
    ハ行雲烟一揮浚
    瞥見明眸排群蒙
    阿輝照出人中月
  収録された漢詩のなかに個人を題材にしたものはこの詩以外には殆んど無く、輝子の存在は異様に目を惹いたのだろう。
  この詩の前後には「代言人」、「高利貸」と題した詩があり、関連がありそうにも思える。
  輝子の様子を「男装」、また「代言人」ではなく「代書人」としているのは注意すべき点だと思う。
[15] 代言人規則に従えば女性には代言人資格は無いわけだが、実際には無免許代言人が横行していた。
  当時免許を受けた代言人はまだ少なく、すべて禁止してしまうと支障をきたす恐れもあり、
  ある程度黙認されていたらしいが中には私利を貪る等の悪徳代言人も多かったようである。「弁護士百年」(日本弁護士連合会, 1976)には
  「無免許時代にあった婦人代言人が事実上代言人の欠格事由として女性を考えたため消滅したことが惜しまれた。」とある。
  出典を確認できていないが、これは園輝子の事だと思われる。
  代言人規則制定後、渡米までどのような職業をしていたのかまだわからない。ずっと氷屋を営んでいたわけでもないだろう。
[16] 明治19年に倒産(廃業)した銀行はいくつかあるが、特定できていない。
[17] 美山貫一 (1847-1936). メソジスト教会の牧師。陸軍省勤務を経て1875年に渡米、サンフランシスコで福音会を設立した。
  中国人伝道館の下層室を借りて寄宿舎とし、当時サンフランシスコに渡った多くの日本人がこの寄宿舎を利用したと言う。
  1884年帰国、銀座教会を設立。翌年再渡米、ホノルルなどでも伝道活動をし禁酒運動も行った。
  美山らが開設した東京福音会夜学校は東京福音会英語学校として現在に至っている。
[18] WCTU (Woman's Christian Temperance Union)、女性キリスト教禁酒同盟(万国婦人矯風会等とも訳される)は1874年にアメリカで結成された。
  当初は禁酒運動を主な活動としていたが1879年に F.E. Willard が会長になって以後、組織は急速に拡大する。
  活動内容も女性の地位向上を中心とした多岐な分野に亘る様になり、世界に活動の場を広げることになる。
[19] Lucy Jane Rider Meyer (1849-1922) は夫の Josiah S. Meyer と共に1885年に Chicago Training School を設立、1917年まで校長を務めた。
[20] Union Missionary Training Institute は1888年に Mrs. Lucy Drake Osborn (1844-1922) がブルックリンに設立した学校で、
  生徒は数十人程度だったようである。輝子はここで日本語を教えていたらしい。
[21] 輝子の自伝に序文を寄せているのは Hester Alway という人物である。
  1895年11月8日の New York Times の記事に拠ると Missionary Training Institute の校長となっている。
  この時二人の日本人がいたと記録されている。
[22] 1892年度の会長は Sarah D. La Fetra となっている。ワシントンの WCTU 会長などを務めた人物である。
[23] 鬼頭悌二郎 (1855-1894). 明治時代の外交官。新潟出身。明治7年大蔵省出仕、後に農務省参事官など。
  明治22年副領事としてニューヨークへ、24年にはバンクーバー領事代理となる。27年官を辞し横浜同伸会社社長となる。
[24] Adoniram Judson Gordon (1836-1895) はバプテスト派の牧師。ゴードン・カレッジを設立した。
  夫人 Maria Hale Gordon (1842-1921) はボストンの WCTU の指導者だった。
[25] William Elliot Griffis (1843-1928). お雇い外国人として明治初期に来日し、大学南校などで物理、化学などを教えた。
  日本の紹介をした著書として The Mikado's Empire がある。
[26] Parents' Review は イギリスの教育者 Charlotte Maria Mason (1842-1923) が編集した雑誌。
  記事によると輝子は Mason を訪問し、基金への協力を依頼したようである。
[27] ほぼ同じ文面の記事が萬朝報(548号)など他の新聞にも掲載されている。
[28] 名称は「倚松園女塾」が正しい。名前の由来は不明。住所は麻布仲町十一番地。
  開塾前の8月から9月初めにかけて、いくつかの新聞に数度に亘って女学生募集の広告が掲載されている。それに拠ると
  「校舎寄宿舎新築落成来九月廿一日開塾。輝子夙に女子の教育に関し見る所あり曩に米国に航し尋て欧米各洲を歴遊し実に九星霜を費し
  親しく女子教育の実況を視察し得て大に啓発する所あり。今や当初の素志を実行せん為め茲に一校舎を創設せり。
  本塾の期する所は専ら実益を旨とし女子に必要なる学術工芸を学ばしめ家庭の事を練習し以て一家に主宰たるべき女子の本分を
  修養せしむるを以て主眼とす。冀くは大方の諸彦最愛の令嬢をして来学せしめられん事を。倚松園女塾塾主 園輝子」とある。
  土方苑子編「各種学校の歴史的研究」(東京大学出版会, 2008), p. 188 に拠っても倚松園女塾の設立趣旨は
  「本塾ハ実益ヲ旨トシ女子ニ要スル学術工芸ヲ学バシメ世ノ良妻賢母タルノ品性資格ヲ養成スルハ勿論、
  醇良ナル女子ノ特性ヲ涵養シ家庭ノ事ヲ習練シ之ガ主宰タルベキ女子ノ本分ヲ習得セシムルヲ以テ主脳トス」という事だから
  特に進歩的な教育を目指していたようには見えない。また、講じられた教科を見ると当時のミッション系女学校の教科よりも
  官公立系女学校のそれに近い。キリスト教を特に前面にだしたものでもなさそうである。
  塾の詳細は不明だが学生は30人程度、輝子の他には女性教師が二人いたらしい。
