ドルメン掲載の「摩羅考に就て」の欠字の基準がわからない。

私は南方熊楠が好きで、以前にもこれとか、これで話題にした。
中学生の頃から現在に至るまで、時々読み返したりしているので、何度も読んだものも多い。
熊楠の著作は、乾元社と平凡社から全集が出ているが、彼の著作を確認する場合は、普段は平凡社版全集を参照している。
平凡社版は、現代仮名使いに改められているために本当はあまり好きではなく、乾元社版で読む方が彼独特の味が楽しめると思う。
だが、網羅的であること、引用の漢文が読み下し文に改められていること、そしてなにより詳細な索引が付けられているため、
熊楠の膨大な著作を縦横に調べるのには平凡社版が圧倒的に便利(そしてほぼ唯一の資料)である。
なので、生前に刊行された「南方随筆」等はもちろん、雑誌類に発表された熊楠の文章を初出資料に遡って読むことは今までほとんどなかった。
職業柄、戦前の雑誌類を確認することは容易な環境ではあるけれど、そこまでする必要はないかな、と思っている。

先日、仕事上「ドルメン」という雑誌の現物を確認する必要があった。
ドルメンは1932年に創刊された雑誌。巻頭には「人類學、考古學、民俗學並に其姉妹科學にたづさはる諸學究の極く寛いだ爐邊叢談誌である。」と書かれている。
炉辺叢談、と謳っている通り、堅苦しい論文は比較的少なく、紀行文的なもの、随筆的なもの、当時の学会事情など、気軽に読めるおもしろい記事も多い。
その第三巻 (1934) をぱらぱらとめくっていくと、十一号冒頭にある熊楠の「摩羅考に就て」が目に止まった。
男性の性器の呼称 "マラ" についての論考で、ドルメン三巻七号に掲載された竹本抱久呂菴の「摩羅考」に対する批判である。

竹本抱久呂菴の「摩羅考」は、マラの語源についての考察で、1ページに満たない短文である。
竹本は、「南北朝の頃、真言立川流の文観と親交厚かった円観に至って、この尊かるべき玄旨灌頂血脈の法門に、インチキ坊主が考案せる立川流を混じて、
比叡山常行三昧堂に於て、念仏三昧の道場神として祀られていた摩多羅神を持って来て、本尊として淫詞的教義を伝ふるに至った ...
かくて摩多羅神は、摩羅神と愛称され ... 吾々の股間にまでその名を残された」 としているのだが、
熊楠はそれに対して円観の時代よりも古い文献から "摩羅" の使用例を博捜し、竹本の説に反論したのだ。
なお、三巻十号には清水佐介も「摩羅考異議」という短文を寄せている。

大変面白い文章で、乾元社版でも平凡社版でも何度か読んでいるが、初出雑誌のドルメンで読んだことはなかった。
何気なく読んでいくと、何ヶ所か空白があることに気が付いた。検閲か、あるいは出版社側の規制によるものだろう、語句の一部が欠字になっている。
乾元社版でも平凡社版でも、こんなに欠字は無かったはずだ。

乾元社版全集はその凡例によれば熊楠の著作を出来るだけそのままの形式で刊行しようとするもので、
用字やかなづかい、引用された漢文はそのままだが、南方家に保存されている原稿や手沢本によって校訂されていて、句読点やルビは若干の補足がなされている。
ただし(今回読み比べて初めて知ったのだが)「摩羅考に就て」 には校正ミスだろうと思われる、字句が抜けているところ(ドルメンのおよそ一行分 [注] )がある。
平凡社版全集は本文は現代かなづかいに改められ、漢字、送りがな等も整えられ、漢文の引用は原典で校訂したうえで読み下されている。
また、手沢の所蔵本の書き込みを生かした、ともあり、実際 「摩羅考に就て」 にも [著者書きこみ] として複数個所に熊楠自身の加筆が挿入されている。
(「摩羅考に就て」は、南方熊楠顕彰館にある所蔵資料・蔵書一覧に拠れば、抜刷 [目録番号 原稿1042、1043] が残されている。)
ドルメンに掲載された 「摩羅考に就て」 の欠字を、ドルメン、乾元社版、平凡社版、の文章で校合してみた。

