魯迅の検印と中国の検印紙
検印紙とそれに検印を押す制度は日本独自のものと言われるが、韓国にも使用例がある(「韓国の出版物に見られる検印紙と検印」参照)のは確認していた。
中国語が不得手なので、中国書での使用例については調べる気にならないまま
[1]
だったが、手始めに魯迅 (1881-1936) の著作を調べた。
邦訳版「魯迅全集」 [2]
に収められた魯迅の書簡を読むと、魯迅が自著の検印紙と検印に関して出版社等とやり取りしているのがわかる。
魯迅の著作には検印紙の貼付と検印の押印があるはずだ。
魯迅が生存中に出版されたものを中心に調べて
[3]、10点ほどの検印紙と検印を確認することができた。
魯迅の印は、「中國小説史略」(訂正本. 北新書局, 1931)に、一辺13ミリの角印 "魯迅" が紺色で押されている一例を除いて、
それ以外は全て、一辺15ミリの角印 "魯迅" が朱で押されている [4]。
検印紙はやや薄手の白紙で、ほぼ正方形、一辺25-26ミリ、無地、四辺に目打がある。
厳密に調べたわけではないが、手触りやルーペでの観察では、紙質は全て同じと判断して良いだろう。
この紙は、後述の孫用宛書簡 (1931.09.15) で魯迅が検印紙に向いている、とした単宣紙と思われる。
宣紙は書画用に使用される紙で、一枚漉きの宣紙を単宣紙という。
魯迅以外の印が押されている例として、「魯迅雜感選集」(青光書局, 1933)には、16 × 16ミリの無地紙に角印 "何凝"
[5] が、
「兩地書」(北新書局, 1937)には25 × 25ミリの検印紙に楕円印 "廣平"
[6] を確認できた。
「魯迅全集」の文中や注、編者の解説から、検印に関する事項を拾い上げる。(引用は「」で示す)
「魯迅全集」6, 解説 p. 494-495.
「彼[魯迅]の単行本はもっぱら北新書局から出版されていたが、支払がわるく、一九二九年八月、
弁護士に依頼して支払いを請求し、年末までに数回にわけてようやく未払い分のとりたてが終わった。[中略]
北新書局の印税不払いにこりた魯迅は、検印の実施を強く主張、実行したが、雑文集の出版は順調ではない。」
「魯迅全集」13, 解説 p. 500-502. 「兩地書」の出版経緯の解説の部分。
1933年1月2日付け李小峰宛て書簡で、魯迅が「印税は前払いでなければならない。だが検印紙を少しずつ渡し、
少し売れれば、また少し渡すということはかまわない。」の条件を提示、北新が承諾したので出版が決定、
「四月一八日には『両地書』の印税前払い分百五十元が届けられ、許広平のハンコを押した検印紙千枚を渡している。」
また、「『日記』に記載された検印紙の枚数を合計すれば一九三四年六月六日までに九度にわたって七千五百枚を渡している。」
李小峰は、魯迅の著作を多く出版した北新書局の創設者。魯迅の日記の検印関係の記事にも頻出する。
「魯迅全集」14-16に収められた書簡には、検印に関するやりとりが散見される。発信日付順に引用する。
1921.07.13 周作人宛 「大学の編訳処は、ぼくから手紙と検印紙を送ってやったのに ...」
1929.10.16 韋叢蕪宛 「わたしが要求したのは、印税の残金を支払ってもらうことと今後本の奥附に検印紙を貼ってもらいたいという二件だけで ...」
1931.04.26 李小峰宛 「検印紙は数をしらべおえたら、舎弟にわたし、かつ手紙でお知らせします。」
1931.08.08 李小峰宛 「検印紙は明日喬峰のところにとどけますから... かつ検印紙の領収証をそこへもっていってください。」
1931.09.15 李小峰宛 「捺印ずみの検印紙は、もう一千のこっているだけで、あらたに捺印するつもりですが ...」
1931.09.15 孫用宛 「検印紙は(小さく裁った)単宣紙をつかい、方眼に折りたたむと、一枚につき数十か百余りでき、
[印、訳中によれば約20ミリ四方] ぐらいの大きさで、上に名前の印をおし、彼らにはらせるのが一番よいとわたしは思います。」