  また The Dundee Courier というスコットランドの新聞の1894年10月4日に "The ladie's tour round the world" という記事がある。
  F. Marie Imandt という記者の旅行記だが、日本を訪れた際に輝子を訪問していて開塾直前の塾の様子が窺える。
  まだ建設途中だったらしいが、塾は輝子の家に隣接し、一階が教室、二階が寄宿舎となっていた。
  1895年1月に発行された「東亰遊學案内」(訂正再版)に倚松園女塾が紹介されている。それによると、
  「実益を旨とし、女子に要する学術工芸を学ばしめ、世の良妻賢母たるの品性資格を養成し、
  家庭に在て重要なる主脳たるべき本分を細かに習得せしむるにあり。修業年限は二ヶ年として学科課目は左の如し。
  修身、礼儀、読書、習字、作文、算術、英学、家計簿記、家事経済、衣食住に関せる事、衛生、育児法、和洋裁縫、和洋料理法、和歌、挿花
  入学せむとする者は十三年以上とす。初級に入学する能はざるものには別に予備科を教授すべし。
  寄宿生は外出を許さず。又自ら金銭を所持することを得ざらしめ、一切の費用は父母親族保証人より幹事に於て堅く預り置くものとす。
  尚通学生は下宿又は旅人宿に止宿してこれより通学するを許さず。
  学費は束修金貳円、授業料金貳円、食料金四円、塾費金五拾銭と定むれども、通学生は塾費を要せず、
  三科目までの専科生は其授業料を半減す。
  本塾所在地は府下麻布区仲の町にして十一番地に設けられ、校主は九年の永き間欧米諸国に在学せる園輝子なれば
  開塾後日尚浅しといふと雖も其校運の昌盛に赴くや亦知るべし。」
  なお、麻布仲ノ町は現在の六本木三丁目にあたる。現在、アンバサダー六本木というマンションが建っている場所が塾跡地と思われる。
[29] 呉大五郎 (1862-?). 明治時代の外交官。上海に留学したのち、外務属となりボンベイ領事などを務めた。
  後に三井物産参事長、上海取引所取締役などを歴任している。
[30] 渋沢栄一 (1840-1931). 明治大正期の実業家。多くの会社を設立経営し近代日本の資本主義を指導した。晩年は文化事業にも力を注いだ。
[31] 土方久元 (1833-1918) は高知出身の明治時代の政治家。伯爵。東京府判事、内閣書記官長、元老院議官、農商務大臣などを歴任、
  晩年は国学院大学長など教育関係の要職に就いた。夫人龜子は才女で知られた。1910年没。
[32] 大越成徳 (1854-1923) は明治時代の外交官。外務省出仕からイギリス、フランス、上海、ブラジル等に駐在した。
  在英中に英国人 Carmen Aguirre と結婚している。
[33] 浜尾新 (1849-1925) は子爵。文部大臣、東京帝国大学総長等を歴任した。夫人作子は愛国婦人会設立に尽力した。1944年没。
[34] 津田梅子 (1864-1929). 明治の教育者。1871年に開拓使留学生として渡米。1882年は帰国後は華族女学校等で英語を教えたが
  1889年から1892年に再度渡米。1900年、女子英学塾(現在の津田塾大学)を開校した。
[35] 津田仙 (1837-1908). 明治期の農学者。キリスト者としても知られる。津田梅子は娘。
[36] 右松庵. 他の記事ではほぼ全て「友松庵」とされているので友松庵が正しいはずだが現存しないようである。
[37] 小池道子 (1845?-1929). 明治大正期の歌人。有栖川宮家に仕え、後に宮中に入って掌侍となり昭憲皇太后に仕えた。
[38] 伊能忠敬 (1745-1818). 日本で初めての正確な全国地図「大日本沿海輿地全図」を作製したので有名だが、
  忠敬は輝子の生れる30年近く前に亡くなっているのでこの逸話は明らかにおかしい。
  だが輝子が暮らしていた茨城県土浦で伊能忠敬は若い頃に算術や医学を学んでいるので忠敬の土浦での逸話が輝子の逸話と混同した可能性がある。
  輝子を称えたのが誰なのか、この歌の作者が伊能忠敬なのかどうか、共に確認できていない。
[39] 明治政府は秩禄制度改革として明治6年に秩禄公債を交付している。
  当然離婚はそれ以降のはずであるが自伝に拠ると明治4年に離婚している。
[40] 中島彜雄. 「日本醫籍録」(昭和3年版)に拠れば、文久元 [1861] 年石川県生まれ。明治39年まで海軍軍医、その後神奈川県で開業している。
  1920年代、中島の名前が喘息薬の開発者として婦人雑誌に頻繁に現れる。例として 「女性」10巻5号 (1926) から、その広告を引用する。
  「ぜんそく病者救はる
   ぜんそくには醫者も藥もないといふのが一般の定評となってゐる位でありますから、本劑の現出はほんたうに大福音です。
  ◇海軍々醫大佐中島彜雄先生の方劑により救はる
  洋醫が漢法藥から喘息の妙藥を発見したといへば、驚く方があるかも知れませんが元來漢法醫の秘藥は、
  天の配劑の妙法と何千年來長い間の經驗とに基いて方劑されたものでありますから決して洋藥に劣るものではありません。
  嘗て洋醫である中島海軍々醫大佐は自分の最愛の妻の二十八年間の喘息を救ふために總ゆる苦心研究を重ねたる結果
  畑違ひの漢法藥から、その妙藥を發見した事が發表され醫学界を驚かされた事がありました。
  而も其發見藥は止み難い愛慾心から方劑されたものだけに、世間にありふれた賣藥とは違ひ、
  其効能も的確で僅か四週間の服藥で二三十年來の痼疾難症も容易に根治し、二度と再び再發せず
  見違へる様な健康体になったといふ天授の妙藥ですから、此藥を試用してその奏効の顯著なるに驚き、
  命拾ひの感謝狀を寄せられた實例が數え切れない程澤山にあります。喘息患者は是非此妙藥をお試み下さい。
  ▲藥價 一週分三圓五十錢 二週分七圓
  ▲送料内地十二錢臺樺四十五錢鮮滿外五十錢
  尚服藥御希望の方は東京府池上本門寺前角菊地慣(振替東京五二八二二番)