1行目がドルメン、2行目が乾元社版全集第3巻、3行目が平凡社版全集第5巻所収のもの。
それぞれ、ドルメンを D、乾元社版を K、平凡社版を H の略号で、ページ数と行数を示し、文脈がわかるように該当箇所の前後を含めた文を並べた。
ドルメンは1ページ二段組なので上下を表示し、欠字(空白)はその文字数分を ␣ で表し、乾元社版と平凡社版の復元された部分は太字にした。
なお、乾元社版では所収雑誌巻号を「昭和十年一月發行ドルメン四卷一號」とするが、正しくは昭和9年11月発行の三巻十一号である。

1
 D2,上18
 K241,9
 H74,16
 「君さまを○の出る程思へども、君は吾をば屁とも思はず」 -- [注: ドルメン唯一の伏字]
 「君さまをの出る程思へども、君は吾をば屁とも思はず」
 「君さまをの出るたび思へども、君はわれをば屁とも思はず」
2
 D2,上20
 K241,10
 H74,17
 弊衣を一同に笑はれたので、愈よ面白からず、␣␣␣␣␣を思ひ切て、寒い笠置の岩穴に入りびたり、
 弊衣を一同に笑はれたので、愈々面白からず、暖たかな肉穴を思ひ切て、寒い笠置の岩穴に入りびたり
 弊衣を一同に笑われたので、いよいよ面白からず、暖かな肉穴を思い切って、寒い笠置の岩穴に入りびたり
3
 D2,下17
 K242,8
 H75,10
 おびえて身を振ふ程に、屁も糞も一度に出にけり、␣␣␣␣␣␣␣␣␣も外れて云々、
 おびえて身を振ふ程に、屁も糞も一度に出にけり、穴に取あてたるまらも外れて云々
 おびえて身を振るうほどに、屁も糞も一度に出でにけり、穴に取りあてたる摩羅も外れて云々
4
 D2,下21
 K242,11
 H75,13
 六寸の物は、斯る様なる物か迚、僅かなる␣␣␣の、然もきぬ被きしたるを、かき出したりければ、
 六寸の物は、斯る様なる物かとて、僅かなる小まらの、然もきぬ被ぎしたるを、かき出したりければ、
 六寸の物は、かかるようなる物かとて、僅かなる小摩羅の、しかもきぬ被きしたるを、かき出だしたりければ、
5
 D3,下12
 K244,4
 H76,14
 切羅乃ち羅切で、川柳に「羅切して␣␣になる長局」抔ある
 切羅乃ち羅切で、川柳に「羅切して又下になる長局」などある
 切羅すなわち羅切で、川柳に「羅切してまた下になる長局」などある
6
 D3,下16
 K244,7
 H76,18
 小石川邊の或住持が、昔し女犯を悔て␣␣したるも、後ち女犯の禁が解れたので、
 小石川邊の或住持が、昔し女犯を悔て羅切したるも、
 小石川辺のある住持が、むかし女犯を悔いて羅切したるも、
7
 D3,下18
 K244,8
 H76,19
 新たに大黒を迎え、非常に␣␣␣␣␣で功を奏し、子を生だと、
 新たに大黒を迎え、非常に短かい手槍で功を奏し、子を生だと、
 新たに大黒を迎え、非常に短かい手槍で功を奏し、子を生んだと、
8
 D3,下20
 K244,10
 H77,2
 切り跡癒合して小突起、宛かも指先き如きを生じた奴で、␣␣␣␣␣␣␣␣␣␣␣␣、毎夜倦果たと、
 切り跡癒合して小突起、宛かも指先き如きを生じた奴で、長々しくこそぐらるゝには、毎夜倦果たと、
 切り跡癒合して小突起、あたかも指先きごときを生じたやつで、長々しくこそぐらるるには、毎夜倦き果てたと、
9
 D4,上6
 K244,14
 H77,6
 和歌山の妓女同然、徹宵␣␣␣␣␣て、疲れ斃れたらしい
 和歌山の妓女同然、徹宵××××て、疲れ斃れたらしい -- [注: 乾元社版で唯一、ドルメンの欠字を復元できていない箇所]
 和歌山の妓女同然、徹宵こそぐられて、疲れ斃れたらしい
10
 D4,上18
 K245,8
 H77,13
 「下にさがりたる袋の殊の外に覺えて」、二三人して足を␣␣␣させて、小童をして、ふくらかな手して股上を撫しむると、
 「下にさがりたる袋の殊の外に覺えて」、二三人して足を引廣げさせて、小童をして、ふくらかな手して股上を撫しむると、