1932.04.13 李小峰宛 「検印紙は来信に記された数字によると、全部で九千枚必要ですが ...」
1932.06.24 曹靖華宛 「作者が印税をとり、検印紙はわたしがかわって貼りつけます。」
1932.08.15 李小峰宛 「検印紙はもうちゃんとそろえましたので、いつでも取りに来てください。」
1932.10.20 李小峰宛 「印鑑をおした検印紙九千枚も、彼に頼んで持ち帰ってもらいましたが ...」
1933.01.02 李小峰宛 「ただし検印は少なく押し、売れた分を補充するようにしてよい。」
1933.03.15 李小峰宛 「ここに検印紙を送ります。全部で八千です。」
1933.03.25 李小峰宛 「『両地書』はわたしの検印紙は使用しません。空白になった検印紙はないでしょうか。
もしあれば、三千部分購入、おついでにお届けください。」
1933.05.03 李小峰宛 「今日さし上げました『両地書』の検印紙五百のうち、一つ足りなかったようなので、補充します。」
1934.05.19 李小峰宛 「再版『偽自由書』の検印の受領証 ... いま探しだしてお送りします。」
1934.06.01 李小峰宛 「『両地書』の検印紙に捺印を終わりました。用紙が長いから郵便で送ることができません。」
1934.07.31 李小峰宛 「検印三千、さきごろミス王の名義で書留で発送しました。」
1934.09.01 趙家璧宛 「ただいま、お便りおよび印税検印紙一綴り、受け取りました。」
1935.07.11 楼煒春宛 「『自選集』の普及本をだすとのこと、わたしは同意してよろしいのです。検印紙一千を同封しますから ...」
1935.08.26 唐弢宛 「書物を出版するときには、双方が契約書をかわし、著者が検印紙を渡し、一冊ずつ添付するのがいちばんよろしい。
しかし、中国においては、どちらも無益です。というのは、出版社は約束を破りますし、著者には実行させるだけの力がないからです。
しかも外省へ運んだ書物には検印が貼ってなくても著者は知りようがなく、知ったとしても訴訟もおこせず、方法がありません。
わたしは天馬との交渉では契約書はつくらず、検印紙を渡しただけです。」
1935.11.18 趙家璧宛 「ここに検印紙四千、『死せる魂』一冊をお送りします。」
「魯迅全集」17-19に収められた日記にも、検印に関する事柄が記されている。同じく日付順に引用する。
1921.07.07 「北京大学編集部に収入印紙千枚と手紙を二弟に代わり送る。」
1921.07.08 「北京大学より印紙を返送してくる。」 [7]
1929.09.03 「友松より手紙と活字二十個を受けとる。」 [8]
1929.09.11 「修甫来る、著訳書の印紙約四万枚を楊弁護士に届けるよう頼む。」
1929.12.17 「すぐ『吶喊』の表紙の鋳型一枚、『彷徨』の髪型一包み、両者の印紙各五千枚を渡す。」
1930.07.07 「北新書局に『吶喊』の印紙五千枚を渡す。」 [9]
1931.09.22 「孫用より手紙と印紙千枚。」
1931.11.30 「『勇者ヤーノシュ』の訳者印紙千枚、挿絵製版領収書ならびに印紙の領収書を湖風書局に渡す、計三百七十元。」
1931.12.13 「三弟、印紙を持参す、印刷費三十四元。」
1932.04.15 「小峰より手紙、すぐに検印紙九千枚を渡す。」
1932.08.26 「小峰より手紙と印税百五十元、印紙七千枚同封。」
1932.10.19 「費君、小峰の手紙と購入してくれた歴史語言研究所発行の本四種十三冊を持参す、計十八元六角、すぐ印紙九千枚を渡し ...」
1933.01.18 「良友公司に行き、印紙二千枚を渡す ...」
1933.01.23 「小峰より手紙と印税百五十元、すぐ印紙一万枚を渡す。」
1933.02.19 「天馬書店に版権印紙三千枚を送る。」
1933.02.21 「小峰より手紙と印税二百元を受けとる。印紙一万枚を渡す。」