  又は東京、日暮里谷中本一〇六妙法藥分圓へ御申込み下さい。」
  妻豊子は、倚松園女塾の開塾の頃には既に中島と結婚していたが、喘息に苦しんでいたようである。
  中島家の子孫については未調査だが、「大衆人事録10版」(1934) の、東京渋谷の医師、本郷不可思の項に、
  「妻 美代(明三八)神奈川縣中島彜雄長女東京高女卒」 の名前が見える。
[41] 文脈から明治5-6年の頃だと思われるが、「明治事物起源」に拠ると婦人束髪の初めは明治18年、渡邊鼎夫人だという。
  渡邊は「婦人束髪会」を起こした人物である。
[42] 代言人制度制定以前、暴利を稼ぐ悪徳代言人が横行していて、代言人制度自体がそういった代言人を制限する意図があった。
  当時の代言人は現在の弁護士のようにステイタスのある職業ではなく、どちらかと言うと悪いイメージが強かったようである。
  輝子がそうだったかどうか分らないが、巨額の金を得た、ということだから派手に活躍していたのは間違いなさそうだ。
[43] 明治4年、町民が馬子無しで馬に乗ることが許された。
  明治5-6年頃、一部の女性が馬に乗ることが流行ったが周囲からは奇異の目で見られたという。
[44] 中江兆民 (1847-1901). 江戸末期から明治の思想家。「東洋のルソー」と言われ衆議院にも当選したが在野時代は奇行でも知られた。
  輝子との関係については確認できていない。
[45] 風月堂. 1753年、大住喜右衛門が営んだ菓子屋「大阪屋」が始まり。1812年屋号を風月堂とした。
[46] 渡邊丈太郎. 詳細不明だが輝子は前述の渡辺小太郎と結婚していたと書かれているものもあるので小太郎の誤記の可能性が高い。
  しかし渡辺小太郎が輝子に命を助けられたとか、助手をしていた等の事実は確認できない。
  一方「横浜市震災誌」第五巻 (1927) に渡辺丈太郎と云う人物が「山吹町で妻子の惨死を目撃しつつ」という
  体験記を寄せている。その人物は尾張出身とあるが「日本紳士録 29版」に拠ると横浜で商栄無尽という会社で無尽業を営んでいる。
  無尽というのは一種の金融業だが、震災当時9歳の孫がいたとあるので輝子とほぼ同世代であり輝子の夫と同一人物の可能性もゼロではない。
[47] 福沢諭吉 (1835-1901). 明治時代の代表的思想家で慶應義塾の創設者。
  諭吉の伝記資料、書簡などを調査してみたが園輝子との関係は確認できなかった。
[48] 諭吉が関係していた新聞、「時事新報」の明治18年の9月から出発までを調査したが該当記事を見つけられなかった。
[49] 当時のサンフランシスコの日本人の月給は料理人などで15-25ドル、昼間学校に通いながら働くスクールボーイで週1ドル程度だった。
[50] サンフランシスコへ渡航する日本人は徐々に増えていたようだが、中には出稼ぎと称して渡航し娼婦になる女性もいたらしい。
  サンフランシスコの婦人矯風会員川口ますへの報告(女学雑誌227号, 1890年8月23日)によれば当時サンフランシスコの日本婦人は十数名、
  教会に来る人は七、八人だった。川口は輝子と協力して船が来港するたびに渡航してきた女性に目的などを聞き慈善会に来るように勧めたが
  行方をくらます者が多かった、と伝えている。
[51] 新門辰五郎 (1800?-1875). 江戸時代末期の町火消、侠客。没後は講談などにも取り上げられた。
[52] 藤井三郎 (1851-1898). 外務省官吏。1886年からサンフランシスコ領事。のち総領事、弁理公使などを歴任した。
  夫人は福音会会員を中心として発足した婦人慈善会のメンバーであった。
[53] 早川鉄冶 (1863-1941). 岡山出身。札幌農学校を卒業後、大隈重信のもとで秘書官を務め外務省政務局長、内閣書記官などを歴任した。
[54] 奈良原繁 (1834-1918). 明治時代の政治家。鹿児島出身。男爵。内務権大書記官、元老院議官、貴族院議員などを経て沖縄県知事。
  沖縄では近代化を専制的に進めたため「琉球王」と呼ばれた。日本鉄道会社の初代社長でもある。
[55] 第一回大会が1891年11月、ボストンで開かれている。日本では既に矯風会が設立されていたが、
  日本からの出席は1893年の第二回大会に桜井ちかが参加したのが最初である。
  第一回大会に輝子が参加しているのは確認できている。大会議事録をまだ調査できていないが短い演説をしたようである。
[56] 村井知至 (1861-1944). キリスト教社会主義者、教育者。愛媛県出身。同志社卒業後渡米、アンドーヴァー神学校で学ぶ。
  帰国後、東京外国語学校教授などを務めた。松村介石の「道会」に協力、後には神秘主義に傾いた。
[57] ワシントンには1892年から1893年にかけて滞在したようで、当時のワシントンポスト紙に輝子の記事が散見される。
  1893年1月2日に「Madame Tel Sono's farewell : the converted Japanese women going home to found a school」の記事がある。
[58] 河瀬真孝 (1840-1919) 明治期の官僚。子爵。 改名前の名前は石川小五郎。駐英大使(明治17年から26年)などを経て枢密顧問官。
[59] 佐藤愛麿 (1857-1934) 明治大正期の外交官。メキシコ、アメリカなどに駐在した。
[60] イギリスではロンドン日本協会でも、会員を前に演説したらしい。
[61] Pall Mall gazette が1892年11月24日の記事で輝子がイギリスに来たことを報じている。
  また Birmingham Daily Post が、1893年2月7日の記事で 日本で最初の女性弁護士 Tel Sono が
  東京で女性の為のクリスチャンの学校を設立する基金を集めるためにロンドンに来た事を伝えている。
  この時資金集めに協力したのは、1890年にイギリスの婦人矯風会の会長になった Lady Henry Somerset だった。