 「下にさがりたる袋のことのほかに覚えて」、二、三人して足を引き広げさせて、小童をして、ふくらかな手して股上を撫でしむると、
11
 D4,上19
 K245,9
 H77,13
 蕈形の␣␣ふらふら␣␣␣、すけすけと␣␣打付けたから主人以下諸聲に笑ふ。 -- [注: "ふらふら"、"すけすけ"(すはすはの誤記)は原文は踊り字を使用]
 蕈形の偉物ふらふらと起り、すはすはと腹に打付けたから、主人以下諸聲に笑ふ。
 蕈形の偉物ふらふらと起こり、すはすはと腹に打付けたから、主人以下、諸声に笑う。
12
 D5,上17
 K247,7
 H79,2
 知俊朝臣の一物も、␣␣␣␣␣の御覽をへたので龜頭を垂れて感泣したで有う。
 知俊朝臣の一物も、後小松法皇の御覽をへたので龜頭を垂れて感泣したで有う。
 知俊朝臣の一物も、後小松法皇の御覧をへたので亀頭を垂れて感泣したであろう。
13
 D5,上20
 K247,10
 H79,4
 寤て傍をみるに、五尺程の蛇が口を開て␣␣を吐き死で居た、
 寤て傍をみるに、五尺程の蛇が口を開て男精を吐き死で居た、
 寤めて傍をみるに、五尺ほどの蛇が口を開いて男精を吐き死んでおった。
14
 D5,上21
 K247,10
 H79,4
 早うわがよくね入にける間だ、𨳯の␣たりけるを、蛇の見て寄て呑けるが、 -- [注: 𨳯 の訓は "まら"]
 早うわがよくね入にける間だ、𨳯のたりけるを、蛇の見て寄て呑けるが、 -- [注: ルビは(あき)たりける]
 早うわがよくね入りにけるあいだ、𨳯の発りたりけるを、蛇の見て寄りて呑みけるが、 -- [注: ルビは(おこ)りたりける]
15
 D6,下21
 K250,9
 H81,9
 又川柳に「はまぐりは初手赤貝は␣␣也」。
 又川柳に「はまぐりは初手赤貝は夜中也」。
 また川柳に、「はまぐりは初手赤貝は夜中なり」。
16
 D7,上20
 K251,8
 H82,2
 赤い物の品々に朱壷朱唐傘、王の鼻か修禪寺、扨は␣␣の眞中、ゑいせ眞中と、
 赤い物の品々に朱壷朱唐傘、王の鼻か修禪寺、扨はそゝの眞中、ゑいや眞中と、
 赤い物の品々に朱壷、朱唐傘、王の鼻か、修禅寺、さては曽曽の真中、えいや真中と、
17
 D7,上21
 K251,9
 H82,3
 孔子も␣␣␣の紫が、新造の␣を奪ふを惡まれた通り、彼處の色、人毎に不同なれば、
 孔子も年增女の紫が、新造のを奪ふを惡まれた通り、彼處の色、女毎に不同なれば、
 孔子も年増女の紫が、新造のを奪うを悪まれた通り、彼処の色、女ごとに不同なれば、
18
 D8,上11
 K253,1
 H83,8
 陰陽␣␣を辭書通りに、コピュレイション抔言ては、無學な英米人に通ぜず。
 陰陽交接を辭書通りにコピュレイションなど言つては無學な英米人に通ぜず。
 陰陽交接を辞書通りに、コピュレイションなど言っては、無学な英米人に通ぜず。
19
 D9,上12
 K255,1
 H84,15
 今も金澤邊で、␣␣の彼物と、通草實の殻を「いとこ同士やらよく似とる」と唄ふ由。
 今も金澤邊で、幹後の彼物と、通草實の殻を「いとこ同士やらよく似とる」と唄ふ由。
 今も金沢辺で、幹後のかの物と、通草実の殻を「いとこ同士やらよく似とる」と唄う由。
20
 D10,上7
 K256,12
 H86,1
 然し相挑の戀情から、目を一寸見合ふ位ゐの事でなく、␣␣␣␣␣␣␣定視するの状に由た詞だろう。
 然し相挑の戀情から、目を一寸見合ふ位ゐの事でなく、初媾艶羞四眠相定視するの状に由た詞だろう。
 然し相挑の恋情から、目をちょっと見合うぐらいのことでなく、初媾艶羞、四眠相定視するの状によった詞だろう。
21
 D13,下1
 K263,5
 H90,19
 又␣␣␣␣の御孫に意富々杼王あり。
 又應神天皇の御孫に意富々杼王あり。
 また応神天皇の御孫に意富々杼王あり。
22
 D13,下2
 K263,5
 H90,19
 ␣␣␣␣の大御名袁本杼命、
 繼體天皇の大御名、袁本杼命、
 継体天皇の大御名袁本杼命、