1933.03.16 「小峰に返信と版権印紙八千枚を送る。」
1933.04.18 「小峰より手紙と『両地書』の印税百五十元を受けとり、すぐ印紙千枚を渡す。」
1933.05.15 「小峰より手紙と今月分の印税二百元、『墳』二十冊、また『両地書』五百冊の印税百二十五元を受けとり、すぐ返信、また広平の印紙五百枚を渡す。」
1933.05.27 「また『両地書』の印税百二十五元を受けとり、すぐ印紙五百枚を渡す。」
1933.06.20 「趙家璧に手紙と印紙四千枚。」
1933.06.24 「小峰より手紙と『両地書』の印税百二十五元を受けとる、すぐ印紙五百枚を渡す。」
1933.07.05 「北新書局より『両地書』の印税百二十五元届く、すぐ印紙千枚を渡す。」
1933.07.08 「小峰より手紙と『魯迅雑感選集』二十冊、印税百元を受けとる、すぐ印紙千枚を渡す。」
1933.08.02 「小峰より手紙、また『両地書』の印税百二十五元、『魯迅雑感選集』の印税百元を受けとる、すぐ印紙各千枚を渡す。」
1933.08.16 「天馬書店より手紙と印税の約束手形二百元。午後、返信と印紙千枚を送る。」
1933.08.25 「大江書店より手紙、すぐ返信、また印紙五百枚。」
1933.09.04 「小峰より手紙と百二十五元、すぐ『両地書』の印紙千枚を渡す。」
1933.09.25 「天馬書店より手紙と印税の小切手三百元を受けとる、印紙千枚を渡す。」
1933.09.26 「小峰より手紙、すぐ『偽自由書』の印紙五千枚を渡す。」
1933.12.02 「小峰より手紙、すぐ『両地書』の印紙五百枚、『朝華夕拾』の印紙二千枚を渡す。」
1934.01.15 「良友図書公司に行き、『一日の仕事』附記一篇、検印紙四千枚を渡す。」
1934.01.31 「天馬書店に返信、検印紙五百枚同封。」
1934.02.07 「小峰より手紙と印税二百元、すぐ検印紙八千枚を渡す。」
1934.02.22 「天馬書店に検印紙二千枚を送る。」
1934.03.12 「北新書局が『吶喊』等十冊を持参、検印紙五千枚を渡す。」
1934.05.11 「費君来る、検印紙千枚を渡す。」
1934.05.14 「天馬書店に検印紙五百枚を送る、『自選集』用。」
1934.05.19 「小峰に手紙と検印紙受領証を送り、書き直しを頼む。」
1934.05.31 「小峰より手紙と印税二百元、すぐ『魯迅雑感選集』の検印紙千枚を渡す。」
1934.06.06 「[北新書局に] 『両地書』の検印紙千五百枚を渡す。」
1934.07.31 「小峰に返信と検印紙三千枚を送る。」
1935.02.16 「小峰より手紙と印税二百元、すぐに検印紙八千枚を渡す。」
1935.03.01 「韓振業に手紙と検印紙二千枚。」
1935.05.21 「小峰より手紙と印税百五十元を受けとる。検印紙四千五百枚、千八十七元五角分を渡す。」
1935.07.17 「『小説旧聞鈔』の検印紙千枚を渡す。」
1935.09.14 「小峰より手紙と印税百元を受けとる。検印紙二万五百枚を渡す。」
1935.11.18 「趙家璧に手紙と本三冊、検印紙四千枚を送る。」
1936.02.29 「李夫人、小峰の手紙と印税百五十元を持参、検印紙千五百枚を渡す。」
1936.03.28 「小峰夫人来る、小峰よりの手紙と印税二百元を渡さる、検印紙四千枚を渡す。」
1936.09.28 「費君来る、検印紙千五百枚を持っていく。」
出版された書籍の日付と、書簡、日記を突き合わせると、出版増刷の事情が推察できて面白そうだが、ここでは触れない。
魯迅が検印紙制度を北新書局に求めたのは、日本滞在中
[10] に知った検印制度が、著作に対する正当な報酬を得る有効な方法だと考えたからだろう。
魯迅がこれだけ拘った検印だが、その後一般に拡がることはなく、制度化もされることもなかったようだ。
--- 注(番号をクリックすると文中に戻ります)---
[1].