  そのほかいくつかの雑誌などにも取り上げられているが、輝子がヨーロッパ大陸に渡ったという記事は見つけられなかった。
[62] 新聞社の閉鎖も、名誉毀損の謝罪も確認できない。後述する「女学雑誌」は1904年に廃刊するがこの騒動とは関係ない。
[63] 東京都公文書館に明治29[1896] 年付け「私立倚松園女塾設立者園てるより廃校届」が保存されている。
  「東亰市麻布區全圖」(明治29[1896] 年一月調査)には、仲ノ町11に「倚松園女塾」の文字が見える。
  「東京遊学案内」では、第3版 (1895.5) には掲載されているが、第9版 (1896.1) には掲載されていない。
  閉塾の正確な時期を特定できないが、2年程しか存続しなかったことになる。閉塾の理由が経済的なものかは不明。
  一方、「東京名所圖會 麻布區之部」 (1902) には、仲ノ町の景況について 「町内に倚松園女塾 ... 等が第宅あり」 とある。
[64] この頃の輝子の消息を伝える記事は少ないが「婦女新聞」42号(1901年2月25日)に次のような記事がある。
  「伊豆田方郡伊東婦人会は去十日会長園輝子氏の邸内(字湯川村にあり)に開き小学校職員諸氏も生徒を率ひて来会、
  同地滞在中の高崎正風男も臨場したり。高崎男まづ勅語を奉読して一場の講話をなし次に園会長および会主斉藤要八氏の講演あり、
  了りて高崎男が両陛下より恩賜の菓子を会員一同に分配したり。」
  高崎正風 (1836-1912) は男爵。岩倉使節団の一員として欧米を視察、枢密顧問官などを務めた。
[65] 渋沢栄一については多くの伝記資料が公開されているがこの事実を確認できなかった。
[66] 例えば輝子が1894年9月に道明寺袋千個を「清国征討につきいささか寸志を表するため」軍用品として第一師団に献納、
  という記録が残っている。その記録には「東京府平民園輝子、東京府麻布区仲ノ町11番地」とある。
  日清戦争当時、キリスト教は天皇制に反するとして排斥される傾向があり、キリスト教者の中には進んで戦争に賛同を表明した者も多かった。
[67] これが事実なら輝子の墓は本門寺内に現存する可能性があるのだが調査できていない。
[68] 小谷部全一郎 (1868-1941). 1888年に渡米、エール大学等で学ぶ。1898年に帰国後は牧師となる。
  アイヌの教育に力を注いだが、また源義経=ジンギスカン説、日本人ユダヤ人同祖論などを展開した。
  1898年に自伝「A Japanese Robinson Crusoe」を英語で出版しているが、この中に輝子について触れている箇所がある。
  絵が上手だったという小谷部のワシントンのハワード大学時代の逸話を訳本「ジャパニーズ・ロビンソン・クルーソー」(1991)から引用する。
  「当時の週刊新聞「スタンダード」は次のような記事を載せている。『大学礼拝堂の呼びものの一つに、日本の J. オヤベ氏が新たに描いた
  バスコン教授の肖像画がある。... ソノ夫人を描いた二点 ... など極めて見事な作品を描いて来た ...』」
  輝子以外の人物の著作に輝子の名前が現れる数少ない例であるがどのような係わりがあったのかはわからない。
[69] 公家の園家(明治維新後は伯爵)は藤原道長の子孫。鎌倉時代の園基氏を祖とする。江戸時代に基任の娘が後水尾天皇の後宮となり、
   後光明天皇を出産した事で宮中で勢力を持ち大納言となる。輝子と同時代の園家の人物には明治天皇に典侍として仕えた園祥子がいる。
   園輝子と園家の関係は確認できなかったが少なくとも直系ではない事は確実である。
[70] 松村介石 (1859-?). 明治大正期のキリスト教指導者。幼くして安井息軒に入門した。
  基督教新聞主事、キリスト教青年会館講師などを歴任、後に儒教的な要素を取り入れた日本教会を設立(後に「道会」と改称)。
  弟は昆虫学者として著名な松村松年。
[71] 野口復堂 (1865?-1940以後). 京都の商家出身の教談家。本名善四郎。
  英語教師をしていたがインドに渡って神智学教会会長のオルコットを日本に招いた。
  明治26年のシカゴ世界宗教会議にも出席、松村介石とも知り合いだった。道徳的な訓話など、教化のための講談=教談を始めた。
[72] 岡松甕谷 (1820-1895). 幕末明治の儒学者。昌平黌教授。明治9年に私学紹成書院を設立した。後に帝国大学文学部教授。
  明治初期にはいくつかの私学で律学などを講じていた。中江兆民も岡松甕谷のもとで学んだ時期がある。
[73] 大山夫人. 大山捨松 (1860-1919) の事だろう。旧姓は山川。開拓使留学生として明治4年に津田梅子らと渡米。
  明治15年帰国、参議陸軍卿で伯爵の大川巌と結婚、伯爵夫人として鹿鳴館の花と呼ばれた。
[74] 瓜生夫人. 瓜生繁子 (1862-1928) の事だろう。旧姓は永井。大山捨松と共に開拓使留学生として渡米、音楽を学ぶ。明治14年帰国。
  瓜生外吉(後の海軍大尉)と結婚。音楽教育に努め東京女子高等師範学校教授となった。
  上記二人の留学は日本人女性としては最も早い時期の海外渡航であり輝子の渡米より十数年早く、輝子の述懐は事実とは異なる。
[75] 明治18年に創刊されたキリスト教系の女性啓蒙雑誌。主な編集人は巌本善治。
  啓蒙的な記事や論説の他、若松賤子訳の「小公子」など文芸面でも当時の女性に与えた影響は大きかった。
[76] Deaconess School だが、Chicago Training School の事である。
[77] サンフランシスコ在住の邦人によって創刊された週刊新聞「蒸汽船」の事。「海外邦字新聞雑誌史」に拠れば1889年に創刊されたが
  過激な内容が治安妨害とされ発禁、半年ほどで廃刊になったとある。なお上記文献には「週刊?」とされているが
  女学雑誌の引用の仕方(六月分)を見ると月刊だったのかもしれない。日本国内で所蔵している機関を見つけられなかった。