1 は、「ドルメン」 文中唯一の伏字だが、他では普通に「糞」の字を使っているのでここだけ伏せている事に違和感がある。
12、21、22 は、天皇の名前が欠字になっている。内容は不敬とは思えないが、名を出すこと自体が不敬にあたる、という事だったのだろうか。
今とはずいぶん感覚が違うからだろうが、他の例もなぜこの言葉を欠字にしなければならなかったのかわからない。
一方で、現代でも少し口に出すのは憚られる "於梅居" は欠字とはなっていない。
(例えばドルメン9ページには 「女陰を於梅居と呼ぶは、其より後に始まつたと察し居た」 とあるし、他の個所でも欠字ではない。)
当時の検閲や規制の実情には詳しくなく、今まであまり気にしていなかったけれど、初出の原文を読んでみるとこんな発見もあるのだな、と思った。

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ドルメン12ページ上段4-7行目から原文を改行もそのままに転写してみる。赤字部分が乾元社版では脱落している部分だ。
 4   化した。多分其前に此繪詞が作られたゞろうが、圓觀の誕生よ
 5   り、少なくとも二百六十四年前、摩多羅神の祭りと共に、摩羅
 6   てふ陽物の名も有たので、摩多羅神を圓觀が本尊と立て後ち、
 7   陽物に摩羅の名が出來たでないと立證する。
乾元社版260ページ10-11行目は
 10  繪詞が作られたゞろうが、圓觀の誕生より、少なくとも二百六十四年前、摩多羅神を圓觀が本尊
 11  と立て後ち、陽物に摩羅の名が出來たのでないと立證する。
となっている。(なお、平凡社版は最後の部分が "確証する" となっている。)
また、ドルメン12ページ下段16-17行目も同様に転写(返り点は省略)してみると、
 16  女、一日一夜受八齋戒、參行悔過、居於衆中、夫從外歸家、
 17  而見無妻、問家人、答曰、參行悔過、聞之瞋怒、卽往喚妻
乾元社版262ページ2行目は
 2    ... 一日一夜受八齋戒、參行悔過、聞之瞋怒、卽往喚妻 ...
である。どちらも、ドルメンの次行の同じ単語までが抜けている。植字工が読み飛ばしたのだろうと思う。

(2020.11.09 記)