戦前、中国で出版された日本語の書籍に検印紙が貼られている例は多い。いくつか例を挙げる。
上海での出版物。支那排日譚 / 森長次郎. 日本堂書店, 1924.
に貼られている検印紙。
北京での出版物。中國文化界人物總鑑 / 橋川時雄編纂. 中華法令編印舘, 1940.
に貼られている検印紙。
[2].
1981年に人民文学出版社から出版された「魯迅全集」の日本語完訳版。
学習研究社から1984-86年に出版された。文中で「魯迅全集」としたものは、この邦訳版を指す。
[3].
現物を確認したものは以下の通り。西暦年は印刷年を示す。
「中國小説史略」. 再版合訂. 北新書局, 1925. 検印無し。
「彷徨」. 北新書局, 1927 . 検印無し。
「思想・山水・人物」. 北新書局, 1929. 無地検印紙に15ミリ角印
「中國小説史略」. 訂正本. 北新書局, 1931. 無地検印紙に13ミリ角印
「三間集」. 北新書局, 1932. 無地検印紙に15ミリ角印
「墳」. 青光書局, 1933. 無地検印紙に15ミリ角印
「准風月談」. 興中書局, [1934]. 無地検印紙に15ミリ角印
「集外集」. 羣衆圖書公司, 1935. 検印無し。
「而已集」. 北新書局, 1935. 無地検印紙に15ミリ角印
「豎琴」. 良友圖書, 1935. 無地検印紙に15ミリ角印(見開き裏)
「吶喊」. 北新書局, 1935. 無地検印紙に15ミリ角印
「華蓋集」. 北新書局, 1936. 無地検印紙に15ミリ角印
「華蓋集 続」. 北新書局, 1936. 無地検印紙に15ミリ角印
「不三不四集」. 聯華書局, 1936. 無地検印紙に15ミリ角印
[4].
15ミリの角印は、「魯迅全集」20の冒頭図版 "魯迅が使用した印影" の下段、左から2つめのものと思われる。
[5].
何凝は「魯迅雜感選集」の編者。瞿秋白の筆名。
[6].
許広平は魯迅の二番目の妻。「両地書」は魯迅と広平との書簡集。
[7].
原注によれば、「商務印書館が、周作人の『欧洲文学史』を再版することになり、
魯迅は、周作人に代わり印税の印紙を北京大学編訳所に送り、商務印書館に転送してもらおうとした。」
[8].
原注によれば、「これらの活字は、魯迅が北新書局で出版した各書籍の書名の頭文字である。
これらを初版あるいは再版の各書籍の印紙に押すことで、書局が勝手に印刷することを防止した。」
[9].
訳注によれば、1930年7月出版の「吶喊」14版の印紙には、
「海賊版を防止するため、魯迅は印紙の「吶」と「喊」の間の下辺に紅い字で「吶」の字を入れた(唐弢等著『魯迅著作版版本草叢談』)。」と言う。
実見できた検印紙は全て無地で、このような工夫をした検印紙を見ることができなかった。
[10].
魯迅は1902年から1909年の間、日本に留学している。
仙台医学専門学校(現東北大学医学部)で医学を学んだ後に文学に転向、東京で翻訳小説集を出版している。
[2025.06.30 記]
All rights reserved. Copyrighted by Masanori Kutsuna, 2025.