[78] John Marshall Masters の事と思われるが輝子との接点については不明。
[79] Merriman Colbert Harris (1846-1921). アメリカメソジスト監督教会の宣教師。1873年に来日、函館に伝道し内村鑑三らに授洗。
  1878年東京に移り、東京英和学校で教えた。1886年帰米、サンフランシスコで在米邦人に伝道したが、1904年に再来日している。
[80] Union signal は WTCU の機関紙である。 この記事については輝子の自伝にも紹介されており、その全文が自伝中に引用されている。
[81] American woman's journal の事だろうが未調査。
[82] 輝子の自叙伝とはタイトルが異なるようだが「米国女学新誌」を調査できておらず、原タイトルは不明。
  現時点で上記自伝(とその巻末に貼付されたパンフレット)以外の輝子の著作は確認できていない。
[83] ウエストミンスターガゼットは調査できていない。
[84] Dwight Lyman Moody (1873-1899). アメリカの大衆伝道者。
[85] Ira David Sanky (1840-1908). アメリカのゴスペル歌手。ムーディの伝道を助けた。
[86] Phillips Brooks (1835-1983). アメリカ聖公会のマサチューセッツ主教。明治22年には来日している。
[87] 渡辺小太郎は大蔵官吏ではなかったようなので、これは一回目の結婚の事だろう。
[88] 改進新聞は明治17年に開花新聞が改題した新聞だが所蔵している機関が少なく、調査できていない。
[89] 自伝出版以降の輝子の足跡は当時の欧米の新聞に散見される。
  例えば The New York Times は1891年11月22日にボストンでの大会で写真撮影に応じた様子を報じている。
  The Wasington Post は1892年2月20日に輝子のWCTUでの演説の様子を、1893年1月2日に輝子がアメリカを離れることを報じている。
[90] 井上次郎とは「女学雑誌」の編集人、巌本善治 (1863-1942) のことである。巌本は明治女学校の校長となり、キリスト教に基づく女子教育を進めた。
[91] Pandita Ramabai (1858-1922). インドの社会改革者。1883年イギリスで洗礼を受け、後アメリカにも渡っている。
[92] Edward Bickersteth (1850-1897). イギリス福音宣布教会の伝道主教。1886年に来日、翌年に日本聖公会を組織した。
[93] 和田秀豊 (1854-1946). 明治から昭和の牧師。1884-1901年芝教会の牧師を務め、またハンセン病患者の施設慰廃園を創立した。
[94] Maria T. True (1840-1896). アメリカ人の宣教師。1874年に来日、共立女学校などで教師を務めながら伝道活動を行った。
[95] 田村直臣 (1858-1934). 日本基督教会牧師。1893年に「The Japanese bride」(日本の花嫁)を出版したが
  誤った日本の女性像を海外に紹介したとして問題になった。
[96] Margaret MacLean (1838-?). 伝記の詳細はこの後に出てくる長坂毅の小伝を参照。日本海軍や商船乗組員などに対して
  長年多大の尽力があったとして明治35年、勲六等宝冠章を授けられている。
[97] 和田垣謙三 (1860-1919). 経済学者。東京帝国大学教授。1880年にイギリスへ留学。ロンドン大学などで学んだ。
[98] 島田三郎 (1852-1923). 政治家、ジャーナリスト。1887年イギリスへ渡航。
[99] 植村正久 (1858-1925). キリスト教指導者。1888年イギリスへ渡航。
[100] 三好退蔵 (1845-1908). 貴族院議員。1871年にヨーロッパへ、1888年にも渡欧している。
[101] 稲葉子爵. 稲葉正縄(1867-1919) の事。式部官。1888年にイギリスへ渡航。
[102] 植村俊平 (1863-1941). 大阪市長。1888年にイギリスに留学している。
[103] 佐伯理一郎 (1862-1953). 熊本出身の医者。熊本医学校を卒業、海軍軍医から産婦人科医となった。
  1887年、海軍省留学生としてアメリカから欧州へ渡航している。
[104] 原田助 (1863-1940) 同志社総長、ハワイ大学教授。1891年にイギリスに行っている。
[105] 日輝法尼(4)にも「総売上高一万一千円」とあるのでおおよその金額は正しいだろう。
  物価指数などを参考にして現在の金額に換算すると数千万円程度になる。
[106] 長坂毅. 日本に救世軍を紹介した人物の一人。救世軍の機関紙「ときのこゑ」創刊時の発行編輯人で、救世軍軍歌なども作っている。
[107] 藤田伝三郎 (1841-1912). 藤田財閥の創立者。 教育や慈善事業に多く寄附を行い、美術品蒐集でも名高い。
[108] 「園輝と妾との関係の梗概」. 原タイトルが確認できず、詳細不明。
[109] 「Light thrown on an involved subject」. これについても確認できない。
[110] 園輝会の賛同者の一人である、Mrs. A.J. Gordon とは別人のイギリス人 Elizabeth Anna Gordon (1851-1925) の事だろう。
  1891年に来日、第一次世界大戦時に一時帰国したが再来日、日本で亡くなっている。
  仏教に関心を寄せ、キリスト教と仏教の一元論やユダヤ人と日本人の関係などを論じた。
[111] 大正4年1月、左久良書房発行。題辞は松村介石。中外日報に連載したものを増補修正、纏めたものだという。連載時期は確認できていない。
[112] 『後柏原後奈良の両朝に奉仕して、上下に最も有卦の好かった園大納言藤原の基福卿と云う御公家様がございましたが ...
  入道遊ばして乗空と称し ... 天文八年五月廿八日に薨去なり ...』 とある。
  園基福は元禄12 (1699) 年没であり、時代が合わない。天文8 (1539) 年5月28日に亡くなった園家の人物を確認できなかった。
  出家後の名前 "乗空" についても確認できなかった。
[113] ただし、同書 p. 69 によれば、文敬は若い頃に浅田宗伯の内弟子だった時期があるという。
  その時、六右衛門新田の女と夫婦になり、男子ができた、との記述がある。
[114] 土浦周辺で報恩寺という名称の寺を確認できない。「筑波山附近霞ヶ浦沿岸鹿島香取成田名勝案内」(1912) に、
  高岡にある寺として法雲寺(禅臨済宗)の記述があり、同寺の誤記と思われる。なお、[注118参照]。
[115] 歌門子について現時点で何も判らない。歌人だという。本文中では輝子に通じるような武勇伝が幾つか語られている。
[116] 自伝の11ページには "I was the second eldest of four children." とあるが、輝子は長女、という事になる。
  弟は p.73 では "順ちゃん" と呼ばれている。(系図で示した順治のことだろう。 p.89 では順次とある。夭死したという。)
[117] この時、輝子は6歳だった、との記述がある。(p. 100)
[118] 貞齋の土浦での開業を報恩寺の珂月和尚が祝った、とある。法雲寺に幕末から明治維新頃に同名の僧がいることからも
  報恩寺が法雲寺の誤りであることがわかる。珂月が法雲寺の住職になったのは安政5(1858) 年以降のようである。
[119] 岡田善藏については詳細不明。他に中條留五郎、和泉清一郎、藤田長右衛門などの名前があるが、経歴の分かる人物はいなかった。
[120] 同じ鰻屋に下宿して病気になった小太郎の看病から結婚することになったという。
  この時、小太郎は34,5歳とある。小太郎は1846年生まれなので、1880年頃(明治13年頃)となるが、
  「在野名士鑑 巻之貳」(1893) に拠れば1874年上京、1876年に代言人となっているので、
  小太郎、輝子共に30歳頃の結婚だと思われる。小太郎は結婚後に法律学校に通った、とある。
[121] 柴山矢八 (1850-1924) の事だろう。海軍大将。
[122] この頃、『宗対馬守様の御二男が法律研究の為め園代言社へ御通学になって』いて、
  その人物は『黒田家へ御養子』となったとある。宗義和の六男で、黒田鏻子の入夫となった黒田和志 (1851-1917) の事だろう。
  後に裁判官、貴族院議員となっているが、輝子との関係を確認できない。
[123] 日尾直子 (1829-1897) は明治時代の教育者。日尾荊山の娘。荊山の没後、子女の教育に尽力した。
  園豊子は、「日本及日本人」昭和13年4月号に回想記 "日尾塾のことども"(談話)を書いている。
  豊子は明治11[1878] 年入学、塾を出たのは14歳の時だという。
  標題通り、日尾塾の日常を回想したものだが、母輝子や自身の家庭に触れている部分がある。
  塾に入った経緯は、「宅に書生がをりましたので、私が子供の癖に理窟を云ふ。
  こんなことではいけないから、どこかへ預けるといふことになって、最初は跡見へ入れるかといふ話だったのですが、
  だんだん様子を聞いて見ると、どうも大分贅沢で、吾々の子供を入れるやうなところでない。
  そこで日尾先生の方へ参るやうになったのです。」 とある。
  また、「私の母が日尾先生の仮名が気に入りませんで、千字本を習ったものですから ...」
  「明治二十六年でしたか、母が外国から帰りました時分に、連れられて御目にかかりに行ったことがあります。」 と書かれている。
  なお、記事の署名は "園豊子" となっている。夫である中島彜雄の没年を調べられていない(昭和6年頃らしい)が、
  昭和13年の時点(およそ70歳)で旧姓を名乗っていたことになる。
[124] これは年譜で触れたとおり、1876年の事だと思われる。読売新聞の記事は未確認。開化亭は後に500円で名前を譲った、とある。
[125] 離婚の原因は小太郎の女遊びとされる。離婚直後(2月4日)に、橘町で火事があったと、書かれている。
  1880年2月3日深夜、橘町で発生した火事で消失した家屋は千戸を超えたとされる。
[126] 元田直 (1834-1916) は、法律家。東京代言人組合の初代会長を務めた。
[127] 近所の誼で、凬月堂の差配の帳簿の取り調べをしたのがきっかけらしい。
  新商品 "クリーム" を巌谷一六の許に持参し、店の扁額を無料で書かせた、という。
  米津凬月堂はシュークリームを1884年に新製、発売している。
[128] 兆民の自宅売却の斡旋をしたという。鶴仙亭の向う細道に住んでいた兆民のために買手を捜し、兆民一家は輝子の家に引っ越したという。
[129] 代言人規則制定後も、園代言社は継続し、仕事は部下が行っていたが、陰の仕事は面白くないので海外渡航を思い立った、とある。
[130] この日横浜を出港したモンゴリア号という船を確認できない。サンフランシスコに向けてはリオデジャネイロ号が出港している。
[131] 並河、川西については特定できていない。
[132] この時、奈良原は30ドルを寄付し、『自分の娘は貴女設立の学校へ入学せしむべし』と約束したが、娘は夭折したという。
  1889年12月に亡くなっていた次女時子の事だろう。時子は1885年に華族女学校に入学している。
  華族女学校第三年報によれば1888年7月時点で高等中学科2級生。
  また、谷干城の「洋行日記」(「谷干城遺稿」(1912) 所収)に拠れば、谷干城がサンフランシスコに滞在したのは1887年5月31日から6月4日まで。
[133] 原文では『川口増井の両女に別るる』とあり、二人の人物として表現されている。
  当時輝子と交流のあった人物としては、川口ますへ(女学雑誌227号)がいる。(安武の論文では "川口ますえ" と表記されている)
  一方、増井という人物を特定できない。推測になるが、輝子が "かわぐちますえ" と語った人物を復堂が二人の人物の名と誤解したのだろう。
  前述の "報恩寺"/"法雲寺" の様に、同書には聞き間違いと思われる個所があり、輝子の口述を元に書き起こしたものと思われる。
[134] 高野某氏については不明。
[135] この時、福田、青山、浅田栄治等の告別を受け、ニュージャージーではミス・オノの迎えられた、とある。
  福田、青山、ミス・オノについては不明。浅田栄治は英語学者。当時はシカゴのギャレット聖書学校に在籍していた。
[136] 出版者ハントの主人に、良い本だからと言われてその場で初刷千部を店員に売り尽くし、その場で第二刷の注文をした、という。
[137] 当時の公使は高平小五郎。夫人は清子。
[138] 中山嘉吉郎はワシントン公使館の書記生。
  レセプションは2月26日にフレドニアホテル (Hotel Fredonia)で開かれている。このホテルの支配人は WCTUワシントン支部の会長 Sarah D. La Fetra。
  輝子の滞在時期から1892年のはずだが、クリーブランドの大統領任期(22代、1885-1889: 24代、1893-1897)とは重ならず、現役時代ではなさそうだ。
[139] 日常がかなり詳しく記されている。少なくとも晩年までは手元に保管されていたようである。子孫の方が保存されていれば良いのだが。
[140] 新藤、田邊氏については不詳。『ホワイトスターラインの独逸船に乗込み』 とあるが、イギリス海運会社の White Star Line のゲルマニック号 (SS Germanic) のこと。
  ホワイトスターラインは、あのタイタニック号を保有していた会社。
[141] 既出以外の人物について簡単に記す。(肩書はイギリス在住時のものとは限らない)
  藤村徳司. 汽車製造合資会社総支配人。(「日本全國諸會社役員錄 明治30年」)
  曾根高祥. 大阪麥酒株式會社大阪支店輸出係主任。(「日本全國諸會社役員錄 明治36年」)
  清水市太郎. 衆議院議員。
  六郷政賢. 子爵、貴族院議員。
  日野資秀. 伯爵、貴族院議員。
  清岡邦之助. 日本郵船香港支店長など。妻は福澤諭吉の三女。
  田結鉚三郎. 外務省職員。おそらく当時は公使館書記生。
  中井芳楠. 正金銀行ロンドン支店副頭取。
[142] ミス・アンドルウについては不詳だが、「園の松」出版当時、東京氷川町34番に住んでいたという。
[143] このミス・マクリーンとの事件の詳細を確認することができていない。ミス・マクリーンについてはかなり悪し様に描写されているが、
  実際どうだったかのか判然としない。望月小太郎 (1866-1927) は政治家。当時ミドル・テンプル大学で法律を学んでいた。
[144] 当時の領事代理、宮川久治郎と思われる。
[145] 証明書本文を転載する。
『園輝女史は茨木縣土浦の醫家園貞齋の長女なり。幼時土浦町大塚甚左衞門の妻瀧子氏に就き小學初歩を學び、
 其より實父に從て和漢文を修め、爾後東京に出て婦人代言人となり、其職を以て獨立の道を立てたり、
 且傍ら舊幕の儒者馬場哲藏氏の門に入り、同氏死後は岡松甕谷先生の門人となり漢學を研究せり、
 且女史は渡邊小太郎氏の爲めに、大に盡す所あるの糟糠の妻たり、同氏とは條約を以て結婚し、條約を以て離婚せり、
 坂本柳左は離婚の際双方取替證書に奥印を爲せり、拙者等一同に始終共此件に與りし所の者なり、
 依て園輝女史に付き毫も憚る所なきを證明する者也。』
  日付は明治二十八 [1895] 年七月。署名しているのは、以下の4人。
  中山信安 (1832-1900): 茨城県権令
  平岡準藏: 宇和島県参事. 文中には「輝子の帰朝に先立って死し」とあるが、署名の日付と合わない。
  坂本柳左: 第一国立銀行
  山田喜之助: 弁護士、衆議院議員。妻は岡松甕谷の二女。
[146] 栄一の後妻、兼子の事だと思われる。兼子は豪商の娘として生れたが、維新後、家が没落し芸妓をしていた時に栄一と知り合い後に結婚した。
  結婚したのは明治16(一説に18)年。輝子の洋行以前である。
  原文は『海軍中将細谷資氏に小松謙二郎氏の令妹を取持った』とある。「細谷資氏」 の部分は "ほそやすけし" とルビが振られているが、
  「細谷資氏氏」(ほそやすけうじし)の誤植だろう。細谷資氏 (1858-1944) の最終階級は海軍少将の様である。(明治36年7月7日叙任)
  「小松謙二郎」 も 「小松謙次郎」 の誤植。小松謙次郎 (1864-1932) は貴族院議員。
  細谷は横田数馬の娘つやと結婚している。謙次郎は数馬の次男。いつ結婚したか確認できていないが、おそらく輝子の洋行以前だろう。
[147] ツル [Maria T. True] に『女塾を閉じましたから、私の財産全部と此の一身を貴女に献上致しますので、
  何分宜しく此の園輝を死ぬ迄御引受下さい』 と言ったところ、応じてくれなかったため、『基督の神は園輝を捨て賜いしか』と、キリスト教徒と絶縁した、とある。
[148] 桝重については未確認。慈光寺侍従は、慈光寺演子の事だろう。
[149] 本門寺住職久保田日龜上人と知り合いだったという。
[150] 高崎男爵の長女竹子が、田中不二麿の息子阿歌麿と結婚している。藤井善言は佐倉藩士、書記官。
[151] 1907年6月の伊東の大火の際、50円を救済金として送った。何ら褒賞がなかったが、大正3年8月1日、静岡県知事から賞状と木杯が贈られたという。
[152] 訪れる人として高崎正風、鎌田正夫、遠山英一、小川直子、小谷部全一郎、豊田寅之助の名が挙げられている。
  鎌田正夫 (1855-1915)、遠山英一 (1863-1955) は歌人。共に高崎正風に師事した。
  小川直子 (1840-1919) は金沢生れの教育者。金沢女子師範学校などを経て明治24年宮内庁出仕。
  大正3年に出版された直子の歌集 「竹乃下枝」 に輝子に関連した一連の歌が掲載されているので引用する。
  「園てる子刀自が友松庵といふを造りて住つゝ我こそ極樂に遊ぶなれといはれければ
    心からはすのうてなとおもひなす 君かいほりや樂しかるらむ
  園てる子尼より『池上のやまのもみちもいろつきぬ君か來まさは共になかめむ』となむいひおこせ給へるそのかえりことになすらへて
    共にみむ山のにしきを思ひやりて はやあくかるゝ我こゝろ哉
  かくて廿三日に朝まだきより庵をたちいでゝとひける電車の中にて
    霜のおく野風のさむさよそにして うちねふりつゝかよふ車路
  友松庵輝子のもとにて
    松かけの一もともみちてりわたり あるしの名さへ見ゆる秋哉
  同じ君が日ごとひごとに天つ少女の樂をきゝつゝ暮す也といはるゝを
    松風をあまつをとめのものゝ音と きゝて樂しむ君そゆかしき」
  豊田寅之助についてはよく判らないが、実業家。玉川水道株式会社取締役などを務めた。
[153] また、名古屋の東輪寺にある祖先の墓を整え、赤銅4尺の灯篭を寄進したという。
[154] 美濃の本家若園を訪ね、京都、神戸あたりを遊覧したという。
  神戸ではオリエンタルホテルに宿泊した際、偶々廊下を通りかかった外国人に声をかけられ、こんなやり取りをしたという。
  "Are you Madame Sono Tel?"
  "Yes, sir."
  "I saw you in London, you have greatly changed"
  "Have I?"
  ロンドン時代から10年以上経っているのに、剃髪姿の輝子に気づいた、というのはちょっと眉唾臭い感じもする。
  友松庵で輝子の身の回りの世話をする女性は夫が旅順で戦死して生計に苦しんでいるのを輝子が助けた人物だという。
  その娘はメキシコ領事の田邊氏に遣わしたという。
[155] 開塾式に渋沢が演説したことは当時の新聞記事(読売新聞 1894.9.16)などで確認していた。
  渋沢が残した日記にはこの時期が含まれておらず、詳細が未確認だった。
[156] 千草の園は、菁莪學友會が出版した雑誌。菁莪学校は埼玉県白岡市立菁莪小学校の前身にあたり、
 明治22年岡泉学校が菁莪尋常小学校に、明治25年に菁莪尋常高等小学校へと改称している。
[157] 「園の松」 に、アラメダのクラシカルスクールを卒業した、との記述がある (p. 255) が、現在の大学にあたるものではない。
 読売新聞掲載の「日輝法尼」 に拠れば 「小学校を卒業した」 とある。
[158] Governess school、19世紀の女家庭教師を養成する学校だと思うが、特定できない。
[159] "メデーラ" は大西洋にあるマデイラ島(ポルトガル領)の事だろう。訪問の意図は分からないが観光だろうか。
 フランス等も訪れたとされているが、足跡を確認できない。
[160] 輝子の著書とされる 「ウーカレスクホーム」、原綴が判らない。"work, rescue home" だろうか?
 あたりをつけて思いつく単語で随分調べたが存在を確認できない。
[161] 女学新報の主幹は海老原辰三という人物だが、詳細不明。他の協賛者として、以下の名前がある。丸かっこ内は併記されている肩書。
 小川直子(常宮・周宮御用掛正八位): [注152参照]
 岡見清致 : 頌栄女子学院の創設者。1855-1935。
 井關美清(正七位): 詳細不明。宮内省御用掛。
 松島剛(東京通信學院長): 教育者。東京英和学院教授など。1854-1940。
 海老原喜右衞門(茨城縣多額納税者): 詳細不明。主幹の海老原辰三の縁者だろうか。
 辰三も茨城県出身だとすると、土浦生れの輝子とは地縁関係がある人物かもしれない。
 森村菊子 : 日本女子大学同窓会の桜楓会補助団幹事などを勤めた。夫森村市左衛門は日本陶器を設立した実業家。1912年没
[162] 松輪は三浦半島の南端近くにあたる。輝子は1904年に本門寺に隠棲しているので、
 伊豆から本門寺に移る前に短期間神奈川に居た時期があることになる。
[163] 暁烏敏 (1877-1954) は真宗大谷派の僧侶。
 ミス・スツラウトは、WCTU 会員 Flora E. Strout (1867-1962) のこと。彼女は同年5月20日に日蓮宗大学で講演をしている。
 当時、輝子は日本の婦人矯風会とは距離を取っていたようだ。
 おそらく WCTU の旧知の人物から依頼された輝子が、仏教系の会合での講演を設定したのではないかと思う。
[164] 夫 "佐藤某" は「園の松」等、他の資料とは違っている。法律を学ばせ補助させたのは、再婚相手の渡邊小太郎のはずである。
 佐藤某というのは最初の結婚相手の名前かも知れない。
[165] 木村毅 (1894-1979) は文芸評論家、明治文化史研究家。
[166] 木村は、詩の題を「代言人園輝女」としているが、「代書人園輝女」が正しい。
[167] 小林参三郎 (1863-1926) はクーパー医科大学 (Cooper Medical College) を1891年に卒業している。
 クーパー医科大学は後にスタンフォード大学に譲渡され医学部となっている。
[168] 野々村戒三 (1877-1973) はクリスチャンの歴史学者。輝子は、帰国後は監督教会(日本聖公会)に出席していた、
 とされる(女学雑誌386号)が、野々村との接点は確認できない。
[169] 東洋英和女学校は1884年に麻布に設立されていて、共にキリスト教系だが輝子とは関係ない。

[補注1] 単に輝子の名前のみを挙げている資料等を列記していきます。
・日米文化交渉史第5巻 移住編. p. 48 (1955).
明治中期、「渡米して永くアメリカに留まり、奮闘努力して、在米日本人発展の礎石を築き、あるいは帰国して
実業界等に活躍した主なる人々」 として1885年に渡米した人物(36人を列記)の中に、「薗てる」 の名がある。
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(2011.03.14 初出、2018.08.31、2020.06.11、2021.03.09、2023.05.10、2023.11.30 追記)